「「……いくぞ、ししんそうおう!」」
「青龍! せい! せい! 朱雀!」
「ざく! ざく! 玄武!」
「げん! げん! 朱雀!」
「えぇ、また俺!? ざく! ざく! 白虎!」
……朝、港の商店にパンを買いに行ったら、しろはのじーさんたちに捕まってしまった。
「びゃこ! びゃこ! 朱雀!」
「ざく! ざく! 青龍!」
……かれこれ、一時間近くスクワットをしている。足の感覚なんて、もうとっくになくなっていた。
「……よし、羽依里の上体がふらついてきたし、このくらいにしておいてやろう」
そろそろ体力の限界が近づいてきた頃、ようやく四天王スクワットが終わった。
「ぜぇ、はぁ……」
俺は思わず膝に手をついて、肩で息をしていた。まったく、どうしてこんなことになったんだろう。
「……羽依里。聞けば、今日本土に帰るそうじゃないか」
全く息を乱すことなく、じーさんが言う。この人の体力、どうなってるんだろう。
「え? ええ、まぁ……」
「なら今のは、わしらからの餞別の四天王スクワットだ」
「あ、ありがとうございます」
「また来るといい。達者でな」
俺が息も絶え絶えにお礼を言う中、じーさんたちは満足そうな笑みを浮かべながら去っていった。
「せ、餞別は嬉しいんだけど、もっと別な……うぅ、朝からひどい目に遭った……」
スクワットをやったせいで、せっかく買ったパンも潰れてしまったし。うう、揚げクリームパン、楽しみにしていたのに……。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「あいててて……」
重たい足を引きずりながら、加藤家に帰宅する。
「あ、おかえり。ずいぶん遅かったんだね」
玄関で靴を脱いでいると、鏡子さんが出迎えてくれた。
「……うわ、もうこんな時間なんですね」
壁にかけられた時計は既に9時半を回っていた。どうも、四天王スクワットに時間を取られ過ぎてしまったらしい。
「早く朝ごはん食べて、荷造りしないとね」
「そうですね。ちゃちゃっと食べちゃいます」
正直、荷造りにそこまで時間はかからないだろうけど、時間に余裕があるに越したことはない。
「……ところで羽依里君、今日は14時の船で帰るんだよね?」
潰れたパン片手に居間へ向かおうとしたところで、そう呼び止められた。
「え? はい、その予定ですけど」
「……ごめんね、できたら港まで見送りに行ってあげたかったんだけど、この後どうしても抜けられない寄合が入っていてね」
「いえ、気にしないでください。色々とお世話になりました」
俺は鏡子さんの方に向き直って、深く頭を下げる。
「ううん。私は大したことしてないしね。帰ったら、お姉さんにお土産話をいっぱいしてあげたらいいよ」
「はい。そうします」
……でも、母さんが興味があるのは思い出話なんかより、しろはとの進展具合だと思うけど。どんな子か会ってみたいって、しろはに電話する度に言っていた気がするし。
「……それでね羽依里君。夏海ちゃんの部屋なんだけど」
「え?」
そんなことを考えていると、鏡子さんからそう話を振られた。
「できるだけ、今のままにしておくよ。いつ戻ってきても良いようにね」
「……ありがとうございます」
「いいんだよ。その代わり、羽依里君も島に来た時には、時々掃除してあげてね?」
「もちろんですよ」
「うん。それじゃ、私は出かけるね。羽依里君も、道中気をつけて」
「はい。お世話になりました」
俺はもう一度改めてお礼を言い、その背中を見送った。
……その後、居間で朝食のパンを食べることにした。
「おお、美味い」
モーニングスクワットで疲れた体に、揚げクリームパンの糖分が染みわたる。見てくれは最悪になっちゃったけど、なかなかに美味しいじゃないか。
「……それにしても、不思議だな」
今朝目が覚めても、俺は何故か夏海ちゃんのことを覚えていた。
一方、港の商店で出会った鴎とのみきは、昨夜食堂を出てからの出来事を全く覚えていなかった。たぶん、他の皆も同じだろう。
「……まぁ、しょうがないよな」
そういうものなんだろうと自分を納得させて、残りのパンを口に放り込んだ。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
