噛ませ犬のクラフトワーク 作:刺身798円
「一体あいつらは、何者なんですか?」
「よせ。余計な詮索をしても、誰も得をしない。一番損をするのは、お前自身だ。」
若い警官が年配の警官に問いかけ、年嵩の警官が返答した。
彼らはベネツィアの一家失踪事件捜索班に配備され、失踪した一家の自宅の監視を任されていた。
彼らが監視をしている最中に黒いスーツを着た一団が現れ、現場の彼らに対テロ特殊部隊からの正式な捜査委任状を提示して捜査のために建物内部へと侵入した。彼らは五人組で、先頭にいたリーダーと思しき人物が女性で残りは男性だった。
「警察で公式に捜査班が組まれています!!!あんな得体の知れない奴らなんかに………。」
「………お前は、若いな。闇で行われていることを、光の当たる場所にいる人間は知るべきではない。ああいった奴らが動いたということは、そういった事件だということだ。不用意に闇を突けば、闇に引きずり込まれる。不審な事件では、時折ああいった奴らが現れる。俺は何も知らないし、お前も何も知らない。それが、誰にとっても幸せなんだ。」
年配の警官は、顔を赤くする若い警官に諭すように声をかけた。
「そんな………。」
「俺たちはあくまでも警官であって、決して特殊介入部隊(GIS)ではない。俺たちはあくまでも国家権力であって、決して武力ではない。ああいった奴らが出てきたってことは、このヤマは本当にヤバい事件だということだ。お前もいつまでもつまらないことでゴネていないで、家族などの自分にとって大切な人間を守ることだけを考えていたほうがいい。」
何も知らない、聞こえない。年配の警官は帽子のつばを触って、騒音を遮断した。
誰にでもわかるわかる危険な事件であれば、特殊介入部隊が派遣される。一見危険に見えなくとも本当にヤバい事件であれば、特殊介入部隊を飛ばしてああいった奴らが派遣される。特殊介入部隊とは日本で言うところの対テロ軍隊に等しく、それすらすっ飛ばされたということは、つまりそういう事件の可能性が高いということだ。警官は市井の安寧を目的に行動し、特殊介入部隊であれば対象の殺傷の可能性をあらかじめ視野に入れて行動する。そしてああいった手合いは………余計なことを考えるのはよそう。
はっきり言ってしまえば、特にタチの悪いホームグロウンテロリストに対抗するための傭兵だと考えればいい。
危険度がわかるうちは、どれだけ危険な事件であってもまだマシだということである。
本当にヤバい事件とは、誰にも実態が理解できないうちに進行する。そしてある日、絶望の顕現と共にそれを理解するのだ。
邪神も神の一柱であるからには、信奉者が存在する。残虐性も過ぎれば、それを崇めて模倣する者が出てくる。
それを防ぐために、事件は隠蔽され闇に葬られる。
年配の警官は年の功で、そのことを理解していた。
かつてイタリアには、鋏男という殺人鬼がいた。
年配の警官が若い頃に存在した、都市伝説のような連続殺人鬼だ。今をもって捕まっていない。
その被害者は決まって、体中を無惨に鋏や剃刀などの刃物で切り裂かれたような傷跡を残していた。傷は体内から外に向かっていて、どのような凶器を用いればそんな傷になるのか誰にも説明が出来なかった。
存在が明確に証明されているにも関わらず、その足取りを追おうとすると各所から圧力がかかる。
鋏男は連続殺人鬼であり、その被害者は大半が勢力拡大に躍起になって、社会に多大な被害を与える新興のギャングだった。
『………俺にとっては羨ましいことに、アンタには表に居場所がある。この手の事件に関わるべきじゃあない。失せな。』
ものを知らない若い頃に正義感に陶酔した彼は鋏男を追い、追跡の最中に出会った男の昏い目を忘れられない。
どこからともなく忽然と現れた若い男。もしかしたら少年と言っていいくらいの年齢だったのかもしれない。
その男は、心が凍えるほどに冷たい目していた。
一般人が闇を覗いて、無意味に死ぬことはとても悲しいことだ。
彼は彼岸と此岸の境目に立ち入ろうとする愚かな若者に、警告をしにやって来たのである。
あの男は今頃何をしているだろうか?もう死んでしまったのだろうか?
