噛ませ犬のクラフトワーク 作:刺身798円
【刺創は背面を通り、肝臓まで到達している。傷跡を消毒、のちに輸血。ここが軍事基地で助かったな。輸血用の血液はたくさんある。臓器を縫合のちに傷跡も縫合。安静が必要な期間は推定で一週間。全くイアン、君には呆れるよ。私には全く理解できない。】
赤黒い手術室で、執刀医が手術器具を手にして傷跡を縫合している。
手術台の上にはイアン・ベルモットがうつ伏せになり、マネキンに刺された背中の傷の治療を行っていた。
「理解出来ないってどういうことだい?スタンドである君は私なのでは?」
【どうだろうね。私には、君のことがまるで理解出来ない。あえて戦いを長引かせて傷を負うのも意味不明だし、麻酔なしで手術を行うのも理解出来ないよ。君は痛くないのかい?苦しくはないのかい?】
「痛いに決まっているだろう。だが…。」
【だが?】
執刀医がイアンの手術を終わらせて、首をひねった。
「麻酔は薬物だ。私に麻酔を投与して、スタンドが弱体化したらどうするんだ?」
【弱体化するのかい?】
「君のことだろう。君にはわからないのかい?」
イアンは手術台を降りて、白衣に袖を通した。
【わからないよ。私は君の影響を色濃く受けている。君がそう信じ込めば私は弱体化するだろうし、君が余計なことを考えなければ特に弱体化することもないんじゃないのか?】
執刀医は、イアンのことがイマイチ理解出来ない。彼はイアンを客観的な視点で眺めており、イアンは他者が己の主張を省みる貴重な鏡であることを理解している。理解してなおも、破滅へと突き進む。
薬物を投与してスタンドが弱体化するのは現実的に起こりうることではあるが、それは本来ならばあくまでも中毒症状を起こすほど投与した場合である。少量服用したところで、スタンドが簡単に弱体化することはないはずだ。
「私は信じているんだよ。苦しみや痛みが、私を強くする。私が痛みに屈してしまえば、きっと私のスタンドである君は弱くなる。だからどれだけ痛くとも、麻酔を使用するつもりはないよ。」
【言っていることが全く理解出来ないわけではないが………。】
それでも普通は、麻酔無しで縫合手術を執り行うのは耐え難い苦痛であるはずなのだ。
執刀医は、イアンにそこまでする理由があるとは思えなかった。
「戦いはギリギリであるほどに、最後に何がモノを言うかわからない。せっかく下準備を入念にして一世一代の大舞台を演じるのだから、場をシラケさせる可能性がある要素は極力排除しておくべきだろう?」
【そう言われれば、そうなのかもしれないね。】
「そう遠からず、パッショーネの暗殺チーム、私の運命の敵がここに襲撃してくる。」
イアンは手術で凝り固まった体を、捩ってほぐした。
【手術したばかりなのだから、あまり体を動かさないでくれ。傷が開いてしまう。】
「その時はまた傷を縫えばいいさ。それはともかく、進化した新しいスタンドに体を慣らしておかないと、すぐにでも運命の夜は訪れる。劇の幕引き、最終章。それは私にどう言った感慨を齎すのか?その時になって、ボスである私が敵である彼らに情けない姿は見せられないだろ?」
【君は普通に生きることは出来なかったのかい?】
「………わからないんだ。わからないよ。オリバーには結婚して子供がいる。妻とは死に別れたそうだが、彼は子供を愛し、以前は仕事を真面目にこなしていた。」
【君のせいで、彼は今は不幸だろうが。】
イアンは肩をすくめた。
「それも含めて、彼の選択だよ。私は彼に提案し、彼は私に付き従うことに了承した。」
【オリバーは君に子供を人質に取られていると誤解しているだろう?君が手術の際に、なんか仕掛けを施したんじゃあないかって。】
執刀医のネジの瞳は、イアンには非難げに見えた。
