幽体離脱。
分離した魂───
否、蓮子の説を信じるなれば、分離元の魂という表現が正しいか。
魂の行く先など判る筈もなく、目的が決まった事は良いことではあるものの、手順は不明なまま。
「こいし、魂の行く先の予想は?」
「知らないよ……」
予測。
魂の在り方。その行動分析。
何らかの事情で家から出たのであれば、書き置きを中途半端に残す意味は無く、書き切ってから出ればよかった筈。
しかしながら紙に書く前までは遊ぶように目を隠してコミュニケーションを取っていた理由とは。
急にその場から立ち去らなければいけなくなった事柄として挙がるのは、何かに追われたか、何かの法則に縛られているかというぐらいだろうか。
「仮称こいしソウルが急に家からいなくなった理由は何?」
「……もっといい呼び方なかった?」
「こういうのは適当よ適当。じゃあ蓮子ならなんて呼ぶ?」
「こいしver.1.1」
「アップデートされてるじゃない。幽体離脱で境界側が大元だとするとver.1.0じゃないの?」
「じゃあそれで」
略称としてこいち(1)ということになった。
「それだと私がこいし1.1?」
「半分だからこいし0.5」
「じゃあそれで」
略称として5いしということになった。
判別しにくいため3秒後に撤回された。
「そんな事はどうでもいいのよ。問題は行き先。こいしがどこにいるか見当をつけて探す方がいいと思うの」
魂の行く先。
手書きの文字を読む限り、本人が意識的に何処かへと動いている可能性。
「大学?」
「可能性はあるわね。この場所、家という環境に原因があるのならば、ここ以外のどこかに動き続けていれば遭遇できるかもしれないし」
条件に縛られている場合、考えられるのは対象か環境。
人、時間、場所など、どれかに限定的にしか滞在、接触できないというのもあり得る。
しかし魂は結局のところ、こいしからそうは離れられないと検討をつけていた。
引き剥がれてはいけないもの。
魂側にも自我はあり、死を望んでいないのならば離れすぎることは無い筈である。と、不明瞭ではあるがそう考えている。
「本来は同一。つまり分かたれる方が異常であるということ」
「だからこいしと一緒に行けば会える確率は上がる?そんな簡単にいくのかしら」
「かといって魂を寄せる方法なんて知らないわよ。私の目じゃ認識できないみたいだし」
ひとまず。
「ここにいるよりはマシ。そうでしょう?」
「間違いない」
●
「そもそも幽体離脱ってなんなのかって話よ」
「体外離脱…自己像幻視とも呼ばれているらしいわよ」
せっかく大学に来たのだからと、資料保管室まで足を運び、幽体離脱についての蔵書を漁る。
調べ物はネットで行ってもいいが、欠落域の事もあり、欠落前と比べるとどの情報も信用度が低い。
更に言えば境界についての記載はほぼ全て“検閲済み”ため、ギリギリのラインを攻めた記載はネットの深い位置に行くより、実物として残る本や資料を探した方が早い。
一応と、スマホで情報を見ていたこいしが目を細めた。
「ネットだと幽体離脱は夢であるって結論に至ってるみたいよ」
「夢だったら良かったんだけども」
幽体離脱とは、己の目からは見えぬものが見えた状態。
“魂側”の主張があってこその怪異である。
「臨死体験をした者が、自分の体が見えていたと言った。意識を失っている最中に室内でどうあっても視認できなかった場所にて行われていた行為を言い当てるなど、奇妙な事例があった。だってさ」
「こっちはドッペルゲンガーの話が出てきたわ。超常現象とされるドッペルゲンガーは、己と同じ姿の者を見る幻覚である。肉体と霊魂が分離、実体化したものとも言われているってこれ、まさに今の状態よね」
「あれ?でもドッペルゲンガーって遭遇すると死んじゃうんじゃなかったっけ」
「それも書いてある。本人が遭遇すれば死ぬ。他者も2度見れば死ぬ。いやこれ結構怖くない?」
