1
文香に「おすすめの小説ある?」と聞いた志希だったが、彼女の興味は小説には無かった。
このあいだ文香が目の下に隈をつくって346プロに出社してきた時、志希は彼女からいつもとは違う「匂い」を嗅ぎ取った。彼女の興味はそこにある。
本の匂いだろうか? いや違う。もっと有機的で、もっと生物的な――これは人間の匂いだ。
男ができたか?
直感とすら言えない閃きだったが、志希にとっては何よりも確かな事実だった。こうなるともう野次馬根性が暴走して止まらない。僅かな情報と天才の勘によって、「本を通じて文香が異性と何らかの交流を行っている」という推理を立てた志希は、手がかりの一つとして文香から本を貸してもらおうと思いついた。
だから彼女は本そのものに興味があったわけではなかった。小説の内容も大事な「捜査資料」なので、そういう意味での興味はあったが、純粋に楽しもうという気概はなかった。
なかった。
それはあくまで過去形である。
「……」
少女が一人、あぐらをかいて床にすわっていた。
猫のように背を丸めて、頭を前に倒して、くんでいる脚を一心に見つめていた。もちろん、本当に自分の脚を見ているわけではなかった。少女は、くんだ脚の上に置いた一冊の本を読んでいたのだ。とても集中していた。完全に本の世界に入りこんでしまっていて、ここがどこなのか、今がいつなのかすら、少女は忘れてしまっていた。おなじ部屋に誰がいたのか、それとも自分は一人だったのか、そもそもここは建物の中だったのか。
現実の世界は少女にとって無いものとなってしまっていた。少女は今、別の世界、本の世界にいた。本の中で動く人物たちをずっと観察していた。いろんな気持ちになりながら、いろんな結末を見届けた。
一冊の本に、色々な世界があった。短編集だったのだ。一つの物語が始まり、終わる。するとまた別の物語が始まる。どのエピソードも少女を引き込んではなさなかった。
だが、何事にもおわりは来るものだ。とうとう少女は全ての短編を読み終えてしまった。世界は全て終わってしまった。終わったあとにやってきたのは虚無だった。少女は本を閉じても、虚無の世界にとらわれて中々現実に帰ってこられなかった。
ぼーっとしながら、少女は本をひっくり返して表紙を上にした。
『ねらわれた星――星新一』。
粘土のような素朴な表紙絵が、読む前と読んだ後で全く違うものに見えた。
2
「……志希?」
夕刻のダンス練習場。
奈緒が、一心不乱に文香から借りた本を読み耽る志希の名前を読んだ。
無視されるかと思ったが、志希はふっと顔をあげる。レッスンはとっくに終わっていたが、まだ志希は練習着から着替えていなかった。一方、奈緒は鞄まで持っていて、そのまま帰れる出で立ちだった。
「だ、大丈夫か? そろそろ帰る支度をしたほうがいいんじゃないか?」
「……え?」
そこで志希はようやく今がいつでここが何処なのか思い出す。窓の外には黄昏が広がっていて、練習場を赤く照らしていた。
「あれ……」
時計を見る。
長針は六時を回っていた。
もう一度手に持っていた本に目を遣る。
『ねらわれた星』。
世界にこんなものがあるなんて知らなかった。
「んん? 絵本読んでたのか?」
近づいてきた奈緒もまた本に視線を向ける。首を曲げて、反対向きになっている本の題名を読み取ろうとしていた。「……ねらわれた星? ああ、これ知ってるよ」
「知ってるの!?」
食い気味に聞いてくる志希にたじろぎながら、奈緒は「読んだことはないよ……学校の図書室にあっただけ」と弁明する。
「そっか……」
志希ははあとため息をついた。
「面白いのか?」
「面白い」
志希はがくんと力強く首を縦に振った。
「どんな話なんだ?」
志希はちょっと考えるように中空を睨むと、
「短編集。表題になっている『ねらわれた星』は、悪い宇宙人が他の星の住人を虐殺しようとする話」と説明した。
