どこまで進んでも木々は続いた。
どれだけ走っても雨からも逃げきれない。
頬を伝う水滴が、ドレスと肌を密着させる汗が、どれもが不快であった。
けれどオーベリアは止まることなく走り続ける。呼吸など既に定まっていない。靴の片方はどこに落としたかなどわからない。
ただ背後に迫っている声から逃げ続ける。後ろをチラリと確認すれば暗闇と木々の合間からぼんやりと灯りが揺れる。
追ってきた。追いつかれそう。追いつかれれば私は死ぬ。
そう死んでしまうだろう。その事だけは鮮明に理解することができた。誰が追手を差し向けたなど考えたくもない。王である父の死も、また考えたくもなかった。
何も知らぬ少女であればどれ程良かっただろうか。歯を食いしばり脚を動かす事に集中する。
隆起した木の根がそれを阻む。水の付いた草と泥に滑り、口の中に泥が入り込み吐き出す。
脚を動かそうにも激しい痛みと一緒にビクリと動くだけで立つこともできない。
それでもオーベリアは逃げる為に這いながら移動する。せめて見つからない所に。せめて隠れられる所に。
先日までの華々しい姫としての生活とは真反対の泥と痛みに塗れた自分。そして、自分は捕まるであろう事は理解できた。理解はできたが諦めはしていない。
今なら悪魔にだって願ってやる。自分の全てを投げ打ってでも生き延びてやる。
オーベリアの前に足が見えた。一瞬だけ自身の終わりを感じたがそれはすぐさま否定する。
その足は素足であった。いいや、丈のある板に足が乗っており、まるでスカートをそのまま長くしたような布で足首から上は隠れている。
見上げれば、幼い顔が見えた。同時にその存在がさっぱり濡れていないことに気付き、あれほど自分を濡らした雨が今はまったく顔に当たらない。
魔物の類いである事は即座に理解できた。この雨にも濡れぬ超常存在が人である訳がない。
だからオーベリアは笑った。死を受け入れた。誰ともわからぬ……いいや、兄妹であった存在に命を奪われずにしてやったりとでも思考した。
そしてオーベリアの意識は緩やかに闇へと閉ざされる。
「なんでぇ……面倒な事になりやがって」
そんな誰かの呟きなど届かずに。
瞼を上げてオーベリアがまず思った事は、死後の世界が思っていた物ではなかった事である。
大理石の調度品もなく、雲の上でもなく、天使が迎えてくれた訳でもなくて、木製の空が見える。
細い棒で支えていると思われる、幾つか規則的に並んだ木板。辿れば格子状に区切ったこれまた木製の壁に白い何かが嵌められている。
そしてようやくオーベリアは自身を包み込むふんわりとした布袋に気付き、同時によくわからない布を纏っている事に気付いた。ドレスではない事は理解できるが服にしては肌触りが違う。少なくとも平民のそれではない。特殊な布だとしてもエルフ達の艶やかな魔法が織り込まれた布でもない。
何かが擦れる音がして、壁になっていた格子板が横にズレる。顔を覗かせたのは女であった。
「あら、起きましたの。気分はいかが?」
果たしてオーベリアはどう答えればいいのか迷った。死後の国ではない。けれどもそのどれもが自分にとっては不思議でしかない。更にはスルスルと自分へと近寄ってきた女も問題であった。
胸元をはだけさせた自分と似た布服。鋭い赤目であるけれどそれもまた美しいと思える美貌。女性であるオーベリアですら一瞬だけ見蕩れてしまったが、すぐにその思考は別の特異に塗りつぶされる。
蛇であった。上半身の体は人であったが、その下半身はびっしりと白い鱗をつけ、スルスルと床板を這う蛇の体であった。
「ラミア……」
「えぇえぇ。ここでは私はそう呼ばれるのでしたね」
驚きの顔をしているオーベリアを愉快に思ったのかころころと慎ましく笑いながらラミアは尾を自身の顔へと近づけた。
「ハクとお呼びくださいな。私はそう名付けられました」
恭しく白頭を下げたハクに対してオーベリアも慌てて半身を上げて礼を返そうとしたが、体に走った痛みがそれを拒んだ。
痛みに歪んだ顔を見てハクはやはりころころと笑ってオーベリアの背に手を当てて上半身を上げさせる。
「ここに運ばれた時は足も折れて、傷だらけ。肋も折れていたようです。あまり無理はさせたくありませんが今しばらくそのままでお待ちくださいな。主を呼んで参ります」
