「雨宮、蓮?」
なんだ?
そんな名前を、つい最近どこかで聞いたような気がする。
思い出そうとしたけど、双葉に聞いた方が恐らく早いことに気づいた。
「なぁ、その雨宮ってのは、一体どんな奴なんだよ」
「……んー、えっと、ねぇ……」
「おい、じらすなって」
私は双葉を見る。
双葉は呆然と、壁に描かれた富士山の絵を見つめていた。
私の質問に答える気配はない。
「……もしかして、お前、」
あれだけ説明すると言ったのに。
あれほど張り切っていたのに。
『里中忍を説得できた私のいる世界』だとか、大層なことを抜かしていたのに。
「のぼせてる……?」
双葉の頬は、青森県産の林檎くらい赤く染まっていた。
「やっぱり、風呂上がりにはコーヒー牛乳だよなー! カフェインも摂取できるし、一石二鳥だし!」
カンカンに火照った双葉を、扇風機やら団扇やらで冷やすこと、およそ十分。
私が一人でやった努力も露知らず、双葉は瓶に入ったコーヒー牛乳に舌鼓を打っている。
服装はそのままだ。ちっこい体だとは言っても、それなりにくびれはあるらしい。多少結び目が緩くなっていても、なんとかタオルは持ちこたえている。
そうだな、と私は適当に返して牛乳を煽る。瓶で飲む牛乳と、コップで飲む牛乳はどうしてこれほどまでに味が違うのだろう。
ただの気のせいか。それとも風呂上りだからか。
分からない。
「ちなみに……なんだけど」
「うん?」私は双葉を見た。
「忍はどんなペルソナ、持ってる?」
ペルソナ?
私が?
「持ってないけど?」
「えっ?」
「え?」
一体何に衝撃を受けたのか、双葉の手から牛乳瓶が滑り落ちる。幸い、中身は全て双葉の腹の中に収まっていたようで、ガツ、という固い音が鳴っただけで済んだ。
「忍、ペルソナ、持ってないの?」
「ああ」
「何で?」
「何で、って言われてもな」私は頭を掻いた。「皆ペルソナ持ってて当然みたいな言い方をするな」
ペルソナは、現状に抗う意思を持つ人にのみ与えられる力だと、モルガナは言った。
しかし、私は今を受け入れてしまっている。双葉のような生き方は、まるで流れの変わらない川を、逆に泳いでいくようなものだ。それはとても疲れることだし、面倒くさい。
テストで悪い点を取れば「頭が悪いから仕方がない」と諦めたり。
仕事で失敗をすれば、お酒を飲んでごまかしたり。
誰もがペルソナを持っているとは限らないのだ。
「じゃ、じゃあ、なんで……私を助けたの?」
「……」
それは。
双葉を助けたことと、双葉に協力をすることは別件だから、なんて。
悲しそうな目を向ける双葉に、突き放すようなことを言う気にはなれなかった。
だから私は、手駒を取り出して、その場を誤魔化すことにした。
「私はペルソナを持ってない。……が、モルガナは持ってるようだぞ」
「もるがな……? モルガナって、あのにゃんこのことか?」
「ああ」
「あのニャアニャアうるさい?」
「あのニャアニャアうるさい奴だ」
「にゃんこなのに?」
「しかも、喋れるというオマケ付きだ」
「まじか! おトクすぎる……」
愛玩動物の代表である猫が、口悪く喋り掛けてくることは、果たしてお得なのかどうかは一考の余地がありそうだが。
とにかく、双葉は私の事を信じて……、
「……って! そんなの信じる訳ないじゃん!」
……くれてはいなかった。
まあ、そうなるよな。
でも、ここで引き下がれない。
「じゃあ、逆に聞くが、どうして未来の双葉は、私に連絡を入れたと思う? ペルソナを持っていない、私に」
そして、ペルソナを持つ気のない私に、だ。
仮に私が双葉に協力したとする。でも、限度がある。少なくとも、私がパレスに行っても足手まといになることは目に見えている。
とすると、一色双葉は私に興味がなかったのではないのだろうか? あくまで一色双葉は、私が一時的に飼っている『モルガナ』というカードが欲しかったのではないだろうか。
だから強引に私と接点を持とうとした。
私という戦力が欲しかったんじゃない。
モルガナというペルソナ使いを必要としていた。