遅めの朝食を済ませ、荷造りを始める前にガレージへとやってきた。
「よう、相棒」
バイクに近づいて、ポンポンと車体に触れる。思えば、こいつにも色々な人を乗せて、島中を走った気がする。
「お前もこの夏、頑張ってくれたよな。ありがとうな」
一言お礼を言って、俺はバイクの鍵につけていた鳥のキーホルダーを取り外す。
「せっかくしろはと買ったペアグッズだし、これを忘れていくわけにはいかないもんな」
俺はそのキーホルダーをポケットにしまい込むと、ガレージを後にした。
「……よし、始めるかな」
自室に戻った俺はボストンバックを引っ張り出して、荷造りを始める。
この夏の間、ずっと使わせてもらっていたタンスから衣類やタオルなどを取り出して、鞄へと詰めていく。
元々持って来ていた荷物の他にも、パリングルス工作大会で作ったタンバリンとか、ガチャポンで当てたおもちゃとか、色々なものが増えていた。
「せっかくの夏の思い出だし、持って帰れるものは持って帰りたいけど……」
何度も衣服を出し入れしたり、荷物の向きを変えたりしてみるけど、なかなか入らない。
「……仕方ない。この辺りの本は置いて行こう」
俺は鞄の隅に押し込んでいたオカルト雑誌や卓球専門誌を引っ張り出し、部屋の隅に積む。この本、持っては来たけど全く読まなかったし。そのうち天善にでもあげることにしよう。
「……うん。こんなものかな」
最後に、忘れかけていた洗面用具を無理矢理詰め込んで、荷造りが終わった。一息ついてから時計を見ると、まだ11時を少し過ぎたところだった。
「いざ集中して荷造りを始めたら、思いのほか早く片付いちゃったな」
島でこまめに洗濯することを前提にして、必要最低限のものしか入れてなかったせいかな。
……部屋を見渡しながら達成感に浸っていると、お腹が鳴った。
港でモーニングスクワットをしたせいか、朝食のパンだけでは足りなかったらしい。
「……少し早いけど、お昼ごはんにしようかな」
確か、台所にカップうどんがあったはず……なんて考えながら、俺は台所へと向かった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「それじゃ、いただきまーす」
お湯を注いで、きっちり三分後。きちんと挨拶をして、カップうどんをいただく。
「……バイクじゃないけど、カップうどんにも結構お世話になったよな」
ずるずると麺をすすりながら、そんなことを考える。これも食べ収めだ。
この夏、夏海ちゃんと一緒に津々浦々の銘柄を食べた気がするし、すっかりカップうどんマスターになってしまった気がする。
「……食べ収めと言えば、しろはの料理もしばらく食べられなくなるのか」
思い返してみれば、昨日の送別会の料理が最後だったわけだ。もっと味わっておけばよかった。
「後々、しろはの味が恋しくなったから、チャーハンを冷凍にして送って欲しい……なんて電話をしたら、怒りそうだよな」
……冷凍するなんて、チャーハンに対する冒涜だし! とか言いそうだ。
俺はそんなしろはの反応を想像しながら、カップうどんを堪能したのだった。
……昼食を終えた後、最後にお世話になった部屋の掃除をする。
と言っても普段から掃除はしていたし、その掃除もあっという間に終わってしまった。
「えーっと、もう忘れ物はないかな」
俺はすっかり綺麗になった部屋を眺めながら、最終確認をする。
もし忘れ物をしても、すぐに取りに来れる場所じゃない。かといって、わざわざ送ってもらうのも鏡子さんに悪いし。念入りにチェックしないと。
「……あれ、そういえばMD入れたっけ」
そう気がついて、もう一度ボストンバックの中を探してみたけど、見当たらない。
「うーん、どこに置いたかな……」
正直、島では全く使わなかったけど、今日は電車での長距離移動もあるし。できたら持っておきたかった。
俺は記憶の糸を手繰りながら、自室から居間、廊下から玄関に至るまで、家の中をくまなく見て回った。
「……ないなぁ」
家中を探したけどMDは見つからず、俺は首をかしげながら自室の前に戻ってきた。
「……あ、そうか」
その時、隣の部屋に目が行った。そういえば、MDはずっと夏海ちゃんに貸していたんだっけ。
「確か、何日か前にも聴いていたような気がするし」
