『足元を見れば雲が広がっている。
触れてみれば、しっとりと湿っている。
——あの日も、そうだった』
柔らかに降り注いでいた月光は静かになりを潜め、いつしか空は雲に覆われます。
パラパラという音が町を満たすのに、さほど時間はかかりませんでした。
七月九日、『ハロー、ハッピーワールド!』のCIRCLEライブ前夜のことでした。
「生憎の天気だなぁ」
雨音に目を覚ました彼女──奥沢美咲は独り言ちます。
その日は小さな雨粒がぽつぽつと降り注ぐ、雨の日でした。
七月九日水曜日。
今日は彼女が所属するガールズバンド『ハロー、ハッピーワールド!』のライブ当日。
開演時間は夕方とはいえ今日が平日である以上、健全な女子高生である彼女らは学校に通わなくてはなりません。
結局いつも通りの時間に起き、いつも通りのモーニングルーティーンを行い、いつも通りの時間に家を出る他なく。
彼女はのらりくらりと家を出ていきました。
すれ違う人の足もこころなしか早く、ぱしゃぱしゃという水飛沫がそこかしこで上がる中で美咲は学校に到着します。
「おはようこころ……大丈夫?」
荷物を自分の席に置いた美咲が向かったのはこころのもと。
その声に彼女は振り返り────ああ、
……しかしそれを──無理やりにも思えるほど──隠すようにこころは笑顔を貼り付けました。
「あらおはよう美咲! 今日のライブ楽しみね!」
「……うん、そうだね」
そんな顔をして「誰も彼もを笑顔に」なんて、とても言えたものじゃないでしょうに。
「……本当に、生憎の天気だよ」
その日の昼過ぎに、少年は目を覚ましました。
少年の生活においてその時間に目を覚ますというのは割と珍しい事です。
いつも朝早く起きて散歩などに向かう少年でしたがしかし昨晩、妙に悶々とした気持ちを抱えてベッドの上で眠れない夜を過ごしていました。
それはやはり、床に無造作に投げ捨てられたフライヤーが関係しているのでしょう。
臓腑がひっくり返るような不安感と、後悔と、漠然とした焦燥。
それは療養生活を送ってきた少年からしても経験したことのない、つらいつらい一晩だったのです。
どうにも相手に依存していたのは、少女だけではないようでした。
「母さん、ちょっと出かけてくるわ。帰んの遅なるかもしれん」
「そう。いってらっしゃい、気を付けてね」
「……うん」
母は何も言わずに少年を送り出しました。
おそらく彼が何しに行くかは察していたのでしょうに、何も彼に問いかけずに。
以前CIRCLEを『少年の家から少し離れたところにある』とは言いましたが、とはいえ道程はそこまで長いものでもありません。
しかしそんな道を少年は普通以上に時間をかけて歩きました。
それが身体によるものなのか、こころによるものなのかはともかくとして。
CIRCLEには雨だというのに存外人が集まっていました。
「……やっぱ、人気なんやなあ、こころ」
何度もライブ映像で見てわかってはいたものの、やはり生で見るとハロハピというグループの人気をかみしめざるを得ず。
「あ」
上の空だった少年は、ついその声に振り向きました。
「……来てくれたんだ」
「……まあ」
少年の視線の先にいたのは美咲。
ペットボトルを片手に、軒下で休憩を取っているようでした。
「……こころは」
「元気っては言えないかな。だいぶやつれてるよ」
「……そうか」
特段二人は仲互いをしたというわけでもないのに、間に妙な気まずい空気が流れています。
人の流れの中で動かない二人の周囲はぽっかりと空間が開き、そこだけ時間が止まっているようでした。
しばしの空白の後、美咲が気まずげに頬を掻きながら徐に口を開きます。
「えっとね……お願いがあるんだ」
「お願い?」
「出来れば、ライブが終わるまでこころに見つからないようにしてほしいんだよね」
突然の彼女の言葉に、少年は首を傾げます。
「呼んでおいてムシのいい話だっていうのは分かるんだけどさ。でも……今のこころが君に会ったら多分、ライブが総崩れになっちゃう気がするんだ。だから——」
少年が、それは吝かではない、そう口に出そうとして。
「美咲?」
その太陽のような声は、人混みの喧騒の中にいてしかし、しっかりと響いていました。
今度は明確に、その空間の時が停止し。
「ここ、ろ……」
弦巻こころその人がCIRCLEから顔を出していました。
少年の姿を認め、瞳を大きく見開き、震わせながら。
私は未だに運命なるものを信じきれてはいませんが。
どうにも彼女は運命に導かれる星の元に生まれてきたような気がします。
運命の悪戯などとはよくもまあ言ったものです。
さてさて。
絞り出すように少女の名前を呼んだ少年を、こころはどこか人形のような表情で見ていました。
「こころ、あのな……」
「私に何か用? とりあえず外は寒いし中で話さない、こころ?」
伸ばしかけた手を美咲の背が遮ります。
少年を拒絶するように、いない者として扱うかのように美咲はこころに話しかけました。
「こころ、いくよ」
こころの背を押し、二人はCIRCLEへと吸い込まれていきます。
どうにも美咲は、
「美咲……?」
「どうしたのこころ? 私用事あるしそろそろ行かないといけないけど」
楽屋に戻ってきたこころと美咲は席に着くとお茶を片手に向かい合っていました。
偶然にも他のメンバーはまだ楽屋に戻ってきてはいないようで、室内は外の喧騒に満たされていました。
それはつまり、ライブ前だというのに楽屋内に浮かれた空気が無いという事に他ならなく。
「あの人がね、あの人が来てたの」
その言葉に美咲が一瞬顔をしかめたのにこころは気づかなかったでしょう。
美咲の紙コップに小さく皺がよります。
「へ、へぇー。そうなんだ」
「私があんな酷いことを言ってしまったのに、来てくれたの」
…………。
「私ね、あの人が大好きなの。こんな気持ちになったの初めてなの。あれだけ言ってしまったのに、あの人はそれでも私の願いを叶えてくれたの。私、今日のライブを絶対成功させるわ。あの人のために」
「——そ、そっか。あ、ごめんね。ちょっと本当に時間マズいから帰らせてもらうね。じゃあ」
飲みかけのお茶もそのままに、美咲は足早に部屋から出て行きました。
「……だから会わせたくなかったんだよ、君たちはさ」
楽屋の扉にもたれかかってそう溢します。
——その暗い感情には気付いてたからさ。
そんな呟きは、ライブ前により一層の盛り上がりを見せる喧騒とともにどこかに流されていきました。
彼女の生涯において、彼女が彼女の感情のためにライブを行うと発言したのは、ただの一度きりです。