だから異世界ナビを私のスマホに寄越し、モルガナと引き合わせた。
私がメメントスに行けたのはまぐれだし、モルガナを道端で拾ったのも気の迷いだ。
でもそれらは全部、『一色双葉』にとっては過去の事象でしかない。
全てが収束しているのだ。
『一色双葉』からの電話は、まだ掛かってこない。
それでも全部、繋がっているような気がした。
「でも……でもさ、モルガナって忍の飼い猫なんでしょ?」
「あいつは所詮居候の身だ。元々、数日経ったら追い出すつもりだった」
「う……んん」
双葉は顔をしかめる。
視線は、モルガナが待っているはずの方に向けられていた。あいつはちゃんと力になってくれるのか。私にも分からない。
疑うような目で遠くを見る双葉が、私に向き直る。
「……ん。とりあえず、この件は保留な」
といった次の瞬間。
双葉の腹の虫が鳴った。
のぼせたり飲んだり食べたり、忙しい奴だな。
私は、近くにある飲食店を思い出す。
ここじゃ……やっぱりあそこか。
あのマスター、まだちゃんと店を崩さすにやっているのだろうか。
「あ……えへっへ」
双葉は不器用な笑顔を顔に張り付けている。
感情の起伏はあるけど、感情表現と表情筋がそれについていけていないといった感じだな。
まあいい。私も言えたものじゃないことは自覚している。
「私も腹が減ってきた。奢るよ。別にどこでもいいだろ?」
「あー……えっと、実は一個、寄りたいところがある」
「なんだよ」
「ルブラン」
「……え?」
「ルブラン。そこに行けば、なんとかなるって、私が言ってた。あ、未来の」
ルブラン。
懐かしい響きに、色んなことを思い起こされた。
「さいですか」
「……私も、そう思うし」
「?」
一段階声を低くした双葉が気になって、双葉を見ようとする。
でも、大きく垂れた前髪が邪魔になって、表情をよく見ることはできなかった。
まあいいか。いずれ分かるだろう。
私は瓶に残った牛乳を一気に飲み干して席を立った。
「入るぞ」
「あぁ?」
ルブランは相変わらず閑古鳥が鳴いていた。
カウンター手前の黒電話を目にすると、一瞬遅れてコーヒーのいい匂いがやってくる。ああ、こんな感じだった、気がする。訳もなく、昔のことが思い出された気持ちになる。
左手のテーブル席か、右手のカウンター席のどちらに座ろうか悩む。まあ、あまり声を大にして言えるようなことじゃなから、テーブル席にしておこう。そう私は決めて、真ん中の椅子に双葉を誘導した。
「……ってなんだよ、里中か。全然面見せねぇなと思ったら、こうやってふらっとやって来る」
「この辺りに腰を落ち着けて話せる場所がなくてな。ここ、借りさせてもらうよ。どうぞ、お構いなく」
「お構いなくってお前、ここは俺の家じゃねぇ。店だ。何か注文するくらいの気概を、」
見せろ、と言おうとした(と思う)マスターの口が止まる。視線は、私の背後で縮こまっている双葉に向けられている。
「連れか?」
「見りゃ分かるだろ」
「へぇ……お前さんが、連れ、ねぇ」マスターは目を細めて私を見た。「珍しいじゃねえか」
「ああ、うん、まあな」
私は言葉を濁した。ここに誰かを連れて来た記憶は、私の中にも、そしてマスターの中にも恐らくない。
小さい頃、四茶に住んでいたことがあった。だから、時々ここに来ることがあった。
といった、短い二言で括れる話ではない。
積もる話もある。けれど双葉を前にして、思い出話に花を咲かせることはやっぱり違うとも思う。マスターもきっと私に聞いてこないのも分かっている。
だから私は、対面に座った双葉に言った。
「ここ、他もそこそこだけど、カレーだけはやけに旨いんだ。前も普通に美味しかったんだが、ある日人が変わったみたいに味が激変してな。あれ以来、何かヤバい物をカレーに入れたって私は思ってる」
「……! じゃ、じゃあ……私も、それ、で」
「……あ、ああ」
私は曖昧に頷いた。
やっぱり、銭湯を出る前から双葉の様子がおかしい。
まだ、のぼせた時の後遺症みたいなものが残っていたりするのだろうか?