「私は手術の際、彼の息子に何も変なことをしていない。あの男にタダで手術を受けたければ、私の忠実な手駒になれと言っただけだ。彼が私のことを信用せずに裏切れないのは、彼自身の問題だ。」
【君に信頼がないのは、君の日頃の言動によるものだろう。君は彼がそう考えるだろうと、内心ではわかっていて切り出した。少しずるい気もするが、まあいいさ。それで?】
執刀医は、ネジの瞳でじっとりとイアン・ベルモットを見つめた。
「ずっと理解出来ないんだよ。普通の幸せって何だろう?………我慢してみたこともあったけど、ダメだった。つまらないんだ。常人が停滞を喜ぶその感性が、私には全く理解出来ない。私は昔から人の言う通りに行動して、幸福を感じ取れる瞬間がこれっぽっちもなかった。私の幸福はきっと、誰かの犠牲無しには訪れない。誰かを犠牲にするんだったら、自分の命も何もかもを混沌のテーブルに放り出して本気で楽しむしかないだろう?」
【それは我が儘な子供の理屈だよ。君の精神が未熟なんだ。………君も不幸だな。だが同情はしない。同情するには、君の行為は邪悪すぎた。私が言うのもなんだが、君は地獄に行くことさえも出来ないだろうね。どこにも向かえないし、死んで何も残らない。造物主の真似事なんざ、人間の行いにしては不遜が過ぎている。】
「そんなもの望んでいないさ。生きているうちから死後のことを考えるなんざ、愚かがすぎて笑わせる。生きている間、それが全てだ。私には誰かの同情はいらないし、誰の理解も必要無い。願いが矛盾する時、強者の願いしか叶わない。私は幸運だ。このイカれた私でも、今までずっと我慢してきたことによって幸福になれるチャンスが訪れたのだから。………私は戦って勝利して、私の幸福をつかみ取るよ。」
【………勝利したとしても、君に幸福は訪れないよ。】
「何か言ったかい?」
【………何も言っていないさ。】
煉獄は、爆発的な速度で世界を侵食していく。見つめ合うネジの瞳も狂人の瞳も、虚ろに光を宿さない。
決まりきった終幕、イアン・ベルモットは狂人であるが、同時に誰よりも世界を愛している。倒錯した愛情、彼が命懸けで舞台を開催するからには、世界は何物よりも素晴らしいものでなければならない。そこに命をかける価値がなければならないのだ。
願いが矛盾した時、叶うのは強いほうである。
しかしそれには、極稀に例外が存在する。その例外とは、願いそのものが破綻している場合の話である。
勝者は誰?願いは叶う?終劇に納得できる?
彼は夢を見ている。誰も見ない誰も望まない、彼だけの狂った夢を。
周囲を巻き込みながら、傍迷惑な夢想家の幸せ探しの旅は終わりへと向かっていく。
◼️◼️◼️
「フランスの軍事基地が乗っ取られただと?」
フランスとの国境に程近い田舎町、そこでは強面の軍団が綺麗に整列していた。
そこは異様な雰囲気を醸しており、恐怖によって一般人は近寄れない。
グイード・ミスタは手元に目をやり、上がってきた報告に声を荒げた。
「馬鹿な!奴らは一体何を目的にしてやがるッッッ!!!チョコラータの情報によれば、奴らは多くても全員合わせて十人に満たない。そんな寡兵でリスクを犯して軍事基地を乗っ取ったところで、戦争を起こせるわけでもない。籠城して勝てるつもりか?」
軍事基地であれば、防衛のために強固な防備が敷かれている。
少人数で軍事基地を乗っ取ったイカレポンチ、籠城したところで寡兵で勝てるわけもなく、専門の知識無しに軍備を動かすことが可能だとも思えない。
「アルバロ・モッタを呼べ!!!」
パッショーネ情報部所属、暗殺チーム預かりの人員アルバロ・モッタは、今現在グイード・ミスタの配属下に置かれていた。
