噛ませ犬のクラフトワーク 作:刺身798円
もしもどこかに何かの情報が見つかった場合は、頑張って書き直します。
………それもしんどいなぁ。
サーレーは、美しい夜空を見上げた。頭上には、満天の星々。輝き瞬き、それはまるで誰かの涙のようだ。
この空の下で、イタリアという国家だけでも五千万を超える人々が日々を暮らしている。彼らのうちの一体どれほどが、夜更けに夜空を見上げるだろう?
サーレーは草むらの上に座り、いつまでも頭上を眺めていた。
田舎の夏だ。虫の声がする。サーレーは虫が服に付着していないか、なんとなしに体をまさぐった。
あれは、
サーレーには、天体の知識などろくにない。小学校の頃に習った知識が、微かに彼の脳裏に残っているだけだ。
サーレーが見つめる付近は星が密集し、流れるように周辺の闇の色合いが薄くなっている。
織姫は彦星と出会うのだろうが、サーレーにはいつになったら織姫が現れるのだろう?
彼は、何とは無しに地上から夜空をボンヤリと眺め続けていた。
彼の人生は、後悔ばかりだ。間違いを繰り返し、過ちと薄々気付きながら突き進み、気付いたら社会の闇の深奥に組み込まれていた。
代えの効かない歯車というわけではないのだが、磨耗して劣化するか壊れるかまで交代を告げられることはないのだろう。
彼が今日ここにいるのも、きっと彼が人生の選択肢を誤ったからに他ならない。
しかしあるいは、それは最善ではなくとも最悪ではないのかもしれない。人生とは誰しもが、最善を選び続けることなど不可能なのだ。
最悪なのは、おそらくは何も知らずに愚者にさえもなれずに全てが終わってしまうことだろう。
状況は良くないが、それでも今日ここにいることは、彼にとってほんのわずかな慰めだと言っていいのかもしれない。
サーレーはため息をつき、頭上の星々を飽くことなく眺め続けた。
不意に流れ星が天空を尾を引いて流れ落ちた。イタリアが平和でありますように。
彼は心の中で、ささやかに願った。
◼️◼️◼️
発端は、一本の電話だった。
サーレーは普段、業務上必要な時以外はあまり電話を使用しない。
彼の携帯電話は、相変わらずガラパゴスな感じのやつだ。
周囲の話題は、いつだってスマートフォン。自分だけ旧式じゃあ、落ち込むだろう。でもほんのちょびっとだけ、愛着が湧いてきた。もういっそガラパゴスに永住してしまおうか?
そんなわけで普段はあまり携帯を使用しない彼だったが、この日は何の気まぐれかふと思い付きで電話を使用することを思い立った。
パッショーネに所属してから、すでに十年以上が過ぎている。
サーレーはアスファルトに力強く咲く一輪の花のように、どこからともなく自然発生したわけではない。当然彼にも両親がいる。
ちなみに余談だが、相棒のズッケェロは両親が離婚して彼を育てた母親は蒸発している。まあそれはおいておこう。
裏の組織で成り上がってやろうと目論んでローマに出て来た彼だったが、もうすでに十年以上実家と連絡を取っていない。
家を出る際に父親と殴り合いの喧嘩をして飛び出て来た彼だったが、この歳になると郷愁も湧くものである。
おそらくは実家側は彼を勘当したものだと判断しているだろう。サーレー側も勘当されたとそう認識している。
素行と頭の悪い親不孝の彼が、今更どんなツラを下げて実家に連絡するのだという話である。
しかしそれでも、思い出を一度思い出してしまえばそれはなかなか色褪せない。
とりあえず連絡だけ取ってみて、向こうが渋るようであれば潔く諦めよう。
向こうが赦してもいいというのであれば、一度顔だけでも見せておこうか。
その郷愁が彼が今、夜空を見上げている発端だった。
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「すみません、ジョジョ。しばしお暇をいただきたいのですが。」
ネアポリスの図書館で、サーレーはボスであるジョルノに告げた。
「理由を聞いてもいいかい?」
ジョルノは手にしていた絵画集を閉じて、座ったままサーレーに目を向けた。
サーレーは頭を掻いて、少し気まずそうにジョルノに向かって話し出した。
「どうやら実家の方で不幸があったみたいで、恥ずかしいことにずいぶん長く帰っていなかったもんで………。」
「そうか。お悔やみを申し上げるよ。休暇は一週間で構わないかい?」
「………いいんですか?」
ブラックなパッショーネが、まさか簡単に一週間も休暇をくれるとは思わなかった。
サーレーは驚いた。