………想像でしかないが、きっと彼らは鋏男の同類だ。
個人の義憤を優先して騒げば、闇で戦う人間の邪魔になる。結果としてより悪い方向へと事態は推移する。
最悪の事態を防ぐために、味方であるはずの闇に口封じされ消される恐れすらある。悪魔を一度取り逃せば、その歩いた後に屍の山が積み上がるからだ。邪神の悪徳は放っておけば、止めどなく流れる死体の血の海よりも深く、天を衝く贖罪の塔よりも高く積み上がる。どこまででも。
………イアン・ベルモットは、屍の山を越える敵が現れることを望んでいる。
一人きりでは、演劇は成り立たない。劇を演じるためには、主人公とその敵対勢力が必要だ。
口は災いの元という至言は、知らぬが花という金言は、果たして一体誰が言い出したのか?
夜と昼が等価であるのと同様に、闇と光は等価だ。
躍起になって光のみで社会を照らそうとしても、収縮したその影はより一層濃くなり闇が凝縮されるだけに終わる。
闇の深奥で蠢く悪鬼は、誰も知らないうちに闇に消えるのが、誰にとっても一番幸せだ。
◼️◼️◼️
「なあ、パンナコッタ・フーゴ。君はどちらだと思う?」
パチリと音がして、ボタボタと新たに糸を引いて血が床に垂れ落ちる。ボトリと音がして、床に切り離された肉片が落ちる。
執刀医が傷口を糸で縫って、流れ落ちる血液は止まった。
再びパチリと音がして、血が流れる。落ちる。縫う。流れる。落ちる。縫う。その繰り返し。
フーゴの指はどんどん短くなり、体から力が抜けて出血量は少なくなっていく。パチリ。
「あッッッ!!!」
「私にもわからないのだよ、君が素直に従ってくれるのとそうでないのは、どちらが私にとって面白いのか。君が私に従ってくれれば、私はきっと誰にも届かない高みに登ることができる。それはとてもとても素晴らしいことだ。君が私に従ってくれなければ、私は君で延々と遊ぶことになる。私の役に立てるはずの君を、私はずっと痛め続けることになる。一見、君にとっても私にとっても、君が私に従ってくれたほうがよさそうに思える。しかし、よくよく考えてみよう。たった一人で誰にも届かぬ高みに登ったところで、それは果たして本当に面白いのだろうか?幸せはそこにあるのだろうか?たった一人きりで?」
遊ぶからには、遊び相手が必要だ。
一人で神になって好き放題に振舞ったとしても、それはきっと面白くない。すぐに飽きてしまうだろう。
高みに登ろうと苦心する過程が楽しいのであり、高みに登りきった後にはきっと永遠の退屈が待ち受けている。
イアンは、そう予感した。
そう………苦難こそが人生。苦しみこそが、命を輝かせる極上のスパイス。
全知全能の神は、無敵の戦士は、絶対に負けない英雄は、さぞかし退屈な生を送っていることだろう。
過程が分かりきっている生ほどつまらないものはない。
結果を突き詰めてしまえばどう足掻いても、生のその結末は死で終わるものなのだから。
ならばこそ、旅路の道程を楽しもう。イアンは、鼻で笑った。
パチリ。
心が凍える薄青い研究室で、イアンは椅子に腰掛けて拘束衣を着せられたフーゴと向き合い、執刀医がフーゴの拘束衣から露出した指の部分を細かく刻み落としている。フーゴの血が執刀医の白衣に飛び散り、新たに赤い染みを作った。
「ぐッッッ!!!」
「拷問は、どれだけ痛めつけても、従わない者は決して従わない。精神がダメージを負うほどに痛め付けるとスタンドが弱体化するし、君の手が腐り落ちて死ぬ可能性もある。まあその対処のために、私のスタンドが君を拷問しているわけなのだが。………前の拷問の方が私好みだったのだが、残念ながらアレはオリバーからNGが入ってしまった。」
