まぁいいや、と投下していきます。
ある日の犬吠埼宅にて、二人の少年少女がテーブルを挟んで向かい合って座っていた。
少女は姉である犬吠埼風の妹であり、少年の彼女でもある犬吠埼樹。どうにもその表情は真剣そのもので、少年──高嶋祐樹は何事かと聞かされぬままに腰を据えていた。
「ゆ、祐樹さん! 訊きたいあるんですけど……答えてくれますか?」
可愛らしい声で頼みごとをしてくる彼女に、祐樹はそのお願い事は何であれ受けるつもりでいる。が、一応でも訊いておくのが筋だと彼は頷いて応えてみせた。
その時の樹の表情はぱぁ、と表現するのにふさわしい笑顔を浮かべ祐樹はもうそれだけで満足足りえるのだが、話始めるのを待ち続ける。
頬は赤らめどうにも口にしにくい様子。
「なにか話しづらい事?」
「へっ!? いえ、そういうわけでは……ないんですけど」
「……?」
「あのですね……昨日学校でクラスの男子が話しているのを偶然耳にしちゃったんですけど」
「うん」
ここでなぜクラスの男子の話が出てくるのか不思議に思った祐樹だったが、まさか樹に関して変な噂を流していたんじゃないかと変に勘繰ってしまう。
だとしたら姉である風には話しづらいだろう。ここは自分も彼氏として真摯に向き合わなければと考え、祐樹は背筋を正して待つ。
「ゆ、祐樹さんっ! オ〇ニーって何なのか知っていますか!!!?」
「……………ぇ?」
意を決して話してくれた樹の言葉を聞いて、祐樹の思考は一旦停止する。まて、彼女はなんて言った。聞き間違えでなければ彼女の口から出ることはない単語を耳にした気がするのだが。
「で、ですからオ〇ニーってなんなのか────」
「ちょっと待ってぇ樹! 女の子がそんなこと口にしちゃいけませんっ!!」
樹は聞こえていないと思っていたのか同じ文言を口にしようとしたところで祐樹は身を乗り出して樹の口元を手で塞いだ。
驚き目を見開いている彼女だが、そうして驚きたいのはこちら側だった。なぜそんなことを自分に聞いてくる? と混乱しつつも大人しくなった彼女を見て塞いでいた手を放す。
「ぷはぁ…! きゅ、急に何するんですか祐樹さん」
「それはこっちのセリフだよ……樹、なんでまたそんなことを……」
「そう言うってことは
「……ぇ。待って樹、今のことまさか他の人に聞いたの?」
「え? はい、もちろんです。悩んだら相談────勇者部五箇条に倣って相談しましたよ?」
「…………、」
祐樹は頭に手を置いて項垂れた。そんな彼の反応にますます疑問符を浮かべる樹はどうやら本当に先ほどの言葉の意味を理解していないらしい。
困った。非常に困った事態になったと祐樹はテーブルに置いてあるお茶の入ったグラスを見つめる。いや、疑問を持つこともそれを理解しようと、調べようとすることはとても立派な事だ。樹は何一つとして間違ったことはしていない。けれど、
(言えない…! いくら彼女の悩みとは言え恥ずかしいぞこういったことは……ッ)
同性同士でも気恥ずかしい空気が出来てしまうことなのに、異性から口にすることは些か荷が重いことこの上ない。
「……祐樹さん?」
「あぁ、ごめん。質問に答える前にその、風たちの反応はどうだったかな?」
「お姉ちゃんたち、ですか? えーっと……」
樹は記憶を振り返ろうと小首をかしげる。
「…まず最初にお姉ちゃんに会って聞いてみたら顔を真っ赤にして慌ててましたね。それですぐに他の人たちが知ってるーって教えてくれてすぐに部室に向かったんですよ」
「うん」
「そうしたらパソコンの前に東郷先輩がいたので同じように聞いてみたら、お姉ちゃんと同じような反応をして、何やら意味深にお姉ちゃんとアイコンタクトしてたわけなんです」
「…うん」
「目線も私と合わせてくれないし、『樹ちゃんにはまだ早いかも…?』ってはぐらかされたんです」
「……それは、まぁ…うん」
「なんで教えてくれないんだろーって思ってヤキモキしてたら友奈さんと夏凜さん、そして園子先輩が部室にタイミングよく来てくれたんです」
