一色双葉の言う通りに進んで行くと、とあるマンションの一室に着いた。
『一色』
表札にはそう書かれている。
中で人が動いているような気配はない。
とりあえず、インターフォンを押してみる。
……誰も出なかった。
『この時間帯は、いつも伯父は仕事に出かけている。中には彼女しかいない』
「でも、誰も出ませんけど」
『なら、入ればいい』
「……え?」私は耳を疑った。「鍵、掛かってないんですか」
『そうだ』
と一色双葉は自信ありげに言った。
「……伯父さん、随分と不用心な人なんですね」
『いや』と一色双葉は言った。『今日だけだ』
「今日だけ?」
『ああ。20XX年のこの日だけ、彼は部屋に鍵を掛け忘れていく。だから今日だけ、中に入ることができる』
「どうしてそれを、」
知っているんですか。と私が聞く前に、一つの可能性に思い当たった。
一色双葉が私に電話を掛けた動機。
そして、一色双葉が事情を知りすぎている理由。
それは。
……まあ、それはこの扉を開けてみれば分かる話か。
ドアノブを捻る。簡単に開けられた。
中に入る。
私の住んでいる所と殆ど変わらない構造のようだ。右手にシャワールームへ繋がる扉。左手にはキッチン。そして奥の扉を開けた先には、恐らくリビングがある。
ニオイ。
その人の家には、その人の家ごとのニオイがある。友達の家に行ったときに覚える違和感が、その最たる例だ。その部屋の持ち主からは感じることのできない、部屋全体に染み付いたニオイ。
この家は。
「う……」
ゴミ。
生ゴミのニオイがする。腐乱臭。
追って、アンモニアが鼻にきた。しかしここはもちろんトイレではない。れっきとした家だ。
れっきとした家……の、はずなんだけど。
「鼻つまんどけ、モルガナ」
「忠告が遅ぇ。おえぇ……」
「やめ、ちょ、おい、絶対に鞄の中では戻すなよ。なんとか飲み込め」
「無茶言うなって」
しかし、本当にここは人が住んでいる所なのか? というより、人が住んでいい場所なのか?
キッチンには食器すら置かれていない。
代わりに、タレなんかでべた付いたプラスチック容器がそこら中に散乱している。
この部屋の住人が、スーパーの総菜売り場で手にしたものだろう。
「こんなところに、本当に」と私は言った。「人がいるのか?」
「いる。奥の部屋で、小さな息遣いが聞こえるぜ」
「……。さすが猫耳」
「猫じゃねえ」
私はリビングと廊下を隔てる扉の前に立った。
今更罪悪感が押し寄せてくる。不法侵入。
でも、もう腹は決まった。
助ける。そして連れ出す。それだけだ。
ドアノブに手を掛けて、一気に押した。
「……」
「う…………ぁ?」
いた。
黒髪。
薄汚れた衣服。骨が透けて見えそうな、細くて青白い手。
大きな眼鏡を掛けた少女。
その眼鏡の奥にある呆けた目で、私を見つめている。
「お前か」
「お、おま……っ、だ……?」
呂律が回っていない。
私の登場に驚いている。
ということは、電話の主じゃない。
「一色双葉じゃない……?」
一色双葉があまりにも事情に詳しかったから。
この部屋にいる人本人が一色双葉だと思っていた。
じゃあ、目の前にいる少女は、誰だ。
「ど、どうし、て……」
少女はようやく、言葉らしい言葉を発した。
「私の名前を、知ってる」
「え?」私は驚いた。「一色、双葉?」
「……」
一色双葉(?)は、無言で頷いた。
どういうことだ?
彼女が一色双葉で?
自称未来人が一色双葉じゃない?