パチリ。ボトリ。
指切りバサミは、フーゴの人差し指から中指へと移動した。
ボタボタと、新たな傷痕から今までよりも多量に血が流れた。
やり過ぎてはいけない。やり過ぎたら、人間は簡単に壊れてしまう。
素人は知らない。人間は、考えているよりもずっと脆い。
なるべく長く楽しむのが、人生を豊かにする秘訣だ。
少しずつ、少しずつ。
廃人になってしまえば、目の前のこの青年はもう用無しだ。それはつまらない。
従順に従っても用無しだ。それもつまらない。
一生懸命従わせようとするその過程こそが、至高の娯楽なのだ。
苦痛と喜悦に酔い痴れ、感情の揺れ幅を楽しもう。
イアン・ベルモットは吉良吉影と行動に類似点が多いが、その根本の行動原理は真逆だ。
イアンは植物のような平穏な人生を望まない。落差のあるジェットコースターのごとき人生を望んでいる。
めくるめく回転し、上昇し、下降し、その最期は地面に叩きつけられて液状化しようか?
今まで大々的に事件を起こさずに潜伏し続けたのは、偏に己の実力不足を自覚し、楽しい喜劇を演じることが不可能だと自覚していたからだ。役者の実力不足、頭数も不足していた。
イアンは客観性を持ち、己の決定的な戦力不足を理解していた。
急いてはことを仕損じる。せっかくの一世一代の大舞台なのだから?
今はオリバーがいる。ディアボロがいる。己のスタンドはレクイエムに進化した。そしてまだ切り札はとってある。
時は来たれり。
さて、収穫の果実はどのようなものを実らせている?それはいったいどんな味がする?
夜を超える強者は生まれる?臨終の際は喜びに彩られたもの?
狂気よ、無限大に膨れあがれ!
「うあッッッ!!!」
「………私の中には、二人の私がいる。君に従って欲しいと望む私と、そうでない私。恐らくは、私は君に従って欲しくない気持ちの方が強いのだろう。」
フーゴは、出血多量と空腹と疲労で目が霞んでいる。視界に入るイアンの像がボヤけた。
朦朧とする意識に頻繁に激痛が走り、嘔吐を続けた腹部はどれだけ気持ちが悪くても疲弊しきっていて蠕動しない。
時折強烈な電流が流され、靄がかった頭脳が赤と黄色に明滅する。胃液の黄色と血液の赤が混じり不快な匂いと色合いを奏でている。
「なぜなら、今ここにいる私は君を従えるために拷問するという手段以外に何も考えようと思わないのだから。」
「ああああああああああああ!!!」
「苦痛に喘ぎ、苦楽を共にし、艱難辛苦を味わってこそ。それでこそ人生。そうだろう、パンナコッタ・フーゴ?………苦しみこそ、人生。」
イアンの眼球が、興奮で赤く充血した。
時よ止まれ、お前は美しい。
フーゴの脳に火花のように苦痛が間断なく走り、不快な空腹と朦朧とした意識は止めどなく吐き気を訴えた。
イアンは、フーゴの苦痛に喘ぐ表情を間近でしげしげと眺めて、凶悪な笑みを浮かべた。
◼️◼️◼️
「おい、シーラ・E。この格好はなんとかならないのか?」
「つまらないことを言わないで。時間の無駄。現地の警官との折衝をする際、ある程度しっかりとした格好をしておかないと無用な軋轢を生みかねないわ。アンタ、パッショーネの特命をナメてんの?」
「もちろんナメちゃいねーけどよぉ、暗殺チームには暗殺チームの正装があるんだよ。」
「詳細がわからない現時点で、ゴネるのはやめてちょうだい。アンタたちの本業だと決まったら、そんときに着替えなさい。そんな余裕があるんだったらね。」