俺はそんな結論に至り、夏海ちゃんの部屋のふすまに手をかける。
「……夏海ちゃん、お邪魔します」
そう声をかけてから、ゆっくりとふすまを開ける。
……当然だけど、部屋の中は昨日俺が入った時のままだった。
一番奥の壁際にアリクイとクマのぬいぐるみが鎮座し、机の上にはパリングルスのオルゴールに、桜貝の入った小瓶。そして、泥だらけのボールが置かれている。
確かこれ、リトルバスターズとの練習試合に勝った時のウイニングボールだって言ってたっけ。
「……それにしても、この部屋もすごいなぁ」
部屋に置いてある品物一つ一つに、夏海ちゃんの大切な思い出が詰まっている気がした。
「お、あった」
物思いにふけりながら部屋の中を見ていたら、目的のMDはすぐに見つかった。
入口に近い畳の上に、一冊の本と一緒に置かれていた。
「あれ、この本って」
MDを手に取った拍子に、その本が目に留まる。なんとなく、表紙に見覚えがあった。
「……これ、絵日記帳じゃなかったっけ」
確か夏休みの初め、自由研究のお題に悩んでいた夏海ちゃんに、藍が渡したやつだ。
「……ちょっと、見てみようかな」
こういうのって見ちゃいけないっていうけど、俺は自然にページを開いてしまっていた。
―――7月29日。
今日から、絵日記を書き始めることになりました。藍さんとの約束なので、夏休みの思い出を書き残していこうと思います。
―――7月30日。
しろはさんの出店の手伝いをしました。しろはさんはすごく料理が上手で、優しい人です。
スイカバーがすごく好きみたいで、この日のスイカバー早食い競争では、6本も食べていました。すごいです。
……絵日記ということで、6本のスイカバーを手に持った笑顔のしろはが描かれている。こうやって絵にすると、すごい光景だなぁ。
―――7月31日。
今日は島の皆さん、登校日でした。皆さんの制服姿とか初めて見たので、すごく新鮮でした。
……船に乗って行く皆と、それを見送る俺と夏海ちゃんが書かれていた。なんでこの絵の俺、泣いてるんだろう。
―――8月1日。
今日から8月です。暑さに負けず、島の皆さんと一緒に缶蹴りをしました。初めてだったですけど、皆さんの連携がものすごかったです。鷹原さん、ボコボコにされていました。
……地面に大の字になって倒れている人物が描かれていた。文章から見て、これって間違いなく俺だよな。
―――8月2日。
鴎さんが駄菓子屋でボトルシップを作っていました。
私も少しだけお手伝いしましたけど、鴎さんはものすごく手先が器用で、感動してしまいました!
ボトルシップを完成させて、高らかに掲げている鴎の絵が描かれていた。今にもその声が聞こえてきそうだった。
―――8月3日。
今日は鴎さんとペアを組んで、島の皆さんとビーチバレーをしました。もう少しで勝てそうだったんですが、負けてしまいました。悔しいです。
でも、夜には紬さんがお泊りに来てくれました。楽しかったですけど、この絵日記を興味津々に覗き込んでくるので、隠すのが大変でした。
……絵のスペースには、夏海ちゃんが鴎と一緒にビーチバレーをしている絵と、紬と一緒の布団に入っている絵が半分ずつ描かれている。それにしても夏海ちゃん、絵も上手かったんだ。
「ビーチバレーかぁ。少し前の話なのに、随分懐かしい気がするな」
俺も絵日記の内容を確認しながら、ゆっくりとページをめくっていく。
―――8月8日。
今日は鷹原さんが蒼さんたちとデートなので、良一さんとマリンジェットで島巡りをしていました。皆さんには色々と言われてるみたいですけど、良一さんは優しくて、すごく頼りになりました。
……マリンジェットに乗った良一と夏海ちゃんの絵が描いてある。本人もすごく喜んでた記憶があるんだけど、なんか良一に負けた気がして、悔しい。
―――8月10日。
なんでも鑑定隊のイベントでは、紬さんが優勝してました。優勝賞品は鷹原さんとのデートらしいです。えへへ、どちらも頑張ってください。
……皆に祝福される紬と、一人がっくりとうなだれている俺の絵が描かれていた。ここまであからさまだったかな。
―――8月11日。
海老チャーハンがトラウマになりそうです。鏡子さんはクマゼミの方が美味しいんですって。ううう。