……頭が混乱してきた。
「お、おいシノブ。ちょっと落ち着け」
「じゃあ今、何が起こってるか説明できんのか」
「ちょっと考えたら分かることだぜ」とモルガナは言った。「猫でも分かる」
「やっぱお前猫じゃないか!」
「そんなこと言ってる場合じゃないだろ!」
「……はい」
窘められた。
現実逃避の時間、終了。
モルガナに言われた通り、ちょっと考える。
私に怯えている少女は、様子からして紛れもなく一色双葉であり。
一色双葉と名乗る自称未来人は、彼女を助けて欲しいと言っている。
この前提条件は変わらない。
ということは、つまり。
つまり。
「……ああ」
誰も嘘吐いていない可能性が一つだけあった。
自称未来人が、本当に未来人だったら。
全ての辻褄が合う。
つまり、未来人も紛れもなく、未来から電話を掛けている一色双葉であり。
過去で苦しんでいる自分を助けたくなった。
だから私に電話をした。
この日に鍵が開いていることを知っているのは、単純に一色双葉が覚えていたから。
少女の気持ちに詳しいのは、自分自身だから。
そういうことか。
「なるほど」
一つだけスッキリしない部分はあったが、とりあえずそれで納得することにした。
では、今考えなければならない事柄は。
依頼主の要求通り、今の一色双葉をここから連れ出すこと。
「来い」
「え……?」
「来い。こんななんにもない所で座ってるのもなんか暇だろ」
不法侵入。拉致。
罪が実感となって押し寄せてくる前に、私は双葉をさらいたかった。
「い……いや……。し、知らない人には付いて行くなって、ネットで書いてた」
「ネット情報」
ネットを触れる状況にはあるんだな。
……いや、そういうことではなくて。
まあ、当たり前の反応だろう。今すぐ強引に手を引っ張りたくなってくるが、泣き叫ぶ少女を肩に担ぎながら、マンションの階段を降りていく様子を誰かに見られでもしたら、とても言い逃れはできない。
どうする。
とりあえず、優しい言葉を投げかけてみようか。
「大丈夫だから」
「……いや」
「怖くないって」
「怖い」
「オジサンと、イイコトしよう」
「絶対嫌だ!」
あれ。
更に拒否反応を示されてしまった。
「全く、頼りにならねぇな。……それにお前、オジサンはねぇだろ」
「モルガナ」
モルガナは、いつのまにか鞄からその姿を現していた。
四足歩行で、器用にゴミを避けながら歩いて、双葉の目の前に座る。
「保護者に、虐待されてんだろ。んなとこに、いつまでもいる理由はねえじゃねぇか。シノブの見てくれはこんなだけど、信用はできる奴だ。だから、安心してシノブに頼ればいい」
「おお……」
なんかジンとくる。
それに、掛けてあげるべき言葉も的確な、ような気がした。
なかなかどうして頼りになる男だ。
「……」
双葉もその言葉に何か思うことがあるのか、猫をじっと見つめている。
そして。
「……この猫、にゃあにゃあうるさい」
「あっ」
「ガーン!」
忘れてた!
モルガナの声、普通の人には聞こえないんだっけ。
モルガナと喋る時は、いつも二人きりだったから。完全に。
「「忘れてたー……」」
「なに?」
「あ、いや」と私が言った。「お前、保護者に……ひどいこと、されてんだろ? 服も汚いし、多分、君の年代の子なら、もっといい物食べてる」
「……」
双葉は何も喋らない。
沈黙を嫌った私は、苦し紛れに言葉を紡いだ。
「ここの暮らしが快適って訳でもないだろう。なんか暗いし……ちょっと臭うし。ま、こんな所がどうしてもいいってんなら、話は別、」
「いい。ここで、いい」
「……いや、今のは冗談で、」
「いい。ここで私は暮らすの。助けなんて、いらない。ここで生きて」
双葉は言った。
瞳には、生気が宿っていなかった。
「そして死ぬ」
「え……」
一つ。
一つ、スッキリしない部分があった。
未来を生きる一色双葉は、20XX年の今日、鍵が開いていることを知っていた。
しかし、ここにいる一色双葉は、家から一歩たりとも出ていない。
その理由を、私は考えあぐねていた。
「知ってる。今、鍵が開いてないこと。……伯父さんが出てった時、鍵の音、しなかったから。だからお前らは入って来れた」
「じゃあ、君はどうして、」
「それが罰だから」
と。
双葉は、その冷え切った目を私に向けた。
「私は罪を犯した。それは、誰にも許されないことだった。でも、皆私をなじるだけで、直接的な罪は与えなかった。だから私は、私に罰を与えた」
機械音声のような、抑揚のない声で双葉は語り掛ける。
双葉は相変わらず私を見ていた。
けど、誰も見ていないような気もした。
「罰って、」
「こんな自分、さっさと死んでしまいたい。でも、死ぬ勇気はない。だから、ここで
何もしないまま、死――」
「人の、話を、聞け!」
私は意図的に大きな声を出した。
ほんの少しだけ、双葉の表情が動いた。
「……怒んないでよ」
