噛ませ犬のクラフトワーク 作:刺身798円
状況は、好転しない。
「………準備は出来たか?」
「ええ。」
可能な限りの情報は掻き集めた。
裏社会の捨て駒といえど、当然の話無為に死なせるわけにはいかない。損耗率を下げに下げて、不夜の日々を超えて戦略、戦術を組み上げる。
帰ってきた配下から情報を根掘り葉掘り聞き出し、どんなに関係なさそうな細かなことも聞き逃さない。
しつこく幾度も幾度も同じことを聞き返し、情報の精度を上げる。それはまるで、刑事のような作業だった。
「………すまないな。」
「いえ、気にしないで下さい。」
サーレーは気楽に笑っている。
しかしその表情を見ても、やはりどうやっても不安が消せない。不安要素だらけ、わからないことだらけ。
幾度も同じ思考道を行ったり来たりして、迷い、足掻き、やがて刻限が来る。
グイード・ミスタは知った。こう言う時、馬鹿になれる人間は強い。
もちろんそれが全てうまくいくことばかりではない。むしろマイナスの面も大きい。
しかしそれは、本番で普段通りのパフォーマンスを発揮するための必要条件だ。
本当は、人間の内面はそんなに単純ではない。
実際のサーレーの内面では、怯え、諦観、楽観、悲観、さまざまな感情が綯い交ぜになって去来している。
しかしどうやっても結局は実力で勝利する以外に無く、諦観に近い楽観だった。
人はそれを、開き直りと呼ぶ。
もともと気楽な性質であったミスタは、サーレー同様にあまり物事を深く考えない人間だった。しかしそれが、組織内で地位を得て、部下も増え、やがてそれでは許されなくなる時が来る。
以前の自分がどうあったか忘れた頃に起きた凶悪事件。ミスタは眠気を無視して悩み、頭の血管が切れるかと思うほどに迷い、結局時間切れで事件に対する納得のいく戦術を組み上げることができなかった。それは、解答の存在しない命題だったのだ。
「適材適所………か。」
サーレーを見ていると、以前の頭が空っぽな自分を思い出す。
何も考えず、何も背負わず、気楽に生きていた日々。決して今の日常に不満があるわけではない。
だがこう言う時、つまりは有事、物事は上手く行くと根拠無く気楽に考えることができるのは一つの技能なのだということを、ミスタは痛感した。ミスタはそれを失った代わりに、組織内での地位と金、そして信頼を手にしたのである。
きっと人生とは、時間と労力と能力の切り売りなのだろう。
ミスタはそこまで考えて、サーレーにつられて笑った。
泣いても笑っても最終決戦。勝てば官軍、負ければ世界最悪の戦犯。割りに合わない。
ミスタの前にいるサーレーとマリオ・ズッケェロは本番用の正装として、黒いコートを着てマフラーを巻き、ボルサリーノ帽をかぶっている。
彼らの斜め後ろにはアメリカからの友軍、空条徐倫、スペインに貸与した実力者、ウェザー・リポート、そして負傷から復帰したフランスの雄、フランシス・ローウェンが控えている。
それは敵の人数を勘案して、厳選に厳選を重ねた人員だった。
ミスタは敵のボスについて判明したことをまとめた。
人間を生み出せるのは、あと一人きり。
敵の操る炎は浄化の炎であり、怨念の類の一切が無効。
赤黒い世界は、恐らくは敵のボスの望むように動いている。
執刀医という不気味な機械は、どうやら審判らしい。
敵は何らかのルールに基づいて行動している。
敵の操る炎は非常に強力で、直撃を喰らうと生還はほぼ不可能。
敵のボスの能力の底が見えない。
以上の情報で、一体どれだけの戦術を組み上げられるというのか?