……冒頭でいきなり泣いていた。この日、なんかあったけ。俺としてはバイク事故が印象に残りすぎてるんだけど。
でも、絵日記の中身はというと、お宝探しのイベントについて書いてあるだけで、バイク事故には触れてなかった。
―――8月13日。
実はこの日から呼び方を変えてみました。えへへ、気付いてくれてるでしょうか。
そして今日は皆さんが水鉄砲大会を開いてくれました。ため池全部を使ったイベントは楽しかったですけど、のみきさんが強すぎでした。
……絵のスペースには、鬼の形相をしたのみきが、ため池の向こうから俺たちを狙い撃つ様子が描かれていた。確かに、鬼のように強かった記憶がある。まるでのみ鬼だった。
―――8月14日。
キャンプに行っていたので、次の日に書いてます。私、ズルしてますね。
皆さんとのキャンプ、すごく楽しかったです。でも、鴎さんが始めた怪談話だけは、怖すぎでした。
……そこには爪が伸びて目がつりあがった、まるで妖怪みたいに誇張された鴎の絵が描かれていた。いくらなんでも、ここまでしなくても。
ちなみに、翌日の絵日記にはイナリが尻尾で金魚を豪快に打ち上げてる絵が描かれていた。躍動感がありすぎて、逆に笑えてくる。
―――8月16日。
羽依里さんは今日、鴎さんとデートらしいです。近くの小島に向かったという目撃情報もありました。
しろはさんが凄く心配していましたし、羽依里さん、ハンセーしてください。
……なんとなく紬テイストが入っている気がする。夏海ちゃんなりの、マンネリ化対策だろうか。
一方で、カウンターの向こうで悲しみに暮れるしろはの絵が描かれていた。まさか、ここまで打ちひしがれていたのかな。
―――8月17日。
羽依里さんはしろはさんとデートに行ってしまったので、私は良一さんや天善さんと秘密基地で卓球をしていました。
するとそこに蒼さんたちが乗り込んできて、私を拉致……いえ、助け出してくれました。
……書いている途中で、藍に見せる時のことを考えてしまったんだろうか。内容が修正されていた。
ちなみに、この絵は秘密基地に空門姉妹が乗り込んできたシーンなんだろうか。その二人が仁王立ちして、良一と天善が地面に突っ伏している。すごい光景だ。
……その後も絵日記は続き、リトルバスターズの皆がやって来て、皆で野球の練習をやって、練習試合に勝つまでの様子が描かれていた。
「この辺、余白まで文章がはみ出ちゃってるよ。よっぽど書きたい内容が多かったんだろうなぁ」
それからは台風避難を兼ねたお泊り会、皆でやった卓球大会と、記憶に新しい出来事が綴られていた。
……本当に毎日がイベントだらけだ。こういうのって、似たような日が続くと書く内容に困るっていうけど、この絵日記の場合はそんな心配は無用みたいだった。
そんなことを考えていると、あるページの内容を見て、手が止まる。
―――8月26日。
昨日の夜、羽依里さんに私の秘密を話しました。羽依里さんはありのままの私を受け入れてくれたようで、すごく安心しちゃいました。残りの夏休み、楽しみたいです。
……鏡子さんを交えて蔵で話をした、あの日のことが書いてあった。この日は絵も描かれてないし、心なしか文字も震えている気がする。
……思えばこの頃、あの子は自分という存在がいつ消えるかもしれない恐怖と戦っていたはずだ。
それでも、そんな感情は一切表に出さずに、毎日の輝かしい思い出だけをこの絵日記に綴っていたんだ。
俺はページをめくる。
―――8月28日。
夏休みのラスボスをやっつけたので、晴れて皆さんと一緒に遊園地へでかけました!
……つい先日。皆と一緒に行った遊園地での出来事が書いてあった。絵も気合が入っていて、乗り物もしっかり描かれている。
でも、この次の日に夏海ちゃんは消えてしまったから、絵日記もこの日で終わっている……はずだった。
「……あれ?」
―――8月29日。
今日は鴎さんから借りた浴衣を着て、皆さんと島の花火を見ました。
しろはさんには悪いですけど、少しだけ、羽依里さんとデートしちゃいました。他の皆さんもデートしてるんですし、私もちょっとくらい、いいですよね。えへへ。
……何も書かれていないだろうと思っていたページには、皆で花火を見上げる絵と共に、そんな文章が添えられていた。
え、ちょっと待って。デートって?
