それは偶像達の聖戦の記録を召喚する、微笑みの魔術書に刻まれし符丁。
汝がこの詠唱を終えた時、そこには幾多の伝説と神話が現れるだろう!
(ニコニコ動画に、アイドルマスターシリーズのキャラクターが将棋を指す動画につけられる『81m@s』っていうタグがあるんですよ。このタグで検索するとすごく面白い動画がいっぱい出てくるんです!)
さて、挿絵はちゃんと反映されているかな……。
1
「文香さん、こんにちは」
346プロダクションから程無い場所にある喫茶店。
小腹の空いた文香がホットコーヒー以外にサンドイッチを頼み、読んでいた本を置いて口を運ぼうとした時、そう声をかけてくる知り合いがいた。
輿水幸子だった。
相変わらずの笑顔――人を小馬鹿にしているような、それでいて妙に憎めない、あまり深いことを考えてなさそうな緩い笑みを口に浮かべながら、彼女は視線の合った文香に向かって「奇遇ですね」と言う。
文香はサンドイッチを手に持ったまま「こんにちは」とだけ呟き、会釈した。
「ご一緒してもよろしいですか?」
どうしよう声をかけてくれたんだから一緒に座ってもらったほうがいいですよねああでもなんて誘ったらいいんだろうもしかしたら失礼じゃないかしらなんてあたふたして、サンドイッチを持ちながらフリーズしていた文香を察してか、それとも何も考えずにか、幸子のほうから相席を申し込んできた。「あ、はい」と文香。異存なんてどこにも無い。
「このお店では初めて会いましたね。いつもよく来るんですか? ボクはこれが二度目なんですけど」
「ああ……たまに、でしょうか……。いつもは、プロダクションの中のカフェにいるのですが……、変化が欲しくなる時に……」
「『プロダクション』?」
怪訝そうな顔をする幸子。何だ、私は何か変なことを言っただろうかと不安になる文香だったが、幸子がその表情の理由について触れることはなく、話題を次に移す。
「ああなるほど。文香さんは読書家でしたねえ……あ、もしかして、ボクは――」
「大丈夫です。……別に、今は食事中ですし……もう既に家で一度読み終えていますから……」
食い気味に幸子の遠慮を否定した文香に、幸子は若干の驚きを覚えたらしい。ちょっとのあいだ口が半開きになっていた。
「――そうですか。それは良かったです」
そして漂う沈黙。幸子は少しテーブルの上で目を泳がせた後、立てかけてあったメニューを手に取り、紅茶をひとつ注文した。
「……ひじりの青春、ですか?」
両手で持ったサンドイッチをむしゃむしゃする文香に、幸子はおずおずと尋ねる。彼女の視線はテーブルの端に乗った一冊の文庫本に注がれていた。
文香は口の中のレタスを呑み込む。
「いえ……、『ひじり』ではなく『さとし』と読みます……。『聖の青春』です」
「へえ……気になりますね。ちょっと見てみてもいいですか?」
文香が「どうぞ」と言うと、幸子は片手で文庫本を手に取り、表紙を少し眺める。次いでパラパラと本をめくり――文香が栞を挟んでいたページで手が止まる。
第1図
「ああ、将棋の本ですか」
幸子がすぐにそう判断したのは、そのページに将棋の局面図が載っていたからだ。『聖の青春』とは実在のプロ棋士、今は亡き村山聖九段の生涯を綴ったノンフィクション小説である。ちょっと前、映画化に伴って話題になった時に買ったのだが、おととい自分の本棚の端っこにあるのを見つけるまで読むのを忘れていたのだ。
とても良い本で、将棋界にはこんな人物がいたのかと、プロ棋士は羽生さんと藤井君くらいしかしらない文香も感動を覚えた。将棋に関して文香は素人同然――駒の動かし方を辛うじて覚えている程度なので、局面図を見ても形勢がどうだとかはよくわからないのだが、ちょっと理解してみたくなったので、栞を挟んで持ってきたのだった。
