どうして。
高巻杏があんなところにいるんだ。
考える前に、私の足は動き出していた。
屋上へ。二つ階段をのぼった先。私は二段飛ばしで駆け上がる。
一度踏み外して、脛に階段の先を殴打した。痛みはない。再び歩き出した五歩目くらいで、じんわりと痛みが広がってくる。
まだ『その音』は、私の耳には入っていない。間に合え。間に合ってくれ。必死の思いで息せき切りながら、私はノアノブに手を掛けた。
……でも。
「……っ、なん、で!」
開かない。
鍵が掛かっているのか。
『もう屋上には近づかないこと。一応言っとくけど、先生の間で話し合って、当分の間は屋上の鍵を閉めておくことに決まったから』
朝の会で言っていた、川上の言葉を思い出して私は舌打ちする。
「開いてよ……くっ、なぁ、聞いてるか? 高巻、頼むから、開けてくれよ、なぁ」
返事はない。
私は強引に開けようと、ドアノブを力任せに引いては押して、扉の破壊を試みる。
しかしビクともしなかった。
「私だ、里中だよ、あの不愛想で、人の気も知らないで分かった気になってる、面倒くさい女」
いつしか私は無意味な言葉を紡いでいた。
もう届くことがないことは分かっているのに。
タイミングを逸してしまっていることは、分かりきっているのに。
それでもまだ間に合うんだと信じ込んだ。そうでもしないと、迫ってくる恐怖と焦りに、どうにかなってしまいそうだったから。悔恨と諦めの悪さが混ざった言葉は、溢れ出して止まらなかった。
「あのな高巻、私、最近上手いカレー屋を見つけたんだ。良かったら、高巻も一緒にどうかなって。そこなら、高巻が最近悩んでることも聞いてあげれる気がしてな。ああ、そう、最近お前、なんか変に思い詰めてるだろ。聞いてやるからさ、お前、そんなとこで突っ立ってないで、こっちに来なよ」
返事はない。
「なぁ、高巻、お前なんでそんなところにいるんだよ。いくら私が反応しないからって、そんな興味の惹き方はないだろう? ぶっちゃけあり得ないから。でも、私の降参だ。負けたよ。仕方がないけど、話を聞いてあげる。だからさ、なんか言ってよ。返事してよ、そうじゃないと、わた、」
返事はない。
「―――――――――――ぁ、」
代わりに『その音』が聞こえてきて。
私は。
目の前が、真っ暗になった。
私は逃げるように家に帰って、そのまま何もしないでベッドに突っ伏した。雑念が頭の中を占拠して離れてくれない。無為な時間を過ごしていると、いつしか夜が明けていた。
着た服のまま、寝癖を少しだけ直して、私はまた家を出る。着いた教室の騒ぎようと、ある一つの勉強机に置かれた花瓶を目の当たりにして、私はようやく事の顛末を知った。
休みたかったのに、学校まで来てしまったのは、一つ目的があったから。
昨日の熱が冷めない教室を後にする。廊下の空気もどこか浮ついている気がする。他の人にとっては、舞い込んできた非日常として消化されていくのだろう。話の種は言わずもがなで、重傷を負った愛人の後を追ったのだと憶測している人もいた。
失礼します、と誰にも聞かれない声で呟きながら、私は職員室の扉を開ける。いた。私は彼女の元へ行って、そっと声を掛けた。
「あの、川上先生」
「え……里中、さん?」
「少し訊きたいことがあるんですけど」
「……あなた、敬語使えたのね」
「はぁ、まあ」私は頷いた。「首筋が結構かゆくなります」
「……」
あと、舌を噛みそうになる。