……あの時、やけに積極的だなとは思ってたけど、まさかそんな風に思っていたなんて。
いやいや、それよりもこれ、いつ書いたんだろう。
俺は妙に気恥ずかしい思いに駆られながら、ページをめくってみる。
―――8月30日。
今日は島の皆さんが、私の送別会を開いてくれました。
挨拶はすごく緊張しましたけど、皆さんの出し物が凄く面白くて、お腹が痛くなるまで笑ってしまいました。
こんな楽しい夏を過ごさせてくれた皆さんのことが、大好きです。
……次のページには、そんな文章と一緒に、神域で皆と一緒に笑っている俺や夏海ちゃんの絵が描かれていた。
……どうしてこの絵日記の続きが書かれているのか、気になってはいたけど。
最後のこのページを見て、どうでもよくなってしまった。
……これは夏を全力で駆け抜けた、一人の少女の記憶だった。
この島で感じた、夏の眩しさ。俺や島の皆と一緒に過ごした、かけがえのない時間。それらを全部まとめて詰め込んだ絵日記。
読んでいるだけで、小さい頃に忘れてしまった何かを思い出させてくれそうな、魔法の絵日記だ。
「……夏海ちゃん、これはずるいよ」
俺はうっすらと浮かんでしまった涙をぬぐって、ゆっくりと絵日記帳を閉じる。
姿は見えなくても、あの子は島のどこかにいるんだろう。
そして、その思い出もこうして、この島と共にあるんだ。
俺は心の底から温かい気持ちになりながら、夏海ちゃんの部屋を後にした。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「ごめんくださーい」
……廊下に出たところで、玄関から声がしているのに気がついた。
え、誰だろう。
「はーい!」
玄関に出てみると、しろはがやってきていた。
「あれ、しろは?」
「……よかった。呼んでも返事がないから、もう帰っちゃったのかと思った」
「いや、予定通り14時の船だよ。それより、どうしたの?」
「えっと、その……羽依里に渡したいものがあって」
「え、渡したいもの?」
言われてみれば、しろはは両手を後ろに隠している。何か持っているんだろうか。
「うん。ちょっとそこに座って、目をつぶってほしいの。私が良いって言うまで、目を開けちゃ駄目だよ」
「ああ、わかったよ」
俺はしろはに言われるがまま、玄関口の上がり框に腰を下ろし、目をつぶる。
「そ、そのまま動いちゃ駄目だからね……」
「……?」
……何をくれるんだろうと思っていると、肩に手を置かれた。
「……んっ」
……直後、唇に柔らかい感触。
「……!?」
思わず目を開けると、顔を赤くしたしろはが目の前にいた。
「……め、目を開けちゃ駄目って言ったのに」
しろははそう言いながら、顔を真っ赤にしたまま俺から離れる。
「え、もしかして今」
思わず自分の唇に手を当てる。俺は今、しろはからキスされたんだろうか。
「え、その、しろは、なんで……?」
……嬉しさと驚きと、色々な感情が混ざり合って、上手く言葉が出てこない。
「だ、だって、遊園地の時は羽依里からしようとしてくれたのに、結局できなかったし、その、昨日もなんとなく元気なさそうだったし、今日が夏休み最後だって思ったら、いても立ってもいられなくなったというか、えっとその」
しろはは耳まで赤くして、目を白黒させながら言い訳を並べていた。
……やばい。可愛すぎる。
「し、しろは、もう一回。今度は味わうから」
「味わわないで! もう駄目!」
しろはを抱き寄せようとしたけど、素早くかわされてしまった。
「わ、忘れず見送りには行くから。それじゃ!」
「あ」
呼び止める間もなく、しろはは身を翻して外へ飛び出していってしまった。
「……恥ずかしすぎるのはわかるけど、そこまで全力で逃げなくても……」
俺はがっくりと肩を落とす。
……でも、ようやくこの夏、しろはとキスができた。
俺は天にも昇る気持ちになりながら、開け放たれたままの玄関を見つめ、キスの余韻にたっぷりと浸っていたのだった。
「……はっ。もうこんな時間だ」
そんなこんなしていると、いつの間にか時計は13時近くになっていた。そろそろ出発しないと。
俺は荷物の入った鞄を肩にかけて立ち上がる。まだ船の時間まで少し余裕があるけど、早く動くに越したことはない。
「……お世話になりました」
俺は加藤家の門をくぐったところで一度振り返り、家そのものにお礼を言う。
「……よし、いこう」
そして、まだまだ強い日差しと蝉の声を浴びながら、港へと向けてゆっくりと歩き出す。
