ひどい音だった。
とても、足から着地したとは思えない。
腹か。それとも頭からか。
夥しい数のシャッター音が、そこかしこから聞こえてくる。
中庭に投げ出されている鴨志田を想像して、吐き気がした。
「う……ぷ」
「……お、おい、忍、大丈夫かよ?」
「……るさいな」私は頭を抑えた。「ちょっと、黙ってろ」
誰もがスマホを手に取りながら立ち尽くしている。
私は気持ち悪さに参って、背中から壁に寄りかかっていた。
先生も、生徒も誰も、何も言葉を発さない中。
誰かが、私の目の前を通り過ぎた。
色が抜けた髪をまとめた、ツインテール女。
「高巻……」
間違えようがない。高巻杏だろう。
表情を見ることはできなかった。それでも乱暴な足音から、彼女がとても動揺していることは手に取るように分かる。
どうして高巻は、鴨志田が飛び降りているのを見て、焦っているのか。
分からない。
ふいに、鞄が軽くなった。
足元を見ると、鞄から脱出したらしいモルガナは、私をじっと見つめていた。
「今の、杏殿だったよな?」
「ああ」私は言った。「そうみたいだな」
「何が起こっているのかは分からないが、大分逼迫している状況のようだぜ。双葉が言ってた『終焉』のことと何か関係があるのかもしれない」
「ああ」私は適当に頷いた。「そうかもしれない」
鴨志田がなぜ飛び降りて、高巻がどうして階段を降りて行ったのかは分からない。
しかし、モルガナがどうして鞄から出ているのかくらいなら分かる。
そして、モルガナが私を誘っていることも。
「行こう、忍」
「なんで」私は即答した。
「なんで……って、そりゃあ」モルガナは少し面食らったようだったが、すぐに向き直った。「放っておけないだろ。それに……きっと、雨宮蓮のことと繋がってるはずだぜ。それくらい猫にだって分かる」
「ああ、そうかよ」と私は言った。「悪いが、好きな女の尻を追いかけるのは一人でしてくれないか」
「……忍、お前、冗談はほどほどに、」
「私は、本気だ」
声帯を閉め、自分が出せる一番低い声で私は言った。
モルガナは口を止める。
一丁前に、私の言葉の続きを待っているらしかった。
それなら、それに従うまでだ。
「何度も言わせるな。モルガナを双葉に預けたら、私は一色双葉の持つ一件から手を引く。……面倒な迷惑ごとに、私を巻き込まないでくれ」
「面倒ごと、って……で、でも、杏殿があんなに、取り乱して……」
「それがどうしたんだよ。教室で一言二言しか話したことのないアイツを、どうして私が気にしなくちゃならないんだ? アイツが渋谷駅で泣きながら走っているのを見かけても、私は追いかけない自信があるね」
でも、モルガナはきっと追いかける。
正義感が強くて、誰のことも見捨てられない人は追いかけるのだろう。
だからモルガナは、私とは分かり合えるはずがない。
「……おい、忍。自分が選んだことにはちゃんと責任持とうぜ。言ったら悪いが、ワガハイを拾おうと決めたのも、双葉を助けようと決めたのもお前自身だろ」
「……分かってるよ、そんなこと」
違う。
言いたいことは、そんなことじゃない。
モルガナや双葉を見ていると、嫌気が差す自分がいるんだ。
他でもない、自分自身に。
すぐに自分の目的を見つけられて、変わっていくお前たちを見て。
ただ一人、何もしないまま、変われないまま、一日をつぶしている自分が嫌いになっていく。
だから、もうこれ以上。
お前たちと、関わりあいたくない。
それなのに。
「なぁ、今の、私の気持ちが分かるか? 分からないよな。分かるはずない。ただ一日が無味に終わればいいって思ってた私が、気の迷いでネコ拾ったら、望んでたこととは真逆の方向に行きだしてる、今の気持ちが」
どうしてモルガナは不愛想な私に話しかけて。
学校に鞄に入ってまで付いてきて。
運命だとかなんとか言って。
私を見捨ててくれないのだろう。
分からない。
分かりたく、ない。