「君たちには、いざという時は嫌でも戦ってもらうことになる。それを考えれば、君に休暇が認められるのは平時だけだ。僕たちも、君に休みをあげるのなら今のうちなんだよ。」
「ありがとうございます。」
「お金は持っているのかい?」
ジョルノが意地悪に尋ねた。
「電車費用はなんとか………。」
「長く帰っていない実家に帰るのなら、手土産も持っていったほうがいい。君の退職金から、少し融通してあげようか。」
ジョルノは笑って、サーレーに紙幣を数枚手渡した。
「お土産を持っていくなら、パッショーネのスフォッリャテッラをお勧めするよ。」
スフォッリャテッラは、貝の形をしたパイ生地の中にカスタードを入れたイタリアの伝統お菓子だ。
サクサクしていて甘くて、とても美味しい。
「いいですね。うちの母も喜びます。」
「ほんとあれ、一体誰が考えたんだろうね。実は僕も大好物なんだ。是非ともパッショーネから考案者に表彰状を贈りたいくらいだよ。」
ジョルノは、いたずらっぽく微笑んだ。
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サーレーの実家は、ローマから少し離れた田舎町にある。
彼の両親は、そこで主に養蚕業を営んでいた。蚕を飼育して、生糸に加工する産業だ。
西ヨーロッパの養蚕業は、今現在イタリアだけでしか行われていない。
イタリアは、西ヨーロッパの養蚕業で最も古い歴史を持っている。
事実がどうであれ、若いサーレーにとってヨーロッパでの養蚕業はシェアを海外に奪われた斜陽産業であり、どれだけ歴史と伝統を謳っても貧乏農業という認識でしかなかった。
彼の両親は真面目な人間であり、日々を一生懸命暮らせば幸福になれると日頃からサーレーに口うるさく言っていた。
今より若い頃のサーレーはそんな実家に嫌気がさして反抗し、成り上がることを夢見てローマに上京し、パッショーネに所属した。
実家に居座っていても、何の価値もなくただ朽ちていくだけのように思えたのである。かといって、彼は真面目に勉学を納めて一廉の人物を目指すような人間でもなかった。
サーレーは不真面目で怠惰な若者で、働いてもなかなか裕福になれない実家の養蚕業を継ぐよりも都会に出て一攫千金を夢見た。事実はどうあれ、裏社会の組織は学歴の無い彼にとって唯一にも思える成り上がれる場所であった。
こう書くとまるでサーレーが人間のクズであるような印象を抱くが、ハッキリ言ってしまえば人間だいたいそんなものである。
彼のような人間は、どこにだっている。人の忠告にあまり耳を貸さないだけの、ただの普通の人間だ。
ある程度成熟した社会で何者かになるためには長時間の忍耐が必要であり、彼はそれを理解しようとせずに近道が存在することを信じて疑わなかった。
ラクできるならラクしたいと思うのは人情だし、うだつの上がりそうもない実家の家業よりも煌びやかな都会での一攫千金に憧れるのはいつの時代も若者の特権のようなものだ。無限に広がるように思える若者の未来は、いつしか縮小し矮小なものになる。
人は誰しもが社会の変えのきく歯車で、それでも歯車には歯車の幸福が存在する。皆、そうやって日々を生きている。
総合的に鑑みてサーレーが愚かな人間であることは確実だが、彼の両親も彼のことを理解しようとしたかと聞かれれば首を傾げざるを得ない。一方的に誰かを悪者と見做すのは愛が無く、余程のことがない限りは控えるべきだろう。正しさとは己を律するからこそ価値があるのであり、もしも正しさが弱者をいじめるための凶器でしかないのであれば、そんなものはクソ喰らえである。
人間は聖人である必要などなく、そもそも論として人間が本当に賢い生き物であるのなら教育なんか必要無いのである。
人生においてさまざまなものを積み重ねてきた人間が尊重されるべきなのは当たり前のことであるが、それがそのまま若者を軽視していい理由にはならない。どうやったって道を間違える若者はいつの時代も存在するものであり、社会が納得する罰則をこなせば誤った道筋を元に戻す機会を与えられて然るべきである。
結果として相互の不理解によりサーレーと彼の両親は離別し、高校を中退したサーレーは父親を殴って勘当同然で実家を飛び出すこととなった。
そしてパッショーネに下っ端として所属し、マリオ・ズッケェロと出会い、ブチャラティチームと金の奪い合いで敵対する。
それがザックリと説明する、愚かな彼の経歴だ。