ボックス車の助手席で黒いスーツを着たサーレーがシーラ・Eに苦情を言い、シーラ・Eが投げやりに返答した。
彼らは直近のパッショーネ所属のパンナコッタ・フーゴ失踪の足取りを皮切りに、いくつもの失踪事件被害者たちの足取りを追うべくパッショーネ首脳部から指示された地点へと赴いていた。今現在はシーラ・E所有の車に乗せられて、高速をひた走りベネツィアの一家失踪の手がかりを掴むべく一家の自宅へと足を運んでいた。
失踪事件はイタリアの各地にまたがり、今現在は捜査開始からおよそ一週間が経とうとしている。
彼らがシーラ・Eのスタンドを頼みに調査を行った結果判明したことは、失踪のその多くは屋外で行われていただろうということだった。事件の多くは自宅になんら手がかりが残っておらず、しかし一部は自宅に不審者が滞在していたことが判明している。
その差異は、見えざる敵がイタリア国内をこまめに移動する際に一般家庭に押し入り、なんらかの手法で家屋内住民全てを消し去ってそこに滞在していたことを示している。
現時点では敵の所在地が不明で、交通機関に規制をかけることも難しい。
やるのであれば、イタリア全土に極度の規制をかけなければ意味を成さないからである。
下手な行動を起こせば相手が追い詰められてどう出るかわからないし、見えない敵に市民がパニックを起こす可能性もある。
カタルーニャ生物兵器事件の首謀者と同一であるという明確な証拠がない現時点では、その手段を取るのは極めて難しい。
「………本当に厄介。」
「………ああ。」
シーラ・Eが、運転席で呟いて爪を噛んだ。調査をすればするほどに、敵の厄介さが浮き彫りになる。
いるのは間違いない。しかし敵はまるで姿を見せない。
誘拐の多くは野外で行われているのも関わらず、まるで目撃情報が上がってこない。
敵の狙いがまるで見えて来ず、次にどこに出現するか全く予測がつかない。
時間が経つほどに犠牲者数が増えるにも関わらず、いつカタルーニャ事件のような大規模な行動を起こすかわからないにも関わらず、地道な捜査を行うしかない。敵の捕捉にはまだ時間がかかる。なんらかの手段で隠蔽工作を行なっているのは間違い無く、その手段はスタンド能力である可能性が高い。
「ご苦労様です。」
車内から降りて身分証明書を提示したシーラ・Eに、年配の警官が敬礼した。
現時点で彼らに出来ることは、敵が滞在したと思われる家屋からシーラ・Eのスタンドで情報を得ることだけであった。
◼️◼️◼️
「リュカ、おはよう。」
イアンは十歳くらいの少年に、言葉をかけた。
「世話係がオリバーってのは、なんとかならねえのか?」
リュカと呼ばれた少年は、イアンに返答した。
「考えてみてほしい。我々のうち他に誰が、好んで幼児の世話をしようとする人間がいる?」
「それもそうだな。」
「ヴィネガー・ドッピオに君の世話を押し付けることも考えたが、あの男はそこそこ戦えるくせに普段は信じられないくらいマヌケだ。いっそ哀れに感じるほどにな。無駄に仕事を増やしてくれるなとオリバーに泣いて頼まれてしまったし、さすがに君の世話を任せる気にはなれなかった。」
「そうか。」
リュカは、どうでもよさそうに返答した。
リュカの外見は目付きが悪く頬は不健康に痩せこけ、髪は短く切り揃えてピアスを鼻と耳にいくつもつけている。
「タトゥーを入れてくれ。」
「オーケー。細かい作業は時間がかかるから、君が寝ている間にやっておくよ。ついでに吸血鬼化もやっておかねばならないし。」