まさか、マスターに人見知りしているはずはないと思うけど。……いや、それなりにありそうだな。
「おい、大丈夫かよ」
私は小声で聞いた。
「う、うん」
「ポカリ、まだ鞄に残ってるけど、」
「いや、いい」双葉はピンと張りつめた声で言った。「私も、カレーで」
「ワガハイも食べたい」
「おお」
モルガナ。
いや、忘れてなかった。本当に。
「じゃあ、ええと」私はカウンターの向こうで立っているマスターに言った。「ルブランカレー二つ。あと、小皿も一つくれ」
「あいよ。コーヒーはいらねぇのか」
「……あー。じゃあ、いつもの」
「いつもの? お前が余りにも来ねぇから、忘れちまったよ」
「……そうか。まあ、その年になったら、物忘れもひどくなるのかもしれないな」
「嘘に決まってるだろ。いつものブレンドな」
マスターは適当に手を振って、奥のキッチンへと消えていった。
私は多分、マスターに口で勝てる機会はない。
それでも、つい生意気な口をきいてしまうのはどうしてなんだろう。
分からない。
それより双葉が心配だ。さっきよりか表情はマシになっている。でも、まだ少しだけ緊張の色が浮かんでいた。
「なんなんだよ、さっきから」
「なんでも、ない。それより『終焉』のこと、話す。銭湯で話しそびれた、から」
「ああ」と私は言った。「そうだったな」
私は頭を切り替える。
双葉のアホ毛がふわりと一回なびいた。
「パレスの主を倒すと、現実世界にいるソイツが改心することは知ってるか?」
「ああ、うん」
「じゃあ、パレスの主を殺すとどうなる?」
「ええと」私はモルガナが言っていたことを思い出した。「廃人化するん、だっけ」
「そう、そうだ」双葉は頷いた。「彼は、それを利用するの」
双葉は言った。
「利用、って?」
「そのままの意味。皆、認知世界のことなんて知らない。だから、認知世界でどんな行動に出ても、足がつかない」
「え、それって」私は聞いた。「じゃあ、誰かが認知世界を利用して、現実世界にいる誰かを廃人化させるってことか?」
「そゆこと、そゆこと」
双葉はあっさりと頷いた。
アシがつかない。
つまり、認知世界を使えば、完全犯罪を成し遂げられるということだ。
少なくとも、現実世界においては。
「一週間もしない内に、一人目の被害者が現れる。一か月後にはもう一人。どちらも、あり得ないような死に方だった、らしい」
「……そりゃ、ひどいな」
「その時は、どっちも自殺で処理されるの。……証拠がないからな。でも、その事件には、二つの共通点があった」
「共通点?」
「死んだ傍にはどっちも、『予告状』が置かれてるらしい。オタカラは頂戴した。そう書かれてるんだ……って、私は言ってた」
双葉は言った。
「オタカラって、あれか。パレスを攻略したら手に入るっていう、」
「どうだろ。オタカラを盗むのだとしたら、パレスの主を殺す必要はない。だって、無力化させるだけでいいから」
オタカラって、多分、その人の命だと思う。
双葉は、苦々しい顔で呟いた。
「……マジかよ。それは、何ていうか、ひどい話だな」
「でも、世間はそうは思ってない、みたいなの」
「え?」
「もう一つの共通点がそれ。一人目と二人目、どっちも、文句の付けようがない悪人だった。皆は怯えるどこか、逆にソイツを応援し出すんだ」
「……」
「『悪い奴らを退治してくれる、人の命を盗む怪盗』がいるって。『悪を打ち倒す正義が現れる』って。そんな噂が一気に浸透し始める」