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「そうか………オヤジは死んだのか。」
サーレーは電話口で、何とも言えない気持ちを覚えた。
ふと思い付いたことから気まぐれで実家に連絡すると、彼の母親が電話先に出てきた。
彼女の言うところによれば、父親は一昨年の夏に畑に出て熱中症で倒れて帰らぬ人となったらしい。
まだ六十前だったはずだ。あんなに嫌いな父親だったのに、それでもサーレーは言い知れぬ寂寥感を覚えた。
最後の記憶はサーレーが父親の頬を殴って家を飛び出るというものであり、それっきりになってしまったということだ。
それは、ひどく悲しいことだろう。
「わかったよ。まあ勤め先のこともあるからそんなに長くは無理だけど、必ず墓参りにいくよ。」
母親に人殺しで生計を立てているなど、口が裂けても言えるはずがない。それは、彼の母親をどれだけ悲しませるだろう?
馬鹿なサーレーにも、それくらいの分別はある。
工事関係の会社で現場員として働いていると、彼は母親に嘘を吐いた。
「ああ!嘘じゃねーよ。勘弁してくれよ。ったく。俺にも俺の事情があるってーの!」
サーレーは通話を切ると、薄い財布の中身を確認した。帰省の電車賃はギリギリだ。
公共機関が無料になるパッショーネの特務用身分証明書は、プライベートで使うのは憚られる。万が一どこかで無くしでもしたら、ジョジョからの信頼が失墜してしまう。それはサーレーだけでなく、暗殺チーム全体の評価に関わると言っていい。今回はミラノの自宅に置いていこう。
サーレーは引き続き、相棒のマリオ・ズッケェロに電話をかけた。
「すまんが俺は、ちょっと私用ができそうだ。ジョジョからの許可待ちだが、その時はお前がしばらく暗殺チームのリーダーを務めておいてくれ。」
相棒の快い返事をもらって、サーレーはネアポリスへと向かった。
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そして彼はネアポリスから特急でローマへと向かい、乗り継いで実家のある田舎町へと向かった。
片手に土産であるスフォッリャテッラの菓子袋を抱えて、座席にもたれて過去に想いを馳せた。
十年経てば、色々変わる。
実家の周辺の様子も変化があって然るべきだし、彼自身の心境にもなんらかの変化が訪れているかもしれない。
車窓から外の景色を眺めているとやがて列車はゆっくりと実家の最寄駅に到着し、彼は座席を立った。
ーー……昔とあまり変わらねえな。
列車から降りるとあたりはかつてとさほど変わらない様子で、草の匂いがした。
ひなびた田舎町独特の景観は、それを知らない人間には美しく映り、見飽きた者には変わり映えのしない閉じた狭い箱を連想させる。
サーレーは以前からずっと、その狭い箱から出て行きたかったのだ。閉塞感から抜け出して、特別な何者かになりたかった。世界は広く、当時の今よりも若い彼には根拠のない全能感があった。
ーーまあ殺し屋は特別な職業ではあるが………少なくとも人様に誇れる職業じゃあねえ。皮肉なもんだな。
特別な何者かを目指した結果が職業殺し屋であり、その理念は日々の細やかな幸せにこそ天国があるというものだ。誰からも羨まれる特別な人間を目指した結果、人様に誇れない特別な職種の人間になって、普通の人生にこそ至高の価値があるという結論が出てしまった。
実に皮肉なものだと、サーレーは自嘲した。
サーレーはさらに考え事をしながら歩いた。公園があり、遊具がある。サーレーも幼い頃にそれで遊んだ思い出がある。
そのまま歩くと、やがて見覚えのある一軒家へとたどり着いた。
古くさい様式の、ボロい家屋だ。
かびの据えた懐かしい匂いを嗅ぎながら、彼はインターフォンを鳴らした。
「帰ったぞ。」
木造りの扉が開き、中から黒いカーディガンを羽織った白髪混じりの髪の老婦人が扉を外開きに開いた。
彼の母親だ。その顔は彼の記憶にあるよりも、いくらか老いている。彼女の髪には、蝶の形を模した安物の髪留めがつけられていた。赤いイミテーションの貴石が、くすんだ輝きを放った。
「お帰りなさい。」
記憶にあるよりもしわの増えた顔に、柔和な笑顔が浮かんだ。
「ああ、ただいま。」
サーレーは何とは無しに、頭を掻いた。気まずかったのかもしれない。
嫌な顔をされる可能性を考えていただけに、サーレーは母親の予想より好感触な反応に拍子抜けをした。
「………少し年をとったわね。」