手袋をしたイアンの執刀医がリュカに近寄り、白目に注射した。
墨がリュカの硝子体に流れ込み、眼球の白い部分が黒く染まった。
「前の俺は、やっぱり死んだのか?」
「多分ね。スタンドは、一人一体。今の君にスタンドがあるのなら、前の君は死んだということになる。」
「そうか。」
リュカは、生まれついてのスタンド使いだ。
リュカの背景にケミカル・ボム・マジックが出現した。
「ああ。確かに死んでるな。」
「………
リュカが、苛立ち混じりに舌打ちをした。
「………それで。どうすんだ?俺は勝手に行動していいのか?」
「もう少し待ってくれ。君がもう少し成長したら、行動を起こす。まあ、今回はさほど待たずに済むだろう。」
「具体案は?」
「ディアボロとドッピオ・ヴィネガーをローウェンにぶつける。首尾よく倒せればそれでよし。失敗しても、奴が弱ったところを君たちが襲えばいい。」
「君たち?」
リュカが首を傾げた。
研究室のドアが開き、リュカより年上の男が入室してきた。
「初めまして。僕の名は、チョコラータと申します。」
「おい、なんだこの気持ち悪りぃヤローは?」
チョコラータが、慇懃無礼に挨拶をした。
「名乗った通りだよ。先々君と行動を共にする可能性があるから、紹介した。まあ現時点ではどうするかはまだ考えていないけどね。」
「………了解した。」
リュカはイアンとの付き合いが長く、彼の扱いを心得ている。
どこに怒りの導火線があるかわからず、逆らったところで強制的に言うことを聞かされるのが目に見えている。口答えするだけ時間の無駄だ。
「僕の方は君の名前を聞かせてもらっていませんが?」
「………リュカだ。お前、あまりペチャクチャ喋りくんなよ。」
「無礼なガキですねぇ。」
リュカとチョコラータの間に一瞬一触即発の空気が流れたが、横にいるイアンの殺気が膨れ上がったことによって二人は引き下がった。
「………私にいらない手間を掛けさせるな。」
「オーケー、オーケー。いきなりそんなに怒らないでくださいよ。」
「………。」
リュカはチョコラータを一瞥し、踵を返した。
「どちらへ?」
「………。」
「出番が来るまでは、拘束しておとなしくしてもらうのだよ。そうしないと、今までの経験上彼は我慢しきれずに暴発するからね。」
「協調性のない奴だな。」
「君には協調性があるのかい?」
イアンがチョコラータに問いかけて、チョコラータは肩を竦めた。
◼️◼️◼️
「ここはすでに引き払ってあるわ。次の目的地はローマ近郊。それにしても………行動に一貫性がなく、そのせいで調査に非常に時間がかかる。急ぐわよ。」
六枚、三対の蝙蝠のような羽を背にしたブードゥー・チャイルドの進化形、ブードゥー・チャイルド・レクイエムは失踪したベネツィア一家の家捜しを念入りに行い、シーラ・Eの操るブードゥー・チャイルド・レクイエムは敵の次の所在地がローマ近郊であることを確信した。
家の床や壁から唇が浮かび上がり、それらは敵の行動を彼女に逐一報告する。家のソファーに敵の首魁と思しき人間の思考が残されており、それによると次の彼らの行動目的地はローマであるとのことであった。
「マジかよ。今からローマの方にトンボ帰りか。」
「しょうがないでしょう。………時間がかかってしょうがないけども。」
サーレーたち一行はネアポリスからローマ、ミラノと経由して、ベネツィアまで調査に訪れに来ていた。