パッショーネの暗殺チームが行動を起こすと同時に、敵本拠の前面で陽動作戦を起こす。グイード・ミスタはその戦闘部隊の指揮官であり、群体を持つスタンド使いであるアルバロ・モッタは暗殺チームが行動を起こすタイミングを監視している。
「どうしました?ミスタ副長?」
「フランスと連携をとる。お前は特使として、向こうに向かえ。」
「連携?」
モッタは意味がわからずに、首を傾げた。
「奴ら、よりによって軍事施設を乗っ取りやがった。現場はフランスとイタリアの国境沿い。フランスのチームと共同作戦を組む。」
作戦の細部は詰めていない。不慮の事態が起こった時、融通が効かないから。
作戦の概要は、暗殺チームがマリオ・ズッケェロの能力で敵地に潜入したら、戦闘部隊が攻撃を仕掛けると言う大雑把なもの。
敵にスタンドを探知できるタイプがいるかもしれない。オートで発動するスタンド能力者がいるかもしれない。無差別に能力を発動させるスタンド能力者がいるかもしれない。不慮の事態は、いくらでも起こりうる。
変化する戦況に対応するため、最重要目的であるイアン・ベルモット暗殺の任務を負った暗殺チームを、グイード・ミスタが俯瞰して柔軟にフォローする。
数は多ければ多いほうがいい。イタリア、パッショーネの戦闘部隊とフランス、ラ・レヴォリュシオンの戦闘部隊は協力し、パッショーネの暗殺チームが暗対を速やかに排除することを至上目的とする。戦闘部隊は敵地の前で派手に陽動を行い、建物内部の敵頭数を減らし、敵の注意を集める。首魁の討伐が成功した場合は、残党処理にあたる。
暗殺に失敗した場合は、誘導ミサイルを撃ち込んで拠点もろとも敵を消し飛ばす。すでにジョルノを筆頭とした幹部連、そして友好国フランスには暗黙の了解が取れている。いざとなったらパッショーネが全て泥をかぶり、危険生物をこの世から吹き飛ばす。敵は死者を蘇らせ、すでに都合一万人超の死者を出し、軍事基地を乗っ取っている。責任の所在などと娑婆いことを言える余裕のある敵ではない。パッショーネ主導で、イタリア保有の誘導ミサイルの使用を強行する。
「戦闘部隊一班、二班、三班、準備はいいか?」
「一班、問題ありません。」
「二班、問題ありません。」
「三班、問題ありません。」
武装した屈強な兵士たち、その数およそ三十人。少ないようにも思えるかもしれないが、たった十人に当てるには破格の戦力である。
さらに言ってしまえば、敵にまだ大量虐殺のスタンドが存在するという懸念がまだ消せていない。それゆえにこの三十人は、死を許容した死兵である。どう判断しても裏目が存在するがゆえに、戦闘部隊は志願制であり、どれだけ強くとも士気が低い人間は連れていけない。彼らは持たざる者でも受け継いだ者でも無く、奪われた者たちである。ミラノの惨劇で親、兄弟、恋人、友人などを殺されて憤り立ち上がった義勇兵であり、イタリアのために死ねる人材なのである。
「一班、作戦行動を復唱しろ。」
「パッショーネ戦闘部隊、我々はフランスとの国境にある軍事基地を襲撃しますッ!行動目的は陽動、パッショーネ暗殺チームのサポートのために、敵の目を引きつけますッ!」
「二班、我々がとるべき行動を復唱しろ。」
「敵性行動をとる人間が現れた場合、それが何者であろうとも我々はその人間を無慈悲に殺害することを目標としますッ!」
「三班、我々の作戦目的を復唱しろ。」
「イタリア、ひいてはヨーロッパに仇為そうとする敵を駆逐しますッ!我々はイタリアの尖兵であり、ミラノの悲劇および友国スペインカタルーニャ州の惨劇の元凶である敵から国家を守護するために行動を起こしますッ!」
「ベネ!!!」
ミスタの配下はミスタの問答に滑らかに返答し、ミスタはその答えに満足げに頷いた。
◼️◼️◼️
「お前はあの男に逆らおうとか思わないのか?」