「へ、へえ……。そりゃまた、表紙の絵からは想像もできないエグイ話なんだな……」
若干表情を引きつらせた奈緒に、志希は「違う違う」と食いつく。「全然グロくないから!」
「だってさっき宇宙人の虐殺って――」
「違うんだって! 全然違うの! いいから読んで!」
「いやでもそれ文香さんのだろ。また貸しはまずいんじゃないか?」
うっと志希は言い淀んだ。確かにこれは借り物である。一時とはいえ、他の人に貸してもいいものだろうか。奈緒がこれを乱暴に扱うとは思わないが、万が一の時の責任を考えると……。
志希はスマホを取り出した。
「ちょっと待ってて。今文香ちゃんに許可とるから」
「ええ……?」
そんなに読みたいわけじゃないんだけどなあという奈緒のぼやきが志希に届くことはなかった。
Prrrrrrr……
『……はい、もしもし』
「ああ、文香ちゃん? 貸してくれた本、読んだよ。すっごく面白かった」
『……! そうですか……。それは良かったです』
「それで今、奈緒が是非私も読みたいって言ってるんだけど……渡しちゃっていいかな」
『……奈緒さんが? ええ……構いませんが、志希さんには――』
「ん? 何? 私に何だって?」
『……あの本が面白かったのなら、志希さんには星新一の別のショートショートも今度お貸ししましょうか……?』
「貸してっ!」
『そうですか……! では、今度のレッスンの後にでも、お渡しします……え?』
「ん?」
『……ああ、いえ……。すみません志希さん、何でもありません』
「……ふーん? わかった。ありがとうね文香ちゃん。じゃあまた!」
『はい……さよなら』
ピ、と通話を切ると、志希は満面の笑みを奈緒に向けた。どうやら許可がとれたらしい。うへえ、私あんまり本読まないんだけどなあと、奈緒は少し憂鬱になった。
3
志希と同じようにスマホをスリープさせた文香は、ふうと一息ついて辺りを見渡した。
文香は自身が籍を置く大学のキャンパスにいた。どこか座れる場所が無いかときょろきょろ探す。落ち着けるところに座って手帳を開き、「志希に別のショートショートを貸す」と記入したかったのだが、近くのベンチは全て人で埋まっていた。
仕方ない、今はとりあえずスマホのメモ欄にでも打ち込んでおこう。
スマホにもスケジュール帳は搭載されている筈だが、電子手帳なんて使いこなせる気がしないので、文香は未だ紙媒体のお世話になっている。電子書籍もそれなりに買い込んでいる彼女だが、やはり機械はあまり得意でなかった。
「あそこ空いてるぜ鷺沢さん」
とんとんと文香の肩を叩いた友達が、キャンパス出口近くのベンチを指さす。確かに誰も座っていなかった。ブナの大木に隠れて目立たない場所にあるからだろうか。
鞄から手帳を取り出しつつベンチに近寄る。ちょっとこれ持っててと友達に手帳を預け、次いで筆箱を取り出した。
「今のが一ノ瀬志希?」
はいと答える。この友達に隠す理由は見当たらなかった。
「化学の天才だっけか。鷺沢さんの同僚ってホント面白い人多いよね」
346プロのアイドルは個性豊かだ。彼女達といると本当に楽しい。
「ねらわれた星を薦めたんだっけ? 気に入ったって?」
志希が星新一の他のショートショートを持っているのなら貸してほしいと頼んできたことを教えると、友達は何故か満足げににやりと笑った。
「いいねえ、うん。読書好きが増えるのは良いことだ」
全くその通りだと文香も思う。
「ああ、そういやあれ読んだ? 原田宗典のエッセイ」
そう言われて、文香はあれを読んで一人で笑っているところを知り合いに見られたことを思い出し、少し不機嫌になる。
「はっはっは」
笑うな。
文香は友達の顔を手で押した。
「あははごめん悪かった。もうああいうのはやめるさ――なあ、一ノ瀬志希ってホントに天才なのか?」
?
