先日の、こころの少年の家への訪問以来、度々二人は会うようになりました。
もっぱら会いにいくのはこころで、少年はそれに合わせる感じです。
例えば、公園で。
例えば、家で。
例えば、商店街で。
二人は、何度か行動をともにしました。
基本的にこころが彼の家を訪れるのは休日ですが、稀に平日に彼の家を訪れても、彼は家にいることの方が多いのが不思議な事でした。
しかし二人は、少年の家の付近から離れる事はありませんでした。
二人が住むこの町にはデパートがあり、その中には映画館があります。
少し電車に揺られれば遊園地にも水族館にも着きます。
それをしなかったのは、こころが提案しなかった事もありますが、少年もまた、話題に出そうともしなかったのです。
彼の惚けた顔を見るのは、この物語でも何度目になるでしょうか。
こころに出会ってからというものやけに表情の変化が増えた少年ですが、今日も今日とて目を見開き、口をぽかんとそのアホ面を世間様にさらしておりました。
彼の目の前にあるのは整然とした広大な庭。
バロック様式の白亜の建物。
噴き出る噴水広がる薔薇園水に煌めく空の光。
ああ、それは正しく人の夢見る楽園のようで——。
「どうしたの? さあ、行きましょう?」
事もなげに自身に振り向くこころを見て、少年はまた一つこころに対する認識を改めたのでした。
庭園をこころに手を引かれ——少年は嫌がっているのですがこころが離さないのです——抜けていく少年。
黒塗りの扉を開けると廊下に敷き詰められた赤いカーペットと、廊下の脇に置かれた、少年にはよくわからない壺やら絵画。
そんな、価値観も世界観も違った、まさしく別世界に招かれたような空間に少年がクラクラし始めた頃、こころは一室の扉に手をかけました。
「ここは?」
「私のお部屋よ? おかしな事を聞くのね」
「いや、言われてないからな?」
彼女の自室だという部屋に足を踏み入れた少年は——半ば予想できていたことはありますが——ほう、と嘆息しました。
その一室は、明らかに一人の少女には不相応な部屋。
一般家庭のリビング程もある広さに、天幕つきのベッド、たくさん放り出された人形たちで、一部は床が見えなくなっているところもあります。
ベッドに身を投げ出しポフポフと自身の隣を叩くこころを見て、少年は苦笑いしながら遠慮がちにベッドに腰掛けました。
「そういえばよ、なんで俺は呼ばれたん? わざわざこんなところまでよ」
「んー? 私があなたともっとお話ししたいと思ったから、かしら?」
「いや、ほならうちでよかったやろ」
「ここなら、静かでしょう?」
言われて、ああ、と少年は声をこぼしました。
その広い広い敷地より聞こえるのは、小鳥のさえずる音、噴水の流れる音、そして時々の車の駆動音。
「その、 弦巻さん、あんた、家族は?」
「わからないわ」
「わからない?」
「お父様には、もう随分会っていないの。家にいないことの方が多いから」
「じゃあ、母さんは?」
「どこにいるんでしょうね。わかんないわ。いつからだったでしょう。随分経ったわ」
しん、と静寂が落ちました。
少年は、やれやれと言ったように顔に手を当て、天井を仰ぎました。
「お前……普通やない普通やないとはずっと思ってたけどまさかなあ……」
「ねえ」
それは、思わず口をついた言葉だったのでしょう。
この広い家に、少女がただ一人——いえ、世話人はいるのでしょうが——そんな境遇を聞けば、誰しもそう思ってしまっても不思議ではありません。
普段の言動も相まって、ね。
ああしかし、それは、彼女に埋まっていた地雷だったのではと、後に思いました。
少年の呟きを聞き届けたこころは、むくりと体を起こし少年に向かい合います。
「普通? って、なあに?」
そう、こころは少年に問いました。
「は?」
心底疑問そうに問うこころに、逆にポカンとなったのは少年です。
普通は普通。
それ以上でも、それ以下でもなく、ただ世の人々の共通認識として漠然とあるものです。
あなたは、答えられますか?
普通って、なんですか?
少年の答えは、こうでした。
「そらお前……周りの人と違わんて事やないんか? 周りから飛び抜けとらんて事とか」
「……だったら私は、普通なんじゃなくていいと思うわ」
「は?」
ああほら、少年、こころの眼に気づいて。
そんなに顔を見つめているのだから。
今なら、彼女の心は見透かせるでしょう?
「みーんな誰とも違わないなんて、そんなのつまらないと思わない? それじゃあだーれも楽しめないじゃない。見慣れたものなのだから……」
ぞわと、背筋が怖気立つのを感じました。
ヒュッと、息を吸う音が聞こえました。
こころの瞳は暗い曇天。
煌めき失い、壊れたブリキ人形のように首を傾げるこころ。
心底彼女は普通でないということが身に沁みました。
気狂い。
側から見れば狂気的とすら思えるその執着。
あえて言い換えてみるならば、渇望とでも言いましょうか。
ドロドロとした汚泥のような感情がこころの内を這いずり、絡み合い、貪っているのでしょう。
「楽しくなくちゃダメなのよ。みんな笑顔にならなきゃ。泣いてるなんて寂しいもの。泣いてる人なんて出ちゃダメなの」
「つ、弦巻さん……?」
「笑顔じゃなきゃハッピーじゃないわ。そうよ。お父様も、美咲も、はぐみも、薫も、花音も、貴方も、みんな、みんなよ。だって、そうじゃなきゃ。みんな笑顔にしなきゃ、笑ってもらえない、愛してもらえない、いやよ、怖い。お願い笑ってよ。なんで、どうして、いや、いや、だって、だって、お母様、私、ちゃんと、一つでも、見つけたわ、見てよ、触れてよ、遊んでよ、もうやだ、一人、だって、私、離れないで、私は、あたし、違う、いえ、あたし、私は——」
「落ち着けて! こころ!」
「——っ!?」
「……なにがお前を駆り立とるんかは俺にはわからん。けどな、少なくとも、俺はお前を見とるぞ。落ち着けな? な。だーれも見てないなんてありえへん。なんなら俺がずっと見といてやる。だから一回深呼吸しぃ?」
そっと、少年はこころを抱きしめて耳元で囁きました。
少年のゆったりとした服の肩に、シミができていきます。
「……ごめんなさい、少し眠っても、いいかしら」
「……ああ。ゆっくり寝てな」
少年の体から離れたこころは身を横たえ、目を瞑りました。
指は、少年の服の袖を掴んだまま。
「ねえ?」
「なんや」
「お願いだから、あなたはどこにも行かないでね」
「……ああ」
それは、どんな思いで、口にされたのでしょうね。