「怖いどころの騒ぎじゃないんだけど」
「まあドッペルゲンガーは意思の疎通を行わないので今回のとはそこが違うけどね。けど、ドッペルゲンガーの状態には相当近い」
幽体離脱は主に体から魂が抜ける状態。
こいしの現状を体だけと言うには、“自我が残りすぎている”。
「幽体離脱って言い切ったけど、ドッペルゲンガーって言った方が良かったかも」
「そこはなんとも難しいところね、どちらとも言える訳だし。ただ、遭遇したらどうこうの前にそもそも見えないっていう」
「そこなのよ……こいしの魂がどのような性質を持っているのか分かれば、見える条件を満たせるかもしれないのに」
「メリーじゃ気付けない。私だけじゃ見えない。こいしはわからない。何かヒントとかない?」
書かれていた内容は“見えない”では無く、“認識ができない”。
その書き方にこそ、意味がある。
「蓮子の言う通り、認識ができない。いるのに私達じゃわからない」
「そうね」
「いるのならば、痕跡は残るでしょ?」
「それは……どう、だろう。そもそも魂が物質的であると考えていいのかな。ペンに触れていたとは思うけど、ドアを開ける音すら私達には認識ができなかったし」
「関わった事象全てが意識からすり抜けてしまうのかしらね。あれ?でもそうなると私たちが紙に気付けたのは……」
「私がそこに居る事に偶然気がつけたから、でしょ」
「そう、そうだったわね」
蓮子が気付いたからこそ、そこからの流れで生じたこいしの魂が関わった事象に気付く事が出来たのか。
しかしそれでは、居ると認識出来たことで芋蔓式に他の痕跡が出てきても良いのではなかろうか。
「まさか痕跡に気が付けていないだけ?」
「また家に逆戻りする?」
「……ありかもしれない。大学来たついでにちょっと研究室に顔出すから先帰ってて」
「わかった。その間に何かないか部屋を片付けてみるよ」
「お願い。あ、ついでに洗濯機に服とかもろもろ放り投げておいて。今日のバタバタで洗い忘れたから」
「了解。かといって急いで帰ってくる途中で怪我しても困るし、ほどほどでね」
ソファーに座る眠そうなこいしを蓮子が呼ぶ。
先に帰る二人と別れて研究室に行き、PCのメールを確認。
教授と軽く会話して帰路に着く途中、見知った顔が向かいから歩いてきて。
「あら?」
「お、久しぶり」
伊吹が手を振って近づいてきたので、少し急いでいる事を伝えれば残念そうな顔で笑われた。
「なんだ、ご飯に誘おうかと思ってたのに。こいしによろしく」
「ええ、伊吹が好きって言ってたって伝えておくわね」
「違ぁう」
口をもごもごする伊吹と別れ、そのまま大学を出る。
暫く歩いていれば、タブレットが振動して。
見れば古明地こいしからの着信であり、迷わずに通話を開始した。
「こいし?どうかした?」
『こいしが力が入らないって。衰弱しているようにも見える』
『……ごめんねハーン、ちょっと力入らなくなっちゃった』
力なく、薄く小さな声音に緊急事態と判断。
幽体離脱の影響が出ているというのならば、今すぐに戻らなければならない。
「急いで帰るわ。どんな状況?」
『家には着いてベッドに寝ている状態。力が入ってないのと……手足の先に感覚が無いらしい。救急車を呼ぶような話ではなさそうだし、メリーの目なら何か分かるかもしれない』
「わかった。待ってて」
通話を終え、走りだそうと顔を上げる。
ふと目に入った路地裏に何かが動いたような気がして。
偶然に意識すれば、薄暗い路地に何か蹲っているような影があった。
居ると言うより、気が付けば居た。
ただ、何気無しに蹴っ飛ばした石に意識を向けるような、些細な事が無意識下から意識上に入り込むように。
明確に意識した瞬間、それに“気付いて”しまった。
「開いた」
「見た」
「こっち見てる?」
「薄暗い」
「不思議な目」
「見ているかも」
「知ってる人だ」
「今日は月が細い」
「ハーンがいるよ」
「いたね」