「当たり前だ。出て行ってからもう十年以上にもなる。そっちもしわが増えたな。」
「余計なお世話よ。まあ玄関先で突っ立ってないで、中にはいりなさい。」
老婦人は振り返り、サーレーを家の中へと招いた。
「………変わらねえな。」
家の中は記憶にある過去と大差ない。しかしこの家に、もう家主であった彼の父親はいない。
サーレーは母親の背後をついて歩いた。背後から見る彼女の後頭部の、赤い石のついた蝶の髪留めが印象的に揺れていた。
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「どうせいい人はいないんでしょう。あんた昔っからセンスがないからねえ。その変な髪型、変えたら?」
母親は、会話の切り口でいきなりサーレーの急所をついてきた。
「余計なお世話だ!」
サーレーは目を細めて反論した。
「あら、そうでもないわよ。私だって孫が欲しいわ。でもどうにも望み薄みたい。残念ねぇ。」
母親は本当に残念そうな顔をした。
白いテーブルに座って、母子は会話した。
サーレーの前には、母親が煎れたコーヒーが置かれている。
「………俺を怒っていないのか?」
「難しいわねぇ。」
母親はおっとりとした表情で、返事をした。
「俺は勝手に家を飛び出て行ったんだぞ?」
「いつまでも怒っていても、疲れるのよ。私たちも長い間二人っきりで、一昨年からは私一人で家にいたから、考え事をする時間もたくさんあったわ。あんたは私たちの言うことを聞かないバカ息子だったけど、私たちにも不徳があったんじゃあないかって。」
一方的に相手をなじり糾弾するだけでは、何も建設的な未来を築けない。
相手を理解し尊重することこそが、より良い未来の可能性へと繋がる。
必要なのは、一方的な独りよがりではない愛情と、一人の人間としての敬意。
愛の無い関係はいずれ破綻し、敬意の無い関係は子供のおままごとで幕を閉じる。
「………俺は反省しているよ。今の人生に納得してるし、満足している。でもあの時の俺は、間違いなく馬鹿なクソガキだった。散々迷惑をかけた。俺が悪かった。」
「あら、じゃああんたは今は賢い大人なの?」
母親は笑って聞き返した。
「………すまん、言い直す。今も馬鹿な人間だが、昔は今よりさらに馬鹿でガキだった。」
「そう。」
サーレーはコーヒーに口をつけた。
「………親父は残念だった。あとで墓参りに行くよ。」
「ええ。一緒に行きましょう。あの人もきっと喜ぶわ。」
「そうだといいな。」
「きっとそうよ。」
僅かな気まずさを感じながらも、サーレーは会話を続けた。
「別れ際にぶん殴っちまったからな。許してくれるといいが。」
「あの人、一週間くらい顔を腫らしていたわ。あんた若いんだからもう少し手加減するべきだったわね。」
そんなに後をひいたのか。
サーレーは、ひどく反省した。
「ところで今は、ミラノで工事関係の会社に勤めてるんだったかしら?」
母親が話題を変えた。
「ああ。モテないし薄給だけど、
サーレーは、嘘に少しの真実を混ぜて母親に告げた。
「そう。なら良かったわ。」
「当分辞めるつもりはないよ。悪いが家業は継げそうにない。」
「仕方ないわ。」
「いいのか?それが喧嘩の原因だったはずだが?」
大本の家を飛び出た理由は、それだったはずだ。
サーレーは首を傾げた。
「あんたは馬鹿で不真面目だったからねぇ。私たちはあんたを世間様に出しても、ただ迷惑をかけるだけだと思ってたんだよ。それだったら無理にでも家の仕事を継がせれば、少なくとも野垂れ死ぬことはないからさ。はっきり言って、最悪あんたがどっかでのたれ死んでいることを覚悟していたから、こうやって顔を見せに帰ってきてくれただけでとても嬉しいわ。」
「うッッッ。」
なかなかに辛辣な言葉だ。しかし正鵠を射ているだけに、言い返せない。
ぐうの音も出ない。
「でも私たちも、何か間違っていたのかもしれない。アンタ今でも元気そうにしてるようだし。」
母親はサーレーの全身を、下から上まで眺めた。
「たまたま運が良かった………出会いが良かっただけだよ。」
「そう。
「まあボスにはさんざんお世話になってるからな。」
「あら、じゃあ今度菓子折りを持ってご挨拶に向かおうかしら。街まで出るのは久しぶり、楽しみだわ。」
「頼むからそれはやめてくれ。」
相手は裏社会の帝王だ。母親同伴で面談とか絶対に勘弁して欲しい。
本当に来てしまったら、まさか合わせるわけにはいかない。ウェザーあたりに上司の代役を頼もうか?
