日も暮れ、一日を終えようとしている時間帯。
夕食や入浴も済ませた高嶋祐樹は自室にて本を読んでいた。
(……中々面白いな。恋愛小説)
後輩である伊予島杏からオススメと借りた本。たまには違うジャンルの本も読んでみたかった彼からしてみれば彼女の提案は願ったり叶ったりだった。
訓練を終え、待機時間は読書に充てられるほどにハマりつつある。
そうして時間を使っていると、不意に扉がノックされた。
「空いてるよー」
間延びしたトーンで来客の知らせに応えておく。祐樹は基本的に部屋の施錠は行わないのでわざわざノックしなくても、と思ったがまぁ基本的な礼儀としては当たり前かと結論付けておいた。
などと、考えている内に扉が開けられ一人の少女が姿を現した。
「────夜分にすまない、祐樹」
「お、若葉だったか……こんばんは」
「こんばんは……入っていいか?」
「もちろん。どうぞ」
恐る恐るといった様子の乃木若葉が寝間着姿の状態で来てくれた。彼女はお風呂上がりなのかその髪はしっとりと濡れていて、肩にはタオルをかけていた。
「お風呂上がり? 湯冷めしちゃうよ」
「ここで乾かせてもらおうと思ってな。ドライヤー借りていいか?」
「どうぞ。場所はいつものとこにあるから」
「ああ」
勝手知ったるなんとやらと若葉はそのまま洗面所に向かっていく。
そうして祐樹は意識を小説に戻そうと思っていたら、今度はドライヤーを持って踵を返してきたではないか。
首を回してそちらを窺うと、頬を朱に染めた若葉と視線がぶつかる。
「……あの、頼んでもいいか?」
「そういうことね。いいよーおいで」
「ありがとう……髪が長くて自分一人だと少し面倒なんだ。よろしく頼む」
ぱあ、と明るく花咲かせた笑顔を浮かべていた。
それからちょこん、と正座をして祐樹の前に腰を下ろした若葉はその手に持っていたドライヤーを彼に手渡す。受け取った祐樹は近くにあるコンセントに挿し込み、電源を入れて風を吹かせた。
「確かに大変だよね。いつもはひなたがやってくれてるんでしょ?」
「そうなんだ。だが今日から数えて二日ほど大社本部に出向しているだろう? 気兼ねなく頼めるのは祐樹しかいなかったんだ」
「なるほどねー……凄いサラサラだなぁ」
「ふふん。だろう? ひなたが選んでくれるケア用品が良い証なんだ。自分でも触って驚くときが結構あるんだぞ」
「へぇ〜…さすが幼馴染」
果たして世の幼馴染がここまで尽くしてくれるのかはさて置いて、確かにドヤ顔するのも頷ける髪質だ。触っていて気持ちがいい祐樹であった。
「えっと櫛はーっと───あったあった」
「…しかしやけに手慣れてるな祐樹。女性の髪の手入れの仕方が分かるのか?」
「んー……まぁ、分かるというより
「そうなのか? そういえば二人は親戚──いや、兄妹? だったか」
「────そこんとこ複雑だけどまぁ、幼い時に僕が引き取られて高嶋家に住んでたわけなんだけど……あいつ結構ズボラなとこがあるからさ、放置してるのも嫌になってきた僕が首根っこ引っ張って手入れしてたんだよ」
同じ姓を持つ祐樹と友奈。お互いに深く身の内を明かそうとしない二人の関係性は傍から見れば『よく判らない』という総評である。
かくいう若葉もその一人で、『恋仲』という立ち位置になったとしてもまだ分からない部分は数多くあった。訊ねたいという欲求は少なからずある若葉だが、だからと言って必要なことかと問われればそれほどでもないのが実状だ。
家庭環境というものはひとそれぞれある。良くも悪くもそうでなくとも、踏み入っていい話の場合とそうでない場合ももちろん存在する。
(……まぁ、どちらかが話してくれる日がいつかくるだろう。それまで気長に待つとするよ)
などと分別をつけるのには少々時間を有したが、今はその結論に落ち着いている。先ほどのように会話の流れで一部分出すことはあれどそれ以上は干渉しないと決めた。その代わりといってはなんだが、若葉は昔よりも未来に目を向けることにしている。せっかくの異性の恋人が、幼馴染である上里ひなたと同等以上の存在ができたのだ。
端的に言って昔のことばかり気にしていては
