なお、この中編の原案は、pixiv掲載の『魔法使いと灰色の犬』です。
(作者:事務員様 URL:https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=9848029)
このメモが無ければ、この作品は生まれませんでした。
この場での掲載を御快諾頂いたことと合わせ、この場を借りて心より感謝申し上げます。
【最初に、書いておきます。
貴女は、間違いなく、この世に在ることを望まれているのです。
いくら誰かが貴女を呪い、消えることを願おうとも、私は貴女の生を望んでいる。
その事を絶対に忘れないで。私が貴女に唯一遺す願いです。
7月 私が舞い戻ってきた日に 狭間の屋敷にて記す】
◇ ◇
【日下部誠に関する怪文書 ある魔女の告白文
私がまことさんを「発見」したのは、5/1の夜のことでした。
探査機はくちょう乗っ取り事件で警視庁一帯に避難指示が出たことを知った私は、現場を野次馬しに警視庁近辺に赴いたのです。
いつものように姿を隠し、箒(名前は『ホウちゃん65号』)に跨って空を飛びつつ、衛星落下予定地の辺りを見下ろした時でした。既に周辺の人達は粗方避難していた頃合いでしたが、何故か警視庁のすぐ傍の道路で、揃いも揃って魂に変な運命を抱え込んだ幾人かの人達が、避難する素振りを全く見せず、真剣な様子で対峙しているのを発見しました。
興味を抱いた私は、箒(ホウちゃん65号)に乗ったまま地上に降り立ち、そこで揉めている面子の中の1人が、私の好みどストライクの素敵な男性だと気が付いたのでした。その男性こそが、公安警察に追い詰められつつあるまことさんでした。
姿を隠している私の目の前で、割と派手な捕り物と幾つかのやり取りがありました。まことさんは、協力者であった羽場二三一氏の復讐のためにテロを起こしたのだと自白した後、更なるやり取りの末、対峙していた公安の刑事を突き飛ばし、「羽場を早くあそこから避難させてくれ!」と叫んでから警視庁の屋上へと駆けていきました。
この捕り物がどんな風に落着するのか気になったので、私はホウちゃん65号に跨いだまま屋上へと飛び上がり、そこで、羽場氏の動画で公安に嵌められたらしい彼が最終的に連行されていく様までを見ていたのです。
次いで屋上では橘境子弁護士と、画面の向こうの羽場二三一氏の男女の別れ話が繰り広げられました。橘境子弁護士が、地上で捕り物をしていた人とは別の刑事に激怒しつつ、泣きながらヘリポートを降りていく様を見届けてから、私はそこを去りました。
連行された彼に対峙した側の人達を追いかけるのは、そこそこ面白そうではありました。犯罪者に関わる彼等は、滅多に見ないレベルで変な宿命を魂に抱え込んでいたようでしたから。
ただ、むしろ私は連行された彼の方に惹かれました。公安警察の中の情報を覗いて、目の前で逮捕された「くさかべ」さんがどんな風に認識されているのか調べることとしたのです。
「日下部 誠」さんという表記と、身元と、爆破事件の裏事情を知り、公安が如何にして組織防衛を図る予定なのかおおよそ把握した私は、逮捕された彼を留置場から連れ出し、手元に置くことに決めました。
放っておくと、この人は捜査資料に感化されただけの異常者にされて朽ち果ててしまう。せっかく見つけた好みの男性なのだから、好きなだけ愛でるように手元に置いておきたい、心からそう思ったのです。
「実物のあなたってとってもすてき。顔も声も好ましいし、なんといってもこころがすてき」
紛れもなく本心から出た言葉でした。ちょっと気取っていたかもしれませんが。
一通りの取り調べが終わって、留置場の独房に収容された直後というタイミングだったはずです。私は、突然何もないところに湧いて出てきた、長い竹箒を持った変な女、だったはずです。急に話しかけられて、まことさんはへたりこみました。
「きみは、どこから」
「ねぇ、かばんを持ってくれるおおきなわんちゃんがほしかったの。着いてきてくれないかしら。
……こんばんは。私は魔女。今から貴方を浚う者。名前はないからお好きに呼んでね」
そうして訳の分からないまま目を白黒させているまことさんの手を取って、私は己の屋敷に彼を連れ込んだのです。
どこにもあってどこにもない場所、私が許した者にしか入れない時空の狭間に、私の屋敷はあります。「狭間の屋敷」と呼んでいます。
生まれて初めて転移魔術に巻き込まれたまことさんは、慣れない私の力に
10時間ばかりたっぷり寝た後、ようやく起き上がったまことさんは少々混乱していたようでした。前日の5/1にあったことを声に出して順番に思い出させ、最後に私が出現したところまで辿らせたら、何とか落ち着きはしましたが。
そして現状を理解してから、私に山ほど質問をぶつけてきました。
Q.貴女は誰だ?