そういえば、サーレーは母親の菓子折りという言葉に手土産を持ってきたことを思い出した。
「そうだ、これ土産だ。会社の近くにある菓子屋に売ってるスフォッリャテッラだ。」
「あら、少しは気が利くようになったわね。じゃあ一緒に食べましょうか。」
母親は台所で包装を丁寧に剥がして、皿にスフォッリャテッラを乗せてテーブルに置いた。
「うめえな。」
サーレーはスフォッリャテッラを一個手に取って、口に放り込んだ。
パイ生地の中のカスタードクリームは、舌に上品な甘さを残していった。
「これいいトコのお菓子じゃない。結構値段が張るんじゃないの?」
母親も一つ口にして、洋菓子が高級なものであることに気がついた。
パッショーネの子会社の商品だ。今さらながら馬鹿みたいなパッショーネの商売の手広さに、サーレーはほんの少しだけ呆れた。
「ボスの知り合いの店で買って、安くしてもらったんだよ。」
「ふーん、そうなの。」
母親は、頬杖をついた。
「ところでいつまでゆっくりしていくの?」
「会社から一週間休暇をもらったから、悪いがまだしばらくは厄介になろうと思っている。」
「ゆっくりしていきなさい。」
母親は、穏やかに笑った。
これだったら、もっと早くに連絡しておくべきだったのかもしれない。あるいは時間が経った今だからこそなのかもしれない。
サーレー自身が、成長したからなのかもしれない。………成長しているといいな。
「んでよぉー、そのズッケェロってのとずっと一緒でさあ。そいつほんとに、馬鹿なんだよ。」
「そうなの。今度ぜひ連れて遊びにいらっしゃい。」
想像していたよりもずっと良好な関係に、サーレーは居心地の良さを覚えた。
たわいもない会話を続け、時間は過ぎていった。
「ところでアンタ、なんで髪の毛緑色なの?あまり似合わないわよ。」
「………ほっといてくれ。」
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変わらないように見える街並みも、よく見ると細かいところが変化している。
それが面白く、サーレーは色々と注意深く観察しながら道を歩いていた。
無駄で贅沢な時間の使い方だ。しかし無駄を楽しめるのは、豊かな人生の証拠なのかもしれない。
車両の少ない舗装されていない道を歩きながら、やがてサーレーは子供の頃に通った学校にたどり着いた。
彼はそこに強い郷愁を感じ、しばし呆けたのちに観察した。
あまり近づいたら、不審者として通報されてしまう。遠巻きに、だ。
もともと人口が多い街ではなかったが、輪をかけて過疎が進み、子供の数もさほど多くない。
それでも歓声を上げて校庭を駆け回る少年少女を眺めて、サーレーは何とは無しに心が温かくなるのを感じた。
ーー未来は、そこにある。子供は未来を夢見て、時代の主役になることを望み、夢破れて社会の歯車になる。しかし、何者にもなれない人生が、実は一番幸せなのかもしれない。目立たなくとも、眩暈がするほどの幸福でなくとも、日々に満足があればきっとそれは幸せだ。立場には責任が付き纏い、幸福は過ぎれば中毒となる。彼らに、ささやかな幸運を。
最善と最高は、似て非なるものだ。幸福と裕福も別物だ。
短期的に見れば最高の結果であったとしても、長期的な視点で見れば愚策であったなんてことは枚挙にいとまがない。
目眩く須らくを手にする最善は、周囲に羨まれ先々に嫉妬や羨望を元にした面倒ごとが待ち受けている場合も多い。
敗北や劣等感に塗れた生であったとしても、本人が納得できるものであれば幸せでないとは断言できはしない。
人の社会は多くの場合大勢の感情による慣性で動き、それはしばしば誰にも予測できない動きをする。
人生なんて、わからないものだ。