結果、敵のボスの意向を無碍にするなという助言が精一杯で、本番をサーレーに丸投げするハメになってしまった。
「………任せたぜ。」
自分が情けなくもある。
しかし彼に任せるのが適任で、恐らくは彼以外に任せられる人材は存在しない。
敵の首謀者はなぜか、彼に執着を見せている。彼は幾度か敵首謀者と渡り合い、好敵手だと認められている。
彼が死んで帰って来なかったら、ミスタの地位もパッショーネの立場も、何もかもが台無しだ。
しかしもしも敵が世界を終わらせるというのが事実であれば、そういったもの一切合切が無価値になる。
思い悩む価値も無い。
問題が複雑に多岐化するにつれて、人はより深く思い悩む。
先を見据えて、詰め将棋のように相手の思考の先を行こうと苦慮する。
しかしその本質は、先のことを考えすぎるよりも目の前の問題の解決だけを考え続けることが最も良策である場合も多い。
ミスタはあらゆるしがらみをあえて考えないようにして、ひたすらに目の前の部下の生還を願った。
そしてそれは、唯一の問題解決策だった。
◼️◼️◼️
『これが最後のチャンスだ。』
「一体何が?」
ベロニカ・ヨーグマンは訝しげにリュカに問いかけた。
それに対するリュカの返答は、ノートへの筆談だった。
『俺たちは、戦いが終われば処分される。』
リュカ・マルカ・ウォルコットは下顎が落ち、舌も消え、まともに会話できない状態だった。
「処分?あの男は私たちは勝てば生き残れると………?」
イアン・ベルモットは彼らに生き残れる可能性が皆無であることを示唆していたが、イアンの能力をリュカほどに把握していないベロニカは、その辺りのことを完璧には理解していなかった。
『あいつが直接俺たちを殺すわけではない。だがあいつの妄想が現実になるこの世界で、あいつは俺たちが勝ち残るなど微塵も考えていない。結果俺たちは、絶対に生き残ることはない。』
ベロニカはその文字列を見てしばし思考し、納得した。
「おい、じゃあ私たちは戦うだけ損じゃないか?」
勝っても負けても生き残る可能性がゼロならば、必死に戦う意味が無い。
それだったら逃げてしまった方が得では無いかと、ベロニカはリュカに問いかけた。
『だからここが最後のチャンスなんだ。この戦いで俺たちが敵に劇的な勝利を収めれば、あの男はひょっとしたらこの後の戦いでも俺たちが勝ち残るかもしれないと考えを改める可能性が出てくる。』
マスクの下で、リュカはわずかに笑った。
前々から考えていた唯一の手段、唯一の方法。
幾度もの輪廻の果てに最後に得た、最大の機会。
「だがあの男は自分の戦いに夢中で、私たちの戦いになど興味を持たないのではないか?」
リュカは人差し指を振って、ノートに文字を付け加えた。
『この世界は、あの男にとって都合のいいように自動で更新されていく。あの男が勝ち残る可能性が皆無だと考えていた俺たちが勝ち残れば、それはそれで劇的だ。』
「なるほど?」
いまいち話を理解していなさそうなベロニカに、リュカはため息をついた。
『あの男が人形だと思い込んでいた俺たちが、操り糸を切って何者かに成り上がり奴に叛逆する。いかにもあいつが喜びそうな展開だろう?そしてあの男を殺し、俺たちが唯一無二の存在となる。』
リュカの眼光が鈍く光った。
「なるほど。そのあとは私とアナタのラブラブな新婚生活が………。」
『待っていないッッッ!!!』
話を変な方に捻じ曲げようとするベロニカに、リュカは思わず喉に力を入れてしまいむせ込んだ。
『その時は俺たちのどちらが上か、決着をつける。それまでは共闘だ。』
本当は、共闘の話を持ちかけるのであればあのディアボロという男が最適だった。
それなりに知恵が回り、野心があり、実力も高く、容赦がない。だがあの男はすでに死に、変な男の材料にされて還ってこなかった。
ババアは次善策どころか、下策の下策。
強いは強いが狂おしいほどにオツムが弱い。しかしもう、ババア以外に候補がいない。
『色ボケババア。俺たちはたまたま利害が一致しただけの、行きずりの仲間に過ぎない。』
文字を綴った後にリュカは中指をおっ立てた。
「そんなッッッ!!!アナタは生涯を賭けて私を幸せにしてくれるって………。」
「言っえあいッッッ!!!」
あまりにも酷い捏造に、リュカは喉が崩れているにもかかわらず思いっきり舌足らずの声を上げてしまった。