そのページにあったのは先手が4三歩成とした局面(第1図)である。本にはこの後「8七桂成、同馬、7九銀、同玉、8七角成」とすると、先手に「2三飛成という必殺の飛車捨て」があり、後手の村山六段(当時)の玉が詰んで負けると書いてある(角川文庫231頁)のだが、符号を言われてもそれがどこだかよくわからないし、詰むと言われても「へえ、そうなのか」と頷くしかなく、何をどうやったら「詰み」なのかわからない。
幸子はあごに左手をあてながら暫く考え込むように沈黙した後、
「ああ、これは格好いい手ですね」と言った。
「……え?」
「なるほど、これ飛車を切って詰んでいるんですか。ならこの順には進めませんね。えーと……、7九銀じゃなくて同角成としても攻めが切れますね。へえ、7五桂なんていかにも自然な手に見えますけど、これが悪手だったんですか。9五桂? 7六角成に7五から銀を打たれて――いや、ここで2四歩と打ってどうですか? 同歩に2三歩と垂らして……1二玉、4三歩成とすれば、まだまだ互角のような――ああいえ、2四の歩は同銀でとるんですか。すると4三歩成としても……ええ、馬を抜いた後に……5五角? 6九角ですか?」
幸子は本から目を離し、文香の方を向いて首を傾げた。それは日ごろから彼女が連呼する「カワイイ」仕草そのものだったが、そんなこと聞かれても困る。ええ? 何? 何の話?
「幸子さん、将棋指せるんですか……?」
すると幸子は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして「え? それはまあ、
「『アイドルですし』……?」
え? アイドルって将棋指せるのが普通なの?
いやいやそんな話は聞いたことがない。もしかしてテレビ番組か何かの企画で、幸子には将棋を覚える機会があったのかと一瞬考えたが、釈然としない。混乱する文香を怪訝そうに見ながら、「でもこれ、とても面白そうな話ですねえ。
「え――」
いや。違う。
「それは、ノンフィクション小説ですけど……」
「え? そうなんですか? でも村山聖なんて
……?
おかしい。
何かがおかしい。
文香は幸子から一度本を返してもらう。裏表紙のあらすじのところに、ちゃんと「ノンフィクション小説」と書いてあるのを彼女に示したかったのだが――
「……あれ?」
ない。
「ノンフィクション」の文字列が、どこにも載っていない。
「あれ……?」
文香はパラパラとページを最後から高速で捲る。表紙裏に辿り着き、著者紹介の文も確認してみるのだが、やはりノンフィクションとは書かれていない。自分が勘違いしていたのか? いや、でも、記憶にはくっきり残っているし……。
「その羽生善治っていうのが主人公のライバルなんですねえ。ネーミングセンスがいいですよね。カワイイボクほどじゃないですけれど、なんだか名前だけで既に将棋が強そうです」
「……羽生さんを、知らないんですか……?」
幸子はまたしてもポカンとした表情になり、「ええ……、他の小説にも出てくるキャラクターなんですか?」と聞いてくる。
明らかに確信を得たのはこの時だった。
「それにしても棋譜のレベルが高いですね。ボクには見覚えがないんですけど、もしかして作者が自作した棋譜ですか?」
「……幸子さん」
「え? はい。なんでしょう」
「アイドルの仕事って……何でしょうか……?」
「……そんなの決まっているじゃないですか」
僅かな沈黙の後、幸子はさして普段と変わらない調子でこう言った。
「アイドルの仕事は将棋を指すことですよ」
2
あなたは八十一マスの迷宮に足を踏み入れたことがあるかしら?