今からローマに戻るのは、ひどく時間のロスになる。その前はシエナで調査を行なっており、非常に労力と時間をロスしている。
サーレーは頭を抱え、シーラ・Eも首を振った。
「さっさと行こうぜ。」
もうここには用がないとばかりに、彼らは入り口を出て警官にズッケェロが手を上げた。
「アンタが運転すんの?」
「ここまでお前に任せちまってるだろ?」
シーラ・Eはネアポリスからベネツィアまで高速を運転し続け、疲労を慮ったズッケェロが交代を申し出た。
「お前、運転中に余所見しそうで怖いんだよなぁ。」
モッタの半眼をよそに五人は車に乗り込んでいく。
ズッケェロが運転席に座り、サーレーが助手席に腰掛けた。
ホル・ホースは後部座席で呑気に拳銃をいじっている。
イアン・ベルモットは各地を転々と移動しながら、パッショーネの情報を探っている。
各地点でギャングと思しき人間も拉致しているのだが、パッショーネの構成員は忠誠厚く、敵対ギャングはパッショーネに対する恐怖から、拷問を行なってもなかなか情報が集まらずにいた。しかし、それもいつまでも続くものではない。
今現在イアンの元に入っている情報は、ミラノ市にパッショーネの幹部が多く在住しているということ。
そして彼らの背後にはサーレーたちが後を追って来ている。
赤いカビを操るチョコラータがミラノでパッショーネ幹部の乗っ取りを画策し、暗殺チームは見えない敵イアンを暗対である可能性が極めて高い危険な敵であると認識している。衝突の時はもう、さほど遠くない。
◼️◼️◼️
「フンフフン。」
調子外れの、気持ちの悪い鼻歌。
呑気に鼻歌を口ずさみながら、チョコラータはキャンバスを赤く赤く染めていく。
ここはチョコラータのお気に入りの芸術室。ここにあるデッサンのモデルは、その全てがチョコラータお手製である。
濃淡のみで描かれた抽象画は見るものに不安感を与え、意思を感じられない虚ろな複数の視線が鉄の匂いがする室内を彷徨った。
チョコラータの絵画のモデルは………。
「………ゲスが。」
「ハアーン?なんか文句あるんですか、凋落した元ボス様風情が?」
通りがかったディアボロが室内の惨状に嫌悪を表し、チョコラータは同類を蔑む愚者を挑発した。
「………。」
「僕とアナタは同じ立場。共に社会から弾かれ、人々のその嫌悪を超えた殺意を一身に受けた結果ここにいます。綺麗に見せて取り繕おうとしたところで、事実は変わりませんよ?クソがゲロをゴミ扱いにして、そこに何の意味がありますか?」
自身の最も蔑むゴミに同類扱いされたディアボロは頭に血が上りそうになったが、ここでこの男の挑発に乗ってもイアンの不興を買って共倒れに終わるだけだと理解している。
ディアボロのまぶたが怒りでピクピクと痙攣したが、理性で感情を自制した。
「ボス、いいんですか?こんなクソ野郎に言わせておいて?」
たまたま行動を共にしていたヴィネガー・ドッピオがディアボロに疑問を呈するも、ディアボロはそこまで短絡的ではなかった。
パンナコッタ・フーゴの情報を渡し、その身柄を渡した。あとはフランシス・ローウェンの暗殺さえ成功させれば、自由が待っている。
良くも悪くも、人は希望があるから先へ進んでいける。
今より良い未来が存在する可能性があるから、生きることに希望を持てる。
不確かで遵守する保証がなかったとしても、ディアボロはイアンとの契約を信じることしかできない。
ここでチョコラータの挑発に乗ってしまえば、あの狂人はそのことをどう考えるだろうか?怒りを買って契約履行確率が下がるのではなかろうか?