リュカは咳き込んで、マスクを血で汚した。喉の痛みに耐えかねて、彼はうずくまった。
『とにかく最後のチャンスだ。あの男が喜ぶような戦いをする。力を見せつけ、真っ向から相手をねじ伏せる。格の違いを思い知らせて、俺たちの強さをあの男に知らしめる。』
リュカの青黒い瞳に、漆黒の意思が宿された。
誰もいない世界で、ただ一人生き残ることの意義や是非など考えない。後のことは後で考える。
今、この時こそが全て。今を超えないと何も残らない。未来の無いその思想こそ、狂気そのものだった。
『たった一度きりの人生だ。まあ俺は以前に何人もあの男が生き返らせているようだが、そいつらは今ここにいる俺とは別物だ。奇跡的に齎された存在しないはずの時間。自分のために生き、そのために邪魔になる奴がいるんだったら、そいつが何者だろうと殺す。そしてあの男を殺し、俺こそが唯一無二の存在へと昇華するッッッ!!!お前もそのことを理解しておけ。』
リュカは薄々と理解している。ローウェンだ。
リュカがイアンに煉獄を勝ち残る可能性がある実力者だと思い込ませるためには、深い因縁がありヨーロッパ最強と名高いフランシス・ローウェンを実力勝負で真っ向からねじ伏せる。恐らくはそれが、最低限の必要不可欠な条件となってくる。
しかしそれは、当然容易では無い。だがそれを成せなければ、人生の行先はすぐに袋小路に突き当たる。
ただの袋小路では無い。死そのものであり、もうどうやっても覆せない終焉だ。
『今この時が全て。この世界において、狂気は無限に膨れ上がり力となる。』
毒を食らわば皿まで。狂気がまだ、足りていない。
◼️◼️◼️
「あれ、どう思う。」
【どうも何もないよ。一体何が言いたいんだい?】
軍事基地の屋上で、イアンは天を指差して執刀医に問いかけた。
赤黒い世界の中心で白衣をたなびかせた男のシルエットは、変な風情があった。
「あれだよ、あれ。私のスタンドが世界を覆ったら、あれは私の世界の
イアンの指差す先には、黄色く丸い月が存在した。今夜は満月だ。
しかし煉獄の赤黒い世界では、昼夜の区別がつきづらい。
【まあ、そうなるのかな。】
「恥ずかしくないか?あんなションベン色をしたセンスのかけらもない子供のいたずら書きのような球体を、これ見よがしに空に飾って。アレは一体誰の尿路結石だ?私のセンスが疑われてしまうだろう。」
【………それ、今話すようなこと?】
もうすぐイアンの仇敵がやってくる。
イアンが生まれてこの方ずっと待ち侘びた敵が。
しかしイアンはそれをうっちゃって、月の代わりに天に浮かべるものを何にしようか議論している。そんなもの、今はどうでもいいのではなかろうかと、執刀医は首を傾げた。
「私は忘れっぽいからな。興味が薄いものはすぐに忘れてしまう。一度忘れるとどうでもよくなってしまう。だから覚えているうちに、やれることはやっておかないと。」
【何なのさ、その無意味な使命感。】
執刀医さえも呆れさせる、イアン・ベルモット。
「お前は機械だから人間の機微はわからんのだろう。人間の一生は短い。後でやろう後でやろうは、結局自分のためにならんのだよ。さて、そうと決まればどうしようかな?」
イアンは月の代わりに天に浮かべるものを夢想し、考え込んでしまった。
執刀医は呆れて、ため息をついた。
「天上を飾るのであれば、相応に風格が必要だ。あんなダッサいものが空に鎮座するなど、断じて認められん。虎の剥製でも飾るか?象牙とかはどうだろう?いっそのこと、人体模型もありかな。」
【うん?イアン、来たみたいだよ。】
「来た?」
執刀医に唐突に肩を叩かれ、イアンは妄想の世界から戻ってきた。
【うん。ずっと待ってたお客様。私が迎えに行ってくるね。】
執刀医はその場でニュルリと、建物と同化した。
◼️◼️◼️
【ようこそいらっしゃいました、お客様。私は当ランドの支配人でございます。】
執刀医が軍事基地に向かう一行の前に地面から突如現れ、馬鹿丁寧にお辞儀をした。
「テメエッッッ!!!」
「おい、サーレー!!!」
慇懃無礼な執刀医の態度にいきり立つサーレーを、マリオ・ズッケェロが声を上げて制止した。
その敵は戦ってはいけないと、グイード・ミスタから念を押されている。どうせまともに相手されず、無為に労力を浪費するだけに終わることがわかりきっている。