どういう意味だろう。
彼女はまごうことなき天才だが。
「聞き方が悪かったな。そいつがどんな天才なのか気になったんだよ。一口に天才っつっても色々タイプがあるじゃん? それこそステレオタイプなサヴァン症候群とか、万能タイプの頭脳型とか、職人気質とか」
……。
いまひとつ言っていることがよくわからないが、そういう区分をするなら一ノ瀬志希はステレオタイプな天才に属するのだろう。頭の回転が物凄く早いのだ。確か、アメリカの大学を卒業した経歴を持っていたと思う。
「はー、いるんだなそんなタイプの人間が。漫画みたい」
文香も同感だった。彼女の遍歴は現実感が無い。決して疑っているわけではないのだが。
彼女と話してみれば、それが嘘でないことが次第にわかってくる。最初はただの変人だが、そら恐ろしい高性能演算装置を搭載した変人だということを嫌でも認識させられる。
「ふーん……」
と、文香の友達は含みありげに頷いた。どうしたのだろう。志希に対抗心でも燃やしているのだろうか。いや、こいつはあんまりそういうのに頓着しない人間だ。遠くを見ているような眼、微妙ににやつく口元。彼がこの表情をする時、決まって面白い何かを考えているということを文香はよく知っていた。
どうした?
「ん? いや、『天才』に『天才』を扱った作品を見せたらどういう感想を持つのかって考えてさ」
天才を扱った作品。
『アルジャーノンに花束を』とか?
「うん。いやまあ、あれは天性の才能ってわけじゃないからちょっと微妙かもしれないけど――あともう一つ、グッドウィルハンティングとか観せたらどうかって思って」
グッドウィルハンティング……。
映画?
「ああ。『グッドウィルハンティング/旅立ち』。良い映画だよ。オススメしといてや」
まあ、この友達の推す作品は文香的には全てドストライクだから、それもまた面白いのだが――映画か。
「四話目にして本の在庫が尽きたとか思ってるなら安心しろよ。まだまだ布教したい小説は山積みだから」
わけのわからないことを口走る彼だったが、文香は別に考え事をしていて彼が何を言っているのかは憶えられなかった。
私へのおススメはないのだろうか。
「鷺沢さんへの?」
文香はコクリと頷く。原田宗典の他のエッセイはとりあえず漁るとして、他に面白い本――できれば、ライトノベルに属する作品で何かお薦めはないだろうかと彼に聞いた。
「ラノベねえ……鷺沢さんの眼鏡に敵う作品というと……うーん、」
しばらく頭を捻る彼は、三十秒ほど経ってから「『六花の勇者』は面白かった」と呟いた。
ロッカの勇者とな。どんな話なのだろう。異世界転生モノだろうか?
「異世界転生モノが読みたいの?」
文香はふたたびコクリと頷く。彼は非常に微妙な顔をしていた。
「六花の勇者は異世界転生モノじゃない」
違うのか。だがまあ、この男のおススメである。きっと面白いのだろう。早速今日の帰りに本屋で買い込むことにする。
で。
異世界転生モノのおススメは何かないか。
「鷺沢さんが持ってる『異世界転生モノ』に対するイメージって不思議の国のアリスだろ? 薦めにくいんだよなあ……」
そんなことはない。アリスは一度死んだわけじゃない。あれは異世界モノではあっても転生モノではないことぐらいわかっている。
そのことを説明すると、彼は生まれたての小鹿でも見るような眼を文香に向けてきた。
「……異世界転生モノってのは、何つーか、推理小説に似てるとこがあってさ。ある種のお約束みたいなものを把握しとかないと楽しめないんだよ。『そして誰もいなくなった』を読んでないと『十角館の殺人』は面白さ半減だろ? そんな感じのがある」
十角館の殺人というのは読んだことがないのでその例えはよくわからなかったが、了承した。
ではその『お約束』というのは、何を読めばわかるのだろうか。
「……本よりゲームだな。ドラクエやると良い」
どらくえ……。
あの、ファミコンのあれか。
「……これは確認だけど、鷺沢さんゲームハードなんか一個も持ってないよな」
文香は頷いた。彼は頭を抱えた。「ゲームの攻略本でも読めばいけるか? いやぁ、流石にそれは……」と、ぶつぶつ呟き始める。何を言っているのかわからないが、文香のことで悩んでくれているというのはわかる。申し訳なく思えてきたので、やはり異世界転生モノは私には早いのかもしれませんねと身を引いてみるが、
「面白いのもちゃんとあるんだよ。折角興味持ってくれているのに『やめとけ』っていうのは違うと思うし。……ああもう、前知識とかも別にいいか。鷺沢さんならその都度理解していけるっしょ」
結局、彼は六花の勇者以外に二冊、面白いライトノベルを教えてくれた。