体当たりをするように鍵のかかっていない扉を開け、靴を脱がぬままバタバタと部屋に転がり込む。
何事かと、ギョッとした顔で蓮子がこちらを振り向いた。
「なになになに!?メリー!?」
「ハァ……オェ……ハァ……」
呼吸は乱れ、慣れぬ急な運動が吐き気を誘引する。
蓮子を手で制してその場に座り込み、荒い息を落ち着けようと深呼吸。
ようやく思い出したかのように額が発汗し始めて、顎へとファンデーション混じりの汗が伝う。
「酷い顔よ!?こいしのために急ぐのはわかるけど、メリーが怪我したらどうするのよ……」
「……ふぅ、そうね、ごめんなさい。ちょっと……怖くなったから走って帰ってきたの」
「怖くなった?ストーカーか何かにでも追われた?」
「いや……いや?何で、怖くなったのかしら。私、何を?」
蓮子が不審なものを見るような目を向ける。
しかし思い返せど思い返せど、強い恐怖ばかりを覚えているだけで、何があったのかはわからない。
「怖くなったけど、その理由を覚えていない……まあ、その話は後で聞くとして、とりあえずこいしを見てよ。もうベッドで寝てるから」
「そう、ね。そうよね。こいしのとこに行こう」
明らかな異常である事理解した。
ただ今はそれどころではないので、緊急を優先する。
寝室へと行けば、ベッドにこいしが寝転がっていた。
「あぁ、ハーン。おかえり」
寝転がっている、筈だ。
「ひっ」
叫ばなかったのは、怯えに声が詰まったから。
───顔と手足が無い。
否、よく見れば、服に隠されていない箇所が陽炎のように霞み、薄れている。
「れ、蓮子はこいしがどう見えてる?」
「どうって、力なく倒れてるようにしか見えないけど」
「……目を貸すわ」
蓮子の瞼に手を置けば、その口が悩ましげに歪む。
境界を見る目では透けて見えるが、通常の目では普通に見えているという事実。
「これは……どういうこと?」
「ひとまず落ち着きましょう。こいし、ただいま。腕と足は動かせる?」
「んぐ……っ、うん、無理だね」
肩とふとももの付け根が力を込めて震えるものの、薄れた四肢は殆ど動いていない。
顔は喋ることができているだけ、まだマシという状態といったところか。
「触ってもいい?」
「変なとこ触んないなら」
「冗談言えてるだけまだ大丈夫そうね」
透けた手と足を触るが、ごくごく普通に実体はある。
体温はあまり感じないが、重さは確かにそこにあった。
「……蓮子、ちょっと脱がすの手伝って」
「はいよ」
「おっと情熱的。まさかこんな明るいうちから……」
「どちらかといえばもう介護だけどね」
「そう言われてみれば完全にそう」
服を脱がせて下着姿にしてみれば、顔は首から上、腕は肩より先、足は太腿の付け根から先が透明化している。
断面は境界特有の歪んだ状態となっており、この現象が境界に深く関わっている事が伺えた。
「……すごいな」
「ナイススタイル?」
「まあ、それはそうだけども」
「否定はしないんだ……」
「間違ってはいないし。ただ、この状態は治療とかができないわね。そもそも境界に関する事だし、恐らく現実に侵食してるだけでこの事象は境界の向こう側の出来事だわ」
大前提、境界に関することは大半が違法である。
この状態を病院に引き渡すわけにはいかないし、恐らくは治療できるものでもない。
幽体離脱。
その影響が如実に現れ始めている。
だとすれば、乖離した側を戻さねば、このまま体が境界に呑まれていくのだろうか。
「とりあえず、これ以上進んでる様子は無いからひとまずは安心ね。ゆっくりもしてられないけど」
「あ、そう?じゃあ喉乾いたんだけど紅茶ちょうだい。あと服着せて」
「横柄になったな……」
「いやあ、なんか吹っ切れたというか開き直ったというか。どうにでもなれ〜!って感じ」
楽観的ながら、諦観を含む言葉。
こいしを励ますように頭をワシワシと撫で、蓮子を見る。
「さっきの……私がここに来る最中にあったであろう事なんだけど」
「恐怖を感じたけど覚えてないってやつ?」