「ヘイ、クレイジーレディ………一度しか言わない。つまらないことを考えるのはやめておいたほうがいい。」
「なぜだ!あいつの能力だって完璧ではないはずだ!」
死体が転がる軍事基地の食堂で、ベロニカはリュカに訴えた。
椅子に腰かけたリュカは煩わしそうな表情をして、手を払ってベロニカを軽くあしらった。
「あのオリバーとかいう男も手を組めば、私たちでイアンを黙らせることが出来るんじゃないか!」
「………死人は口をきかない。今ここに俺たちがこうしていることは、お前が考えているよりもはるかに僥倖だ。俺たちはとっくに終わっていて、ここにいる俺たちはあの男の妄想に過ぎない。いつまた消えてもおかしくないんだから、益にならないことを考えるよりも望みがあるならそっちを優先させたほうがいい。」
「ならばあの男に黙って従うのか!」
「ならどうするんだ?あの男のスタンドはお前が考えているよりも、圧倒的にやばいぞ。欲しい人間はいくらでも金を出すスタンド能力だ。あの男の不興を買わないようにコソコソしながら、自分のやりたい事を探す。それが俺たちに許されたベストだ。」
ベロニカは、かつて部下だったはずのイアンがスタンド使いとして高みに登ったことが納得しきれない。かつては自分より格下の存在だったはずなのだ。
リュカは無表情でそんなベロニカを諭した。淡白なリュカはイアンに別に恨みや嫉みはなく、自分の目的を達せられるのならばなんでもよかった。
「ザッツライト!君はよくわかっているね。」
食堂の扉が開き、一人の男が拍手をしながら入室した。
男は茶色いカーディガンを羽織ったカジュアルな服装をしており、黒い髪を後ろに縛っている。若干くたびれた雰囲気をしており、リュカの前の席の椅子を引いてだらしなく腰掛けた。
「ヘイ、何だてめえは?」
「俺の名前はバジル・ベルモット。イアンの弟だよ。」
バジル・ベルモット。
イアン・ベルモットの弟であり、スイスの電化製品販売店に勤務していた。
その正体は、イアンのスタンドによる原初の狂気の産物。創られていつの間にか社会に受け入れられた誰か。
彼は兄のイアンほど行動がぶっ飛んでいるわけではないが、刹那的な享楽主義者の傾向がある。スタンドを使用し、幼い頃からイアンの影響を受けて育った。その結果の享楽主義者と言っていい。建設的に物事を進めても、イアンの機嫌一つでたやすくぶち壊しにされてしまうのである。
兄弟は昔から互いに気が向いた時だけ連絡を取り合っており、今回のイアンの国際指名手配を受けてイアンから連絡をもらったバジルは逃げ出してイアンと合流した。
「イアンに何か言っても無駄だよ。本当に大切なことはどうせ聞きゃあしない。そんな無意味なことに時間を割くよりも、自分が楽しい事をした方がまだ建設的だろ?」
「てめえは何のためにここに来た!」
リュカが突然現れた男を睨みつけた。
「やめてくれ。俺も困ってるんだよ。普通に暮らしてたらイアンからいきなり国際指名手配の報告を受けて、これはマズイことになるって慌てて逃げてきたんだ。」
イアンの両親はイアンの不興を買って、すでに失踪している。
弟のバジルは、イアンの不興を買うことは危険だという事を理解して、今までは適度な距離間で付き合ってきた。
それがイアンがこんな事件を起こし、弟のバジルにも捜査の手が及ぶ可能性は極めて高い。監視生活などまっぴらごめんだし、生活に制限がかかるのも勘弁願いたい。重大犯罪者の血縁であるなど、社会の中のヒエラルキーを考えれば絶望的だ。それならばいっそのこと手を組んで楽しんでしまった方がいい。
だがそれは、あくまでもバジルの建前だ。
彼の心の中は、彼しか知らない。
「もうほんっとーに災難だよ。職場にはいられないし、女には逃げられるし。いつかこうなるだろうってわかってたけど、どうにもならない。イアンに関わってしまったのが不幸だとしか言いようがない。」
