鷺沢文香の新ジャンル開拓記   作:後菊院

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ひさびさ。


第五話 後期クイーン的問題

 

 

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 就寝前の読書は文香にとって至福のひとときである。現世の仕事を全て終わらせ、明日からも続く退屈な日常が鬱陶しく脳裏をちらつくが、眠りに落ちるまでは明日じゃないからと自分に言い張り、零時を超えてもページを捲る手を止めない。ただ、今夜の本は文香がページを捲る時、「ペラリ」と紙の擦れる音を一度も立てなかった。それもそのはず、文香が布団にくるまって見ているのはタブレット端末だ。

 購入したのは去年の秋。学生であり職業人でもある文香はパソコンもスマホも生活必需品として一台ずつ持っていて、電子媒体に不便を感じることはなかった。しかし同僚のアイドルが職場で白っぽい板切れをすいすいっと操って何かの文書を読んでいたのを見て以来、普段は心の隅の方で大人しくしている物欲ちゃん——欲しがり文香ちゃんが珍しく暴れ始めた。なにあれなにあれなにあれ本読めるの? 本棚圧迫しないんだすごいなー何冊くらい入るんだろう? ちょっと同僚に訊いてみた。

「私のは六四ギガバイトなので、書籍でしたらそうですね……五万冊は余裕で入ります」

 ご、ご、ご、五万。

 夥しい。

 何はともあれ、彼女の持つ白い板は文香にとっても価値ある優れモノだとわかった。アイドル稼業をやっているが故に、同年代の若者と比べてちょっとだけリッチな資産を持つ文香は、思い立ったが吉日として、当日の夕方、その同僚に連れ添ってもらって電気屋で彼女と同じ物(に文香の目には映るのだが実際はちょっと違うらしい)を購入した。それ以来重宝している。紙の書籍と違い、布団で寝ながら読んでも本を支える手が疲れない点が良い。あと夜の車の中でも暗くて読めなくなることがなくて嬉しい。

 問題は寿命があまり永くないという点だ——ある日突然池にボチャンなんて落としたものなら、買い込みに買い込んだ五万冊の書籍群が消えて無くなるじゃないか。恐ろしい。バックアップがどうたら引き継ぎがうんたらというのは文香にはよくわからない。恐い。だから大事な本、好きになった本は実際に書店へ赴いて買うのだが——残念なことに、今宵文香が読んでいるモノはそれが叶わない。

 Web小説だった。

 書籍化していない、電子の海に灯るだけの不安定な書きモノ。現在国内で最大手の小説投稿サイトに載せられた一品。これもまたあの愉快な友達からすすめられたものだ。「なろう小説」と言われて、おっといつぞや薦めるとか言っていた異世界転生モノかと期待した文香だったが、意外や意外にもジャンルは推理——ミステリだった。

 

 凛野冥『名探偵・桜野美海子の最期』。

 

 大作家エラリィ・クイーンを大いに苦しめた謎——後期クイーン的問題に挑んだ名探偵と、それを描いた小説家の記録である。

 

 

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https://ncode.syosetu.com/n8857cu/  これすごいよ。

 

 

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 「探偵の誤謬」への言及。

 それこそが後期クイーン的問題である。

 もう一つ、「探偵の越権」への問題提起もまた後期クイーン的問題と呼ばれるが、こちらに関しては今文香が読んでいる小説において大して扱われていないので割愛する。

 ミステリ小説において探偵役は神の如き推理力を発揮して犯人を言い当てるが、その推理が間違っていないという保証はどこにもない。たしかに語り部たる助手と容疑者候補たちは探偵の推理に喝采を送り、真犯人は犯行を自白し、事件は収束する。しかしそれら全てが黒幕たる本当の犯人のシナリオだったとすれば? 探偵役も犯人役もその他の人間も皆真犯人の掌の上で踊らされている可能性がないと誰が言い切れる? 牛乳を飲む蛇はいないし、漂流するビンが真実を語っているとは断定できない。普段かかっているはずの矢に気付かないなんて不注意に期待するのは蛮勇と言うほかなく、出産の有無の痕跡が死体から簡単にわかる時点で当初の計画は破綻している。

