1
「コズミック読んだの? 鷺沢さんが? マジで? どうだった?」
どうだったと聞かれても、どう答えれば良いのかわからない。わからなさすぎる。未だに感想が纏まっていないのだ。面白いのかくだらないのか、文香には判別がつかない。
「え? 本引き裂いたりしなかったの?」
私を何だと思っているんだ。
「へえ……、清涼院イケるんだ鷺沢さん。へえ……」
意外……。と呟かれたが、これは喜ぶべきことなのだろうか。それとも恥ずべきことなのだろうか。いや、そもそも本を引き裂かなかっただけでその本に対して好印象を持ったという解釈はどうなんだ。
「清涼院の小説は西尾よりも舞城よりも評価が両極端になるから。読後の感想は『凄まじかった』か『クソだった』の二択だ。それ以外はありえない」
それは流石に言い過ぎでは。
「ははは。清涼院流水はそんぐらい予防線張っとかないと薦められないんだよ。薦める相手もほぼいないけど……。そうだ、ディスコ探偵水曜日の下はもう読んだんだったっけ? じゃあもう貸さなくていいか」
ディスコ探偵水曜日は、この前古本屋で見つけて上下巻とも購入した。できれば別のおすすめ本を貸してもらいたい。
「別の本ね……でも、俺そんなに本読まないからなー」
どの口が言うのか。
「推理系が良い? つっても、今俺の手元にあるので鷺沢さんが読んだことない推理小説ってほぼ無いと思うけど」
別に、推理モノに限らなくて構わない。面白いものであれば、私は何でも大歓迎する。
「鷺沢さんの知らないようなやつね……うーん、まあ考えとくわ」
あんまり期待はしないどいてくれよと言われたが、その程度で文香の据えたハードルは下がらなかった。
3
「……ふっ」
346プロ内にあるカフェ。安部菜々は聞きなれない奇妙な笑い声がした方を振り向いた。時刻は三時前。小腹が空く頃なので、店内にはちらほらと人がいる。だが、菜々が振り向いた方向にいたのは一人だけだった。
鷺沢文香。
菜々と同じ、ここ346プロ所属のアイドルである。
常連……という程ではないが、カフェでバイトしているとよく見る顔だった。読書が趣味らしく、端っこの席に座り、コーヒーを一杯注文して本に没頭する文香の姿は、二週間に一回以上、必ず見られる光景である。現在も文香は湯気の消え去ったホットコーヒーを机の片隅に追いやって文庫本を開いていた。
彼女の笑い声だったのだろうか?
一瞬だったので、声色での判別はつかなかった。だがこの近くには文香しかいない。彼女が笑ったのだろうか。本を読んで? 面白いことでも書いてあったのか?
と、文香がこちらに気づいた。じろじろ見ていたのがバレたらしい。「恥ずかしいところを見られた」と、彼女はすぐに眼を逸らして顔に手をあてる。視線は一度横に振られ、次いで時計の長針の様に弧を描いて下に落ちた。文庫本に戻ったらしい。今度は「ぶふっ!」と吹き出した。肩が震えている。とうとう目を手で覆い隠した。前髪の合間から見える口元は限界まで笑顔の形に引きつっている。
こういう挙動の他人を見た時、ドン引きするか興味を惹かれるか、人種は二つに分けられる。菜々は後者だった。
「何の本読んでるんですか?」
文香はびっくりしたらしく、ぱっと顔を上げた。その表情から笑顔はきれいさっぱり無くなっている。
「あ……」
「あ、ええとすみません。笑っているのが見えちゃったもので。そんなに面白い本なんですか?」
文香はわかりやすく赤面した。これは失敗したなと菜々は自分の行動を後悔する。メイドとしては出過ぎた接客対応だ。むむむ、まだまだ修行が足りませんね。
「ええと……こういう本です」
動揺しまくっている文香は、しかしそれでも菜々の要望に応えようと、読んでいる本の表紙を菜々に見せてくれた。恥ずかしがっている文香ちゃんも可愛いなあと、失敗を後悔しながらも母性をくすぐられて何だか良い気分になっていた菜々だったが、紅の表紙に白で描かれたタイトルを読むなり、
「うぐっ」と奇妙な声を発した。
「……?」
文香は訝しんだ。
どうしたんだ? 何でこの人は本の表紙を見ただけでこんなに悶えているんだろう。毒饅頭を食らったような、腹筋に銃弾を食らったような苦しみ方だが……この本に嫌な思い出でもあったりするんだろうか?