「小者ですね。他人の顔色を伺って。でもそれで正解です。現状僕たちはあの男の奴隷に過ぎない。そのことを認めてさえしまえば、許される範疇でそれなりに楽しめますよ?」
癪だが、チョコラータの発言を認めざるを得ない。
死人がこの世に繋ぎ止められていること自体が、望外の幸福としか言いようがなかった。
チョコラータの本質は、イアンに近いが同じではない。
イアンは、チョコラータよりも己が生に執着しない。
作り物のチョコラータは生に執着し価値を見出し、生身のイアンは自身の生に固執しない。その歪さよ。
「さて。そろそろお前たちの出番、第二幕の開演時間だ。いつまでも逃げ続けられるものではない。いくらオリバーが有能だろうと、敵はそろそろ私たちの居場所を突き止めてくるだろう。」
「ッッッ!!!」
時限爆弾の導火線に、猶予がなくなった。
パッショーネの情報は、未だ曖昧で収集しきれていない。
どの程度戦力を保有し、どういった配置を行なっているかはまるでわからない。
わかっているのはディアボロとチョコラータが直接対決した戦力だけ。
しかし、その曖昧さを含めて楽しもうか?
ヴィネガー・ドッピオは背後から現れた男に一歩後ずさり、ディアボロはもともと不機嫌な表情をなお歪めた。
イアン・ベルモットはディアボロにとって、チョコラータ以上に不可解で理解不能な存在であった。
「僕の出番は?」
「ミラノで思う存分暴れろ。お前たちはフランシス・ローウェンを仕留めてこい。」
イアン・ベルモットが現れ凶悪な笑みを浮かべ、チョコラータはお祭りの予感に昂揚した。
ディアボロとヴィネガー・ドッピオにフランス行きの指示を出し、チョコラータにはミラノでの大量虐殺の指示を出した。
「あなたの指示通りに動けば、きちんと僕の尻拭いもしてくれるんですよね?」
「君の期待を裏切るつもりはない。私だって信頼できない仲間より、きちんと管理できて指示通りに動く部下の方を望んでいる。君が私の言う通りに動くのならば、私が協力を惜しむことはないだろう。」
イアンは、言葉とは裏腹に思考する。
言うことを聞いて役に立つ手駒は、非常に価値がある。
しかし、手駒が言うことを聞かずに予想外の結末を迎えるのもきっと楽しい。
果たして、私は本心でどちらを望んでいるのだろうか?
………チョコラータに、オリバーほどの価値は無い。
「………多分。」
「ハア?」
イアンは小声でボソリと付け足して、チョコラータは意味不明な返答に聞き返した。
結局のところイアンの恐ろしさは、展開がどう転んでいっても、どんな不条理な結果であったとしても、イアンに敗北感を与えることができないというところにある。敗北という事実をイアンに与えることが出来たとしても、当のイアン本人がそれに喜びに感じてしまう気狂い。
勝利は甘美で素晴らしく価値のあるものだが、敗北は敗北で楽しく意味があるものなのだから。
まるで見当外れで何もなせずに犬死しても、彼は自分の不幸と滑稽さを喜劇として笑い飛ばせる。
過程が目的であるためにその計画は恐ろしく柔軟性が高く、予定外想定外の事態に手を叩いて喜ぶ有様。
狂人の狂人たる所以は、社会と相容れないその価値観にある。
その生に意味もなく価値もなく目的もなく、他人に興味関心を持たず、ただひたすらに人生の過程を己にとって素晴らしいものにすることだけ。それだけを突き詰めている。
普通の生命にとっては至上の価値があるはずの己が生でさえも、劇をより輝かせる使い潰しの舞台装置の一つに過ぎない。
自身の狂態を指差して嘲笑おう。
空虚な生と罵ればいい。気狂いと馬鹿にすればいい。
理解不能で当然。反吐がでる。私の生は私だけのもので、他人に共感されたり評価される必要は無い!
人は一人一人異なり、それぞれの価値観に基づいて生きているのだから。
まだ見ぬ敵よ!死の匂いを嗅いで追跡する猟犬たちよ!お前たちは狂気の夜を越えられるか?
さあ、