この夏、何度となく通った道だけど、今は何となく足が重い。心のどこかに、島を離れたくない気持ちがあるのかもしれない。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「あ、来たわよー」
港に到着すると、昨日言っていた通り、皆が見送りに来てくれていた。
「皆、本当に見送りに来てくれたんだ」
「当たり前です。泣かすって言ったじゃないですか」
ちょっと藍、その言い方は語弊があるから止めて欲しいんだけど。
嬉しいような恥ずかしいような、そんな気持ちになりながら、わざわざ集まってくれた皆の顔を見る。皆一様に笑顔だった。
「ポン!」
その時、足元で聞き慣れた声がした。見てみると、イナリがいた。
「おお、イナリも見送りに来てくれたのか。ありがとうな」
「ポンポン~」
お礼にイナリのお腹をなでてやると、嬉しそうな声を出していた。
「……羽依里、イナリばっかりじゃなく、しろはにもかまってあげなさいよー」
「そうですよ。しろはちゃん、羽依里さんとの別れが寂しくて、ここ数日は毎夜のように枕を濡らしていたそうじゃないですか」
「べ、別に全然寂しくないし! 枕も濡らしてないし!」
しろはは空門姉妹にそう話を振られ、首をぶんぶんと振って全力で否定していた。
そんな彼女を見ていると、俺もどうしてもさっきのキスを思い出してしまう。
「ほらほら、せっかくだし、お別れのキスとかしないのー?」
「そのままぶちゅっとやっちゃってください」
「「しないし!」」
俺の胸の内を知ってか知らずか、双子が同じ顔ではやし立ててきた。それに対して、しろはと声をハモらせながら全く同じ反応を返してしまった。
……というか、しろはとのキスはもうやったんだけどさ。
……でも、冷静になって考えると、扉が閉まっているとはいえ、玄関でキスしてしまうなんて。
もし誰か尋ねて来たら、恥ずかしいなんてものじゃない。それこそ、噂は一瞬で島中を駆け巡るだろう。
そんなことになったら、噂は確実にしろはのじーさんの耳に入って、俺は二度と鳥白島の土を踏めなかったかも……。
……そこまで想像して、急に寒気がした。誰にも見られてなくて、本当に良かった。
「……むぎゅ? タカハラさん、顔が青いですよ?」
「え? いや、大丈夫だよ」
……その時、紬の声で現実に引き戻された。
「ところで紬、そのぬいぐるみは?」
不思議そうに俺の顔を見ていた紬は、何故かクマのぬいぐるみを抱いていた。
「クマのツムギちゃんです! 一緒にタカハラさんのお見送りをしようと思いまして!」
「ああ、確か灯台の中にいた子だっけ」
「そです!」
ニコニコ顔の紬は例のリボンで髪をポニーテールにしていた。いつものツインテールも似合ってるけど、こっちの髪型も良いと思う。
「それで、紬からパイリ君に贈り物があるのよね?」
「はい。タカハラさん、これをどうぞ!」
潮風になびく金髪を見ていると、唐突にそう言われて、小さな白いクマのぬいぐるみを渡された。
「え、これは?」
「クマのモンザエモンさんです!」
「ふふ、浜辺に流れ着いていたのを、紬と一緒に修繕したのよ」
「はい! しました!」
「そうなんだ。ありがとう」
言われてみれば、所々に縫い直したような後がある。そこまで大きいものでもないし、せっかく紬がくれるって言うんだから、ありがたく受け取っておこう。
「……わたしと思って、大事にしてください」
……ちょっと紬、その発言は色々と問題があるから。ほら、しろはが冷たい視線を送ってきてる。
「鷹原、俺からも贈り物がある。受け取ってくれ」
そんなしろはに弁解するより早く、今度は天善がピンポン玉を渡してきた。
「これを俺だと思って、お前の部屋に置いてくれ」
「あ、ああ。ありがとう。嬉しいよ」
どうやら、試合用のスタースリーみたいだ。天善らしいと言えば天善らしい。
これも、せっかくくれるっていうんだし、断る義理はない。正直、そこまで嬉しくはないけど。
「……紬は良いとして、天善は変なものを渡すんじゃない。鷹原が困っているじゃないか」
その様子を見て、のみきが目くじらを立てていた。そんな彼女の背後では、良一が何かを慌ててポケットにしまっていた。
ちらっとしか見えなかったけど、ミニ四駆みたいだった。もしかして、先日崖下に転落していったハイリマックス号を見つけ出してくれたのかもしれない。
「その……良一も元気でな」
「お、おう。羽依里もな」
良一はポケットの中身を俺に渡したそうな顔をしていたけど、のみきの目が光っているので無理なようだ。
「そうだ。来年こそ、水泳で羽依里に勝ってみせるぜ。いつまでもシティーボーイに負け続けてたら、島の人間として恥ずかしいしな」
「ほう。悪いけど、まだまだ良一に負けるつもりはないからな」