3
346プロダクションの看板はどこにも無く、代わりに「日本アイドル会館」という表札がでかでかと掲げられていた。建物は文香の記憶のまま、出入りしている人間の層も変わっていない――ただ、何かが違っている。
何かがおかしい。
「き、きおくそーしつっ!?」
事務所内の一角にある、半ばアイドルたちのたまり場と化している控室。
文香の前に立っていた少女――日野茜が、やたらオーバーに驚いて二歩ほど後ずさる。
「大丈夫なんですか? どこか強く打ったとか……」
橘ありすが心配そうに聞いてきた。
「ああ、いえ……。外的要因ではなく……精神的なものらしくて……」
と、それっぽいことを言って急場をしのぐ。とりあえずの言い訳として、文香は部分的な記憶喪失になった設定にした。記憶喪失、フィクションで使うには便利な病気である。
「じゃあ私のことも忘れちゃった?」
そう言ってフレデリカが自分のことを指さす。否定もせず肯定もせず、文香は曖昧な表情を保つ。「そっかー」とフレデリカ。忘れられたのだと理解したらしい。
「対局はどうするん? 休むの?」
塩見周子の質問に文香が答えるより早く、横から幸子がずいと割り込み、「ああ、ええー、文香さんは特に、将棋に関する記憶が殆ど欠落してしまったミタイデシテ、記憶が戻るまでは対局はおそらくできないデスネー」
演技がそれほど得意でない文香が言うのもなんだが、結構な棒読みだった。
「そうなんですか……。でも仕方ないですね」
茜は自分のことのように落ち込み、「早く元気になってください!」と、熱く文香の手を握りながらぶんぶん振った。
「お大事に」「お大事にー」とかけられる声への対応もそれなりに、文香と幸子は控室をあとにした。
「それにしても、未だに信じられませんよ……。本当に違う世界から来たんですか?」
あれから一日経った。文香は幸子にだけ自身の秘密を打ち明けて、この世界の諸々を教えてもらった。
曰く、この世界のアイドルとは将棋を指す者たちのことを言う。
「ボクたちがファンの前で歌って踊るんですか……? へえー……、何か、全然想像できませんね。まあ、カワイイボクなら何をやらせてもカワイイでしょうけど」
曰く、鷺沢文香もまたアイドルの一人である。
「文香さんは振り飛車もたまにやりますけど基本は居飛車党で、特に角換わりが得意な印象ですね。あと、観戦記やエッセイなんかを執筆することが多いです」
そう言われても自分のことの気がしない。居飛車がなんなのかも幸子に教わって知ったのだ。観戦記? 将棋の? 書けるわけない。
先ほどの局面図、飛車を捨てて詰みとあったが、何をどうやったら詰むのかさっぱりわからない。飛車は強い駒なんだから、相手に渡したらまずいのでは?
九手詰め。
「本の中に書いてあるじゃないですか。飛車を切って同玉に、1五から桂馬を打って終わりですよ」
「1五って……どこですか?」
「ボクがカワイイからからかってる……わけじゃないですよね?」
そう言いながら、それでも彼女は「1五」がどこなのかを教えてくれた。
「座標で表しているんですよ。先手側から見て、盤の一番右上のマスが『1一』です。アラビア数字が列を表していて、左のマスに移っていくごとに2、3、4と大きくなります。漢数字は段を表していて、下にさがるごとに大きくなっていくんです。例えば、一手目を指す前のいわゆる『初形』で、後手の飛車が置いてる位置を『8二』、先手の玉が置いてある位置を『5九』と言います。最初にアラビア数字、次に漢数字です。口頭で『いち、ご』と言われてもその決まりを知っていれば――ほら、ここです。『1五桂』は、ここに桂馬を置くって意味なんですよ」
幸子の説明と指さしで1五の位置はわかった。わかったが――やっぱり詰みはよくわからない。
「ふむ……。じゃあ、実際に盤と駒を使ってやってみますか」
「すみません……相手の王様を取れば勝ち……というくらいしか、わからなくて……」
