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スマホのアラームの音で目が覚めた。
あと五分。
私のスマホは、ボタンを押してもきっかり五分後、再びアラームが鳴るように設定してある。
痒いところに手が届く設計だ。
二度寝。
それを後二回ほど繰り返して、ようやく起きる気になってくる。
うっすらと目を開けて、ロック画面からホーム画面に移ろうか、顔認証で。
失敗した。
寝起きの私の顔は、どうやらかなりひどいことになっているらしい。
仕方なく六桁の暗証番号を入力する。無地の青い背景に、色んな装いのアイコンが等間隔に並べられている。それらを無感情で見つめた後、体を起こした。
「……うぅ……」
長い夢を見ていた気がする。
じんわりと、実体験なのか夢なのか分からない記憶が、頭の中に広がってくる。
あれも。
あれも夢だったのだろうか。
全部?
そういえば、私の腹の上にはモルガナが乗っていない。
いない。
もう行ってしまったのだろうか。それとも、アイツも私が想像で作り出した夢の中の登場人(猫?)物だったのだろうか。
分からない。
まあ。
でも、これで、せいせいしたか。
いつもの日常が戻ってきた。
誰にも干渉されなくて、誰の干渉もしない、平和でのどかな生活が。
それは間違いなく、私が望んでいたものだ。
……。
別に寂しい訳じゃない。寂しい訳じゃないが、何気なく、私は周りを見渡してみる。
確かにモルガナは私の腹の上には乗っていなかった。
代わりに、腹を出した双葉が、モルガナを抱きながら私の隣で寝ていた。
「う、……わ、あ」
「グーーオォ。グ――オォ」
寝起きの影響で、まともにそれらしいリアクションを取ることができず、私は微妙な叫び声を上げながら後ろに下がる。
いた……。しかも二つセットで。
非現実はまだ、私の真横で横たわる腹積もりのようだ。
あの後。
双葉の声を聞いたマスターは、並みならぬ動揺を私たちに見せた。
具体的には、手を滑らせた。私の腹に収まるはずだったルブランカレーは、お皿から受けていた垂直抗力から解き放たれ、宙を舞った。
あまりにももったいない。
直感的に悟った私はすかさず、先にテーブルに落ちてきたお皿を両手で持って、ルーと飯の落下予想地点に据えた。
結果、およそ八割程度のカレーを救うことができた。
胸をなでおろす私。
なおも驚いた表情で双葉を見ているマスターと、じっと目でマスターを捉えて離さない双葉。
『助けて、欲しい』
双葉は言った。
そして、ためらいもなく自身の上着を脱ぎ、マスターに背中を見せた。
痣。
それは、事故や偶発的な怪我だけでは説明のつかない量の痣が、背中に張り付いていた。
『お前……それ、』
その痣の理由を聞こうとしたようだったが、すぐに目と口を閉じた。
全てを理解したように頷いたマスターは、携帯を取り出しながらカウンターの奥へと消えていった。
テーブルには私と、双葉と、そして救われたカレーだけが取り残された。
『そうじろう。伯父さんと知り合い。だから、なんとかしてくれるって思った』
大人びた表情のまま、私とモルガナにそう呟いた双葉。
『ああ』私は頷いた。『けど、まあ、とりあえず、服は着れ』
上着の着衣を手伝っていると、向こうから怒鳴り声が聞こえてきた。
マスターの声だ。そして、ちょっとした口論になっているらしい。
電話か。
多分、相手は一色葉司だろう。
また、怒号がルブランに響いた。
その間、私は考えていた。どうしてマスターは、双葉に対してそこまで怒ってやれるのか。
マスターは安易に手を差し伸べる人じゃない。手を貸す程度のことはしてくれるが、そこには絶妙な距離感があった。
現に私がそうだったからだ。
年を取った間に、段々と優しくなっていったのか。
それとも、双葉とマスターの関係に何か、後ろめたいことがあったのか。
それは今でも分かっていない。
『……ケリは、ついたよ』
しばらくすると、遂にマスターが姿を現した。
久しぶりに大きな声を出したからだろうか。声が少し掠れていた。
