ソファに寝転がった細身の体が、ゆっくりと寝返りを打つ。
日は沈み、窓外に夜空が見えていた。
昼からそこで寝ていた蓮子が、漸く上半身を起こす。
「んー、で、月の話についてだっけ?」
「今日は三日月よ」
「残念、三日月は明日だ」
「月の満ち欠けの一日なんて、大凡三十分の一程度の違いしか無いじゃない」
「四葉のクローバーが発生する確率よりは大きな数字だよ」
「天然の、ね。今じゃ幸運の証が量産されてるなんて、青い鳥も立つ瀬が無いわね」
「幸運が安売りされ過ぎて、顔を真っ青にしてるかも」
「幸運の鳥は顔で体調不良が判別できないっていうのは新説だわ。学会で提唱してきたら?」
「あんな頭のおかしい奴らのところでそんなことを提唱したら、本当に青い鳥を“作って”くるぞ」
「それもそうね」
二人がスラスラと言葉を並べるのを聞き流しつつ、ベッドから立ち上がる。
紅茶を優雅に啜るハーンの横腹を指でつつき、溜息を吐いた。
「会話が一歩も進んで無いの気付いてる?」
「一歩は進んだわ。天体の月の話ではない事がわかったから」
「パンチしていい?」
「いけないわこいし、まずは話し合いましょう。話し合いは文化的行為だと思わない?」
「思わないからパンチするね」
「いけないわこいしそれはいけない」
拳を振り翳して近寄る私から逃げるように、ハーンが後退る。
話がズレ始めたのはハーンのせいであるし、そのまま乗った蓮子も悪い。
二人の話は方向を見失い、迷子になって仕方が無いのでこちらから話を出す。
「境界が消えた。記憶が無くなった。生理が来た。ハイ」
「改めて、結構大変な事じゃない?特に二番目」
「大変だよ。大変じゃ無い訳がないよ」
「まぁ、そうよね。で、メリーはどう考えてるの?」
「私は…境界に記憶が奪われたと思ってた。ただその場合は生理に関係が無いのよね。引き金と捉えればいいのかしら」
鬼の酒以降、こいしの境界が再度見えるようになり、その時点でこいしは自らの記憶が曖昧になった事を自覚した。
次いで生理が来て境界は消え、こいしに変化は無い。
「一応補足として、こいしの境界は一時的に消失、再度出現したという説を推すわ」
鬼の酒によって境界が復活、その時点でこいしの記憶をなんらかの形で境界が奪い、そのまま消えたというのがハーンの考えだった。
「あと私の記憶も曖昧になってる。同じ境界に奪われた可能性も否定できないわ」
「えっメリーの記憶は初耳なんだけど…そっか、この前の忘れてたってそのせいか。元々その境界はこいしに憑いてて、また出たと思ったら消えたって認識で合ってる?」
「昔の方は蓮子の話でしか分からないけど…それを含めて考えればそうだと思う」
「記憶を奪った…奪った、か。忘れたのでは無く、記憶を奪われた。非科学的ね」
「それはどうか知らないけど、非科学的なのは今更じゃない?」
「確かに、今更過ぎるわね」
現代一般人の日常生活において言えば、“非科学的”という概念に遭遇する事は少ない。
空を飛ぶ事、透明になる事、果てに祟りと呼ばれた事象さえ。
論理的に紐解かれるか、“科学”によって実現されている。
化学とは、そこに多数の学問を内包し、時として形而下を超えて繋がりを見出す事すら有り得るもの。
幽霊をいるいないという程度の話では無く、観測不可能な物質と定義する説などが大真面目に交わされる現代において言えば、曖昧に“非科学的”と当て嵌める事は科学を理解していない浅学の露呈する物言いと言えるのだ。
ただし、マエリベリー・ハーンの瞳は、その“例外”であるとも言える。
瞳を取り出すことも無ければ頭蓋を開く気もない本人にとっては、どちらが“非科学的か”などと言う疑問に興味はない。
ただ非科学的という言葉は、彼女にとっては身近なものである。
それだけだ。
「記憶を取り返す方法は?」
「消えた境界を暴く。多分それが答えだわ」
「確信があるわけね」
「無いわ。境界に記憶を奪われたのなんて初めてだもの」
「……無いんだぁ」
「初めては何事も勘と経験で乗り切るしか無いのよ」
ハーンがどこか諦めたような笑みで言葉を溢す。
「蓮子はどう考える?」
「私はメリーみたいに境界が見える訳じゃないから今までの流れから考えるんだけど、始まりは鬼の境界から帰ってきたときでしょ?」
「確かにあの頃から境界がまた見えるようになったのよね。あそこが始点と言えるかも」
「メリーの瞳の力が弱くなったのもその辺り。こいしの境界の中は真っ暗なんだっけ?」
「今思い出すと鬼のとこから帰ってきてすぐの頃は目が一つだけ見えていた…気がするのよ。どうも何も存在感のない真っ暗…というかのっぺりとした真っ黒のイメージしかないけど」
蓮子が首を傾げ、向かい合うハーンも首を傾げる。
自らの境界の話をされているが、記憶がないため聞くことしかできない。
「こいしは境界に関してどう思ってるの?」
「記憶がないから何もわかんないけどね。そういえば前ほど力が出ない気がする。冷蔵庫の扉がなんか重くて」
「それ生理中にほぼ寝転がってたのが原因じゃない?」
「……あ、そうかも」
「解決しちゃったわね。でも、境界が真っ黒かあ…それは奥に何も無いって事なのかな」
鏡の境界、水面の境界、魂魄の境界、精神と肉体の境界、幻と現の境界、現世と幽世の境界───
それは“面”を隔てた世界の表裏。
真っ黒と言う事は、そこになにも無いと言う事。
闇と捉えればまた違ってくるだろうが、闇では無く黒と表現したのならば、話は変わってくる。
そして何も無ければ、境界という壁の意味は無い。行き止まりの壁にもう一つ壁を重ねるようなものである。
故に境界の意味が分からず、蓮子は眉根を寄せた。
マエリベリー・ハーンは感覚派。
道筋を無視して答えに辿り着く事は多いが、こうして理論立てて異常に気づく事を苦手としていた。
だから、宇佐見蓮子が横に居ることには重要な意味がある。
一つの目。
それが境界の“意味”とすれば。
「真っ黒の境界の奥は、瞼を閉じたと言う事…とかかな」
「はい?」
「瞳があって、目を閉じたから記憶が奪われて境界も消えたっていうのは結果であって、目が開いている状態が本来の境界の奥だったんじゃない?」
「目を閉じた理由は?」
「知らない。理由は…タイミングを考えると生理が来るから?血を嫌った?」
「血を嫌う、ねえ」
「逆の可能性もあるけどね。瞳が閉じて、境界が消えたから生理が来た。何かを堰き止めていたか、はたまた生理という現象に意味があるのか───」
額に皺を作り、蓮子が真剣な顔で言葉を紡ぐ。
「取り敢えずお腹すいたからなんか頂戴」
「…あのねぇ」
「頭を使うとお腹減るのよ。寝起きだし」
「まあ、そうね。こいしは何かいる?」
「あったかいの食べたいな」
「じゃあグラタンでも作りましょうか。こいし手伝ってくれる?」
「いいよ!」
空気は弛緩し、ハーンがキッチンへと向かう。
ソファの上に半ば寝転がったまま、蓮子は未だ難しい顔を作っていて。
「…メリー、私チーズ多めで」
「はいはい」
あっという間に、その難しい顔は笑顔になった。