朝5時にジリジリと目覚ましの音が鳴る。緩慢な動作で起きた慧がまずは枕元のデジタル時計を止める。続いてスマートフォンを手にとって、4桁の足し算と引き算を5問解く。朝の覚醒に時間がかかるために導入したアプリは計算問題に正解しないとアラームが鳴り続けるものだ。
「相変わらず朝は弱いのか」
「15分あれば起きれます」
「なら、その音を早く止めてくれ」
最後の問題を解き終えた慧をすでに支度を始めているクリスの視線が刺した。相手チームの監督に砂糖を固めたようなキャラメル顔だと言われる優男然とした慧の顔は寝起きなのと相まって甘さが増している。ただし身長は180を超えているし、長打も打てるバッターらしく体格も良いので首から下は全く甘くない。
「あと10分で支度を終えたら、グラウンドまで俺が案内するぞ」
「40秒で支度します」
「焦るな。初日だから格好にも気をつかえ」
きっちり10分後に支度を終えた慧が部屋を出ると同じような先輩と後輩の組み合わせの中で数名と目が合う。さっと視線を流して知った顔がないことを確認する。廊下にいる数名は慧たちを伺いながら、何かを話している。気にするなというように肩を叩いたクリスがグラウンドを案内する間に入部テストの説明をした。投手と捕手のテストの際はクリスも横に控えるらしいが、受けるのは1年生になるだろうという言葉で慧が露骨に顔をしかめる。
「例年、捕手候補は何名ぐらいですか?」
「1〜2名だな。今年は御幸が入ると噂になってたから他はいないかもな」
「例の御幸くん」
「俺と正捕手を争うなら御幸しかいないと思ってる。だから向井地、本気を出して投げろ」
その言葉を曖昧な笑みを浮かべた慧が流したことで、無言のままグラウンドに到着する。1年は向こうだと指示された列に並んで周囲を観察するも、件の御幸の姿がない。列に並んでいるのは15名程度。これから人数が増えることを考えても、人数は多いほうだろう。スカウトという名の特待生は3名だと聞いているから、他は一般入部。ここ数年、甲子園から遠ざかっているチームにしては人気が高い。
「ギリギリだけど間に合ったな。よぉ、久しぶりだな。中学は仙台にいたんだっけ?」
「ああ、御幸くん」
「話したことなかったから、覚えられていないと思ってたぜ」
「ここで知っている顔はクリスさんと君しかいないから」
集合時間の間際になって隣に御幸が並ぶ。不思議と慧の両隣は空いており、そこへ滑り込んできたのだ。御幸は優等生だから呼び方も言葉もお上品でと思っているが、単に猫を被っていて、クリスに思い出させてもらっただけである。シニアの有名人が並ぶことで周囲の目も自然に集まる。二人には慣れたものであるが、興味本位の探る視線は肌に痛い。どこか落ち着きのない雰囲気の中、監督である片岡が太田と高島を伴って現れる。まずは自己紹介をと指示が飛ぶ最中、猛スピードでグラウンドに飛び込んだ倉持という生徒の名前が一気に広まるというハプニングの後、残り2名となった中で慧の番が回ってきた。
「青葉山シニア出身、向井地慧。ポジションは投手」
あいつ青道なのかなど周囲が騒ぎ立てるが、落ち着いた声音のまま言葉を続ける。
「このチームで一番勝てる投手でありたいです」
御幸は隣で口角を上げる。正直、青道の投手陣に層が薄いと感じていた。冬も近くなってきたある日、高島から向井地慧をスカウトできたと聞いた瞬間に湧きあがったのは歓喜だ。あの成宮と肩を並べられる投手は同世代にほとんどいない。ただ向井地慧は例外だ。世代No1候補とも評されるセンスと体格。どれをとっても逸材。中身は色々言われているが、性格が悪いぐらいが好みである。下から青道を突き上げ、甲子園に行く。そのストーリーが描けた。自己紹介での宣言も嫌いじゃない。
「大江戸シニア出身、御幸一也。ポジションは捕手」
向井地慧を焚きつける一番の言葉を選ぶ。
「クリスさんからレギュラーを奪うつもりです」
二人の視線が交わる。秋には同じイニシャルをもじってKKコンビならぬ、MKコンビと呼ばれるようになるバッテリーのファーストコンタクトだった。