A.お好きに呼んで、と言ったはずね? 私は、名を持たぬ魔女よ。
Q.ここはどこなんだ?
A.時空の狭間の、私の屋敷。狭間の屋敷、と私は呼んでいる。
Q.何故、私はここに居る?
A.私が惚れたから。私が貴方を愛でていたいから。荷物持ちの下僕になってほしいの。
Q.貴女の年齢は?
A.この世界では、あなたの4倍は生きてるわね。見た目はずっと20歳にしているけれど。
Q.そもそも貴女は人なのか?
A.見た目の形はヒトだけど、中身までヒトになったつもりは無いわね。この世界で生きることとなった時から、「己がやりたい・面白いと思った方向にしか生きていけない」「その生き方を維持する限りヒトを必ず凌駕する」という法則を、魂の中に宿さざるを得なくなった者。魔女、という概念が一番近いのでしょうね。
Q.貴女は、この世界の生まれではない?
A.ええ。詳しく話すつもりはないけれど、ざっくり言えば「出身地で色々やらかして強制隠居を喰らい、かつ、緩やかな弱体化ペナルティ付きで元の世界から追放された馬鹿」、それが私。
以来、そこそこノーテンキに、追放先のこの世界で無駄に長生きしてる。ヒト並みになるまで弱体化し続けるといっても、まだ、この世界のヒトよりは遥かに出来ることが多いわけだけど。
Q.貴女には、ヒトの法律を守ろうという意思が無い? あそこから私を連れ出すのは、被拘禁者奪取という犯罪のはずだ。
A.逆に訊くけれど、ヒトの法律が私を縛れるものなのかしら? 貴方の連行模様を見ている時も、留置場から連れ出す時も、私の存在に誰ひとり気付けなかったヒト達が?
軍隊だろうが警察だろうが、ヒトによる組織がどんなに努力しようとも今の私を捕らえることは絶対に出来ないし、そういう組織がどんなに吠えようがわめこうが、私にとっては、……そうね、分かりやすい例えで言えば、ドッグランの中で犬の群れが吠えているくらいにしか感じられないわ。そのくらい、ヒトと私の間には力の差がある。
Q.緩やかに弱体化し続けている、とおっしゃいましたね? どんなペースで、……いえ、訊き直します。貴女がホモ・サピエンスと同じくらいに弱くなるとすれば、それはどのくらい先の未来になるんですか?
A.その訊き方であれば、「ざっと400年くらい先」というのが答えよ。完全にヒトと同じになった時に、弱体化は止まる。で、そこから老化が始まって、寿命が尽きる、はず。
Q.……今の貴女の力で、出来ないことはあるのですか?
A.時間を遡ること、飲食物を作り出すこと、生命を作ること、生命が生まれ持った体質を改変すること、死者を完全に蘇らせること。以上5点。少なくとも貴方の寿命がある内は、それ以上出来ない事は増えないはず。
Q.……。魔女さん。それでは、死者を不完全に蘇生させることは出来るのですか?