確かにある意味でタイミングがよかったのかもしれない。それにしても風も東郷もやっぱり知ってる────んだなぁと祐樹はピンクな妄想を膨らませようとしていた己の思考を律してテーブルに額を打ち付けた。
「わっ!? 急にどうしたんですか祐樹さん?!」
「き、気にしないで樹」
「そんなこと言っても……お、おでこ真っ赤になっちゃってますよ??」
「だ、大丈夫。大丈夫だから……話の腰を折ってごめんね、続けてくれる?」
「はぁ、えっと……はい。それで三人にも────」
樹は祐樹を心配そうに見つめながらも、話を続けていく。
◇
遡ること昨日の出来事。
「こんにちはー! 結城友奈、ただいま参りました~!」
「…ってなに入口近くで話してるのよ。何かあったわけ?」
「なになにどったのー? …お~わっしーにフーミン先輩顔真っ赤っかだけどどうしたんですかー?」
「ちょ、ちょちょうど良かったわ三人とも! 樹が相談があるみたいなのよ、みんなも一緒に相談にのってくれるかしら!? ね、東郷?!」
「そ、そうですね風先輩! 私たちだけでは力不足かもしれないから……!」
「そうなんですか? もちろん相談に乗るよ樹ちゃん!」
「そういうこと……だったらそこで座って話を聞いてあげるわ樹」
「イっつん私も力になるんよ~」
「あ、ありがとうございます皆さん!」
樹は救世主でも現れたかの如く、薄っすらと眼尻に涙を浮かべて感謝する。
そんな中で先に話を聞いていた二人は苦笑を浮かべるばかりだが今更止められる雰囲気ではないので一先ず静観することにした。余計なことを言えば墓穴を掘りかねないからだ。
こうして一同は長テーブル前の椅子に腰かけて樹の話を聞く態勢を整える。そんな中で口火を切ったのは夏凜だった。
「で、一体どんな相談事なの樹? 前みたいに
『ぶーっ!?』
「わ、わぁ!? 風先輩に東郷さんどうしたの急にー?!」
「げほ、な、なんでもないわ! ごめん」
「そ、そうですね。ごめんなさい友奈ちゃん。なんでもないから」
「そ、そう……?」
「大丈夫アンタたち?」
「あのー……話を続けてもいいでしょうか?」
「うん、いいよイっつんー続けてー」
「はい!」
両ひざに手を置いて樹は一拍間を置くと、先ほどの二人と同じように樹は口を開いた。
「相談というか質問、疑問なんですけど────皆さんオ〇ニーってご存知でしょうかっ! 私どうしても知りたくて」
『…………、』
部室内が沈黙に包まれた。先ほども同じ内容を聞いた二人も同様に頬を赤らめそっぽ向いている。しかし他の人の反応は思っていたよりも違っていた。
「オ〇ニー? うーん……私は聞いたことないかなぁ。夏凜ちゃん知ってる??」
「さあ? 私も聞いたことないわね。筋トレやトレーニングの類かしら? でもそんな単語聞いたことないし……園子は知ってるの?」
「わたしー? うーむ……チラリ」
『………っ!?』
疑問を浮かべる友奈と夏凜を余所にニコニコ顔の園子はその目で奥の二人を見る。視線が重なった両者は肩をビクつかせてゆっくりと視線を明後日の方に向けていくのを捉えた。
その二人の様子を園子は満面の笑みで頷くと樹に彼女は向き直った。
「園子先輩?」
「あーごめんねイっつん。わたしはオ〇ニーの意味は知ってるか知らないかで言えばー──知ってるよ~」
「ほ、本当ですか!? ぜ、是非教えてくれるとありがたいです先輩!」
「あっ私も私も~! 園ちゃん私もオ〇ニーのこと知りたいでーす! ね、夏凜ちゃん?」
「ま、まぁ知っておいた方が損はないかもね。オ〇ニー」
「おー♪ みんな勉強熱心だねぇ~うんうん」
「ゆ、友奈ちゃん! そんな破廉恥な単語を連呼しちゃダメよ!?! はしたないわ?!」
「夏凜、あんたもそんなことを部室外で口にしちゃダメだからねっ!?」
汚れを知らぬ? 彼女たちの口から出てくる例の単語の数々に我慢ならなくなった風と東郷は二人に詰め寄って肩を揺らした。
何のことか理解できない両者は彼女たちの勢いに気圧されていた。
「むぅ、お姉ちゃんも東郷先輩も静かにしててください。私は園子先輩に聞いてるんです!」
「い、樹ぃー……まだ早いわ。まだ早いのよー!」
「ふーむ。やめておく? イっつん??」