【1、2、3、4、4人か。なるほど、なるほど。】
執刀医は指差し数え、楽しそうににやけた。
執刀医は近場に入り込んだ人数を把握している。五人入り込んだはずだが、ここには四人しかいない。
サーレーたちの敵対予想図。
サーレーが敵のボスと戦い、ズッケェロがオリバーと戦う。爆弾魔の男と酸を操る女は空条徐倫とウェザー・リポートが対応する。
そして伏せた最後の札の役割は。
【私も遊べそうだね。】
執刀医を抑える。
最初からそれを倒そうなどとは考えていない。倒せる敵だとも思わない。
ただ、最終決戦でサーレーの戦いに不利になりうる不確定要素が混ざり込むのは許容できない。
執刀医は審判だと言っていたが、それをそのまま鵜呑みにするほどミスタは耄碌していない。よしんば審判だったとしても、感情があるのであれば敵が負けそうになった時に余計な茶々を入れないと信じきれない。
結果、ヨーロッパ裏社会伝説の男は、敵方の不確定要素を相手に命を潰して隔離し、時間稼ぎをする。倒すのではなく、その場に張り付けにする。最強を贅沢な捨て駒に使った、背水の作戦だった。
それが伏せた札に与えられた、至上任務だった。しかしその思惑は、容易に執刀医に看破されている。
【遊ぶことこそが生きる意味。私だって、生きている。】
「何を?」
【気にしないで。こっちの話。】
赤黒く染まって世界で、暗色は世界の心臓部であるイアンの手術室に近付くほどに色濃くなっていく。
執刀医が案内役として先導し、その無防備な背中に攻撃できるかどうかサーレーは思考に浸った。
「………馬鹿なことを考えるのはやめておけ。」
「………。」
「パッショーネの忠告を無視したホル・ホースがやらかしたのを、忘れてはいないだろう?お前の至上目的は、敵首謀者の暗殺だ。」
「………そうだな。」
ウェザーの忠告を受けて、サーレーは攻撃を断念した。
【忠告痛み入るよ。イアンの標的を私が葬るわけにもいかないからねぇ。】
横顔で二ヤリと笑った執刀医に、サーレーは鼻しらんだ。
白衣を着た機械で、片目が黒球で片目がネジ。体からかすかに機械音がし、しゃべる言葉は機械の駆動音に酷似している。
とにかく不気味で、見るほどに敵対は愚かしいことだという錯覚を植え付けられる。
【さて、まずはお二人様かな。】
先を行く執刀医はやがて建物の入り口にたどり着き、その両脇には門番のように二人の男女が待ち構えていた。
一人は青黒い目、パーカーのフードを被り、黒いマスクをした髑髏面のような顔をした男、リュカ・マルカ・ウォルコット。
一人は見た目だけは清楚な妙齢の美人、実態は社会の暗い部分に潜む悪鬼、傲慢さを隠そうともしない女、ベロニカ・ヨーグマン。
サーレーは背後のウェザーと徐倫に目配せをし、二人はうなずいた。
二人は隊列から離れ、二組の男女は相対する。
執刀医はそのまま建物内部に入り、サーレーとマリオ・ズッケェロはその後に続いた。
【そしてお一人様。オリバーは建物内部のどこかで君を待っているよ。】
建物の廊下で、執刀医はニヤリとズッケェロに笑いかけた。
「場所は?」
【さあね。それも含めて君が探し出してくれ。オリバーのスタンドは、その高い隠密性もウリの一つだ。】
「………チッ。」
マリオ・ズッケェロは舌打ちして、二人の側を離れていく。
建物の内部を下から上まで、舐めるように捜索するほかになさそうだ。
【そして君は、主賓だ。彼がずっと待ち侘びた敵。………そう、彼は君に会うために生まれてきた。】
「気味の悪いことを言うなッッ!!!」
まるで愛の告白のような執刀医の台詞に、サーレーは嫌そうな表情をした。
目の前には白磁の荘厳な扉がある。前回よりも無意味に豪華になっている。
【それではお客様、ごゆるりとお楽しみください。】
執刀医はそう言い残し、建物と同化してどこかへと消えた。
◼️◼️◼️
サーレーは片手を当てて、荘厳な扉を開いた。
「ポッキン、ポッキン、精神がポッキン。ボッキン、ボッキン、背骨がボッキン。」
「………。」
相変わらずファンキーな男だ。いや、それはファンキーという表現に失礼だ。
サーレーは赤黒くだだ広い部屋を見渡して、頭痛を感じた。
イアン・ベルモットは部屋の中央に浮かぶ意味不明な巨大で丸い物体の上に立ち、歌を歌いながら奇妙な踊りを踊っている。