A.どこも損壊していない、五体満足の遺体があれば。ただし私の力では、本来の寿命が尽きるまで、脳死状態で眠り続けるだけの、何をやっても意識は回復しない、本当に「眠っているだけ」の人間の身体が出来るだけ。完全な蘇生とは絶対に言えないでしょうね。
Q.もし、ここで「私は貴女に従えない」と言えば、留置場に帰して頂けるのでしょうか?
A.まさか、帰すわけないでしょう。貴方がいつまでも我を張り続けるなら、人格を弄ってても私に仕えてもらうわ。忠誠心を無理やり植え付けただけの荷物持ちも悪くないもの。
Q.……私の人格には触らないで頂きたい。自分の記憶も、思考も、貴女にとってどうあれ、私にとってはかけがえのないものです。……ただ、それほどの力が貴女にあるのなら、叶えてほしい願いが、貴女にしか叶えられない内容の願いがあります。「願いを叶えてくれるなら貴女に従う」と言えば、了解して頂けるでしょうか?
A.私にはヒトの社会に対するしがらみは無いけれど、取引は出来る。やりたいとか面白いとか思った方向に限るけどね。貴方が申し出る内容も、聞くだけは聞きましょう。どんな願いを叶えたいの?
Q.私がなぜ留置場に居たか、魔女さんはご存じだ。……私が一連の犯行で生み出した莫大な被害を、事件前の状態に回復しては頂けませんか? それが貴女の力で可能であるのならば、いくらでも貴女に従いましょう。……従うといっても、出来ることなら犯罪になる行為には触らずに居たいですが。
A.まず理解してほしいことだけど、どんな条件を付けられても、貴方のせいで駄目になった飲食物と、死んじゃった人、これらは全くのノータッチになるわね。爆発に巻き込まれた遺体は損壊が酷すぎる。そもそも損壊が無い身体であっても、天寿が尽きるまで数十年間眠り続けるだけの人を生み出したいとは、私は思わない。
それ以外の物を修復させるだけ、怪我を治すだけ、という限定付なら、問題なく出来るけれども。……ただし、それにしても、貴方ひとりの忠誠だけでは、取引の天秤のつり合いには少々足りないわ。私が追加で求めるのは、「私が見た経緯を世間にばら撒いて暴露すること」。
Q.それはどういうことですか?
A.貴方の側の、天秤の皿の上に、「犯行に至った経緯を世間に明かすこと」を追加で乗せてほしいの。きのう私は、貴方が連行される様子を見て、初めて見た貴方に惚れて、それから公安の情報を覗き回った。世間に伏せたいであろう物を含めて、何があったのかは把握しているつもり。
私がこのタイミングで連れ去らず、刑事手続きのレールに乗り続けたら、貴方は単に「捜査資料に感化されて犯行を起こした異常者」にされていたわ。貴方の犯行動機から羽場二三一が消える、何より大事な事なのに。公安警察・検察は、そうして組織防衛を図ろうとしていた。
荷物持ちになった人にそんなねじ曲がった世評が立つのは、私はイヤ。
Q.つまり、人命以外の被害を回復させたいのなら、「一生、貴女に従う」だけでなく、「羽場の件を含めて犯行動機を暴露せよ」と?
A.そういうこと。正確には「私が貴方に飽きるまでは私に従うこと」と、「私の目線での、貴方の連行経緯の暴露」を承知することね。貴方は結果的に一生私の傍に居る形になるかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
これは貴方と私の取引よ。取引を経た上で私の荷物持ちになるか、何もせずに荷物持ちになるか、どうするかは貴方が決めなさい。羽場さんとか弁護人とか関係なく、貴方ひとりで。身内以上に大事な存在だった羽場さんは、逮捕された時、自分の人生の事をたった一人で決めたんだもの。貴方もそうするのが相応しいと思っているのでしょうし。
Q.貴女に従う条件付けに、今言っている物とは別の取引を考えて提案することは可能ですか? また、今申し出ている取引であれば、貴女が回復させる被害の範囲は、どこまでになりますか?