部活をやめて久しいけど、バタフライしかできない良一に負けるつもりは微塵もない。
「……なら、来年はマリンジェットで勝負しようぜ!」
「え、マリンジェット!?」
「ああ。来年の夏には、鴎に頼んで鳥白島一周マリンジェットレースを開催してもらう。それで勝負だ!」
「いやいや、それはいくらなんでも……なぁ鴎」
「面白そう! おかーさんに相談してみようかなぁ」
良一の唐突な発言に、スポンサー様の娘は意外と乗り気だった。まぁ、楽しそうではあるけどさ。
「そういえば、鴎も今日帰るんだよな?」
「うん! でも、私はおかーさんと一緒に帰るから、もう一つ後の船だね!」
「あ、そうなのか」
てっきり俺と同じ船かと思ったんだけど。
「ちなみに、私は最終便で帰るのよ。少しでも長く、紬と一緒にいたいから」
静久は紬に抱きついたまま、笑顔でそう言っていた。彼女はほぼ毎日本土から島に通ってきてるし、実家も近いんだろう。
「夏休みが終わったら、秋の文化祭が終わるまでは忙しくなるの。しばらくは紬にも会えなくなるし、寂しいわ」
確か、美術系の大学だって言っていたし、文化祭とかものすごく力を入れているのかもしれない。
「……確かに、鴎や鷹原が帰ってしまうとなると、この島も寂しくなるな」
その時、のみきが少しだけ愁いを帯びた顔をしていた。のみきもこの夏の間、鴎と寝食を共にしていたはずだし、やっぱり寂しいんだろう。
「そういえば、寄合があるって言っていたけど、のみきは行かなくて良かったのか?」
「今回は秋の芸能祭へ向けての話し合いでな。正直、私はそこまで関係がないんだ」
「え、そんなイベントがあるのか?」
「ああ。秋には芸能祭の他に、島の運動会もある。まだまだ忙しいんだぞ」
そう言いながらも、のみきは先程とは打って変わって嬉しそうな顔になった。やっぱり、充実しているんだろう。
「……なら良いんだけど。のみきにも、色々と世話になったな」
「なに、礼を言われるようなことはしていない。それより本土に帰っても、定期的に島の皆へ連絡をくれると嬉しい」
「ああ、わかってるよ」
「彼氏さんなんだから、しろはにはちょくちょく電話してあげなさいよー?」
その時、空門姉妹が笑顔で会話に入ってきた。
「その点は大丈夫。毎日電話するから」
「……うわ、真顔で言ってますよ。しろはちゃん、これはやりかねませんね」
「迷惑だし!」
藍の言葉を真に受けたのか、しろはが叫んでいた。いや、さすがに冗談だけどさ。
「まぁ、時々はあたしたちにも近況報告しなさいよねー」
「あ、それで思い出したんだけどさ……蒼、以前教えてもらった電話番号、変わってたりしないよな?」
「へっ? 変わってないけど?」
「春にも何度か電話かけたんたけど、繋がらないからさ」
「えー?」
蒼は首をかしげていた。俺もしっかりと番号を確認したはずなんだけど。
「……実は、蒼ちゃんに都会の危ない情報が入らないように、羽依里さんちの電話番号は着信拒否にしてあります」
疑問に思っていると、藍がそう言ってうすら笑いを浮かべていた。
「ちょっと藍―――! 何してくれちゃってるの―――!?」
……そういうことだったのか。言われてみれば、空門家の電話は最新式のコードレスホンだった気がする。
「……わかりました。蒼ちゃんがそこまで言うのでしたら、そのうち解除しておいてあげますよ」
……そのうちなのか。かなり不安なんだけど。
「……そうだ蒼、ひとつだけ頼みがあるんだけどさ」
「え、なに?」
「また夏になったら、山の祭事をしてほしいんだ。来年も、その次もさ」
「そ、そりゃ、空門のお役目だし? 言われなくても続けるけど……突然どうしたの?」
「いやその、特に理由はないんだけど……なんとなくさ。お願いするよ」
「りょーかい。あたしに任せときなさい」
やっぱり、昨日の記憶はないんだろうけど、そんな蒼の笑顔が頼もしかった。
なんとしても、蒼には夏海ちゃんの七影蝶を見つけ出してほしい。
……その後も、残された時間を惜しむように、皆と他愛のない話をする。
何度経験しても、島を離れる時はつらい。名残惜しくて、自然と涙がこぼれそうになる。
「……羽依里、泣いちゃ駄目だよ」
「わ、わかってるよ」
そんな胸の内を感じ取ってたのか、しろはが傍にやって来て、諭すように言う。
「……私も我慢してるんだから」
「え、何?」
先の言葉に続けて、しろはが何か呟いたような気がしたけど、声が小さすぎて聞き取れなかった。
「……なんでもない。それより、楽しい夏休みだったね」
「ああ、俺も楽しかった」
「その、道中気をつけて。ご飯はしっかり食べないと駄目だよ」