「いいんですよ。誰だって最初はそんなものです。この局面、ノーヒントで飛車切りからの詰みを見つけられるようになるには結構かかるかもしれませんが、でもある程度のヒントを貰って詰みが見える――なんてレベルなら、すぐに到達できますよ。異世界の文香さんとはいえ、あなたは文香さんなんですから、将棋の素質はあると思いますし、カワイイボクが教えてあげますよ♪」
4
文香の自宅にも将棋盤があった。
昨日帰って来た時はとても驚いた。将棋盤――パタンと二つに折れるやつじゃない、脚付きの立派な盤である。部屋の角に布を被った見慣れない四角形の物体が置かれていて、おっかなびっくり布をとってそれが将棋盤だとわかり、ああここは本当は私の家じゃないんだと思い知った。暫くのあいだ逃げ場のない恐怖に襲われた。アイドル関係の雑誌を保管していた棚には、将棋の本がびっしりと並んでいる。怖い。世界そのものが牢獄に見えて、気を抜いたら狂ってしまいそうだった。
将棋関連の本が置かれている棚に、鷺沢文香の名前を数冊認めた。『鷺沢文香のアイドル観戦記』――……、雑誌の投稿をまとめたもののようだったが、内容は専門的過ぎてよくわからなかった。
それでいて、文章の癖は文香のものだった。
何度読み返しても――読み返せば読み返すほどにそれは自分が書いた文章なのだ。「第77期アイドル名人戦・順位戦Aランク、川島瑞樹九段 対 宮本フレデリカ八段。川島九段は順位戦第一局目の速水奏アイドル棋聖戦、アイドル王座リーグで行われた一ノ瀬志希八段戦と、つい先日のアイドル叡王戦予選段位別リーグで行われた片桐早苗九段との対局において全て角換わり腰掛け銀の同型を戦い、先後どちらを持っても勝利している。対して宮本八段は順位戦第一局、新田美波八段との対局において後手番で十二手目に4四歩と突いて角換わりを拒否し、変則的な矢倉模様に持ち込んで勝利した。対局前は、宮本八段が定跡を外し、力戦へとなだれ込むのではないかという予想が控室のアイドル達のあいだでも有力だったのだが、そんな我々の予想を裏切り、宮本八段はあっさりと角を交換して腰掛け銀の形に組んだ……」句読点の打ち方、言葉の選び方、全て文香と同じだった。
昨日の夜、文香は本棚の前で崩れ落ちた。
泣き叫んだ。生まれて初めて本を床に叩きつけた。暴れて暴れて、出口の無い迷宮の壁に風穴を空けようともがいた。私がおかしいんじゃないか、本当は私の気が狂っただけなんじゃないかと思い、頭を壁に打ちつけた。幸子は気づかないふりをしてくれているが、おでこに貼った絆創膏は、文香の長い前髪でも隠し切れていないと思う。
「カワイイボクがお邪魔しまーす……。ああ、やっぱり文香さんの部屋は整頓されていますねえ。おっと、盤は脚付きですか。やっぱりアイドルは脚付きを買ったほうがいいんですかねえ? 場所をとる気がして、ボクは二つ折りしか持っていないんですけど」
「はあ……」
雰囲気が崩される。
幸子のペースに呑まれて文香はいまひとつ自分のリズムが保てない。保てないのだが、それがある種の薬になっている気もしたので、特に不満はなかった。
幸子独特の空気が今の文香を救っていた。
幸子は手に持っていた鞄を部屋の隅に投げると、「よっと」というかけ声を発し、部屋の真ん中に置かれたテーブルの前に着いた。
「コーヒーでいいですか……?」
「ああ、お構いなく」
幸子は物珍しそうに文香の部屋を見回している。その様子が少し可笑しかった。
「ミルクとお砂糖はいりますか?」
「いえ。ボクはコーヒーはブラックなので」
ではお盆に乗せるべきはカップが二つのみか。座布団から立ち上がり、ふらふらと本棚の前を往来する幸子の下へ文香は淹れたコーヒーを運んでいった。
「ありがとうございます」
そう言いながら、しかし幸子は本棚の前から離れようとしない。何かに気を取られているらしく、彼女の視線の先に置かれている本を見ると、そこには将棋関連の本が並べられていた。
「何ですかこれ……?」
「将棋の本……だと思いますけど……」
そんなこと、文香に聞かれてもわからない。いくら読書家と言ったって、そんな専門書まで読破しているわけじゃないのだ。
「そうですか……いえ、まあそうですよね。思いっきり『定跡研究』とか『横歩取り』とか書いてありますから」