若葉とひなたのように、祐樹と友奈のように、各々が限られた『時間』の中で育んできたものがある。優劣をつけるつもりはないがやはりソコに追いつくほどには祐樹との『時間』を作っていきたいと願っているのが今の若葉だ。
今日こうして部屋に訪れたのも、その一部に過ぎない。上里ひなたが居ないという理由ももちろんだが、半分はそういう理由を抱いて足を運んでいた。
「……はい。ドライヤーお終い」
「ああ」
「もう少し梳かせてもらうよ」
「頼む」
短いやりとりだけど、お互いはその時間を愛おしく感じていた。部屋には若葉と祐樹だけ。互いの息遣いと髪を梳く音が耳に届くぐらいには、それ以外の音は静かなものだった。
心が落ち着くというのはこの状態を言うのだろうと若葉は感じる。
でも面白いと感じることも一つあり、心が落ち着いているはずなのに心が弾んでいるのだ。
矛盾しているともとれるこの感覚は普通の日常では得難いものであると思った。そうして考えると異性に自分の髪を触らせているというこの状況そのものが、今でも信じられないと若葉は自嘲気味に笑う。
しばしされることののち、祐樹は櫛をテーブルに置いてそっとその両腕を若葉の身体に回してきた。当然若葉は驚いて肩を跳ねさせるが、離れようとはしない。それ以上に、目を細め自然体のまま自重を祐樹に預けていた。
「……若葉。良い匂いがする」
「はは、シャンプーの香りだろう。それより急にどうしたんだ? お前の方からこうしてくれるなんて珍しいじゃないか」
「んー……? なんとなく、して欲しそうな背中してたからしてみたんだけど……嫌だった?」
「嫌なもんか。嬉しい、よ……」
間髪入れずに言葉を返す。若葉は回された祐樹の腕に自分の手を伸ばしてそっと触れた。鼻筋を近づけてすぅ、と一呼吸していくと彼の匂いが身体の奥深くまで沁み込んでいくような錯覚になる。
「祐樹も良い匂いがするな」
「僕もさっき風呂入ったからな。その匂いでしょ?」
「ふふ、それは先ほどの意趣返しつもりか?」
「さーてね。でもこうしてキミを抱いてみると、やっぱり若葉も女の子なんだなぁって実感するわ」
「む、悪かったな女らしくなくて。どうせ私はひなたたちのように女の子らしさはないだろうさ」
若葉は小さく頬を膨らませて、触れていた指で祐樹の腕の肉を抓った。いたた、と苦悶の表情を浮かべる祐樹だがさらにぎゅっと抱きしめて抵抗を示してきた。
「違う違う。そうじゃなくて、いつも外ではキミは凛としているだろ? そういう若葉を見てきた個人としては感慨深いものがあるんだよ」
「私はチームの『リーダー』で『勇者』だからな。仲間や市民の不安を煽るわけにはいかない。それは祐樹も理解しているだろ?」
「うん」
こうして平和なひと時を享受していても、戦いは終わってはいないのだ。
「でもさ若葉。だからこそ僕はそんなキミを支えたいって思ってるんだよ。ともに肩を並べる仲間として、男として、恋人としてね。どんなに若葉がカッコよくても、強くても、憧れ頼もしくても……せめて僕の前では若葉は一人の女の子でいて欲しいって思ってるんだ」
「祐樹……」
「ひなたには負けちゃうけどね」
「……そんなことない」
「若葉……? っと」
少し後ろに押し込んで祐樹を倒し、若葉は顔を見上げた。祐樹の瞳には羞恥に染まる彼女の整った顔が目の前にあり、彼もまた気恥ずかしくなってその頬をわずかに染めていく。
「祐樹はひなたとは違う。ひなたにはない魅力がお前にはあるんだ。その証拠に今も顔が熱いし、心臓もどきどきしてる……普段の時も気を抜いてしまうとお前の姿を目で追ってしまうほどなんだ。ずっとこうして触れ合っていたいなんて気持ち……お前が初めてなんだ、どうしてくれる」
「責任は取る所存だ。ひなたにも念を圧されてるし僕自身の意志もそれを望んでいるから」
「……馬鹿だな。私はめんどくさい女だぞ?」
「僕も割と同じだな」
「お堅い人間だと言われたこともある」
「若葉は寂しがり屋で優しくて可愛い人だよ」
「そんな恥ずかしいセリフ平然と言わないでくれ。もっと好きになってしまうだろ……?」
「……言っておいてなんだけど、今とっても恥ずかしいです」
「────っ!!」
ガバッと若葉は身体を反して祐樹を押し倒した。今しがたの位置が逆転して若葉が祐樹を見下ろして、祐樹は見上げる形になる。