A.別の取引を考えるのは可能よ。でも、貴方に、他に差し出せるものはあるの? まだ書類上は免職になっていないようだけど、実質は社会的に何もかも失った身分でしょうし。
今言った取引で進むなら、「失われた人命と、飲食物以外のあらゆる被害を元に戻してあげる」。貴方が壊した沢山のスマホも、IoT家電も、車も、エッジ・オブ・オーシャンも、被害を受ける12時間前の状態に戻してあげる。海に落ちたはくちょうも、落下する前の12時間前の位置に、日本列島から見て空のはるか上に、戻ることになるわ。
Q.……貴女の力には従わざるを得ないでしょう。……この状況では、貴女を
A.分かったわ。その願いも飲みましょう。当局がどう頑張っても揉み消せない大暴露をやってあげる。
Q. 更に最後にひとつ、条件を付けることが可能であれば。
……いつか、貴女が、私に飽きた時のことを。その時が来たら、私をあの留置場なり、弁護人の所なりに戻すのが、本筋でしょうが、…………。……その時は、私がどこに戻るのか、……私自身に決めさせて頂けませんか?
社会に出ようとは思いません。可能なら己の生命を捨て去るかどうか、それ自体を決められる立場になりたいと、思い浮かんでしまったんです。そう思ってしまう私が、自分自身が、……その願望が止められないんです。……あんな職業だったのに、非常に情けない事ですが。
A.泣かないで。その追加条件そのものも世間に明かしていいのであれば、その条件を飲みましょう。取引成立ね。
かくして、この告白文の、今回の大量配布に至ります。
私という存在そのものがまことさんにとっては荒唐無稽すぎたので、今の時点でも「独房の中で、死の恐怖に直面した自分が幻覚を見ているのではないのか」と、己の正気について半信半疑の面があるようです。
名を持たぬ とあるひとりの魔女より
追伸その1
報道機関と、野次馬やりたい世間のミーハーさん各位
本日5/2の14:00にエッジ・オブ・オーシャン内国際会議場の正面入口前においで下さい。爆破された建物を元に戻す魔術の力を見せてあげましょう。
追伸その2
検察関係者各位
まことさんはまだ懲戒免職処分を受けていないようですね。今日中に処分が下されないなら、まことさんがこれまで仕事で関わった公判の資料を、エッジ・オブ・オーシャンの件を含めて、明日5/3の朝、ことごとく全て魔術で私の屋敷に接収することを予告致します。
追伸その3
裁判所&弁護士会関係者各位
まことさんは、自分の弁護人がどんな方になるのか、顔も名前も把握していないそうです。手続きが進んだり、誰かと接見したりする前に、私が連れ出しましたからね。誰かが弁護人になるのかどうか決めて、一般に公表して頂けると助かります。まことさんに「弁護人にだけは会う許可が欲しい」とすがられています。ちょっと迷っているのですが、近い将来許可することもあるかもしれませんから。
追伸その4
米花町5丁目の喫茶「ポアロ」アルバイト店員の安室透こと、警察庁警備局警備企画課の
貴方の悪辣な知謀に敬意を表します。昨夜警視庁の前で揉めていた面子の中で、私の見る限り一番悪辣だったのは貴方です。当初ガス事故と思われていたエッジ・オブ・オーシャン爆発をただ事件化したいがためだけに、「焼きついた指紋という証拠を捏造し、毛利小五郎探偵を一時的にでっち上げ逮捕する」という案を思いついたのは流石だと敬服致します。
もっとも、貴方のアイディアを知っててなお咎めなかった階級的に一番上位の人は、裏の理事官で、警視庁の捜査一課に居られる
貴方の部下で、警視庁公安部の
現在は5/2の11:00です。狭間の屋敷でこれを書いていますが、まことさんが、私が書き進めているこの文面を見て言いました。何の因果か爆破事件の真犯人であるまことさんは、毛利探偵が捕まった際に担当検事となったけれど、「指紋という証拠を見た時、とてもとても驚いた。公安警察が証拠を捏造した事を確信した」そうです。