そう言うと、幸子は本棚から離れてテーブルの前に着く。「いただきます」と言って文香の淹れたコーヒーに口をつけた。
「はあ……」
横歩取りって何だろう。
「――それにしても、どうして文香さんは並行世界に迷い込んでしまったんでしょうねえ」
「……」
それについては昨日、三時間ほど二人で考えたが、結局答えは見つからなかった。あの喫茶店に何かがあるんじゃないかと考え、出たり入ったりしてみたり、コーヒーに何かがあるのではと考え、同じものを頼んで飲んでみたりした。『聖の青春』という本に何かがあるのだろうか? だが、何かがあったとしてもそれが何かはわからない。
「というか、こっちの文香さんはどこへ行ったんでしょうか? あっちの世界に入れ違いで飛ばされたんですかね」
「さあ……」
何とも言えない。異世界の自分を心配できるほどの余裕なんて今の文香にはない。
「……」
「……」
膠着状態に陥った空気を打破するように、幸子が「ま、まあ今は考えてもよくわからないですし、気分転換に……ええと……さ、さっきの九手詰めでもやりましょう!」と、話題を変える。
文香はもっと自分の身に起こった現象について考えたかったが、このまま頭を悩ませ続けてもまた昨日のように行き詰まり、鬱っぽくなるのは予想できた。今は幸子もいるし、別なことをしようと強引に頭を切り替える。
幸子はテーブルの横に将棋盤と駒台を運んできて、上に乗っていた駒を取り出して静かに置いていく。『聖の青春』は文香の鞄の中だ。幸子は何も見ずに、昨日の8七角成の局面を、後手の側に座って盤上に再現してみせた。見た目も性格も幸子だったが、やはり文香の知っている幸子とは別人なのだと、改めて文香は理解する。
「さあ文香さん。実戦詰将棋です。解いてみてください」
妙に嬉しそうな顔でそう言ってくる幸子。文香はしばらく盤面を睨み、おそるおそる2八の飛車に手を伸ばす。文香は気づかなかったが、その瞬間幸子の表情が僅かに強張った。
(歩を取る前に飛車を持つんですか)
未だに少し信じられていなかったのだが、それを見てこの文香は本当に将棋の初心者なのだと思い知らされた。
文香は飛車を取った手と同じ右手で歩を取ろうとして、中指と親指で持っていた飛車を、薬指と小指に握り替える。空いた親指、人差し指、中指を使って少しもたつきながらも2三の歩を取ると、歩を左手に渡し、飛車を2三にカチャリと置く。歩は左手に握ったまま――駒台に置くのを忘れているようだった。
まあ今わざわざ指摘することでもないなと判断した幸子は何も言わず、王手をかけている飛車を後手の駒台に置き(この時文香は初めて盤の横に置かれた駒台に気づいたらしく、慌ててそこに左手の歩を置いた)、同じ地点に玉を置く。同玉。パチンという小気味いい音が文香の部屋にこだました。あまり大きな音を立てるつもりはなかったのだが、なんだかかなり響いてしまった。文香さんがビビッてなければいいんですけど……と、幸子は文香の顔色を窺う。彼女はいつもより幾分緊張した面持ちで、しかし一心に盤を見つめていた。
1五桂。
駒台の桂馬を置き、「……ここで、合っていますよね?」と文香は幸子に確認をとる。「ええ、ええ。勿論」と、幸子。
数瞬手を止め、玉をどこに逃がすべきか考える。無論、どこに逃げても詰みには変わりないのだが、詰ませ方は変化する。
けっきょく、幸子は2四玉を選択した。
ここで文香の手が止まる。必死に考えている彼女に、妙なくすぐったさというか、微笑ましさを幸子は感じた。人にものを教えるって良いですね――とニヤニヤしていると、文香が駒台の駒を手に取った。
2三金。
あっ、と出そうになる声をすんでのところで呑み込む。その金打ちは不正解だ。そこで玉が2五に逃げれば詰み筋は復活するが、1四玉と、桂馬の頭に滑り込む手が存在する。
ちょっと迷ったが、幸子は1四玉と動かした。
「……」
文香がパタリと動かなくなる。当然だ。王手を続けようと2五の地点に銀を打っても、同玉、2六歩、1四玉、2四金、同玉、2五歩、1四玉と進んでも、他の順で進んでも王様は捕まらない。先手の玉は6九に金か飛車を打たれた瞬間に詰みなので、何か受けの手を指さなければいけないが、それでも丁寧に寄せられると負けてしまう。