「いえ、お姉ちゃんのことは気にしないで良いのでお願いしますっ!」
「じゃあ園子先生が教えてあげよ~……っとと」
外野が必死に抑える中でいざ告げようとした園子の懐にあった端末が震えた。
「あらまちょっと失礼〜……はい、もしもしー?」
「………。」
急な電話で驚いたが園子から見せてもらったディスプレイには『大赦』関係の人らしき名前が表示されていたので止めるわけにもいかずに通話が終わるのを待つことにした。
そう時間も掛からずに通話を終わらせた園子は、
「ごめんねーイっつん。大赦からお呼ばれされちゃったんよ〜。迎えも外で待ってくれてるみたいでー」
「そ、そうなんですか? それなら残念ですけど、仕方ないですよね」
肩を落とし落胆する樹とその横で樹とは違う意味で肩を撫で下ろした二人がいた。園子はみなの反応を何処か愉しげに見届けてから部室の扉に手をかける。と、そこで一度振り返ってこう言った。
「イっつん、せっかくだからゆっきーに訊いてみたらいいと思うよー」
「ゆ、祐樹さんにですか?」
「そーそー。ゆっきーならきっと知ってると思うし〜、イっつんのお願いなら断ることはしないと思うからー……ねー♪ フーミン先輩?」
「そこであたしに振るっ!? そ、それはぁー……そうかもしれないわね」
「ふふふのふー♪ じゃあそういうことでお先に失礼しまーす」
「そのっちったら……祐樹くん、後で骨は拾ってあげるわ。南無」
「で、結局オ◯ニーってなんのことなのかな夏凜ちゃん?」
「さぁ? それなら私たちも今度祐樹に聞いてみましょうか」
「そだね」
何とも締まりがつかないまま、その日の勇者部はいつも通りに依頼をこなしていった────。
◇
一連の流れを樹から説明を受け終える。彼女も一息つくためにグラスに入ったお茶を傾けて喉を潤す中で、祐樹は天を仰ぎ見ていた。いや、室内なので見えるのは晴天ではなく照明なのだが。それでも彼はこうするしか他なかったのだ。
「…ふぅ。というわけでこうして祐樹さんに相談してみました」
「園子のやつ後で覚えてろよぉー……風も僕を売りやがって」
「……迷惑でしたか?」
「ああいや! 迷惑ではないから。困惑してしまうだけで……樹の疑問には前向きに応えていきたい所存だけ、どさ」
「祐樹さん……ありがとうございます! 嬉しいです」
再びぱぁ、と花咲かせる樹の笑顔を見るのはいつ見ても幸せになるが、今回に限っては手放しに喜ぶことが出来なかった。
はてさてどうしたものかと思考をフル回転させる祐樹。
「え、えーっとお、オ◯ニー……つまり自慰行為のことなんだけど」
「じいこうい? そういう言い方もあるんですか。『行為』ってことは何か特定の行動を行う、ってこと?」
「まぁうんその……そんな感じで。僕も女の子の事情は然程詳しくないから詳細までは答えられないけれど……男も女もやる、行為の総称かな」
「へ〜そうなんですね。でも余計に疑問が深まります。なんでお姉ちゃんたちはあんな表情してたんだろーとか、男女がやることなら何で私や友奈先輩たちが知らないんだろーとか色々と」
「…んーとね。まぁ年頃の子なら恥ずかしがるのも当然というか何というか。自主的に調べる子もいれば、流れで知ることになる子もいるんだと思う」
と、そこまで言って樹を見るとなぜかしゅん、とした表情となっていた。祐樹はそんな彼女を見て慌ててしまう。
「い、樹どうした?」
「いえ……やっぱりまだまだ私って子供なんだなぁって思っちゃって」
「そんなことない。出会った当初より成長してるよ」
「祐樹さんは優しいから。でも分かってます……勇者部の皆さんに比べたら私なんてまだまだチンチクリンですし。胸なんてぺったんこだし……」
「あっ、そっちか……えっとそれは……ぼ、僕は胸の大きさなんて気にしないよ! 樹の全部が好きなんだからっ!」
「ぺったんなのは否定しないんですね」
「えぇー……」
「すみません。まぁ紛れもない事実ですけどねー…アハハ」
さらにズーン、と暗い雰囲気を醸し出す樹になんと声をかけたら良いのか祐樹は分からず。というか話が脱線しているのだけどどうしたものか。