『もう、あんなとこには行かなくていいよ、嬢ちゃん。……いや、双葉』
『うん。……あんがと』
どうやら全てが終わったらしい。
ということはつまり、不法侵入及び拉致という十字架を背負っていた私の罪が、うやむやになったことになる。
ふう、と大きなため息をついた。
『お、終わった……のか』
『ああ。……終わったな』
恐らく、微妙にニュアンスの違う『終わった』を、私とモルガナが呟いたところで。
私の着ていたブレザーに、かなりの量のルーが付着していることに気づいた。
私はキャンメイクのリトルプラムキャンディーを塗る。
双葉は私が大事に取っておいた菓子パンにかぶりつく。
モルガナは小皿に並々と注がれた低脂肪牛乳を舐める。
のどかな朝の支度の時間だ。
「な、なに、これ。うますぎる……」
中にクリームが入った、至れり尽くせりのチョコメロンパンを美味しそうに頬張る双葉。
私の、週に一度の楽しみが、双葉の喉を通っていく。
そりゃ、良かったな。と私は心の中で言った。
「この牛乳、味が薄くないか?」
「気のせいだろ」
「ワガハイも、あのメロンパンの方が良かったぜ……」
「ぶうぶう文句を垂れるな、モルガナ」
そんな私たちのやり取りを、双葉は興味深そうに見ている。
ああ、聞こえてないんだっけ。
やっぱり、時々忘れてしまうな。
「ん? もしかして、ニャンコ、このメロンパン欲しい?」
「え?」私は言った。「モルガナの言ってること、分かるのか?」
「分からん」双葉は首を振った。「でも、さっきからその猫、ずっとこのメロンパンを見てたから、その、分かった」
「なるほど」
「ふっふーん。私、すごい?」
「ああ。すごいな」
私が頷いたのに満足したのか、双葉は満面の笑みでメロンパンを頬張った。
人は往々にして自己顕示欲を持っていて、悪いことじゃない。悪いことじゃないが、双葉はそういった欲が人一倍ある子なのかもしれない。
それは双葉が元来持っているものなのか、それともまだ精神的に幼いからなのか。
多分、後者の可能性が高いと思う。
私は双葉の性格について分析していると、今の状況が全く変化していないことに気づく。
「「え?」」モルガナと私の声が被った。
「え?」遅れて双葉の山びこがやって来る。
「あげないのか?」
「なにを?」
「なにを、って……今、双葉がモルガナにメロンパンを仕方なくやる流れだったろ」
「そうでもなかったぞ?」
「そうでもなかったか」
そうでもなかったそうだ。
双葉、結構食い意地悪いんだな……。
昨日、あんなにルブランカレー食ってたはずなのに。
マスターから「代はいらねぇよ」と言われるまで、ずっと財布の残金を気にしていたのは内緒だ。
モルガナは相変わらず低脂肪牛乳をまずそうに舐めている。
ちょっと可哀そうに思えてきたから、帰りに買ってきてやろうか……。
対照的な一匹と一人を眺めていると、一番に考えるべき疑問が、ようやく私の中で湧き上がってきた。
「なぁ」
「なんだ?」
「モルガナじゃない、双葉」
「ふぁにー?」
「パンを食いながら話すな」私は言った。「なんでここにいんだよ、お前」
「……んく。え、なんでって、」双葉はメロンパンを飲み込んだ。「私、家ないし。ほら、私、家なき子だから」
「なんで言い直した?」
「とにかく。そうじろうが、部屋の準備まだ出来てないって。だから、今日だけここに泊めさせてもらう約束だった。忘れてないとは、言わせないぞ忍」
「ああ」私は眉毛を剃りながら言った。「そうだっけ」
「別に、ずっとここに居ても、いいんだけどな?」
「用が済み次第、さっさと帰れ」
言いながら、丁度眉毛を書き終える。
……学校に行こう。
追及するような目を向けるモルガナから目を逸らし、誰に聞かせるわけでもない『行ってくる』を言って。
ネコ一匹分軽くなった鞄を提げて、家を出た。
私がコンビニで、帰りに持って帰るべきメロンパンを見繕っていると、急に鞄に重みを感じた。
見てみると、不機嫌そうに目を細めた黒猫が、ちょうど鞄の中に入ったところだった。
え?