唇を固く結んで若葉は上気した瞳を祐樹に向け、祐樹もまた彼女と同じ瞳を向ける。互いの瞳にはお互いが映りまるで鏡合わせかのよう。
「好きだぞ祐樹」
「ああ。僕も大好きだ」
「お前に甘えたい。甘えさせてくれ」
「もちろん。僕も若葉に甘えたい」
「……ああ、いいぞ。まったく仕方のない奴だな」
「それ若葉が言う?」
やり取りに対して小さく笑みが零れる。自然な微笑み。祐樹にとってそれは自分にだけ見せてくれる一面で、若葉にとって異性で唯一自然体でいれる男の子。
似通った二人なのかもしれない。似通った二人が次にしようと、考えていることもわかっている。
「祐樹……んっ」
小さく漏れる呟きに応えるように祐樹は若葉の頭に手を置いて引き寄せ、その唇を己のもので塞いだ。
まだ数える程度しかしていないその行為は、まだどこかぎこちなさが残っていた。触れるだけの優しいキス、それでも二人にとっては幸福以外の何物にも代えがたいものだった。
「……ぷ、ぁ」
「ふぅ……」
時間にして十秒にも満たないはずなのに永遠のような、そんな錯覚さえ抱かせる行為の終わりは酸素を求めることでその終わりを迎えた。
若葉はキスのせいか、腕の力が抜けて祐樹の身体の上に身を落とす。彼もまた若葉を受け止める形で二度目の抱擁を果たした。
「……全部が祐樹に包まれているようだ」
「まあ実際抱きしめてるから間違ってないね」
「もう少し浸らせてくれてもいいだろ?」
「そう言いながら服に顔を埋めているのは誰だー?」
「お前が惑わせる匂いを発しているのが悪い」
「僕のせいかよ……そしたら僕も若葉の匂い嗅いじゃうぞ」
「────変態」
「ちょっ、酷くない!?」
若葉は顔を埋めたまま首を左右に振るが、それだと肯定しているのか否定しているのか判断に困る。
「すまない。甘えさせる約束だったな……祐樹にならいい。恥ずかしいけど……」
「なら遠慮なく……すぅー」
「ちょ、もう少し遠慮というものが……っ」
言い切る前に祐樹の鼻先は若葉の頭頂に向かい、先ほどと同じようにその匂いを堪能していく。
二人して体臭を嗅ぎまわるカップルは自分たちぐらいだろうな、と祐樹は思考の片隅に過ぎった。
仰向けの体勢から横に倒れて寝転ぶ体勢に変え、若葉はその腕を彼の背中に回してみせた。
「……なぁ祐樹。もう一つ我がままを言ってもいいか? 今日はこのまま一緒に────」
「今日は一緒に居たいな若葉。迷惑じゃなければ、だけどさ」
「………………うん」
顔をこれでもかと火照らせ、若葉は一つ頷いてみせた。やましい気持ちがあるからではない。純粋に一緒の時間を過ごしたいだけ。
離れたくない、という欲求が今日たまたま強かっただけなのである。しかしこのまま床の上で寝るわけにはいかないので一度身体を起こすことにした。
「……っ。そんなにくっ付かれると動きずらいんだけど」
「祐樹は私といるのが嫌なのか?」
「そんなわけない」
「そうか。ふふ、そうか……」
ニンマリ、といった表現が正しい若葉は再び祐樹に自重を預ける形で状態を落ち着かせる。彼も口では言いながらも邪険には扱わない。せっかく若葉が甘えてきているのだから受け入れなければ損だ、ぐらいの気持ちでいる。現に男性からしてみれば好きな女性が自らすり寄ってくる場面に喜ばないわけがないのだが。
「そういえば来た時に何か読んでいたな……小説?」
「伊予島から借りたんだ。恋愛小説なんだけどなかなか面白い」
「ふーん…浮気か?」
「なぜそうなる……僕が浮気するような人間に見えるかい?」
「証明してくれないと分からない」
「……なら若葉。こっち向いてくれ」
顎に手を添えて言うまでもなく二人とも目を閉じて唇を重ねた。今度は押し付けるだけのものではなく、二度、三度と啄むようなキスを繰り返し行う。
「──っは、あ。キスというのはこんなにも気持ちがいいのだな。癖になってしまいそうだ」
「僕は若葉とのキスはとっくにハマってるけど」
「みたいだな。からかって悪かった…………もう一回いい、か?」
「もちろん」
離れては見つめ合い、再び重ね合う。まるで初めて楽しいことを覚えた子供のように、若葉と祐樹は行為に没頭していた。