リュカとベロニカは何とも言えないような目付きでバジルと名乗るくたびれた男に目をやった。
「というわけで美しいレディ、この不幸な俺のためにお付き合いをしていただけませんか?」
「死ね、ゴミが!」
「これは手厳しい。」
ベロニカに罵られたバジルはたいして興味もなさそうな表情で、手を上げて降参のポーズをとった。
「………ここはじきに戦場になる。お前は戦えるのか?」
「ガチガチの肉弾戦はムリ。サポートくらいなら。」
バジルが人差し指を立てると、指先から蝶が空中へと現れた。
黒いカラスアゲハの鱗粉が空間に薄く糸を引き、無風の室内をふらりふらりと揺らめき踊った。
「ヴォイド・バタフライ。これが俺のスタンドだ。」
「能力を教えろ。戦力になるのならそれを考慮して戦術を組む。」
リュカのその言葉にバジルは笑い、摩天の蝶の鱗粉が勢いよく宙を舞った。
「これはッッッ!!!」
「まあこれは能力の具体例の一つかな。」
気がつくとリュカの眼前には二人のイアン・ベルモットがいた。
片方は笑い、片方は臨戦態勢を取って構えている。蝶が宙に溶けて消えると同時に、二人のイアンはバジル・ベルモットとベロニカ・ヨーグマンに戻った。
「俺のスタンドはイアンの真逆のようなものだよ。イアンが自分にとって都合のいいことが起こるのに対し、俺のスタンドは相手に少しだけ都合の悪いことを引き起こす。」
「少しだけ?俺は絶望を感じたが?」
イアンが二人もいるなど、夢にも考えたくない。ベロニカも息が上がり、顔が青くなっていた。
リュカはバジルのスタンドを、幻覚能力だろうかと推察した。
「スタンド自体に戦闘力はないし、俺は一人で戦えるタイプではない。よろしく頼むよ。」
「どこに行ったかと思えば、バジル!ここにいたのか!」
「本物が来ちまったか………。」
イアンが勢いよく食堂の扉を開き、リュカが来てしまったことにため息をついた。
用が特にない時まで、イアンの顔は見たくない。
「イアン、お前のせいで、俺は散々だぜ。女にゃあ逃げられるし、真っ当に生きられなくなるしでよぉ。責任取れよ。」
「はっはっは。嘘をつくな。お前は祭りを楽しみにしてきたんだろうが!相変わらず人に責任をなすり付ける悪癖は治っていない。」
「おいおい、お前に罪をなすりつけられるのは、お前の血縁であることの唯一の利点だろうが。それがなくなってしまえばお前の兄弟に何一ついいことはなくなるぞ?」
イアンはバジルの肩を抱いて、朗らかに笑った。
リュカはイアンとバジルのその会話を横で聞いて、イアンが二人に増えたように錯覚して頭痛がした。
「こいつも来たのか………。」
「おお、オリバー。久しぶりだな。元気そうで何よりだ。」
「触んな!」
イアンの後ろをついてオリバーが食堂に入室し、馴れ馴れしいバジルにオリバーは嫌な顔をした。
バジルは両手を上げて抱きつく仕草をし、オリバーはそれを振り払った。
「なんだ、連れないじゃないか。」
「………お前のことは大嫌いだ。」
もともとオリバーがイアンの仲間にいるのも、イアンとの渡りをバジルがつけたからである。
スイスの失踪事件を追う警官であったオリバーの弱みに付け込んだのが、イアンの弟バジル・ベルモットだった。オリバーにとってバジルは、恩人でありながらも不幸を招く黒い蝶だった。
人間関係を少し整理しよう。
イアンとバジルは兄弟。仲は傍目で見る限り良好。オリバーはイアンの手下で、イアンはオリバーに対して負い目を感じている。オリバーはバジルを嫌っており、バジルはオリバーに興味が薄く特に思うところはない。リュカとベロニカは力関係をイアンを頂点にバジル、オリバーの順番だと考えている。しかし実際は、人間関係はそう単純ではない。