 完全な犯罪が存在しないように、完全な推理もまた存在しない。

 推理が犯罪を上回るように、犯罪もまた推理を上回る可能性がある。

「まあ当然と言えば当然の話だ……。証明問題は『前提が正しいとすればこの結論は正しい』というところで終わる。前提が間違っているのなら解答もまた間違い……。前提条件が正しいかどうか見極めるにはまた別の証明が必要になってくる……で? 文香さん、感想は?」

 時刻は三時過ぎ。現在文香は自室でパソコンを開き、オンラインお茶会なるイベントに参加していた。相手はいつもの本好きの友達——ではなく、二宮飛鳥が映っている。今の質問は飛鳥からだ。顔が見えているのは文香以外には飛鳥しかおらず、それ以外には古澤頼子女史が音声だけで参加していた。数十分前までは他にも数名、アイドルや346の社員がいたのだが、一人は回線落ち、一人は寝落ち、一人はこれから仕事だと言って退室した。

「そうですね……とても、面白かったです。最後が特に」

 文香はパソコンの横に置いてあったコーヒーカップを手に取りながら飛鳥に答えた。飛鳥はなにやら訳知り顔でゆっくり頷く。彼女も偶然この小説を前に読んだことがあったらしい。

「最後か……。うん、最後が——最後の部分こそがあの話の全てさ。あれこそ後期クイーン的問題の解答なのだとか言ってるやつもいたけど、あのラストは確かにそういう勢いがあった」

 うんうんと共感していたら、「そうでしょうか?」と頼子女史が疑問形を投げかけてきた。飛鳥と文香がこの小説の話をさっきぽろっとしたところ、興味を持ったらしく、彼女は速攻で読んで来た。

「あの回答ならば、アントニイ・バークリーが既にその作品で示していますよ」

「……『毒入りチョコレート事件』か」

 飛鳥が呟く。

 『毒入りチョコレート事件』は文香も読んだことがあった。六人の探偵役が一つの事件を解いてゆく推理小説だ。一週間ごとだかに探偵役が一人ずつ推理を披露する。前の探偵役の推理を次の探偵役がどんどん覆していく構成が新鮮で面白かった。

「しかしあれと桜野美海子の最期は違う。『毒入りチョコレート事件』とかぶるのは『名探偵・桜野美海子の最期』の前半部分だろう? 後半はバークリーとはまた違った手法で後期クイーン的問題に挑戦している」

 『名探偵・桜野美海子の最期』は『毒入りチョコレート事件』よりも複雑化していて奥が広い。後期クイーン的問題に対する最新の解と言ってよいのではないだろうか。

「それにしても後期クイーン的問題……ふっ、なかなかに魅惑的な問題だと思っていたけれど、興味を惹かれたのはボクだけではなかったというわけだ」

 飛鳥は薄く笑った。「探偵役であれ犯人役であれ、見えているのは自分に見える景色のみ。それは読者にしても同じことか。後期クイーン的問題はミステリにおける永遠の謎として君臨し続けるのだろうね」

「どうでしょう」

 またしても頼子女史が疑問を呈した。

「美術の世界では、その問題はすでに解決されていますよ」

 

 

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「異端すぎるわ」

 友達が言った。

「何者だよその古澤って高校生。末恐ろしいな」

 現在時刻は夕方五時。大学の講義をオンラインで受講した後、時間が余ったので感想報告がてら『名探偵・桜野美海子の最期』を薦めてきた友達にそのまま通話をかけたのだ。頼子女史の発言を伝えたところ、彼は何やら驚いていた。

 いや、彼が驚いた理由は文香にもわかる。あの時すぐには理解できなかったが、通話を終えて、夕食を一人で食べようとした時に気づいた。かの博識アイドルが何を言わんとしていたのか。

「まあ確かに、キュビズムを小説上に再現できれば死角はなくなる」

 それは二〇世紀初頭に発明された——複数視点から見える光景を同時に描く特異な表現技法は、ピカソの名を世界に知らしめた。

「だがどうやる? 探偵の視点を増やすっつっても、普通に探偵を増やすと全員推理を間違えるぞ? 結局は元の木阿弥だ」

 わからない。だがもしそれを発明できれば、後期クイーン的問題は消失する。

「……」

 友達は少しの間沈黙した。

「まあ、そうかもな」

 彼は笑わず——しかし、どこか楽しそうだった。

「ところで私に薦めるはずだったライトノベルはどうなったんですか?」

「一年以上前だし誰も覚えてねーよ」

 

 

 




最後大きく改変しました。後期クイーン的問題の理解が足りていなかったため。

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