「そう、それ。このタイミングでそんなことが起きるのは、絶対に無関係じゃ無いと思うの」
「……考えを聞かせて」
「おーい、その前に服着せてほしいんだけど」
若干顔を赤くしたこいしを見て、蓮子と顔を見合わせる。
真面目な顔が、同時に苦笑へと変わった。
●
要求通りに紅茶を入れたので、こいしの背を起こして飲ませてやりながら、先程の感覚を思い出す。
「明確に恐怖を覚えていた。ただ、その恐怖の内容がわからないの」
「パニックを起こしていた?」
「それにしては始点が不明なのはおかしいわ。途中を覚えていないならまだしも、恐怖の始点はわかるはず」
「覚えていない……最近よくあることね。メリーもそうでしょう?認識ができないってやつね」
覚えはある。
そしてそれを思い返せば、この現象はこいしの幽体側だという線も見えてくるものだ。
「……でもどうして怖くなったのかしら。認識できないなら、何かをされても気付けないのに」
「逆に考えましょう。認識できないまま、何をされたのか。あの紙を見る限り、理性のある感じからして、コミュニケーションを図ろうとしたのならば過激な手段は用いないはず」
確かにそうだ。
筆談とはいえ、会話ができる程度に理性があり、それでいてあの様子では害意を加えるとは思えない。
とはいえ、恐怖を感じたのは事実であり、認識できていない、覚えていないという状態は今までと同一の現象だ。
「認識できていない……いや、覚えていられない、のかな」
「そうね。大学でも話したけど、今回のでほぼ確信したわ。忘れた、というよりかは無意識に何かをしてしまったときのように、それらの起こした全てが私達の記憶に残っていない」
だとすれば。
恐怖を覚えているということは。
「無意識のうちに何かを認識してしまい、何かが起きた。私で言えば、直接的接触じゃなくて……境界を見てしまい、何らかの現象が起こったとかじゃないかしら」
「あぁ、ありえそうね。そして今までの現象と繋げれば、それはこいしの魂側である可能性が高いってことまでは読める」
答えまでの道筋を作ろうと、幾つもの仮定が浮かぶ。
無意識的な行為。物をふと置いてしまって探すような、起きた現象に対して記憶ができていない状況。
それはこいしの魂側の起こす現象全てに適用され、紙と、漠然とした恐怖以外に覚えていることはない。
「例えば、無意識的に、パッと見た本の1ページの1単語が突然頭に浮かんで来るように、ふとしたタイミングで突然こいしの魂を見ることができたとか」
「……なるほどね。だとすると、こいしの魂をふと認識できるのは私の瞳だけであり、逆に言えば見えてしまうから記憶の無意識化が強いってことになるのね」
「その仮説はありだね。私は幻想が見えないから無意識化が少なく、こいしは魂の影響で無意識化された記憶が多すぎた」
ならば、こいしの魂は。
「無意識の中、魂は無意識と有意識の境界の奥にいる」
それが導き出した答え。
蓮子もほぼ同じ結論に至ったようで、目を合わせて頷いた。
「加えて言えば、その境界は認識できないだけでそこにある」
「あぁ、これも先入観だったわ。見えてるものだけが全てじゃないなんて、特に私の分野だったのに」
幽体離脱したこいしの魂は、恐らく認識外に入り込んでいる。
そしてそれは完全な幻想まで行かず、現状を見る限り現世に干渉可能な隙間にいるということ。
それらを現し世に引き摺り出すなら、入り込んだ境界を暴いてそこから隙間を見ればいい。
瞳では、意識的な認識が不可能な境界。しかし、そこに確かに在る事は“解る”境界。
意識と無意識の境界線にこそ、それは存在していた。
うつらうつらと眠そうな、半透明化したこいしと目を合わせて、目を大きく開く。
境界は見えないが。
「開いて頂戴……」
何処にでも在って、何処にも無い。
それこそが、境界が見つからなかった理由。
「あなたの魂への道を!」
ぐ、と歯を食い縛り、こいしに対して境界を開けるように力を入れる。
境界が見えない場所への暴きは、普段ならしない。
だからこそ見つからず。