それも全ては、もともとイアンにとって使い捨ての部下だったはずのオリバー・トレイルという人材が、予想を遥かに上回って使える手駒だったことに端を欲する。オリバーがイアンの予想よりもずっと有能で長い付き合いになってしまったため、イアンにオリバーに対する信用が築かれてしまったのである。ベロニカの部下であった時分からイアンはオリバーに助けられ続け、苦境にあって命を共にして逃げてきた。オリバーは有能で、こと逃走に関しては超一流のスタンド使いだった。
ゆえに普段は決して口にしないが、イアンの中でオリバーの評価は恐ろしく高い。その分、付き合いの短い他の人間はオリバーの真価を正確に把握していないために普段の言動からその評価が低くなる。リュカとベロニカは実際に、オリバーのことをただの雑用係だと考えている。
それが彼らの人間関係の妙であった。
イアンとリュカは自身の楽しみを目的とし、ベロニカは目的を決めかねている。バジルの目的は不明。オリバーは我が子の幸福を望んでおり、最後に未だ煉獄で眠る一人はジョースター一族への逆襲を心待ちにしている。
イアンの狂者の煉獄は10m×10m、一万分の一㎢の手術室を基本とし、一日ごとに倍々にその面積を広げていく。
一万分の一㎢を倍々にし続け、それが地球の平面積であるおよそ五億㎢を超えた時に、世界の檻であるイアンの狂者の煉獄が完成する。
その数字が一万分の一に二の四十二乗〜四十三乗を掛けた数字であり、ゆえに煉獄の完成はイアンの能力が発動してから四十日を少し超えた日付ということになる。イアンの能力が発動してすでにおよそ一週間、残り猶予は三十五日程度。サーレーもミスタも知らないことであるが、残り猶予期間を過ぎてしまえば、そこにはイアンの妄想した絶望の世界が待ち構えている。
そしてイアンの能力の詳細を知らないパッショーネよりも、精神的に追い詰められているのはむしろオリバーのはずである。
オリバーは自身の子が、イアンに手術された際になんらかの小細工をされたと考えている。その仕掛けはリュカやベロニカのようにイアンに創造されたものであると考えており、イアンが死ねば我が子も死ぬ可能性が高いとそう判断している。なぜならそうでなければ、イアンはオリバーを抑止する手札を持たないから。オリバーの息子は、オリバーをイアンの元に留め続ける楔である必要があるはずなのだ。
その一方で煉獄が完成してしまえば、イアンを除いて生き残るのは一人。
結果としてオリバーは、煉獄が完成した場合は自身が勝利して息子に最後の一人の権利を譲り、煉獄が失敗した場合は少しでも我が子が長生きできるようイアンの命を守る、それが目標となる。どの道を選んでも荊まみれの地獄の道行きであり、成就する確率は恐ろしく低い。
それでも愛は金で買えない。病床のオリバーの息子は彼にとって全てであり、成否の如何を問わずに、オリバーは死に物狂いでただひたすら前に進む事を決めたのである。
しかし実際はイアンはオリバーの息子に何も仕掛けを施してはおらず、イアンとオリバーの間のそこになぜ齟齬が生まれたかといえば単純にイアンの普段の邪悪な行いのせいである。信用がゼロなのだ。
だが実際は、イアンは契約を守る。
例えばディアボロとの契約は三つ、そのうちの一つであるローウェン暗殺を完遂させられなかったためにディアボロは自由を獲得できなかった。そのあとディアボロは煉獄で敗退し復活に失敗した。そこまで責任は持てない。義理はない。
例えばチョコラータとの契約、チョコラータがイアンの指示を聞く限り、イアンはチョコラータを庇護する。しかしそれはあくまでもイアンとの間の契約であり、その契約とオリバーは無関係である。オリバーはイアンにとってただの手下ではなく代えの効かない有能な配下であり、オリバーの意見はイアンにとって尊重されるべきものである。チョコラータはそこを見誤った。
