幼い頃。
祖母の家の裏に在る竹林を、僕は姉さんと一緒によく探検した。
静謐さと厳かな雰囲気を併せ持つその場所が僕は大好きだった。
「ほら、視て。竹の花が咲いている」
花。
姉さんの云う通り、竹に花らしいものが咲いていた。
花というには地味な色のもので、一見すると見落としてしまいそうなものだった。
「この竹の花は、百二十年に一度しか咲かないの」
姉さんはそう云って、慈しむようにそっと竹の花に触れる。
百二十年。
其の大きさがよくわからなくて、僕は首を傾げていた。
姉さんは僕の戸惑いを察したのか、微笑を浮かべて言葉を続けた。
「私達が生きている上で、この竹が花を咲かす様子を視る機会はもう訪れないという事。私達は今、一生に一度しかない経験をしている」
一生に一度。
そう聴くと、此の地味な花に対する見方が変わった。
「もう、二度と視ることはできないの」
「そう。二度と」
姉さんは僕の言葉を繰り返すように云った。
百二十年。
その長さに較べて、僕達の命は何故こんなにも短いのだろう。
多くの人の命は、百にも満たない。
そして恐らく、僕の天命は三十にも満たない。
百二十年懸けて花を栄せる竹。三十にも満たない僕の天命。
余りにも短いと思う。
僕は、この竹のように一度でも花を咲かせる事が出来るのだろうか。
それ程確かな事ではなかったけれど、幼かった頃の僕はそれに近しい事を茫と考えていた。
「花が咲かなければ、永遠の命が在るというのに、何故植物は花を咲かせるのかしら」
唐突に、姉さんはそう云った。
「何故、個体の安寧を許そうとしないのかしら。種を優先することにどれ程の価値があるというのかしら」
姉さんの話は、その時は難しくて良く解らなかった。
「夏樹。花を栄せる必要はないのよ。他者の為に、花を栄せる必要はどこにもないのよ」
そして、姉さんは僕を見下ろして云うのだった。
「視て。この竹は、死に往く定めにあるの。それなら夏樹に花は要らない。私が」
姉さんの濡羽色の髪が、風で乱れる。
竹林が風でざわめいた。
其れでも、姉さんの瞳だけは風に逆らうように、僕を見下ろしたまま動かない。
「私が、二人分の花を栄せるから。夏樹は、そのままで良いの」
今はもう、思い出せない程の遠い記憶。
姉さんは確かにそう云った。
その一言だけは奇妙なほどはっきりと僕の記憶に沈殿し、凝固して固まっている。
◇◆◇
素数を初めて学校で習った時、こんなものが一体何の役に立つのだろう、と僕は思った。
それと同じように、最小公倍数や最大公約数、素因数分解エトセトラ。
その全てに僕は価値を見出す事が出来なかった。
そして、恐らくは現代社会に生きる大多数の人々が僕と同じような疑問を思春期に抱いて、その答えを出せないまま歳を重ねていくのだと思う。
しかし、僕の姉さん――相川冬香は違った。
姉さんは僕のようにただ無為に教育カリキュラムを消化するだけでなく、能動的にそれらを組み合わせてRSA暗号の生成アルゴリズムを自力で考え出した。何の事前情報もなく、だ。
当時まだ七歳だった姉さんは、独学でこれを考えだした。
言語獲得について非常に早熟であった為に度々周囲の大人を驚かせていたようだけど、姉さんが何気なく組み上げたそれにエンジニアである父さんが気づいて以来、姉さんは天才少女として地元ではそれなりに有名になった。
三年前、僕が十三歳になった時には既に姉さんは二十二歳にして米帝のある私立大学でPh.D.を取得していた。
分野は、バイオ。
姉さんがはっきりと口にした事はないけれど、姉さんがその道に進んだのは僕のせいなのだろう。
僕の身体は、先天的に欠陥を抱えている。
そして、姉さんは過保護だった。今のように。
「夏樹くん、ほら、お薬飲んで」
自室の炬燵を挟んで、姉さんが右手に持った錠剤を差しだしてくる。
ただし、その向かう先は僕の手じゃなくて、直接口に向かっていた。
僕は読んでいた本を閉じて、小さな反抗を試みた。
「自分で飲めます」
「だあめ。夏樹くんがちゃんとお薬飲んだの確認しないと安心できないの」
今年で二十四歳になる姉さんは、年齢に似つかわしくない口調で云う。
とても十六になる弟に向ける口調ではない。
「姉さん、心配してくれるのは嬉しいけれど――」
「チャンス!」
僕の開いた口に、姉さんが素早く薬をねじ込む。
むご、と奇妙な音が僕の喉から漏れた。
「はい。お水」
満足そうにコップを差し出す姉さん。
僕は精一杯睨みながらコップを受け取り、それを飲み干した。
「あと、粉薬ね。はい、お口開けて」
僕は反論も何もせず、ただ口をしっかりと閉じて姉さんを睨んだ。
「ああ、夏樹くんはジト目も可愛いなあ、もう!」