「なんでここにいんだよ」
「ワガハイがここにいちゃ悪いのか?」
「いや、悪くはねぇ……いや、悪い、悪いわ。全面的にお前が悪い」
「双葉のことならもう安心していいぜ。ひとしきりワガハイの肉球をモミモミやった後、マスターの所に帰っていった」
「別に、双葉の動向を聞きたかった訳じゃない」と私は言った。「なんで双葉のところに付いていかないで、こっちに来たんだって聞いてるんだ」
「……いや、ワガハイまだ、傷直ってないからな」
「嘘つけ」
「あと、シノブは言ってたはずだぜ。『三日の執行猶予だ』なんだって。つまりまだワガハイは、あと二日間はこの鞄に入っていいことになる」
……。
言質を取られている。
「……それで、約束を破るつもりはないだろうな?」
「当たり前だ。ちゃんと、一色双葉の助力になる。それは変わらない」
「……そうか」
ならいいか。
少し甘すぎるだろうか? でも、三日間だと言ってしまったのは私だし……。
ああ。
身から出た錆だ。それなら、自分で責任を取らなければならないだろう。
「じゃあ、選べよ」
「何をだ?」
「メロンパン。この中から。買ってやる」
「えぇ!?」モルガナは驚いた。「買ってくれるのか?」
「なんだよ」
「いや……正直、シノブが優しいことをすると、何か裏があるように思えてならないぜ」
「失礼な奴だな……」
一気に買う気が失せた。
別に、優しさで買ってやるつもりじゃないのに。
「気が変わらない内に、早く選べ」
「お、おう。分かった」
結局このコンビニで一番高いメロンパンを買わされた。
私はネコ一匹分と、メロンパン一つ分重くなった鞄を提げて店を出る。
空はどんより曇っていた。時折吹く風が生温い。今日は鞄の中の折り畳み傘のお世話になる可能性が高そうだ。
しばらく真っ白な景色を見上げながら歩いていると、ふいに鞄の中が動いた。
「ワガハイな、」ワガハイは言った。「やっぱり、シノブに拾われたのは偶然じゃないって思うんだ」
「え?」
「シノブが、気まぐれでワガハイの背中を掴んだのは分かる。でもそこから今まで、沢山のことがあっただろ? そんな偶然の連続が、ただの偶然の訳がない。少なくとも、シノブがワガハイを拾ったのは、何ていうか……その、運命だったのかもしれないな、って」
「運命、って」
「ワガハイがシノブに付いて行って杏殿と出会ったことも。そして、双葉を手伝うことになったこともな」
モルガナから放たれた恥ずかしい言葉に、なぜか私が恥ずかしくなった。
何を言っているんだこの猫は。
「いや、だから言っただろ。モルガナを拾ったのは、今日の夕飯の献立を決めるくらいの軽い気持ちだったんだよ。モルガナが言ってるのは、結果論でしかない」
「いや。シノブはあの瞬間が何回来ても、多分ワガハイを拾うんだと思うぜ」
「永劫回帰の話か? 悪いが、私は哲学に興味はねぇよ」
そうこうしていると、もう目の前に秀尽学園の正門が迫っていた。
今日は鴨志田が門の前で立っていなかった。
珍しい。
この時間帯なら、いつも私のことをやいのやいの言ってくる癖に。
一年の頃は、突っかかってこなかったはずなのにな。
私に嫌味を言うようになってきたのは、いつ頃からだっただろう。
確か、高巻が私に話しかけてきた時からのようだった気がする。
『おはよう。今日もしみったれた顔してんな』
『ああ。はい。おはようございます』
私は足早に鴨志田の横を通り過ぎた。
鴨志田は、そんな私の反応を見て気が立ったのか、私に聞こえるくらいの音量で舌打ちをした。
『気をつけろよな』
『はい?』
『顔。そんな不機嫌そうな顔をしていたら、皆に移るぞ』
『はぁ』
『ああ……いや。お前に友達と呼べるような奴がいればの話だが』
『……はぁ』私は真面目を取り繕って言った。『気を付けます』
逆上はしない。
争いは、同じレベルの者同士で行われるものだから。
その言葉を思い出して、何も気にしていない風を装えるのが、私の強いところだ。
じゃあ、弱い部分は。
……それは、鴨志田の言葉に、それなりに傷ついたりしている私だ。
「……ぃ、おい。忍」
「……あ、うん、何?」
私は嫌な記憶を思い出していた。
やめよう、こんな、無駄なこと。
「何か、辛そうな顔してたぜ。大丈夫か?」
「気のせいだ」
私はモルガナに言った。
校内へと入り、階段を上る。
教室前の廊下は、それなりの人で賑わっていた。
適当に話をしている生徒を避けるように、私は窓側を歩く。
ふいに、窓の外の景色を見やった。
「…………え」
屋上。
人影。
筋肉質な体。
そして、肩に提げたホイッスル。
あれは。
「……鴨志田?」
あんなところで何をしているんだ?
立ち止まったその瞬間に、妙な既視感を覚えた。
そうだ。
あそこは。
鈴井志帆が、飛び降りた場所だ。
「なんだよ忍。いきなり立ち止まって、」
「見るな」
鞄から出てきたモルガナの顔を手で覆う。
他の生徒も気づき始めたのか、周りが一層騒がしくなる。
鴨志田を見ようと窓に張り付こうとする生徒に押されて、私は廊下の隅に追いやられた。
『一人目の被害者が現れる』
ルブランで双葉が言った言葉を思い出す。
数秒後。
わぁっ、と、生徒の驚く声が重なって。
聞いたこともない音が、窓から聞こえてきた。