エッジ・オブ・オーシャン爆破事件の動機と捜査に関わった方々は、多かれ少なかれどこかしらに後ろ暗いところを抱えて、そのために最悪の事態を招いたように、私は感じます。貴方も、まさしくそう感じているのではないですか。
この事件に関わった者で、本当に何も抱えていない人は、毛利小五郎探偵本人と身内と、あと警視庁刑事部の警部級以下末端の方々くらいにしか思えません。
羽場二三一さんが表向き死んでいた件、岩井紗世子主任検事がその事案を内々に収めたために統括検事に出世した件、橘境子弁護士が羽場さんを思うあまりに公安への反発から毛利探偵を有罪に追い込もうとした件。よくもまぁここまで見事に歯車がズレまくるものだと感じました。】
◇ ◇
5月2日 12:15 都内某所
怪文書である。長文の怪文書である。
A4サイズの罫線の入ったルーズリーフを、2枚横に並べたA3サイズ。裏表両面使っているから、都合A4紙4枚分。表面の左上のタイトル欄にて『日下部誠に関する怪文書 ある魔女の告白文』と題されているのだから、紛れもなく『怪文書』である。罫線の中はみっちり綴られた手書き文字、丸っこい、若い女性のものに見える筆跡だ。ボールペンか何かで書いた紙をコピーしたらしい怪文書である。
今から15分前の正午ちょうど、羽場二三一の目の前の何もない空間に数枚が出現し、光りながら降ってきた。出所の知れない文書なのだから、その点でも紛れもなく怪文書である。
最初から変だとは思っていた。二三一が画面越しに連行される日下部さんを見届けたのは昨夜のこと、その夜の内に、あの人は留置場から忽然と消え去ったらしい。抵抗するよりは大人しく法の裁きを受ける方がずっと『らしい』人なのに。
監視カメラにも何にも痕跡を残さない、気が付いたら姿がない、というあり得ない消え方をしたそうで、公安は今、血眼になって捜索に当たっている、らしい。官舎の自室にも、職場にも、何か行先を掴む手掛かりがないかと捜索が入っている、らしい。
二三一も「何か行先に心当たりがないか」という聴取を受けたが、いくら訊かれたところで本当に心当たりなどなかった。昼前になってようやく落ち着いてTVを確認できたが、これも「テロ犯が留置場から消えた」実況、正午からは「警視庁記者クラブからの生中継準備中、変な紙が大量に降ってきた」実況で騒ぎになっている。二三一の場合のように、組織ぐるみの偽造自殺で実はどこかに行った、とかいう話では無さそうである。
さて、手元の怪文書である。二三一の頭で、内容を把握するのに15分掛かった長文である。
何も知らない者のイタズラ、ではなさそうである。昨夜あの場所で境子に別れを告げられたこと、境子が公安の刑事に激怒して泣きながら去っていったことを知っている者はごくわずか。日下部さんは境子と入れ違いで連行されていたから、境子があの屋上に駆けて来たことは知っていても、自分達の別れ話の詳細までは見てはいないはずだ。
「羽場さん。ちょっと良いかな、緊急事態が」
紙が降ってきてからの数分間、慌ただしそうに、おそらく職場との通話を終えて話しかけてきた男性は、二三一と近い年頃の、今日が初対面の公安の刑事である。今日の聴取を終えてからも、二三一にぴったりとくっついている。二三一にとってはあり得ない想像なのだが、そもそも日下部さんがこの二三一の居場所を知るはずがないのだが、それでも日下部さんと自分が接触するのではないかと想定し、ひとり貼り付いているのである。護衛と、監視。両方兼ねている立場に違いない。
「何か、ありました?」
「ここに降ってきた怪文書とどうも同じ文書が、正午に、警視庁と周辺1km圏内に派手にぶちまけられた。室内・路上問わず、『何もない空間から、訳の分からない紙が突然降ってきた』と大騒ぎになっているそうだ。
まず警視庁はTVの中継通り、ひどい。廊下も部屋もトイレもエレベーターも、全ての階の、とにかく床という床に、少ない場所でも足首まで埋まるレベルでこの怪文書が大量にばら撒かれた。公安部に限らず警視庁全体が騒動になっている」