わからなくとも苦しくとも、彼ら自身が納得できる生をおくれますように。
サーレーは元気に走り回る子供達を眺めて、心の中で見知らぬ彼らの幸福を祈った。
以前の彼だったら、ゆめにもそんなことを考えたりはしなかっただろう。
それはサーレーの、無意識の変化だった。
物事はすべからく、ゆっくりと変化する。それはサーレーも例外ではない。
例えば理想に燃える若き青年が、年を経て保身と既得権益に執着することもあるし、例えば短絡的で愚かな男が、年を経て穏やかな老後を過ごすこともある。
永遠に変わらないものなど、この世に存在しない。
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夏の星座が夜空に輝き、サーレーはそれを寝転んで眺めた。
服に草がついたが、さほど気にならない。
天を見上げて、サーレーは物思いにふけった。母親はよくしてくれるが、実家に唐突に帰っても落ち着かず、眠れない。
たまには自身の人生を振り返って、整理してみてもいいかもしれない。
寛容な社会の黙認の下に素行の悪い行為を繰り返し、ボスに敗れて相棒とともに暗殺チームに所属した。
暗殺チームには任期があり、それが明ければ退職金を渡されて引退することになる。
サーレーはここ十年以上根無し草で、流されるままに生きてきた。
暗殺チームから足を洗ったら、何をして人生を送ろうか?まあ何をするにしても、今さらズッケェロと別行動というのは考えにくい。
退職金を資金にして、パッショーネの許可をもらって、一緒に何か商売をやるのもいい。母親も呼ぼうか?
貧乏でいいし、うだつが上がらなくてもいい。
社会の底辺と蔑まれても、人間のクズと罵られても、もしも俺が見つけることが出来るのならば、幸せはきっとそこにある。
5ユーロのパスタで、人は幸せになれる。サーレーはそれを、知っている。
ボスと出会えた俺の人生は、きっと最期まで納得できるいいもので終わるだろう。
まずは任期を終えるまで、とにかく生き延びることが肝要だ。俺が死ねばパッショーネに危機が訪れる可能性があるし、母親はきっと悲しむことだろう。
サーレーは、ぼんやりと時間が流れるままに草むらに横になった。
彼はいつの間にか、眠りについていた。
◼️◼️◼️
一週間は、サーレーが考えていたよりもずっと早く過ぎ去った。
少し名残惜しくも、サーレーがミラノに戻る日付となった。
「会社をクビになったなら、家に戻っていらっしゃい。」
「縁起悪りーことを言うな!!!」
「今度からはこまめに連絡をちょうだいね。」
「………仕方ねーな。」
母親は笑い、サーレーも笑った。
彼女は息子を駅まで見送りに来ていた。サーレーはその小さな肩幅に、なんとも言い難い愛情を感じた。
彼女にために戦っているのだと錯覚できるのならば、暗殺チームという汚れ仕事にだって誇りを持てる。
当分はまだ、戦えそうだ。
もしも今の仕事を引退してパッショーネから退職金が出たのなら、彼女をどこかいいところに旅行に連れて行こう。
アナスイと徐倫に依頼して、アメリカの観光名所を案内してもらってもいいかもしれない。
できれば父親も一緒がよかったのだが、それは残念ながらもう叶うことはない。
彼女のために、もう少し上等な髪飾りもプレゼントしたい。
列車はゆっくりと進んでいく。
サーレーは車窓から、手を振り続ける彼の母親を眺め続けた。
人生は、時に予期せぬことが起こりうる。
起こった出来事が、必ずしも幸運とは限らない。
時に善悪の如何に関わらず破滅は忍び寄り、因果応報という言葉は虚しく響く。
誰しもがそれを、知っている。
知っているだけで、理解しているとは限らない。
…………これが彼女との最期の邂逅になるとは、サーレーはこの時予想だにしていなかった。