川上は咎めるように私を見た。
私は目を逸らす。
「まぁ、いいけど。でも残念。私、これからちょっと忙しいの」
川上は自分の腕時計をチラっと見た。
時間を気にしているらしい。
「ああ、いえ」舌を甘噛みしながら、私は言った。「すぐに済むことなんで」
「あー……そう? 何?」
「単刀直入に言うと」私は言った。「鈴井志帆がいる病室を教えてください」
聞くなり、川上は気だるげに息を吐いた。
「……はぁ。わざわざ放課後に職員室に来て一体何の用だって思ったら。どうしてそんなことを私に聞くわけ?」
「近々、高巻と鈴井のお見舞い一緒に行くって約束してたんですけど。でも、もう、無理じゃないですか?」
「え……いや、まあ」
ここで高巻の名前が出たことが予想外だったのだろう。川上は少し、面食らった表情を浮かべていた。
「……里中さんって、高巻と仲良かったの?」
「ええ、はい」私は頷いた。「それなりに」
「ふうん……、そ」
「じゃあ、」
「でも、ダメ。いくら友達の友達だからっていっても、そう簡単に他人の個人情報は渡せられないのよね。ほら、最近、そういうの色々と面倒くさいからさ」
「はぁ」
「ごめんね。あ、やば……そろそろ時間。じゃ、そういうことだから」
何か予定があるのか、まだ皆はせせこら机に向かって何かをしているのにも関わらず、川上は机の上をがさつに鞄に詰め込み始める。
やっぱり、駄目だったか。
じゃあ、多少強引な手段を使わないといけないようだ。
「別に、慰めの言葉を掛けてもらうためにここに来た訳じゃありません」
「……はい?」
「あの、これ」私は、一昨日拾った広告のチラシを見せた。「これ、教室に落ちてましたよ」
「え……あ、あぁ! そ、そう……なんだ。ありがと、じゃ、これは先生が、」
先生がそのチラシを取ってしまう前に、私は手を引っ込めた。
川上の手が虚空を掴む。
「ここ、先生の職場ですよね」
「は、はぁ? 何の話よ」
「チラシに書いてある店です」
「ちょっと、やめてよ、そんな冗談」
「昨日、たまたま先生と同じ電車に乗って、たまたま同じ道を歩いていたら、このチラシと同じ看板の店に、川上先生が入っていくところをたまたま見かけたんです」
鎌をかける。
昨日行っていたとしたら、まず間違いなく白を切ることはできない、と思う。
行っていないとしても、何らかのアクションはあるはずだ。
私の言葉に、川上はまだ余裕のあったその表情を変えた。敵意が感じられる目だった。
どうやらビンゴらしい。
「……私のこと、つけてたの」
「たまたまって言ってるじゃないですか」私は淡々と言った。「あと、そういう店、結構興味があって」
「……はぁ、冗談はもういいわ。東京――病院。204号室」
「ありがとうございます」
折れてくれた川上に一応礼をして、私は職員室から出ていこうとした。
「どうして分かったの?」
振り向くと、目に隈を拵えた川上が、忌々しげに私を見つめていた。
その曖昧な質問を多少自己解釈して、私は言った。
「秀尽学園七不思議の一つなんです」
「はい?」
「川上先生は放課後帰るのがとても早い。でもいつも眠たそうで、顔色が悪いから、帰ってすぐ寝ている訳でもないらしい。じゃあ男と遊んでるのかと言われても、男っ気があるようにはとても見えない」
「余計なお世話ね……」
全くだった。
「でも。……さっきの。私のセリフだから」
「……? 男っ気がですか?」
私に?
男っ気がない?