「あの……どうかしましたか?」
「い、いえ! 何でもないです! ほ、ホントですからね!?」
「はあ……」
「お、面白そうな本ですね! な、菜々も、いつか大人になったら読んでみたいです! ……で、では! 仕事がありますので!」
菜々は逃げるように立ち去って行った。
本当にどうしたのだろう。
文香は首を傾げつつ、ぬるくなったコーヒーに口をつける。
本は閉じた。
鞄に入れられた文庫本――文香に笑い涙を流させ、菜々を恐怖のどん底に叩き落した本の表紙には、こう書かれていた。
『十七歳だった!――原田宗典』。
4
エッセイ、随筆。
まずはがちがちの古典である枕草子や方丈記、徒然草辺りを想像する。海外のものでは、やはりエッセイという言葉の語源にもなったミシェル・ド・モンテールの『エセー』が最初に思い出される。現代になると、黒柳徹子の『窓際のトットちゃん』あたりが有名だ。いずれにせよ、推理小説と同じく、文香がこれまであまり踏み込まなかったジャンルの一つである。
原田宗典のエッセイは面白い。
面白い。電車の中では読めない方向に面白い。特に、比較的若い頃に書かれたエッセイを読むと腹筋が痛くて辛い。あいつ、よくもまあぬけぬけと「カフェとかでコーヒー飲みながら読むと良いよ」とか薦めやがったな。
コーヒーを口に含んでなくて本当に良かった。
しかし吹き出した声を菜々さんに聞かれた時は参った。「なんだこの変態」というあの目。うわあ違うんです騙されたんですぅ私は無実だあとわちゃわちゃ言い訳したくなった――口下手が祟って何も言えなかったが。
しかしあのエッセイは、何というか、反則だろう。体中くすぐられて「ぐぁははは!」って笑いたいところを全力で我慢して、どうにか耐えられたかなと思ったらダメ押しの一打にやられて「うぐっ」「うごっ」と声が漏れ出てしまう、そんな感じ。かと思えば不意打ち気味に入ってくるくだらない一発ネタに「ふっ!」とやられる。紅茶をお上品に飲みながらのお嬢さん同士の真面目な会話の中で生まれる「うふふふ」って感じの笑いじゃない。原田宗典のエッセイの笑いは「うぐっ」「ぐふっ」「ぐっ……ぷっ、うわっはっはっは!」なのである。
未だかつて原田氏のエッセイを手に取ったことのない方々からすると
「なーに言ってんだコイツ」
という感想しか湧いてこないだろうし、氏の小説に触れたことのある方ならば
「あの原田さんがそんな『これを読み終えた頃には誰でも腹筋がバリバリに割れてるぜえオラオラオラどうだまいったか』的なエッセイなんか書くワケないでしょ」
と、信じられない気持ちでいっぱいになるだろう。氏の小説とエッセイのテンションの落差はマリアナ海溝もかくやというくらい差がある。だがまあここはひとつ、騙されたと思って読んでみてほしい。きっと笑顔になれるから。
5
夕方。
346プロ本社本館のエントランスホール。期間限定新ユニット「アムンゼン」のメンバーである一ノ瀬志希、宮本フレデリカ、神谷奈緒、鷺沢文香がそれぞれの鞄を抱えて出口までの道のりを歩いていた。
心なしか、皆いつもより口数が少ない。レッスンで疲れているらしい。眠そうである。
「あ、そうだ文香ちゃん」
志希だけはいつも通り、パッチリ眼が開いていた。
あれだけ歌って踊った後なのに何で疲れていないんだ、これも天才の為せる業なのか――などと驚く奈緒だったが、当然志希にも疲れは溜まっている。彼女の場合、体力がゼロになった時にいきなりバタリと倒れるので、その瞬間まではパワフルに動けるのだ。
「オススメの小説とかない?」
志希のこの質問は、踏むべき会話のステップを三段くらい飛び越えたもので、文香は最初戸惑った。何を聞かれているのか咄嗟に理解できず、「オススメノショーセツ」という未知の単語の解読に二秒ほど悩まされた。
「小説……ですか?」
「うん」と頷く志希。いつもの笑みを浮かべていた。
「面白そうな匂いのするモノには飛びつくタチでね~」
それは知っている。志希にゃんが好奇心の塊であることは。
その好奇心が、今度は読書に向いたか。
そうかそうかそれは重畳。ぜひ書の深みにはまり、書店の匂いを嗅いだだけでトイレに行きたくなるが良い。心の中でにんまりと笑った文香は、何を薦めようかと色々な小説の題名を思い出す。
やっぱり志希の特異分野に関係のある話を薦めるべきか? いや、単純に物凄く面白いのでもいいな。どうしよう、一冊に留めておくか、数冊どさりと薦めるか……。
天才に読ませる――天才の眼に適う作品。
目には目をということで、所謂「天才」の作品をぶつけてみようか。誰のが良いだろう。文学史に燦然と輝き、誰もが認める『天才』といえばやはりドストエフスキーだろうが、しかしかの世界的文豪の作品は長い。文学どころか、小説自体にあまり触れない人間に薦めるのは躊躇いがある。特に、志希には飽きっぽいところがあるので、長編はまだ見送ったほうが良いだろう。
短編だ。
それも、わかりやすくインパクトのある短編。
ならば一押しの作品がある。
「……『ねらわれた星』なんてどうでしょう」
自分の失敗談を面白おかしく語れると格好いい。
原田宗典は、「家族それはヘンテコなもの」とか「東京困惑日記」とかも面白いです。テイストが小説と全く違うんですよね。あれ凄い。