周囲にはマネキンが楽器を奏で、青白い浄化の炎が人魂を模してバックダンサーとして踊っている。
マネキンの演奏は嫌に上手く、歌と踊りの下手なイアンもそれなりに見える。
「………てめえ、そこから降りてこい。」
部屋の中央に浮かぶ丸い物体は、青黒い色で視神経の付随した巨大な眼球だった。
それはイアンが月の代わりに天に浮かべようとしたものであり、リュカ・マルカ・ウォルコットの眼球を模倣したものだった。不吉さと禍々しさが半端無い。そんなものを天に浮かべられたら、きっと気持ち悪くて眠れない。毎日がトラウマ日和。
それに特に意味はなく、別にイアンなりの現代の監視社会に対するアンチテーゼというわけではない。
イアンはそれを空に浮かべるために創造していたのだが、案の定途中でどうでもよくなってしまっていた。
「狂おしいほどに、so love.」
「so love.じゃねぇッッッ!!!降りてこいッッッ!!!」
イアンはサーレーに向けて官能的に指先を差し出し、サーレーはその不愉快極まりない動作に頭の血管がはち切れそうになった。
「無粋だなぁ、マイフレンド。私なりに、君を出迎える演出を考えていたのだが?」
「いらん!!!」
「他にも君のために『隣の家の芝生は薄茶色い』という曲と、『君の心に響く、サブマシンガンの掃射音』という曲を作曲したんだが?」
「いらんわッッッ!!!」
「そうか。それは残念だ。私はてっきり喜んでもらえるとばかり………。」
「お前の脳内は一体どうなっとるんだッッッ!!!」
イアンが両手を上げると、イアンの立つ巨大な球体が縦長に捻れた。
それははちきれ、青黒い血と臓物を撒いてその場で弾け飛んだ。
イアンはその場に浮かび、ゆっくりと床に降りてきた。
「ようこそ、私の部屋へ。歓迎するよ。」
「歓迎はいらない。命をもらう。」
白衣を着たイアン・ベルモットと黒い帽子とコートを着てマフラーを巻いたサーレー。
しばしの距離をおいて二人は相対し、サーレーはイアンに冷酷にそう宣言した。
「ただでは渡せないな。私の命が欲しければ、私が死ぬほど楽しませてくれ。」
イアン・ベルモットは不遜な笑いを浮かべて、そう切り返した。
周囲のマネキンは部屋の隅に待機し、イアンの指示を待つ。サーレーが一人で来なければ、彼らの手に握られていたのは楽器ではなく短機関銃だったはずだ。それがクレイジー・パーガトリィ。
一人で来た君のために、銃の代わりに愛を込めた演奏を。クレイジーライフ、クレイジーラブ。
「知るかボケ。楽しみたけりゃあ、テレビでお笑い番組でも見とけ。」
「見たことはあるけど、アレは一体何が面白いんだい?」
イアンは本当にそれが、理解出来ない。
「虚構の世界でぬるま湯に浸かって、お為ごかしの愛想笑い。それが悪いとは言わないさ。ただ、私には理解できない。空を飛べるのに飛ばない人生に、私は意味を見出せない。」
それが、イアン・ベルモットの偽りなき心情だった。
社会には、禁忌というものがある。麻薬は禁忌だし、殺人は一等の禁忌だ。窃盗も許されていないし、強姦や詐称など禁忌は無数に存在する。動物的な本能に依れば社会にそういったものが横行し、社会は機能しなくなる。そうでなくとも同胞が傷付くことが、多くの人間には許せない。
イアン・ベルモットは、本能ではなく興味と遊び心に依存して簡単に禁忌の線を踏み越える。
「気にならないかい?例えば、人間の中身がどうなっているかとか。私は気になる。私は私が世界を破滅させようとした時、一体誰が私の前に立ち塞がるのか?私は一体どういった気持ちを感じるのか?私は初志を貫徹できるのか?とても気になる。それが劇的であるほどに、私はきっと最高の気分になれる。」
「………。」
「誰しもが人生一度きりで、必死に自分のために生きる権利があるだろう?私は私のために、自分の人生を最高の劇にしたい。豊かに彩りたい。」
サーレーは黙って敵の話を聞いていた。
理解できるとは思えない。しかしそれを理解することが、この怪物を倒すことに繋がることをサーレーは薄っすらと理解していた。
それがミスタの、敵のボスの機嫌を損ねるなという言葉の真意でもあった。この男はそもそも、目的も思考回路も常人とは異にするのである。わかりやすい金や地位にほとんど執着がないことが、厄介極まり無いと言えた。常人と価値観を同じくしないのである。