「ありがとう。しろはも夏バテとかしないように、体調気をつけてな」
「うん」
「……ほら、今こそお別れのチューですよ」
「ひゅーひゅー!」
「「……だからしないし!」」
そんな俺たちを見て、仲間達が一斉に冷やかしてくる。やっぱり、こんなやりとりをするこの時間が、すごく心地いい。
『宇都港行き、まもなく出港いたします』
……その時、船のアナウンスが流れる。
同時に、不覚にも視界が滲んでしまった。
「……皆、ありがとう。それじゃ!」
俺は皆に頭を下げた後、涙目になっているのを見られるのが恥ずかしくて、急いでタラップを渡る。
そのまま船内の階段を走るように登って、一気にデッキへと移動する。ここなら、多少涙目になっていても気づかれないだろう。
……デッキから皆に手を振っていると、また少し涙が出てきた。俺、こんなに涙もろかったっけ。
「……見てくださいあれ。絶対泣いてますよ」
思わず手の甲で顔をぬぐったのを見られたらしく、藍が俺の方を指差しながらほくそ笑んでいた。
「な、泣いてないぞ! 目にゴミが入っただけだから!」
「はいはい、そういうことにしておきますよ」
我ながら苦しい言い訳だと思うけど、今はそれが精一杯だった。
……やがて、船はゆっくりと港を離れていく。
俺は皆の声が聞こえなくなるまでデッキに立ち、手を振り続けていた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
向きを変えた船がゆっくりと港を離れはじめ、皆の姿が完全に見えなくなると、俺の気持ちも少し落ち着いてきた。
「……そろそろ船内に入ろうかな」
なんだかんだで真昼間だし、いくら風があるとは言え、デッキは暑い。
……そう思っている間にも船は進む。気がつくと、防波堤に立つ赤い灯台が見えてきた。
そういえば以前、なんであんな陸地から離れた場所に灯台があるのか不思議に思って、しろはのじーさんに聞いたことがある。
じーさん曰く、あの赤い灯台は反対側にある白い灯台と対になっていて、港口を表す灯台らしい。
それぞれ違う色の光を放つので、夜に港へ入る船はそれを目印にするんだとかなんとか……。
「……え?」
そこで、俺の思考は停止する。
……その、今まさに通り過ぎようとしている、赤い灯台。
……そのたもとに、あの子が立っていた。
小さな体を思いっきり伸ばして、満面の笑みで手を振ってくれている。
「……夏海ちゃん!?」
当然、かなりの距離があるし、聞こえるかわからなかったけど、その名前を呼ばずにはいられなかった。
短めの髪と、見覚えのある蝶の髪飾りが太陽の光を反射してキラキラと輝いている。間違いない。あれは夏海ちゃんだ。
「夏海ちゃん!」
俺はもう一度その名を叫び、デッキの柵から身を乗り出さんほどの勢いで手を振り返す。
「夏海ちゃん、俺は忘れないから! また来年! 一緒に遊ぼう!」
―――はい!
実際に声は聞こえないけど、小さな口がそう動いていた気がする。
「……うわっ!?」
……その時、強い風がデッキを通り過ぎ、俺は思わず目をつぶってしまった。
「あれ……?」
……次に目を開けた時、その灯台には誰の姿もなかった。
……もしかして、今のは幻だったのかもしれない。
けど、この夏の終わりに、あの子はもう一度だけ姿を見せてくれた。俺はそう思うことにした。
そして、俺は覚えておかないといけない。
大切な皆の他に、もう一人、一緒に夏を過ごした女の子がいたことを。
そう心に刻みながら、鳥白島の島影が霞んで見えなくなるまで、俺はいつまでも海を見つめていた。
……毎日が眩しくて、懐かしくて、ほんの少しだけ不思議な、俺の夏休みが終わりを告げた。
第四十九話・あとがき
おはこんばんちわ。トミー@サマポケです。
現在、私の頭の中にはLasting Momentが流れています。もう、絶賛エンディング中です。
実はこの曲、勝手に夏海ちゃんのテーマだと思っています。歌詞に共感する部分が多いですし。
そして覚悟はしていましたが、やっぱり羽依里が島を離れるシーンは辛いですね。夏休み、終わってしまいました。
でも、感無量です。原作でも言われていた通り、終わりがあるからこそ、全力で楽しめるわけですし。もう、私もやりきった感があります。
さて、次回がいよいよ最終回となります。エピローグですね。
Summer Pockets #2、全50話のラストにふさわしい内容にしたいと思っていますので、最後までよろしくお付き合いください。
今回も、最後まで読んでいただいてありがとうございました!
感想など頂けましたら、泣いて喜びます。