一手差なのだ。
一手緩むと負ける。
「……あの、これはこの先どうすればいいのでしょう……」
文香が泣きそうな顔で聞いてくる。幸子は困った顔で「ここに金を打つと詰みません。別の手で王手をかけてください」と言った。金をつまみ、文香に渡す。「はい……」と文香。渡された金は駒台に置かない。別の場所に金を打つべきと考えているらしい。
「文香さん、ここで使うのは金じゃないです……まあ、金でもできますけど、でもここは普通歩ですよ歩。歩を打つんです」
「歩……?」
金を駒台に戻し、幸子に言われた通り歩を取り上げてみた文香だが、まだ釈然としない顔をしている。少し悩んだ後、文香は2五の地点――後手玉の頭に歩を打った。
「後手はこれを取るしかありません。逃げるとしたら1四ですが、これは次に2四金と打たれて負けです。だから逃げずに同玉。しかし文香さん。ここでもう一回歩です」
今度は駒台の銀を取り上げてかけていた文香を「ああ、まあ、別に銀でもいいんですけど」と言いながらも制し、歩を2六に打たせる。「この歩は取れません。紐がついているから――ええと、取ると3七の銀に取られてしまうからです。同様に、3六の歩も取れないし、1六の歩も1九にいる香車の紐が――ええ、玉でこう取ると香車で取られるので取れません。ですので2四か1四に下がるしかないんですけど……」
そこで文香は「あ」と小さく呟くと、銀を持ち、2五の地点に打つ。カチャリという駒音が小さく、そして優しく響いた。
「はい、これで詰みです。終わってみれば簡単だったでしょう?」
文香は曖昧に笑った。
その後少し将棋を指した。平手(ハンデ無し)だったが、幸子は指導対局っぽく指してくれたので、完膚なきまでにフルボッコということにはならなかった。「やっぱり文香さんは落ち着いた将棋が似合いますよねえ」と彼女は言っていたが、文香本人は「落ち着いた将棋」というのが何なのか、やっぱりよくわからなかった。
対局しながら、こちらの世界のアイドル達について幸子は色々教えてくれた。
タイトルは全部で八つあり、現アイドル名人の称号は高垣楓が持っているとか。
森久保野々という新人アイドルが今、ノリに乗っているとか。
真剣師天海春香がアイドル棋王の和久井留美に勝ったとか。
文香の世界とはまるで違うが、しかし何かどこかが共通している気もした。世界が変わって職業が違っても、彼女たちは相変わらずの彼女たちなのだと、幸子の話を聞いていて文香は少し安心した。
「ねえ、文香さん」
帰り際、幸子はまた本棚の前に立って文香に声をかける。
「これ……この本、少しお借りしてもよろしいですか?」
手に取ったのは将棋の対局の記録――棋譜が集められている本だった。新しい本には見えない――はっきり言って古い。さっきまで散々頭を使って疲れていた文香は、半ば自動的に「はい」と答える。
「ありがとうございます」
そう言って幸子は自身の鞄にその本をいれた。
『村山聖名局譜』。
文香の本棚には将棋関連の本がズラリと並んでいたのだが、文香本人の書いた本以外で、アイドルが書いた本は一冊も無かった。『木村の矢倉』『中座の横歩取り』『光速の終盤術』『四間飛車上達法』等――……それらの著者に、幸子の知っている人物は一人もいなかった。
何かが違う。
何かがおかしい。
そして、何かが起きる予感がした。
続く……?
81m@sオススメです。僕も将棋あんまりわからなかったんですけど面白く視聴できました。特に「盤上のシンデレラ」シリーズ、「神崎蘭子の将棋グリモワール」シリーズ、「アイドル日誌」シリーズは未だに観返してます。
続き投稿されないかな……。
九手詰め、後手2三飛成以下、同玉、1五桂とした時に玉が2二に下がった時は、2三銀、3一玉、3二金、同飛、同銀成で詰みです。最後の最後、飛車を銀じゃなくてと金で取ると8七の馬に抜かれます。
ガバってるところがあったら修正するので指摘していただけると助かります。教えて強い人。