「それはきっと、天にも昇る夢見心地のはずだ。だからサーレー、マイフレンド。終幕に向けて私を最高に楽しませてくれ。」
イアン・ベルモットは無邪気に笑った。
赤黒い部屋の中で、イアンは地を滑るようにして猛スピードでサーレーに肉薄した。
◼️◼️◼️
煉獄の一角に存在する局地的低気圧。そこは猛獣が潜む殺意の檻。
積乱雲が渦を巻き、雷光奔り、分厚く覆う雲の中央で二人の存在が互いを意識した。
【こんにちは。なるほど、なるほど。】
執刀医は周囲を確認して、感嘆の声を上げた。
それはローウェンの至高技である天球儀の中心地。世界は分厚い雲の隔壁によって遮られている。
執刀医が全能を振るえるのは煉獄の勢力圏内に限定されており、そこから隔離されれば彼の能力は著しく減衰する。
というよりも、あまりにも長く隔離されたら煉獄生まれの彼は存在が消滅する。しかしさすがに、膨大なスタンドエネルギーを消費する天球儀はそこまでの時間は保たない。
薄暗いそこで、執刀医から少し離れた場所からしなやかな筋肉をしたスマートな男が彼を観察している。
男は黒いカソックを着て、漆黒の殺意をその身に宿し、触れれば焼き焦がされる天雷のような雰囲気を放っている。
「こんにちは。そして今日がお前の命日で、ここがお前の墓場だ。」
【私を倒せると?】
「いいや。でもお前の主人である男が死ねば、お前もお陀仏だろう?」
雲内の風は徐々に勢いを増し、雷霆の弾ける頻度が上がり、執刀医の腕に吹雪く氷雪が纏わりつく。
ヨーロッパ最強の殺し屋は、この日のために集中力を高めコンディションを最高まで上げてきた。今の彼であれば、天球儀の内側は彼の体の一部分に等しい。細部の細部、敵の一挙手一投足見逃さない。
【さて、どうだろうね。】
「仮にそうでなくても、関係無い。一度に全てのことを解決しようとするべきではない。まずは主犯であるお前の主人からだ。」
たとえ残党を仕留め損なっても、まずは敵の頭を潰す。
そうすれば組織は多くの場合は求心力や結束力が低下し、指揮系統にも混乱をきたす。
内部で不和を誘発し、組織はかなりの確率で瓦解する。殺しの本職である彼の経験則だ。
瓦解した後の混乱期に、一網打尽にすればいい。
ただし例外として、イアン・ベルモットのほかに逃走手段であるオリバーもここで仕留めないといかない。
以前はそのせいで、イアン・ベルモットを取り逃がしたのである。
【なるほど。】
「覚悟しておくといい。お前の主人は死に、仲間は全滅し、お前は丸裸にされて囲まれる。」
【それは挑発かい?】
執刀医はローウェンに向けて首を傾げた。
「いいや。決定事項を通達しているに過ぎない。」
ローウェンは片腕を上げて、執刀医を指差した。
【ならばこう返そう。イアンは目的を達成し、仲間は生き残り、私はのうのうと生き延びる。】
「………それは挑発か?」
ローウェンは執刀医と同じ切り返しをした。
【いいや、定められた未来だ。予知であり、決定事項。全能の私から卑小な君への、ささやかな叡智のプレゼントだ。】
執刀医は初めて凶暴な笑みを浮かべ、ローウェンは敵の本性の一端を垣間見た気がした。
「………残念だな。お前はとんでもない嘘つきか、大ボラ吹きだ。」
【君はおしゃべりをするために私を呼んだのかい?】
「ああ、その通りだ。」
ローウェンの目的は執刀医の隔離であり、時間さえ潰せるのならいくらでもおしゃべりしていて構わない。
執刀医の暗殺優先順位は、低いのである。ただ、いざ戦う準備は万端に整えてある。
【君は正直だね。嫌いではない。私としてはおしゃべりを続けたいところだが………。】
「いつまででも続ければいい。俺はいつまでも付き合うぞ。」
作戦の肝は、サーレーとイアン・ベルモットの一騎打ちである。
そこが主戦場であり、イアンさえ消せれば他は全滅したとしても仕方がない。
追い詰めに追い詰められた彼らは、暗に全員の意思を統一してそう開き直っている。
兎にも角にもこの赤黒い空間をなんとかしないと、どうにもならないのである。
信じられないほどの重圧がサーレーにのしかかり、しかし当の本人だけは面白いことにそれに気づいていない。奇妙な幸運と言えた。
【残念だが、そういうわけにもいかない。私にも私の役割があり、君には相応しい敵がいる。】
意味深なことを告げて、執刀医はぬるりと地面と同化した。