それは伊予島杏から借りた恋愛小説よりも甘い展開を繰り広げているのだが、当の本人たちは気がつかない。恋は盲目なり──を体現している両者はただただ酔いしれていく。
「……こんな姿、誰にも見せられないな。威厳もへったくれもありはしない」
「見せなくていい。今の若葉を知っているのは僕だけでありたいよ。ひなたにさえ……ね」
「独占したいのか?」
「あぁ。独り占めしたい」
「そんな歯の浮くような台詞をよく言えるな祐樹。けどそんな言葉も嬉しく感じてしまう私もまた浮かれているのだろうなぁ」
しみじみ口にする若葉はパラパラとページをめくり始めた。その様子は『読む』というより『見る』や『眺める』が近しいか。
「文字ばかりだな」
「それはまぁ小説だからね。ラノベとかなら挿絵が多いから読みやすいのかもしれないけど……読む?」
「いや、また今度にするよ。杏から直接見繕ってもらうから…すまないな読書の邪魔をして」
「気にしなくていいよ。返却はいつでもいいって言ってくれてるし、優先順位は若葉が先だから」
祐樹がそう告げると目を細めて寄りかかってくる。頭を撫でると撫でやすい位置にズレてしてもらうあたり、実は甘え上手なのかもしれない。
というか、まさかここまでトロンとするとは思ってもみなかった。
しみじみと感じながら祐樹は若葉の手をとって自分の手を重ねる。
「手はこうやって比べると結構違うんだな」
「確かに……祐樹の方がずっと大きいな。男らしい好きな手だ」
「キミの手こそ刀を握っているとは思えないほど綺麗だなぁ」
「ありがとう」
なんてやり取りをして祐樹は若葉の手のひらをふにふにと触る。この小さな手に数多の願いや想いを握っていると考えるととても信じられない。
堪能していると今度は変わって若葉が祐樹の手を掴んで同じように触り始めた。くすぐったいような、こそばゆい感覚。そうして次にその手を若葉は自分の頰に包むように当てた。そのままスリスリと頬ずりしてうっとりとしていた。
「暖かくて落ち着く。なんだろうな、この気持ち……世の恋人たちはこんな想いを胸に秘めているんだと思うと、不思議な感じになるよ」
「だねー…外でイチャついているカップルの気持ちが幾ばくか理解できるような気もする」
「私はあんなことは出来ないぞ。人前で平気にキスする人もいるなんて流石に無理だ」
「あー…確かに難しいかも。視線ばかり気になっちゃいそうでそれどころじゃなくなると思う」
むにむにと祐樹は手のひらで若葉の頰の感触を楽しむ。くすぐったそうに身をよじる彼女はとても可愛らしい。
「どうする? もう寝るか…? 明日も早朝の鍛錬あるし」
「…隣で寝ていい?」
「うん。おいで」
彼の言葉に年相応の表情を若葉は見せた気がする。嬉しそうに、楽しげに。毛布をめくって潜り込む若葉はその勢いで祐樹に抱きついてきた。女性特有の柔らかさが余すことなく伝わってきてドキりと心臓を鳴らす。とは言っても表にその感情を出すことはないので祐樹は電気を消して若葉と同じように抱きつく。
「…祐樹の匂いがする」
「僕の布団だからね。暑くない?」
「丁度いい。よく眠れそうだ」
「ひなたとはこうして一緒に寝たりするの?」
「……たまに、ならな。いや、ほとんどひなたのやつが押し切ることが多いんだ……察してくれ」
薄暗闇の中でも表情はなんとなく読める。乾いた笑みを浮かべて話す若葉だが、その言葉端には嫌悪というものは感じられない。何だかんだ言って嬉しいのだろう。素直に喜ばないのは意地なのか照れ隠しなのか分からないが、後者であった方が可愛げがあっていい。
もぞもぞと身体を動かし、若葉は顔を祐樹の胸に押し付けて深呼吸していた。
「ひなたは何時頃に帰ってくる予定なの?」
「午前中には戻ると連絡はきてたな。一緒に出迎えに行ってくれると嬉しいのだが……」
「断る理由はないね。一緒に行こうな、若葉」
「ありがとう、祐樹────んぅ」
寝る前の最後の口づけ。これで今日は終わる。
「……おやすみ祐樹。大好きだぞ」
「おやすみ若葉。僕も大好きだよ」
幸せを噛み締めながら、二人は微睡みの中に落ちていった────。
きっとこの甘え上手なのは未来に引き継がれているのかもしれないな!(断言
流石ご先祖様や……。