わざとらしく姉さんがはしゃいだ声をあげる。
何を云っても、口を開いた瞬間に薬を詰め込まれるのだろう。
何も云わず、ただ粉薬は自分で飲む、という意思表示のために右手を出す。
「んー、手だと嫌? じゃあ口移しで……」
粉薬の包装を破いて、姉さんがそれを口に含もうとする。
それでも僕が何も言わないまま睨みつけると、姉さんはつまらなさそうに肩を竦めた。
僕が意地でも口を開こうとしない事に焦れたのか、一つの提案がなされた。
「うー、そんなに嫌がらなくてもいいじゃない。んー、じゃあね、賭けをしようか」
「賭け?」
「うん。サイコロを一回振るから、私が指定した目が出たら素直に飲んでね」
姉さんはそう云って、炬燵の上のペン入れから一つの黒い六面サイコロを取り出した。
「……どうしてそんなもの用意してるんですか? そこからもう怪しいんだけど」
僕が疑念の籠もった視線を向けると、姉さんは苦笑した。
「ずっと前にテーブルゲームしてからここにに置きっぱなしだったの。何なら、ネットで適当な擬似乱数生成ソフトを拾ってきてもいいけど」
「……貸してみてください」
サイコロを受け取って、何回か転がしてみる。
同じ面は出ない。
表面に細工らしいものも見えない。
「ほら。何もないでしょ」
そう云って、姉さんが勝ち誇ったようにサイコロを拾う。
「私は一つの数字を当てるだけ。外れたら夏樹くんの勝ち。ほら、そっちが有利でしょ」
「……じゃあ、もし外れたら、今後は一切変な飲ませ方しようとしないでください。薬くらい自分で飲めるんだから」
妙な自信を見せる姉さんに警戒しながら条件を出す。
それでも、姉さんは余裕のある笑みを崩さない。
きっと別の細工をしたサイコロに直前ですり替えたりするつもりなのだろう。
じっと目を凝らしてサイコロを見つめると、姉さんは挑発するようにサイコロを親指と人差指で支えて、よく見えるようにした。
もしかしたら、既にすり替えられているのかもしれない。
そう考えた時、姉さんは既にサイコロを落としていた。
コトン、という音と共にサイコロが炬燵の上で跳ねる。
「三」
サイコロが転がる中、姉さんの声が妙にクリアに聴こえた。
何度か跳ねた後、サイコロが停止する。
示す数は、三。
「……どうやったの」
何らかのイカサマがあったのは間違いない。
姉さんは薄い笑みを浮かべたまま何も云わない。
そっとサイコロを拾い上げて、各面をよく見る。
細工らしいものは見られない。
試しにもう一度振ってみると、二が出た。
もう一度振ってみると再び二の目。
三は出ない。
「神はサイコロを振らないのだよ」
おどけたように云う姉さん。
神はサイコロを振らない。
アインシュタインの言葉だっただろうか。
僕はサイコロの各面をもう一度調べて、それから最後に転がした。
出た目は六。特別な偏りがあるわけではない。
「降参です。どういう手品なの?」
「云ったでしょ。神はサイコロを振らない、って。全ての事象はマクロに於いて、古典物理学的な法則に支配されてる。各パラメーターを正確に捕まえる事が可能であるならば、予想は不可能じゃない」
ありえない、と思った。
そんな事を出来る人間がいるはずがない。
でも、もしかしたら姉さんなら。
そんな考えが頭に浮かんだ。
ギフテッド、と呼ばれる存在がいる。
先天的な高能力者。神からのギフトを受けた者。
周囲の教育者によって特別な早期教育を受けた訳でもないのに、独自に世界の理を理解していく存在。
その中には、姉さんも含まれる。
算数を学ぶ前に整数論に至ったその才幹は、学習能力の高さや記憶能力の高さとは一線を画する。
そこに存在するのは圧倒的な理解力と発想力の飛躍だ。
「って、もしかして真に受けてる? もちろん、冗談だよ」
黙り込んだ僕に向かって、姉さんが突然慌てたように云う。
「え?」
「これ、イカサマ用のダイスだよ。中に粘性の高い液体を詰めていてね、そこに重りを浮かせてるの。ある面をずっと下に向けておくとそっちに重りが徐々に偏って、後は好きな面を出せるように調節するだけ」
そう云って、姉さんは悪びれる様子も見せずにサイコロを持ち上げる。
「結構高かったんだよね、これ。ずっと前に何となく気になって買ってそのままだったんだけど、こんな形で使う事になるとはお姉ちゃんびっくりだよ」
「……堂々といんちきを告白する姉さんに僕もびっくりです」
「私はね、勝てる勝負しかしないの。でも勝ちは勝ち!」
そんな事を平気でのたまう姉さん。それが相川冬香(あいかわ ふゆか)。
信じられない事に今年で二十四歳。
「約束は約束ね。はい、あーん」
姉さんは、自他共に認めるブラコンです。