「えぇぇ……」
現在のヒトの技術で、そのようなぶちまけ方は出来ないだろう。荒唐無稽な考え方だが、ヒトならざる力の介入でなければそのようなことは出来まい。
だとしたら、誰が、何のためにこの文書を配ったのか。あぁ、単純に考えれば、書かれたことがすべて真実だという前提に立つならば、……魔女が、日下部さんとの取引の一環で暴露文書をぶちまけたという、その構図に違いない。あの怪文書の言い回しを借りれば、……確かに当局が揉み消せない大暴露だ。それほどまでばら撒いたならば、もう、揉み消すことなんて出来ない。
ならば。
二三一は、これから公安検察の協力者だったことの生き証人、かつ、公安警察がやった偽装自殺という行為の生き証人という立場で、表舞台に立たねばならないということか。
公安検察・警察を貶めるのを承知で、それでも魔女は、世間への大暴露を望んでいる。日下部さんの犯行動機が世間に明かされること、それが当面は荷物持ちとして愛されつつ生きるしかないらしい、あの人の安寧に繋がることなのだ。
「羽場さん、どう思った?」
「……魔女とか、そういう凄い存在に惚れられるくらい、あの人は魅力的だったのだなぁ、と、感じました」
公安の人達は激怒しているだろう。特に日下部さんの犯行動機を曲げて、何とか事態を収拾しようとしていた人達は。
ただ、二三一の心の中には、日下部さんを責める感情は湧いてこなかった。何が何でも仕えさせるつもりの得体のしれない相手だ、どうせ仕えるなら『自分が生み出した損害を癒すこと』を申し出るのはもっともではあったし、二三一が同じ状況に直面した時は、同じような決断に転ぶだろうという想像もつく。
正義の名の下に道を踏み外した行いは、出来る限り補償されるべきだと、そう思ったのか。外道な行いに至った経緯も明かすことと引き換えに。……日下部さんらしい、と、二三一はそう思う。
何より、羽場二三一は、今に至っても、本心から日下部誠という男性を尊敬しているのだ。
「……そうか」
何とも描写し難い表情をした刑事さんは、一言、それだけ言った。
◇ ◇
5月2日 12:25 警視庁 捜査1課
バサバサドサドサと瀑布のように突如天井から降ってきた『それ』は、あらゆる箇所に散乱して落ち、歩行に支障をきたすくらいに、ひどいところでは目暮の腰と同じ高さまで積もっている。そのままだと業務上非常に不都合なので、とりあえず部屋の状況を一通り写真に撮って業務妨害の記録とした後で、ついで歩行ルートで邪魔になる部分の紙を優先して取り払う作業に進めること、……というのが、全庁的な指示だった。
文書を独断で捨てるのは止めるように、ともと言われており、取り合えず目暮を含めた刑事総出で、空いているスペースの一角に紙を寄せていく作業。その最中に鳴った電話を、佐藤が取る。
「あ、毛利さん、……あ、はい。伝言ですか。……、……分かりました。警部には伝えます、はい」
ガシャン、と、周囲の注目を浴びつつ受話器を置いてから、目暮に報告が来た。
「目暮警部。毛利さん達は、妃先生の事務所に一家全員移動されたそうです。こちらから連絡したい場合は、そちらにするように、とのことでした。あと、公安部への伝言を頼まれたのですが、……毛利さん曰く、『私に何か言いたいことがあるなら、警視庁として話をまとめてから来い』と」
本当に伝言するんでしょうか、と、言わんばかりの言い方だ。気持ちは分らんでもない。どう考えてもそっくりそのまま公安部に伝えるしかないし、そうするべき状況だと佐藤も分かっているはずなのだが。
「その伝言は、お前達がするしかないな」「く、黒田管理官」
目暮の真後ろから出てきた声。目の前で高木が驚きの声を上げて、慌てて目暮は振り返る。怪文書が降ってくる前から部屋の中に居て、怪文書が降ってきてからもずっと声を落としてどこかと電話していたらしい上司が、己の部屋からようやく出てきて、後ろに居た。