「後悔だよ。お前なんか、拾わなきゃよかった」
「……っ」
「高巻とか双葉のところへ行けばいい。そして、もう戻って来るな。二度と私の前に、現れるんじゃない」
モルガナは何も言わなかった。
何も言わずに、私に背を向ける。
モルガナの姿が見えなくなると、私は廊下にへたり込みそうになった。
「これでいい」私は自分に言い聞かせるように言った。「これで、いいんだ」
これで、一色双葉の願いが叶う。
モルガナも、価値のない人と付き合う必要もなくなる。
双葉は戦力が手に入る。
私の日常が戻って来る。
誰も不満のない終わりだ。
でも私は一つ、後悔していることがあった。
それは、モルガナを不用意に傷つけてしまったこと。
例えば降りしきる雨の中。
例えば猫カフェで奴らの肉球を愛でている時。
例えば魔女宅で黒猫のジジが雨に濡れている時。
私は路傍の石ころみたいに横たわっている黒猫を思い出して、ウンザリしたり、激しく後悔したりするのだろう。
それともう一つ、私の中で蠢いている感情があった。
私はちっとも変われないのに。
あの頃から、何一つ変わっていないのに。
私の傍で、いともたやすく変わっていくモルガナと双葉に。
私は嫉妬していた。
「何……してるんだろう」
何もしてねぇよ。
私の人格の一つが、そう言った。
じゃあ、私は。
一体、何がしたいのだろう。
交通手段の一つに、電車を入れていたのがダメだった。
駅に着いた途端、あまりにもの人の多さにパニクった。ドキがムネムネして、世界がグルグル回って、一生キョドッてる私を不審に思った駅員から命からがら逃げてきた。
つまり、門前払いを食らった訳だ。まさか、電車の車両にすらたどり着けないとは思ってなかった。外の世界、恐るべし。
でも忍はいない。ニャンコもいない。独りぼっち感を味わった私は、涙が出てきたけど、そこはぐっと堪えて次の策を考えた。
入力:一人のコミュ障。
出力:ここから喫茶店『ルブラン』へのルート。
実行結果:徒歩。
とほほ。
……なんつって!
とりあえず私は、なんとか頑張って四茶まで行くことができた。具体的には、線路沿いの道を歩いた。昨日あったことは全部覚えてたから、方向を間違えていない自信はあった。
四軒茶屋駅に着いてから、また昨日の道に沿って歩いた。因みに、四軒茶屋の名前の由来は、昔ここに四軒の茶屋があったから。これ、豆知識な。
歩いてる間、皆が私を見ているような気がして、冷や汗タラタラだったけど、なんとかルブランまで来れた。
中に入る。うん、適温。
見慣れた景色にホッとして、胸をなでおろしていると、そうじろうが気づいたのかこっちを向いた。
「……? お、おぉ、双葉か。なんだ、一人で来れたのか?」
「あ、う……うん。どう、偉い?」
「ああ、偉いぞ」
「んふふ」
そうじろうに褒められたことに、ちょっとだけ胸を張りながら、私はカウンターの席に着く。
ピリッとしたカレーの匂い。なんとなく『深い』気がするコーヒーの匂い。んで、そうじろうの顔。
ルブランには、落ち着くが溢れてるな。
「飯はもう食ったか」
「うん。忍が激ウマなメロンパン、食べさせてくれた」
言って、激ウマメロンパン略して激メロの味を思い出そうとしていると、そうじろうが私に聞いたことの意図を察して、私は慌てて付け足した。
「……あー。あー。で、でもまだハラは減ってるかなー。久しぶりに! ……カレー食べたい感じ、かも」
「カレーは昨日食ったろ」
「……でも、うまいし」
「そうかよ」そうじろうはガジガジ自分の頭を掻いた。「まぁ、待ってろ、ちょっとキッチンの方、行ってくるわ」
「う、うん。……あ、大盛り、で」
「はいよ」
そうじろうは、よっこらせと腰を上げて私に背を向けた。ちゃかちゃかと手を動かしているそうじろうを見ていると、何も言わずに私を先導してくれた忍の背が、なんだか被って見えた。
突然、扉が開いた音がした。客。……人?
