爽やかな風が吹き抜ける公園には二人の影しか見えなかった。
マリーと蓮だ。
本来いるはずの親子の姿はまったく見えず、笑い声も聞こえない。
静寂の公園を二人は横並びで見詰めた。
「君と同じ匂いがする人間だった」
「俺と同じ?」
唐突にしゃべりだしたマリーの言葉に蓮が眉を動かす。
「青には青の匂い、黄色には黄色の匂い、そして赤には赤の匂い」
マリーの言葉はそこで途切れた。
続くと思っていた先がないことに蓮が瞬きを繰り返す。
どうにか彼女の意図を読み取ろうと努力しているのだ。
そしてようやく蓮なりの答えに辿り着く。
「……絵の具の話か?」
単純な連想ではあるが、匂いがある色といえば絵の具が一番しっくりきた。
するとマリーは蓮を振り返って何度か頷く。
「ああ、そうそれ、絵の具っていうの?」
「絵の具を知らないのか?」
「絵を描くための道具でしょ、知識では知ってる。でもそれがどんな手触りなのか、匂いなのか、今までは知らなかった」
「知らなかったってことは、つい最近知ったのか?」
蓮もまたマリーの顔を振り返って少しだけ首を傾けた。
絵の具といえば蓮の大事な仲間が脳裏に浮かんでくる。
彼の可笑しな動向は、変人だからという度を超えている気がした。
もしもこの不思議な存在と関係しているのであれば知らなかった絵の具を知るタイミングに合っている。
「知らされた、のほうが近いかな。君は赤の匂いがして、その匂いと同じ彼を見かけたの」
ビンゴだ、と蓮は眉間を寄せた。
「……もしかして背が高くて……少し変な行動を取ったりする人間か?」
少しだけ問い詰めるような声音になってしまう。
そんな蓮にマリーは困ったように視線を落とし、幾ばかりか考えてから首を左右へ振った。
「わからない。ただ頭の中で、ゆうすけ、って聞こえた」
「君は祐介と会ったことがあるのか」
山籠もりのタイミングだろうか。
それとも昨日、武見に見て貰った後の事だろうか。
どちらにしろ祐介の行方を知る手がかりは彼女にかかっていた。
蓮の真剣な視線にマリーもまた細い記憶の糸を辿る。
「会ったっていうにはあまりにも短い邂逅だった気がする。ただ覚えているのは君と同じ匂いがしたってこと」
ごめんね、と一言付け加えられて蓮は首を振った。
「しばらく会ってなかったけど、絵の具の匂いがついてた……ってことは、さすがにないか」
蓮なりに自分と祐介の共通点を探ってみるが、一年も離れていたのだ、絵の具の匂いが身体に染みついていたはずがない。
だが同じ色の匂いがする、というのは紛れもない彼女の感性における真実だ。
そこに何かしらのヒントが隠されているのではないか。
蓮は湧き上がる胸騒ぎを抑え込みながら今度は身体ごとマリーを振り返った。
「……それで?祐介と会ったことと、俺をここに連れてきたことは関係があるんだろ?」
そう質問を繰り返した蓮にマリーは肩を竦めてみせる。
「驚かないね、君」
「多少驚いてはいるけど、俺も君に似た匂いのする女性を知っているから」
「ああ、もしかして長っぱなも?」
「俺もいろいろあったから。だからこそ君も俺の前に現れたんだろ?」
あの青い部屋の住人ではないかと思ってはいたが、やはり関係者であったと蓮は内心で確信した。
だが彼らとは何かが違う。
マリーは帽子を軽くかぶり直すと直視してくる蓮とは反対に広がる公園の緑を見詰める。
「別に君に逢うためじゃないよ。絵に描かれている赤ん坊、彼を探したかっただけ」
「祐介を?」
ぱち、とマリーが瞬いた。
「……ああ、繋がった。あの赤ん坊、君と同じ匂いの彼だったんだ」
なるほどね、と独り言ちるマリーに蓮のほうは性急に声を荒げてしまう。
「祐介と出会ったことがる君が、ルブランの絵に描いてある赤ん坊を探していて、そして赤ん坊は祐介のことだった」
「そうだね。端的に言えば、そう」
「結局一晩かけても祐介が見つからなかった君は代わりに俺をここに連れてきた?」
「結論を急ぐね。焦ってる?」
ずばり、と言われて蓮ははっと息をのんだ。
そして公園の澄んだ空気で深呼吸をすると頭を軽く左右に振る。
くるりとしたくせ毛が綿毛のように揺れてマリーの視界の端に映った。
「……焦って、いるかもしれない。大事な仲間の命が脅かされているかもしれないから」
「そう。……私、人間のそういうところ嫌いじゃないよ」
ふ、と。
表情の動かなかったマリーが笑った気がした。
場所はルブランへと戻る。
額ごとずれたサユリの絵が、惣治郎に向かって声を絞っていた。
『タスケテ……』
「な、なんだ!?」
驚いて腰をカウンターに打ち付けてしまう。
痛みは感じたがそれよりもサユリに視線が釘づけだった。
サユリはその神秘的な表情のまま、けれど悲しみに満ちている雰囲気で儚げな声を紡いでくる。
『……ワタシノ、ダイジナコ……』
その言葉に惣治郎は視線を左下へと移動した。
「大事な子……?っと、なんだ、これは……赤ん坊がいなくなってる!?」
ぎょっとしたのは描かれていた赤ん坊のいた箇所がどす黒く塗りつぶされていたからだ。
まるで黒い霧に神隠しにでもあったようにも感じられる。
赤ん坊が消された、ではなく、いなくなった、と思ったのはそのせいかもしれない。
『……タスケテホシイ、ワタシノコ……』
再び惣治郎の視線が女性へと移動した。
「サユリ、って……確か、あいつの友達の母だったよな」
たくさんのことが起こった一年前の出来事が脳裏に浮かあがる。
その中で出会った芸術家の卵、喜多川祐介。
先ほど姿が消えてしまった彼だと惣治郎は認識した。
そんな惣治郎に縋るように声は続く。
『トリックスター……ジョーカー、カレ、ナラ……』
「ジョーカーって……蓮のことか?」
尋ねた惣治郎は再び腰をカウンターに打ち付けてしまった。
サユリの瞳からぽろりと涙が零れてきたからだ。
聖母像から涙が零れる奇跡は聞いた事があるが、絵から雫が垂れてくると恐怖すら感じられる。
「っ、わかった、わかったから泣くな!……ったく、いつになったって女の涙は寝覚めが悪い……」
『タスケテ……』
「とりあえず、蓮を探せばいいんだな?危ないから落ちるんじゃねぇぞ」
直した額をそっと撫でると惣治郎はエプロンを外し休業の札を取ろうと歩き出した。
女性に弱い自分は昔からどうにも治らないものだと思いながら。
そしてまだ片付いていないカップが視界に戻ってくる。
自分の手から滑り落ち、割ってしまった蓮のお気に入りのカップだ。
それはまるで蓮のあやうさを感じさせ、惣治郎の顔が渋くなった。
「……また危ない橋を渡らせなきゃならねぇのか?」
だが力のない自分にはどうしようもない。
サユリを助けることも、蓮を手伝うことも、出来やしないのだ。
(つづく)