「今日は来てくれてありがとう! 私たちはハロー、ハッピーワールド! まずは一曲聞いてちょうだい!」
ステージに現れた『ハロー、ハッピーワールド!』のメンバーたちが演奏を始め、会場は一層の盛り上がりを見せ始めます。
その光景を、少年は最後列から見ていました。
あの人がいる。一番後ろのあそこに。あの時みたいに。あの人が来てくれている。私の位置からよく見える。
それがどうしようもなく嬉しくて、ココロが満ち満ちて、途方もないくらいに活力がみなぎってくる。
彼にとてもひどいことをしてしまってから、少しも眠れなかった。
毎晩毎夜あのときのことが頭を過って、吐きそうなくらいの嫌悪と後悔が胸を満たした。
あの人に合わせる顔なんてなくて、でもあの人から離れるなんて考えたら目の前が真っ暗になって、でも。
それでもあの人は今日、ここにきてくれた。
だから、私は彼のためにこのライブを成功させよう。
ああ、大好きな貴方。
この演奏が、どうか貴方に届きますように。
——そのときのライブは、『ハロー、ハッピーワールド!』というバンドにとって最低の出来といっても過言ではないものでした。
それは『ハロー、ハッピーワールド!』というバンドが形を成す以前、たった二人のストリートライブの時と比べてすらも。
逸るボーカルの歌声に自然と他のメンバーも調子を崩され、それでもなお止まらないボーカルの歌声はいつしか壊れたブリキの玩具のようなチグハグさをもって、ライブの失敗を告げました。
ライブの成功失敗など、明確な基準があろうはずもありません。
しかし、それでも、このライブは失敗だったのだろうと。
それはきっと、会場に満ちた空気から察せざるを得ないものでした。
雨音は一層の強まりをみせていました。
「こころ、あのさ」
誰もが口を噤む中、それを破ったのは美咲でした。
演奏が終わり、楽屋へと戻って来た『ハロー、ハッピーワールド!』の面々に喜色などといったものは露も見えず。
部屋もまた、ホールと同じような鬱蒼とした空気に支配されています。
「……悪いんだけど、今日みたいなことが繰り返されるようであれば私もミッシェルもついていけない」
言い淀むように、それでいて心底言いづらそうにしながらも、それでも美咲はそうこころに言い放ちました。
その言いようを部屋の面々が咎めることはなく。
誰も彼もが俯いて言葉を発しません。
そしてそれは、美咲の言い分を否定できないということに相違なく。
「こんなことになってるしこの場で言うけど、今日はこころにとって大事な人が来てた。けど、それでライブを蔑ろにされちゃ堪んない。あの人が来るたびにこんなことをされてたら、それこそこのバンドは分解するよ」
こころに大事な人がいる、というのは他の面々は知らなかったことです。
もっとも、彼女の行動の変化を見ていれば気づくことはあるでしょうが、少なくともこころも美咲も公に彼女らに周知したことはありません。
しかし、それのせいでこのライブが総崩れになったというのはつまり……ああいえ、そんなことを言ってはいけませんね。
こころに詰め寄る美咲と、それになんのアクションも起こさないこころ。
いつしか美咲の語りようはヒートアップしていきます。
「……もっとも、こんなものを見たあの人が今後見に来てくれるかは知らないけどね。あの人にあんな言い方しておいて、こんなんじゃ」
そして、それを。
嗚呼、そう。
こころにだけは言ってはいけない、その言葉を。
美咲は勢いのままに、こころに言ってしまったのです。
「っ!」
パチン、と。
そんな音はしっかりと控え室の隅々まで響き渡ります。
荒々しく部屋から出ていくこころを、美咲は見送る他ありませんでした。
「……はは、あたしなに熱くなってんだろ。こんなのあたしの役割じゃないのにな」
腫らした頬に手を当てだ美咲は一つ深く息を吐くと、他の面々に振り返り。
「空気悪くしてごめん、ちょっと外出てくる」
部屋には、ただの三人だけが取り残されました。
それは、ええそう、ある種の直感めいたものであったのでしょう。
あの時に少年が、不意に流されるままだった人混みから離れてふらふらと裏口に向けて歩いていったのは。
或いは、たったの数ヶ月の付き合いにも関わらず彼女をとてもよく知ってしまったが故の行動だったのかも。
ただなんとなく、弦巻こころがいまどうしているかを手にとるように理解していました。
「たとえば、なんかあって外で雨に打たれとるとかな——こころ」
「あ……」
傘も刺さずに雨に曝される彼女——弦巻こころは、少年を見とめると視線を彷徨わせました。
辺りに人影はなく、正しく二人は二人きりの空間で向かい合います。
「あ、あの、私……」
「今日のライブについては、俺はとやかく言わんよ。別に専門家でもなんでもないしな」
こころの言葉を待たずに少年はそう言いました。
こころはそれに対して何かレスポンスを返すことはありません。
ただ、何かを言いかけた口のまま固まったように、彼の言葉が続くのを待っています。
「ただまあ、あれやな。普段の……つっても映像しか見たことないけど、それでも今日のお前が随分先走ってたのは分かる。メンバーに迷惑をかけるのだけはやっちゃいけん事やないんか?」
少年とこころの間では珍しい、少年の諭すような口調。
こころは、なにも返しません。
「大方誰かに叱られて不貞腐れて出てきたってとこやろ。大事なバンドメンバーやし、しっかり謝らんと」
こころは、なにも返しません。
「なあこころ。お前、
こころは——
「だって、貴方がきてくれたから!」
「あ?」
「貴方が来てくれたから、貴方に捧げなきゃ駄目だったの! 貴方のためにこのライブをしたの! 私は貴方に酷いことをして、なのに貴方は来てくれて、だったら私も貴方に最高のものを届けなきゃって、だって、そうじゃなきゃ、貴方に——」
「ここ、ろ……」
決壊したダムのように捲し立てるこころに、その時ようやく理解しました。
「だって、私は、貴方が——!」
「今日来たのはな、こころ。お前に言いたいことがあったからや」
結局いつまでもその関係にしがみついて、決心もつかず、流されるままにこんなところにまで足を運び、そして。
そして、あの日見たあの光を、どうしようもなく焦がれたあの輝きを、己などに手が届くなんて勘違いして、こんなところにまで墜つしてしまった。
なんと言えばいいのでしょうか、太陽は太陽であるから太陽足り得る、なんて表現いたしましょうか。
少年はけして鈍いわけではありません。
彼女が、こころが少年に向ける感情もなんとなく理解しています。
もしかしたら彼女はもう取り返しのつかないところまで来てしまっているのかもしれない、という事も。
でも、それでも少年は。
「もう俺のところには来ないでくれ」
それでもいつか、必ず彼女を救ってくれる者が現れると確信して、そう。
そう、彼女に言い放ちました。
その後彼女らがどうなったかは語るに及びません。
ただ言えるのは、少年は彼女の物語からドロップアウトし、彼女はいつしかまた『ハロー、ハッピーワールド!』のボーカルとして燦々と歩み始めたということ。
此れは少年の物語ではなく、彼女の物語に尽き。
弦巻こころがなにを考えなにを想ったかというのは私には分かりかねますが、まあ。
少なくとも、彼女はあのあと。
奥沢美咲に、そして『ハロー、ハッピーワールド!』に、救われたのでしょう。
少年の、希望的で、エゴに満ち、独善的で、独りよがりで、無責任な行動は、結果としては『ハロー、ハッピーワールド!』を
これからも煌々と輝く弦巻こころという人間の物語の、その片隅を黒く汚したままに。