詭弁のようでもあるが、それはイアンの遊びの際のルールであり、遊びはルールを守るから楽しいのである。それがイアンの美学だ。
イアンはオリバーに手下になれば、息子の手術を無料で請け負うと契約したのである。それが契約のルールの全てであり、イアンは他のことはしていない。しかしオリバーは、イアンが契約に盛り込まなかったところで何か仕込んでいるとそう考えている。イアンはあえて黙して語らないことで、オリバーの疑念をうまく利用している。それはイアンの弱みであり、負い目であり、オリバーに逃げられるか裏切られるかすれば致命的であるというイアンの決定的な弱点だった。
そして最後に、イアンの能力である狂者の煉獄。
この能力はイアンの意思を組んで物事を動かし、それらの要素が絡まって物事は推移していく。
「お前をイアンに紹介したのは誰だったかな?お前は俺に借りがあると思ったのだが?」
「………借りがあっても嫌いなもんは嫌いだ。」
「イアンにも同じことが言えるかい?」
いやらしく笑うバジルを無視して、オリバーは食堂の厨房に入った。
「おいおい、まさかお前が料理するのか?死体が転がるここで?」
「バジル、そう思うのならお前が死体を片付けろ。」
「イアン………?」
バジルはイアンの声の微妙なトーンに疑問を感じたが、口を閉ざした。
イアンの声のトーンが変わるのは危険な兆候だ。バジルはそれを長い付き合いで知っている。沈黙が吉である。
「バジルが片付けをしないなら、リュカとベロニカで片付けをしろ。」
「あ?ふざけんな!なぜ私が………。」
途端にイアンの表情は不機嫌になり、さすがのベロニカも空気を察して押し黙った。
「………ベロニカ、片付けるぞ。」
リュカは黙って室内に横たわる死体を担いで、基地の備品である台車に乗せていく。
ベロニカも不満げな表情をしてそれに倣った。
「ふざけんな。なぜ私が………。」
「ぐちぐち言うな。諦めるところは諦めないと、また物言わぬ肉塊に逆戻りだ。むしろこの程度の雑用で済んだこと喜んだほうがいい。」
彼らはヨーロッパの裏社会で鳴らした猛者であるが、死人となった今ではその威光は通用しない。
リュカはそれをよく理解していた。
ベロニカは理解していない。だからリュカは彼女が嫌いなのだ。つまらない手間を惜しんで命を落としては、悔やんでも悔やみきれない。ただでさえ現在の自分の足場は不安定極まりなく、イアンの機嫌一つでたやすく崩壊する。命に掛かる税金だと思えば、この程度の雑用くらいなら安いものだ。(リュカは生きているうちに税金を払った覚えが無いが。)ベロニカがイアンの不興を買えば、リュカにそのとばっちりがこないとも限らない。
裏にその名を轟かしたリュカ・マルカ・ウォルコットであってさえも、命は惜しいのである。
イアンはリュカやベロニカには大して感傷を抱いていない。チョコラータやディアボロにもなんの価値も見出していなかった。ただ駒として使えるから使っていただけだ。バジルのことも実は比較的どうでもいいと考えている。
リュカはそのことをよく理解しており、ベロニカは理解していなかった。
ただリュカにさえ理解の範疇外だったのは、実はオリバーがイアンにとって稀有な例外であるということだけであった。
◼️◼️◼️
名前
バジル・ベルモット
スタンド
ヴォイド・バタフライ
概要
イアンの弟。宙を舞う、不幸を呼ぶカラスアゲハのスタンド使い。その鱗粉を吸い込んだ敵は、例えば誰かを見間違えたり、例えば距離感を見誤ったり、例えば禁断症状や中毒症状を引き起こしたり、何かと都合の悪い事態を引き起こす。スタンドの直接戦闘能力は皆無に等しい。