「目暮、それと白鳥。上から、私に、『お前達2人の目につくところで、何もせず待機せよ』と指示が来た。
監察からここに人を寄こしたいらしい。怪文書が局地的に酷い積もり方をしていて手間取っているそうだが。……もしかしたら逆にお前達の側に、『私と一緒に監察官室に来い』と指示が来るかもしれん」
――合同の捜査会議中に風見という刑事が乱入し、かつての部下の逮捕を強く強く進言した姿を目暮は己の目で見ている。怪文書の記述、その点だけは事実に沿っていると、目暮は自信を持って言える。文書が全て正しいのなら、この人は……。
「おっと、今ここで誰から何を訊かれようと、一切答えられんぞ」「……分かりました」
通常は無いような指示の事、そもそもの爆破事件の事。問い詰めたい思いは山ほどあるが、その思いを胸の奥に飲み込んで、目暮は答える。
◇ ◇
5月2日 12:30 警視庁前 路上
地検と警視庁の距離はわずかなものだが、そのわずかな距離の車道は、かなり混乱していた。無論のべつまくなしに降ってきた『怪文書』のせいである。
一応降らせる側に車道を邪魔しないという意識はあった、らしい。が、歩道と建物内限定でも、本来の地面が見えなくなるぐらいにぶちまけられた文書は、完全な無風状態でもない限り車道にも飛ばされる。自動車は否が応でも慎重な運転に徹せざるを得ず、結果的にかなりの渋滞を招く。
風見裕也は、正午のその時、日下部の件で地検の公安部に出向いていた。単に、主任検事室を舞台とした徹底的な捜索要員、その内の1人であったというだけだ。
そんな時にあの『怪文書』が降ってきて、その場の一同が凍り付いたえげつない内容を、警視庁に報告。直後の指示は何故か『全員その場で待機せよ』だった。ようやく10分ほど前に至急警視庁まで戻るように指示が来たが、地検の有様は、連絡で聞いた警視庁内部と負けず劣らず酷かった。風見の周囲では誰も押しつぶされたりはしなかったが、高くても胸の高さ辺りまでいびつに積もった物が雪崩になれば脅威そのもの。建物のエレベーターも何故か止まり、廊下と階段は、やはり人か、そうでなければ積みあがった怪文書であふれていた。これで地検から出るのにも一苦労。出た瞬間、同僚と一緒に疾走、と相成る。
「……ハ」
浅く短い呼吸を1つ吐く。思考は、頭の中で全力で巡っていた。
これからどうなるのか、怪文書を読み終えた瞬間に悟った、確定的な未来が一つあった。黒田・降谷・そして風見、少なくとも怪文書に名前を出された3名は、公安という職場から排除されるということ。
指紋を捏造して被疑者をでっち上げる行為はどう考えても明らかに違法、これまでは毛利探偵の心ひとつで何とかなった話だが(部署は違ってもOBだ。その辺りの機微は通じると降谷さんは踏んでいた)、こうして世間に
秘すべき違法捜査は、世間に出てしまえば、つまるところ『不祥事』という単語にしか帰結しない。3人の中では風見はまだ末端という部類だから、切り捨てられる『だけ』で終わるという目が、今のところはまだあるが、……この3名で言えば、降谷さんが一番危ういか。かなり高確率で実刑沙汰だ。
隣の同僚と目を合わせ、頷き、ピッチを落として、警視庁の敷地へ飛び込む。更に短い呼吸を一呼吸、外から見える1階の様相は、地検と同様に怪文書にまみれている。
「ハ……」
短い呼吸を更に1つ。ここまで降ってきたものを隠し通すなんて誰も思ってはいないが、それにしたって物理的に『やりすぎ』だ。紙の量は一体何億枚使ったものなのか。
「せめて常識の範囲内で暴露しておけば良いものを……」
思わず口に出た声は、多分、同僚にすら聞こえていない。
橘境子が口を割るとか、日下部誠が法廷で暴露するとか、あるいは毛利小五郎が真相究明を求めるとか。どちらにせよ公安が言い含めるとか言い含めないとか、その辺りの処理が問題になると思っていた。ヒトですらないらしい自称『魔女』が日下部に惚れた挙句に略取事件を起こし、1対1の取引の末に真相暴露を決めるとか、誰が予想出来るというのだ?
