「蓮子、それは」
“わかっている”。
この意味を、私はわかっている。
境界もこいしだと言う、その意味を。
「記憶を奪われたのではなく。その記憶が元々境界の中に居た何かのものだったとしたら」
低く、呻くようなメリーの声を遮り、言葉を続ける。
始点。元々考えていた事が、初めの部分で間違えていたとしたら。
私達は、境界と共に在る者達を既に知っていた。
人では無い、幻想の存在を。
この事実を、わざわざ記憶を失ったこいしに突き付けたくはないが。
───もしも、境界の中に居た存在、同じ記憶を共有する者を、古明地こいしだとするならば。
境界に憑かれていたのではなく、境界とあってこその存在であったという、大前提の転覆。
記憶とは個を個として確立する、形而上で重要なもの。
記憶喪失とは、個の喪失にも繋がるものである。
奪われたのではなく、失われたのだとすれば、境界はどれほど彼女において重要な部分だったのだろうか。
こいしの“一側面”が別離したというには、大きすぎる欠落。
むしろ、逆に一側面が残ったと考えれば───
「わ、私は……人…じゃ、ない?」
「厳密に言うとそれを忘れてるって状態なのかな」
記憶を失う前は、一度も言う事は無かったものの、こいしは幻想の存在としての自覚はあったように思える。
どこか不思議で、どこから来たかもよくわからない。
そして本人はそれらすべてを理解しているような風だった。
初対面、明言せずとも俗世離れした雰囲気は、言葉通りに“人間離れ”していた。
「まだ決まったわけじゃないわ。蓮子、可能性はどれぐらい?」
「否定しないならもうわかるでしょ?」
ほぼ、そうだと思うのよね。とは言葉を続けない。
ぐ、とメリーが唇を結ぶ。
どこか、そうではないかという考えはあったのだろう。
私たちが恐らく失った、こいしの境界の奥に見た光景を思い出したいものだ。
そこに、答えが見えていた可能性もあるのだから。
古明地こいしは、印象だけで言えば“おかしくなった”。
こいしは出会いより日を経れば経るほど俗っぽくなっている。
否、“人間らしさ”を感じるようになった、という表現が近い。
メリーの幻想が見える瞳ではどう見えていたのかはわからないが。
少なくとも出会ったとき、私の瞳には、同じ人間とはとても思えなかった。
現在、こいしは人間にしか見えない。
俗世離れしたあの不思議な雰囲気は無く、私たちのよく知るこいしとなって久しい。
───そう思えば、生理が突然来た理由もそこにあるのかもしれない。
謎のままというのは気持ちが悪い。境界が答えてくれればいいのだが。
「もしも本当にそうなら、恐らく今のこいしは幻想の存在では無いわ」
ただし現の存在とも、断言できない。
そう言外に告げたメリーの堅い声に、言葉を重ねる。
何故なら。
「境界に何も無い」
それが意味する事は。
「今のこいしは、あるべきものと別離した状態」
境界は古明地こいしであり、幻想の存在だと仮定したこの説。
もしも正しければ、幻の離れた残滓が今のこいしの正体。
魂魄という考え方で言うなれば、それらが乖離しているようなもの。
「見えない存在が、こいしの境界から抜け出して形を持った幻想の存在、仮に魂に類するものだとするならば」
メリーの瞳のように、幻想を暴くことのできないこの瞳では。
時として見えない事もあれば、感覚的ではないが故にわかる事もある。
───仮説、そしてその結論。
いなくてはならないものがいない。
本来溶け合った幻と現が境界を引き、別離した状態を何と言うのか。
「体外離脱……またの別名を、幽体離脱」
現状を指す表現として、言い得て妙である。
幻側、魂は消え、残ったのは現のみ。
その怪奇現象こそ、今回私達が暴くべき怪異の名。
境界を、そして境界の向こうを探さねばならない。
暴く事ではなく、暴いた先を目的として。
「古明地こいしを見つけましょうか」
観測出来ないのではない。
在る筈なのに、気付くことが出来ないという事が問題点。
それが“古明地こいしの性質”というのなら、暴き方も考えねばならない。
現を彷徨う幻想を追うために、少女たちは立ち上がった。
幻想を見る瞳を持ってすら掴めぬ存在をどう見るか。
そして黒の瞳は、金の瞳は───
不安に揺れる、緑の瞳は。
───その先に、何を見るのか。