「……なるほどな」
悪は倒されるべきだし、いくら叩こうが構わない。
何故なら彼らは悪で、少なくとも私の方が善人だから。
勧善懲悪の風潮は、今に始まったことじゃない。
でも、だからこそ、双葉の言っている『未来予知』は、あながち信じられないものじゃないとは思った。
「で、次にやっつけられるべき悪人が、『怪盗お願いチャンネル』っていう非公式サイトのランキングに載り始める。そしてランクの高い人から片っ端に、黒い噂のある有名人が断罪されてく。しまいには恨みを持ってる人、クラスで気に食わない人、電車の中で肩がぶつかった人……次々に、廃人化されてくんだ」
「それが、『終焉』か」
「うん」
「で、その怪盗の名前が、雨宮蓮で?」
「うん」
「雨宮蓮は、パレスを持っていると」
「うん」
謎の怪盗によって、悪人が消され、善人がはびこるようになった世界。
そんな世界を、一色双葉は『終焉』と呼んだ。
皮肉が効きすぎている、おとぎ話のように思えた。
そして、双葉はそんな世界をおとぎ話で終わらせるために動いている。
なんて遠大で果てしない計画だろう。
モルガナはこの話を聞いて何を思っているのだろうか。
分からない。
「分かったよ。分かった」私は目を瞑り、両手をあげた。「ご説明ありがとう。でも、私が切れるカードは一つだけだ」
私は鞄の中からモルガナを取り出した。
「コイツをお前に預ける。預けて、モルガナがお前の力になる。それでいいだろ? モルガナ。お前、別に行く当てはないんだろ」
「そ、そうだけどよ……。でも、少し放ってはおけないな。双葉のことも、怪盗のことも」
「よし。決まりだな、じゃあ、」
「放ってはおけないな、って、ワガハイは言ったんだ」
モルガナは、強い口調で私に言った。
『お前もそうなんじゃないのか?』
モルガナは目で、私に語っていた。
「……任せたよ。お前に」
「……分かった」
逸らした私の視線で、ある程度は察してくれたようだ。視界の端で、モルガナが小さく首を縦に振ったのが見えた。
私は双葉の力になれないから。
そしてもう一つ。私は双葉が予言する世界の在り方を、全否定できないでいた。
悪人が、死をもって断罪されることは、悪いことなのだろうか?
完璧に間違っていることなのか?
分からない。分からないから、行動に移せない。
「……今、ネコ、何て言ったの?」
「双葉に一生ついていくって言ったぞ」
「そこまでは言ってねえよ」
「え……。いや、一生はちょっと……キツイ……かな」
「何か勝手にフラれてるし!」
そのやり取りに私は噴き出してしまう。続いて双葉は例によって変な笑顔を浮かべ、仕方がなさそうにモルガナも笑った。朗らかだとはとても言えない、ぎこちない感情の伝播だった。
「……お、」
にわかにカレーの匂いが濃くなったな、と思うや否や、マスターが両手に重そうなお皿を持ちながらこちらにやって来る。
マスターが目の前に来たあたりで、双葉はまた顔を伏せた。人見知りにもほどがあるだろう。
と、私は思っていた。
「はいよ。取り皿は後でな」
「ああ、うん」
「……」
「……で、嬢ちゃんは何か、飲み物でもいるかい?」
そうマスターが言い終えたのと、ほぼ同時に。
双葉は顔をあげた。
その時の表情は、ひどく大人びているように私には思えた。
「久しぶりだな。……そうじろう」