最初から話している内容も今よりつつある内容もどちらも居心地は良くないものだが、樹の気にしている部分の話で自爆されるよりかは前者の方がまだマシかと結論付けた祐樹は、半ば強引に話の路線を元に戻すことにした。
「と、とにかく! 大人子供関係なく知る機会がなかったんだから仕方のないことなんだよ。たまたま風や東郷は知る機会があっただけの話」
「…じゃあ祐樹さんはどうやって知ったんですか?」
「えっ〝!?」
「教えてくださいよぉー祐樹さぁん」
何処から習ったのか…いや、彼女なら天然なのか上目遣いで祐樹の手を握ってきた樹に対して、彼は冷や汗をかいている。
どうやって知ったのか。それを口にすること自体が彼にとって特大な一撃を意味しているわけだが。
祐樹の葛藤を知ってか知らずか樹の柔らかい手がぎゅっと力を込められる。
「私、何も知らないままでいるのはもう嫌なんです。お姉ちゃんや友奈さんたちの隣に立って歩けるようになりたいんです。祐樹さんの相応しい彼女にもなれるように……」
「樹……キミはそこまで………」
「だから──だから私に出来ることならなんだってします。祐樹さん、私にオ◯ニーの意味を教えてくださいっ!」
「…………、」
樹の真摯に向き合う気持ちに祐樹は目を伏せた。そうか。こんなにも彼女は真剣に、物事を知ろうと……成長しようとする真っ直ぐな心があったのかと感動すら覚えていた。
そんな彼女に対して自分は恥ずかしいからとかどうしようもないことばかり考えていて……本当の意味で彼女と向き合えていなかったのかもしれない。
「樹、僕が愚かだったよ。そうだよね──前へ進む気持ち……それが大事だったんだ」
「祐樹さん……分かってくれましたか」
「うん。キミの気持ちに僕もちゃんと真っ直ぐ向き合うよ。なんたって僕は樹の彼女だからねっ!」
「祐樹、さん……ありがとうございます! 大好きですっ!」
「僕も大好きだよ」
ひしっ、とお互い椅子から立ち上がった二人は愛を確かめ合うように抱き締めあった。
「じゃあ僕の知る限りの知識を樹に教えるよ。耳を貸してくれるかな?」
「はいっ。お願いします────……」
そうは言ってもやはり声を大にして教える内容でもないので耳打ちでコッソリと祐樹は自分の持ち得る知識を彼女に伝えていく。
樹も真剣に、一字一句逃すまいと全神経を彼の言葉に傾けた。
◇
その日の夜。
犬吠埼家の食卓には三人分の食事が並べられているが、その場に居るのは二人だけだった。
樹の姉である風と樹の彼氏である祐樹。風は困った表情を浮かべているのに対して祐樹の頰の片側には薄らとモミジ痕が残されていた。
「いやー……樹を呼びに行ったんだけどさ」
「……。」
「なんか悶絶してるような、声にならない声を上げてるとかそんなんで部屋から出てこない理由って……それに祐のそのほっぺの痕はもしかしなくても…?」
「…………風」
むすぅ、と不機嫌さを滲ませる祐樹に風は手を合わせて頭を下げた。
「ごめんっ! 諸々投げっぱなしにした挙句に樹と喧嘩……しちゃったみたいで」
「いや喧嘩はしてないよ。恐らく羞恥に耐えかねた樹が勢いでやっただけだろうし。僕も歯止めが効かずに赤裸々に話しすぎたのも悪いし」
「あ、あのー祐?」
「……うどん、今度奢ってよ。お互いそれで手打ちにしよう。この件はあまり掘り起こさない方がいい」
「はい。申し訳ありませんでした」
単語の意味を全て理解した樹は今は絶賛引きこもり中である。それも仕方ない。知らなかったとはいえ多数の人間に訊ねてしまった事実は消えないのだから。
────どすん、どす。
『…………。』
沈黙に沈む二人に追い討ちをかけるように隣の部屋から聞こえる物音は、樹の今の気持ちを代弁しているかのようだった。
「とりあえず……食べましょうか祐」
「そうしよう……はぁ」
その日は何とも微妙な雰囲気が拭えない一日であった。
余談だが、翌日の勇者部でもまた樹と同様に顔を赤くしている人も居たとか居ないとか。
ただ一人はスラスラと筆が乗っていてウキウキだったそうな?
悶える樹ちゃんカワイイです、はい。
無知識組が知ったときの空気はきっと面白い、と妄想した。