「怒ってねぇよ」と私は言った。「でもさ、なんというか、そういうのって苦しくないか? 昔のことうじうじ考えるより、明日どこ行こうとか、何食べようとか、未来のことを考えた方が、よっぽど楽しい人生を送れる気がしないか?」
「何が、言いたいの」
「何が言いたいって」
私は考えた。
考えている地点でそれは、双葉を説得するための虚像なのかもしれない。
そのことを分かっていながらも、私の頭は思考を止めなかった。
「もっといい人生観が、あると思う。昔がどうだったかって、そんなの今となったらどうでもいいことだってある。過去に縛られて生きるのは、なんていうか、色々と辛いだろ」
私はこんがらがる頭の中で、思いついたことをひたすら言葉に変換した。
それはちゃんと意味をなしていたのか。分からない。
それは双葉の心に響いたのか。分からない。
私はただ、双葉を待つしかなかった。
「私のことを何にも知らないくせに、よくそんなことが言える」
ああ。
またか。
またその言葉か。
『又聞きの情報だけで、勝手に私を判断しないで!』
でも、その通りだった。
私は何にも知らない。
どうして双葉は鍵の掛かっていない部屋から出ないのか。昔、どんな罪を背負ったのか。どうして彼女は産みの親にちゃんと育てられていないのか。どうして双葉は死のうとしているのか。どうして未来の双葉から私に電話が掛かって来たのか。引いてはモルガナのことだって。高巻杏のことだって。
だから分からない。他人と分かり合えるはずがない。
ずっとそう思って生きてきた。
それなのに。
それなのにどうして、私はまだ彼女を助けたいと思っているのかにさえ。
理由を見つけることができなかった。
でも、一つだけ分かったことがある。
それは、今のモルガナと私では、今の双葉をどうすることもできないということだ。
だから私は、切り札を出すしかない。
『……ぃ』
ちょうど、スマホから小さな声が聞こえたような気がした。
スマホを耳に当てる。
『……おい、何をやってる。そろそろ伯父が帰って来る時間だぞ』
「あ……すみません。だから、その」
『なんだ?』
「代わってください」
『……分かった』
言われることを予想していたのか。
それとも今の会話を聞いていたのだろうか。
一色双葉はそう言った。
『ナビを起動させたまま、渡せ。あと……』
「……? なんですか?」
『別に、タメ口で喋ってくれても構わない』
「……はぁ」私は曖昧に頷いた。「分か……った」
スマホを双葉に渡した。
初めは抵抗する素振りを見せてはいたが、しぶしぶ、それを手に取ってくれる。
『もしもし』
「……もしもし」
「なあ、モルガナ」
「なんだ?」
私は双葉が持っているスマホを指で指した。
「あれって、なんか、タイム理論的にありなのかな」
「知らん」
胸にちょっとした心配と不安を残したまま。
『一色双葉』『一色葉司宅』『墓』
謎の単語が、スマホから聞こえて来た後に。
双葉はスマホと共に消えた。
「「……え?」」
消えた?
「消えたな」
「うん。……あ、もしかして、あれか」
「多分違うと思うけど、飼い主の気持ちを尊重して聞いてやる」
「スマホ持って、その、転生的な……」
「アホ」
そんな馬鹿な会話をしてしまうくらいには暇だった。
「あと、気になったことがある」
「なんだ?」
「今さっき、一色双葉に『タメ口でいい』って言われたんだが」
「言われてたな。それが?」
「なんかちょっと、急すぎる気がしてな」
「……あー。それは、あれだろ」とモルガナは言った。「さっきの会話が聞こえてたんだろ。それで、ちょっと、一色双葉の胸がジーンってきたんだと思うぜ」
「……どうだか」
にわかには信じがたい話だ。
待つ。
……帰ってこない。
「……まずいな。もう、本格的に伯父が帰って来るんじゃないのか?」
「ああ。残念だけど、スマホは諦めて、」
「その必要は、ない」
腰をあげて、リビングに背を向けようとした私を、誰かが呼び止めた。
「世話んなった。これ、返す」
双葉だった。
ああ、とか、おう、とか、言葉にならない言葉で返して、私はスマホを受け取る。
双葉の瞳には生気が戻っていた。
今までのが、周りが暗かったことによる錯覚だったと思わせるような、晴れやかな表情をしていた。
「何してたんだ?」
「ちょっと覚醒してた」
「はい?」
「……なんでもない」
双葉は恥ずかし気に首を振った。
まあいい。
「ついてくるか」
「うん」双葉は勢いよく頷いた。「逃げる。逃げてやる。今よりましな人生を、探してやる」
「そうか」
やはり、何が起こったのか、私には分からない。
でも、今回はそれでもいいようだ。
私達はどちらからともなく、手を出した。そして、しっかりと握手をした。
「どこ行く?」双葉は言った。
「そうだな」実はもう決めてある。「銭湯だ」
「……どこの、戦場?」
「はぁ?」
私は言った。
しかしモルガナは何か思うところがあるらしく、プッと噴き出した。
「まずは風呂行く。お前、臭いし」
「えぇ……」
ジト目をしながら、口を変な形に曲げる双葉。
なるほど、そんな表情もできるのか。
「忍、デリカシー皆無!」