これもまた、先入観による失敗だと思った。
認識できないまま、しかし確かに境界が暴かれる。
それは成功であり、しかし正答では無く。
出来てしまった故に、現世では有り得ない筈の膨大な妖気が溢れ出した。
●
───現の世界において、幻はその全てを制限されている。
それは存在していないという土台の上に居るからであり、存在の否定をされているという前提の縛りを科せられているから。
そして科学によって未知を暴かれ続けた世紀において、それは顕著に表れていた。
富士の樹海の奥、自然信仰のお膝元かつ、自殺の名所と呼ばれ続けてそういった場所だと噂されてなお、数段格を落とした怪異の属性を付与された髪程度しか存在を保てなかったように。
人の居なくなった街、現が薄く、荒御魂の存在した地に仙人が手を加えて、一帯を現と幻の境界を曖昧にしてようやく一時的な避難地程度にしかならなかったように。
死という解明しきれない形而上の事柄の先、現世において解明できぬ限られた幻ですら、冥銭という太い縁を通してようやく現の世界に姿を現せたように。
大妖と呼ばれるほどの器と神格を併せ持ち、現世にて偽りながらも信仰されて尚、格を落とすどころかほぼ人という枠組みにまで己を変容させてすら、存在は大きく制限され、現側には長居できなかったように。
幻はその全てを制限され、条件によって僅かに制限が緩和されるほど神秘の消えた現世。
現において幻の居場所は、最早無い。
無い筈だった。
科学はいつしか、幻を現へと引き摺りだす。
しかしその過程において、境界を踏んだ状態の現と幻の曖昧な状態が生じるものだ。
そしてこのとき。
偶然にも、現し世における無意識への研究は、佳境を迎えていた。
●
無意識の研究において、科学が幻と現の境界線を踏んでいる状態で、偶然その根源を同じとした幻想が現の世界に居たからこそ、古明地こいしという無意識を纏う幻が現の世界でその全てを見せられるようになったということ。
境界を暴く瞳が暴いた、暴いてしまった境界は、古明地こいしの本質が入り込んだ現世とその隙間、“無意識と有意識を隔てる境界”ではなく。
現実の存在と成りかけている現側の古明地こいしと、幻想の存在である古明地こいしが居た、現在では空白の幻側の境界であった。
開くべきは確かに推理した通り、無意識と有意識の境界であった。
しかしそれは古明地こいしという境界を暴くのではなく、乖離した本質側を見て、明確に無意識の存在を認識した上で暴くべきだったのだ。
それは、境界を暴きすぎた事による失敗。
幻想の存在という強すぎる歪みを隔てた暴きは、容易く無意識という現世の隙間を超えて、幻想の世界までの境界すら開き。
幽体離脱していた古明地こいしの魂はその存在を“集合的無意識のうちの1”へと変貌させ、ベッドに寝ていた古明地こいしすら現実の姿を塗りつぶすほどの妖気に中てられ、古明地こいしという妖のうちの一端と化して“集合的無意識のうちの1”へと変貌した。
無意識の妖がその全容を現へと引き摺り出されていく。
幽体離脱、分離した2つの古明地こいしはそれらのどちらともを古明地こいしとされ、そして本質へと戻る。
何処にでもいて、何処にもいない。
現の境界線を踏み越えた先、本来であれば認識できない域において、少女は確かにそこに居た。
室内という密室は外界との境界となり、現世ながら幻想の様相を呈す。
しかしそこは確かに、未だ現世のままであった。
少女は幻想の奥より溢れ出した妖気を背に。
暴かれた境界より、その境界の総てが形を持って歩み寄り。
ついぞ暴かれた境界よりこの世界に現れた。
現の世界で有り得ぬはずの、妖の本領。
溢れ出す妖気は未知という原始的な恐怖を与える瘴気にも似て、人間の恐怖心を強く煽る。
ガラス玉のような瞳が、ゆらりと二人に向けられて。
そこには、現し世に在ってはならない真正の妖が居た。
「やっほー、久しぶり。それとも、はじめましてかな?」
───耳をすり抜けるような声。
その声へ、なにかを答える前に。
ぽたりぽたりと、赤の色が床を濡らした。