やばい。
脳内アラームがうるさい。
咄嗟に身を隠せる場所を探したけどない。私の顔を隠せるかぶりものもない。
イコール、死。略してイゴる。
わたわたと私が慌てていると、人の気配がないことに気づく。恐る恐る振り返ってみると、肩を落としたモルガナがルブランに入ってきていた。
や、肩を落としているかどうかは分かんないけど。でもなんだか、元気なさげだ。
「どうした、にゃんこ」
「……にゃあ」
「……なる、ほど……」
わからん。
私は神妙に頷いておく。
私の隙のない演技に気づいたのか、一瞬私にジト目を向けてから、隣ににゃんこが座った。
「……忍は?」
「……」モルガナは何も言わない。
「喧嘩か?」
「……」モルガナは何も言わない。
でも、少し遅れて、コク、と一つ頷いた。
……そうかー。
喧嘩かー。
「ネコにも、色々あるんだなー」
と、私は分かってやったつもりで言って、モルガナの頭を撫でた。
ちょっと強めに。すると、モルガナはにゃあと言ってプイッと顔を逸らした。
可愛くないヤツめ。
「……ん? 誰か、来たのか?」
私の声に気づいたらしいそうじろうは、キッチンからぬっと顔を出した。出すなり、私の顔をモルガナの顔をひとしきりキョロキョロやったあと、目を点にした。
「えぇ、ネコ? ……双葉のか?」
「いんや、忍の」
「えぇ?」そうじろうは大きな声をあげた。「アイツ、ネコ飼ってやがったのか」
そうじろうのそんな言い方が気になって、私は変に思った。
「忍がネコ飼うの、そんな不思議か?」
「い……や。まあ、アイツがわざわざペットショップに行くとは考えづれぇな」
「あ、えと」私は忍が言ってたことを思い出す。「拾ったって。道端で、モルガナ……この猫が行き倒れてるのを見かけて、仕方なく……仕方なくだぞ? マジで仕方なく、拾ったって、忍が言ってた」
「あぁ……」そうじろうは、ようやく納得がいったように頷いた。「なるほどな」
「なるほど?」
「ああ。アイツらしい、ってことだ」
言ったっきり、そうじろうは下を向いて、何かを考え始めた。「カレーまだー?」とはとても言えないくらいに、そうじろうの顔は痛々しかった。
横を向く。モルガナも、そうじろうの話を聞いて何か思うことがあったのか、カウンターの木目をジッと見ている。流石に分かってきたけど、モルガナにはちゃんとした知性がソナわっているようだ。
次に、忍の顔が頭に浮かんできた。笑ってない。でも、苦しんでもない。どこか遠くを見つめて、時折肩に提げたモナバックを背負いながら歩いている。何かを、考えてる。
何考えてんだろ。
でも、分からん。
でもでも、知りたいと思う。
忍の胸に頭に足に手に肩に腹に抱え込んでいる全てを見てみたい。
私……気になります!
「なぁ」
「……んぇ、な、なに?」
いきなりそうじろうに話しかけられて、ビビる。
「双葉から、忍はどう見える?」
「ヒーローだ」
そうじろうの何とも言い難い質問に即答できる自分、マジカッケー。
「ヒーロー。それは多分、私がおばあちゃんになっても変わらない。優しくて、頼りたくなって、強い。……もし私にお姉ちゃんがいたら、忍みたいな人がいいなって、お、思う」
言ってる内に恥ずかしくなってきて、ついつい口をモゴモゴやってしまう。
でも、待てよ。私はお母さんに引き取られた人だから、もしも忍が父方で育てられた人だったら……忍が私のお姉ちゃん説が微レ存!?
いや……それはないか。だって、顔、全然似てないし。
「そうか」
「う、うん」
「そうだよな」
「うん?」
「でもな、双葉」
「……うん」
そうじろうが、改めて私に言った。やっぱりカレーの催促なんて、言えるはずがなかった。
「確かに、忍は優しいな。頼りたくなる気持ちも分かる。頼りたくなったら頼ってもいい。最初は適当な理屈を付けて断られるかもしれないが、根気よく言い続けると、きっと忍は答えてくれるよ」
「うん……分かる」
「だが、最後のは違うと、俺は思ってる。アイツは強情だが、強くはない。弱い。弱くて、脆い。自分の悪口を聞いても平気でいられるほど、図太くはねぇ。信じられないくらいに繊細なんだ。そのくせに、人には頼られようとするくせに、自分からは頼ろうとしない」
「……」
「だからな、双葉」そうじろうは言った。「アイツが困っていたら、手を差し伸べてやってくれないか」
「そんなの」私は言った。「当たり前だ」
「……ありがとな」
と、流れでそうなった手前。
やっぱり、忍が困っている顔なんて、想像できるはずがなかった。
……ん?
「ね、そうじろう」
「なんだよ?」
「何か、焦げ臭いニオイしない……?」
「……」
「……」
……。
終わった。