影。真っ黒のシルエットにも見えて、同時に色味があった。
頭部と思わしき場所は緑がかった銀の髪のような、黒いような。
ビー玉の様な無機質な瞳が、恐らくこちらを向いている。
剥製にも近い、生気の無い黒とも白とも言えぬ肌がそこに在り。
───何か、喋っているように聞こえて。
知った存在によく似ているようにも見える姿だが、この瞳によって正体は異なるものだと判っていた。
「……境界が、形を成している?」
人型の境界。
質感も、色も、どこからどう見ても人という存在に見えているのに、同時に境界として見えている。
顔は有る筈なのにぼんやりとしか認識できず、表情は見た事実が脳をすり抜けるように記憶できない。
まるで、紙に重ねて書かれた異なる情報が互いを塗り潰すような。
薄く霞む訳でも無く、然して二つの状態が重なっているかの様な異形が其処に居た。
街灯で照らし切れぬ夜闇の中で、無機質な焦点の合わぬ双眸が揺れ動いている、筈。
向けられたそれに、興味も畏れも何も感じない。
何も、感じられない。
「見えてる?」
「動く」
「追った」
「見えてる」
「見られてる」
「わあ」
ゆらゆらと動く境界を目で追えば、その場で小さくなった。
しゃがみ込んだのか、はたまた体積が小さくなったのかがよくわからない。
よく聞けば、子供のような無邪気な声質だが、声ではなく街並みに溶ける些細な雑音に近く、異様な程に心をすり抜ける。
聞いた音をそのまま口で繰り返して曖昧に意味が理解できる様な。
そんな目の前の境界から連続して発せられる音は、明らかに“一人分”では無い。
「……何?」
「何って?」
「私は古明地こいし」
「こいし?」
「こいしだよ」
「私はこいし」
「貴女を知ってる」
「少し開いてる」
「ハーン」
「私のお友達」
連続する音。
暗闇の中で、その境界は立ち上がるような素振りを見せる。
徐々に人型から輪郭は曖昧になり始め、辛うじて何かが居るという事が分かる程度まで存在は“薄く”なっていた。
認識を続けようと目を凝らせば、その境界の隙間を覗いてしまう。
人型の奥、ずっとずっと奥。
吸い込まれるように。遠くを凝視するように。
境界の奥へ、不意に焦点を合わせてしまった。
暗闇のような世界の奥に、ポツンと白い何かが見える。
まだ遠い。辛うじて形が何かぼんやりとわかる程度。
しかし徐々にその白い何かが小さくなり、まるで瞼が閉じるように白は上部からその面積を狭め───
あれは、瞳だろうか。
「目」
「帰れない」
「閉じた」
「溶ける」
「曖昧」
「見てはいけない」
「無意識を」
「私を」
「だめ」
「閉じて」
「目を」
「目を閉じて」
ふと、視界が暗くなった。
「…ぇ」
目に痛みが走り、反射的に瞼を閉じれば、その瞼が何かを挟んだ。
それが己の指だと気が付き、咄嗟に顔を仰け反らせる。
心臓の鼓動が苦しい程に速くなった。
今、誰に強制された訳でも無く、自らの目を指で突こうとしていた。
その行為が潰す目的か、はたまた抉り出そうとしたかはわからないが、濡れた指の腹だけは事実としてそこにある。
口内は乾き、呼吸に掠れた音が混ざる。
目を伏せた。
見てはいけない。
何も見てはいけない。
後退り、反転すると一目散に家へと走る。
何があったかわからないまま、しかし強い恐怖を胸に地を蹴った。
思い出せない。何故逃げる様に走っているのかもわからない。
ただ、先程あった事を漠然とした恐怖として心根に刻み付けた。
消して忘れることは無いだろう。
───遠ざかる足音を聞き、輪郭の歪んだ黒い人型は縛られる様に動きを止めた。
「いない?」
「薄暗い」
「帰れない」
「お姉ちゃん」
「帰っちゃった」
「開くよ」
「また足音だ」
「見えてない」
「縛られた」
「知らない人」
「気づくかな」
「無いや」
「無くした」
「寒い」
路地裏に、誰も気に留められない音が鳴る。
さも、道端に転がる小石が如く。