「あ、あぁ」
自身の容態とこのハクと呼ばれるラミアの主がまったくの見当がつかない。記憶の端に残る、あの雨にも濡らされない存在なのだろうか。
「その……ハク、殿?」
「私などハクと呼び捨てで構いませんよ。どうかなさいましたか?」
スルスルと出ていこうとするハクを呼び止め、オーベリアは神妙な顔でようやく当初の疑問を口にした。
「ここは……死後の世界なのか?」
その問に答える事は無かったが、やはり愉快だったのかハクはころころと笑ってみせ「主にお聞きくださいな」と一言置いてまたスルスルと部屋から出る。
主。ご主人様。
この世界において魔物を使役するという行為は一般的でない。奴隷として魔物を使役するような事はあるらしいが特殊な首輪などを装着していなければならず、ハクにはそれがない。
けれど、ハクは主と呼ぶ。
魔の王……御伽噺で存在し、勇者という御伽噺の存在に倒される存在。ありえない、と考えてしまう。
けれども自身の今の状況こそありえない事だらけだとオーベリアは理解している。だからこそ、今から来るであろう主がそのような存在であると可能性は捨てきれない。
ぎぃぎぃと音を鳴らしながら格子状の板の奥に人影が映る。一つはハクであろう。わざわざ尾を少し離れた所で揺らしている。
もう一つはハクよりも小さい影であり、それが主と呼ばれる存在であることは理解できた。
「――入んぞ」
断りの言葉すらもなく板はズレた。
夜そのまま垂らした様な黒髪に黒の瞳。幼い顔立ちであるが深い眉間の皺がどうにも幼さの印象をかき消している。
春の草原をそのまま布にしたような淡い草色の不思議な衣を纏った少年であった。
オーベリアが意識を失う直前に見た、あの幼い顔がそこにあった。
「あなたが助けてくれたのか?」
「お前さんの体に関しては別の奴だよ。俺はお前さんを拾っただけだ」
拾った、とは随分な言い方であったがオーベリアにとってそれは十分な事である。あの状況から、拾われたのだ。
「私を追っていた騎士は、ここはどこで、あなた方は一体――」
「まあ、落ち着け。一気に聞かれても困るじゃねぇか。元気なのはいい事だが、こっちはお前さんの名前すら知らねぇんだ」
オーベリアから溢れ出てきた疑問を少年は止めて腕を組みながら困ったように口を曲げる。
その様子に気付いてオーベリアは自身の失態を恥入りながら、一度深めに呼吸をして気持ちを落ち着ける。
「すまない……。私はオーベリア・ゲルディア。ゲルディア国の姫だ」
「へぇ……お姫様にしちゃァ随分な口調じゃねぇか」
姫であったが才能があったオーベリアは騎士と共に訓練も積んだ。オーベリア自身も知る、蝶よ花よと育てられた姫ではない。蝶や花であれば、追いかけられるような事もなかったであろう。
押し黙ったオーベリアを見ながら、少年は髭も生えぬ顎を指で擦る。
「まあいいか。俺はここ家主で、要って名乗ってる者だ」
「カナメ、殿……」
この少年の名を何度か頭で反芻しながらオーベリアは一呼吸おいて口を開く。
「……ここはどこなんだ?」
「ここは俺の屋敷で、地理的に言やぁ馬鹿でけぇ森のど真ん中だ」
どこに向かおうが同じ距離を歩けば森を出れる。などとカナメは喉を鳴らしながら笑いその後ろではハクが変わらずころころと笑っている。
オーベリアは頭の中で地図を広げ自身が逃げ始めた場所と逃げ出した方角からあたりをつけ、顔を引き攣らせる。
「ここは……禁じられた森か」
禁じられた森。この場を中心に広がっているだろう広大な森。
禁じられている理由は既に言い伝えにまで遡らなければならない。オーベリアとて詳しくその理由を覚えている訳ではない。ただ寝物語として何度も聞いたことがあった。
森に入れば出ることができない。悪い子は捨てられる。沢山の魔物の巣窟。
過ぎった理由達と事実として変わらず森が他国も含めて入れない事、そして目の前の少年とラミアであるハク。
「別にとって食いやぁしねぇよ。殺すつもりなら手前さんが寝てる間の方が簡単だ」
表情に出てしまっていたのかカナメが呆れたように言葉を吐き出す。
「ま、ゆっくりしていきな。拾った命だ。面倒ぐらいは見てやるよ」