……まぁ、そうだけど。
「顔色」川上は言った。「今の貴方のほうが、よっぽど悪い」
「……」虚を突かれて、私は慌てて取り繕う。「別に。いつも通りだと……思います」
「毎日、貴方の顔見てたら分かる」
「え」
見て、たんだ。
私を。
そして多分。他の皆も。
意外と川上はいい先生なのかもしれない。
「……こわ」
「……私、一応貴方の担任なんですけど」
川上の突っ込みを無視して。
私は職員室を出た。
病院には面会時間というものが決められているようで、ここに来てから随分と待たされてしまった。
リノリウムの床の上を歩きながら、私は鈴井志帆のいる病室を目指す。造花だか本物の花か見分けがつかない花瓶が、廊下の隅に置かれてある。
204号室の扉に手を掛けた瞬間、私がここに来た動機が脳裏をよぎった。その自己中さと気持ち悪さに、自然と表情が歪む。
でも、こういう生き方を選んでしまった以上、後には引き返せない。
精神衛生的に明るい未来を生きることが、私の行動原理だから。
秀尽学園と同じ、スライド式の扉を開ける。斜陽が目に入って思わず目を閉じた。
果たしてそこには、暮れなずむ夕日をぼうっと眺めている鈴井志帆が、ベッドの上に足を伸ばして座っていた。
「杏?」
言って、鈴井志帆は私を見た。見てから、バツが悪そうに目を伏せている。
私はその自然な動作に、ちょっとした違和感を覚えた。
「あ……ごめんなさい」
「い、いや、いい」私は言った。「杏って……高巻のことか?」
「そうだけど……」
どうして知っているの? と、鈴井は目で私に問いかけた。
私はブレザーの赤いボタンを鈴井に見せる。
「ああ、私、高巻のクラスメイトで」
「そう、なんだ」
鈴井の芳しくない反応を見て、まだ私に対する疑念が解かれていないことを悟る。
もうあと一押しが欲しい。私は手近な嘘を重ねた。
「最近まで、高巻とよく話していてな。だから、その……高巻とよく話していたのが鈴井さんだって、高巻から聞いていたんだ」
いきなり杏の話を持ち出すなんて、無神経だったかもしれない。でも今は、鈴井の触れて欲しくない部分を気にするほどの余裕はない。
嫌な顔をされるとさえ思った。でも、鈴井の反応は真逆だった。
「あ...もしかして、里中さん?」
「え?」
どうして鈴井が私の名前を知っているんだ?
「そう、だけど」
「やっぱり!」
「やっぱり?」
私は首を傾げた。
「ブスッとした顔つきと、圧倒的に似合ってない制服がトレードマークだって、杏が前に言ってたから」
「……」
あの野郎。野郎じゃないけど。
ブスッとしているらしいそれを更にブスッとさせて、私は頭をかいた。
「あ……ごめん。初対面の人に、いきなり失礼だよね」
「いや、別にいい」
「そっか……。ここ、座る?」
言って、鈴井は近くの椅子に視線を向けた。
願ってもない話だった。願ってもない話、だけど。
また感じる違和感。私はようやく、その正体を掴めつつあった。
どうして……どうして鈴井は、悲しんでいないのだろう。
大切な友人を失っているのに。
空元気だろうか。それとも私を気遣って、涙を隠しているのか。
疑問を残しながら、私はありがとうと言って、椅子に座った。
「今日、杏来ていないんだよね」
「そうなん……だ?」
え?
「LINEにも出なくて。ちょっと心配だったけど、里中さんが来てくれたから、ちょっと、安心した……かな」
「あ……」
そうか。
ようやく分かった。
鈴井はまだ、知らされていないのか。
気づいた瞬間に、いたたまれなくなってきた。
でもむしろ、これは好機なのかもしれない。もし知っていたら、杏のことを聞きづらかっただろう。しかし鈴井に情報が回ってくるのも時間の問題だとも思う。
早く、『あれ』を聞きださないと。
でも。
なぜか言葉が出てこない。
「里中さんからも、LINEお願いしようかな。杏って、結構マメな方なんだけど」
意味がない。
杏へと送ったメールは、二度と返ってくることはない。
「でも、いつ来てくれるんだろうね。モデルのバイト終わりかな」
来るはずがない。
高巻杏が、この病室を訪れる未来はやってこない。
「そういえば、どういった成り行きで、二人は話すようになったのかな? やっぱり……杏から?」
話せない。
ぶっきらぼうに話しかけてきた杏へ、何かまともな会話を続けられるチャンスは、もうない。
ルブランに誘うことも。
高巻がどうして私に話しかけてきたのかを知ることも。
三人でどこかへ出かけることも。
教室から出て走っていく高巻を追いかけることも。
ない。
ない。
ない。
だって。
高巻はもう、死んでしまっているのだから。
「あ……」
実感だった。
ようやく私は、高巻が死んだことを理解した。
高巻に関する全ての可能性が絶たれてしまっていることに、納得してしまった。
もう引き返せない。
昨日に高巻を一人残して、私は時間に呑み込まれていくんだ。
頬に熱い何かが伝った。
私は鈴井にそれを見られないように隠した。
どうして私は泣いているんだろう。
「ちょっと、ごめん」
ぐちゃぐちゃになった頭で、なんとか私は鈴井に言って。
病室を出た。