なんと評するべきか、どう考えても公安の統制外で起きた、こんな形の暴露は、――結構、心に来る。
◇ ◇
【5月2日に大量配布した文書には、まことさんを連れ去った直後の出来事はおおよそ網羅していました。
強いて書いていない事を挙げるなら、狭間の屋敷の水回りを調整した事くらいでしょうか。屋敷の下水道を、時空を捻じ曲げて都内某所の下水施設に繋いだこと。上水道も、同じ方法でこの日オープンした国内某施設の水道から取るようにしたこと。まことさんを屋敷に住まわせることが確定し、私が魔術で飲料水を創ることができない以上、水回りは余所のインフラから持ってくるしかありませんでしたから。
そして告白文を配布した後、あのエッジ・オブ・オーシャンに出没する2時間の間にやった事ですが、まず国家公務員用の官舎にあったまことさんのお部屋に入ったことが挙げられます。
お部屋の中の家電や細々した雑品類を、魔術で回収し、屋敷に持ち込んだのです。これもまことさんを住まわせるのにあたり、あったら便利だと考えて行った事でした。
元々は、私が持っていた現金で買うか(約30年前に掘り当てた1億円少々が、まだ大半手元にありました)、どこかから奪うか、無から創るかのどれかでした。それを聞いたまことさんが「そんな事をするなら私の部屋の物をそのまま使って下さい」と申し出たのです。現金を見つけた経緯をかなり詳細に話したらまことさんにドン引きされたので、そのお金を使ってほしくない思いが強かったのだと思います。
お部屋の中で警察の人達に遭遇することはありませんでした。その日の午前中は警視庁公安部から大勢が家宅捜索で踏み込んでいましたが、正午以降は、告白文の大量配布に遭った警視庁本庁舎に引き揚げ、混乱の収拾に当たるよう指示が出ていたそうです。そのため、私がまことさんと一緒に姿を隠してお部屋の中に戻った際、誰一人その部屋の中には居なかったのです。
家電の回収といってもヒトの引っ越しめいた作業は一切なく、私がまことさんを連れて部屋に出現、必要そうな物を私の力で小型化、そのまま私のポケットに突っ込んで撤収するというだけの作業でした。杖の一振りで物の大きさが瞬時に変わっていく情景に、まことさんは目を丸くしていました。ただ、本人の要望で本当に最小限の持ち出しに留まり、更に捜査当局を案じたために室内に手書きの文を残すことになりました。
『・TV
・TV台
・洗濯機
・風呂場の小物類
・歯磨き道具(未開封)
・室内用物干し竿
・衣類用キャビネット(透明、中身カラ)
・玄関用小型ホウキ、ちりとり
以上の私物8点、この部屋から持ち出しました。
狭間の屋敷にて使用します。
5/2 13:15 日下部誠 と魔女より』
ほとんどがらんどうの部屋で、私が提供したルーズリーフを冷蔵庫に押し付けてマジックを走らせるまことさんに、逐一律儀な人だと感心したものでした。ちなみに最後の『と魔女より』だけはメモの記述に触発された私の文字です。ルーズリーフはマグネットで冷蔵庫の表面に堂々と貼り付け、私達はお部屋から去ったのです。
翌5月3日に警視庁刑事部が仕切り直しで再び捜索に入った際、すぐにこの紙の存在に気付かれ、当然「魔女がこの部屋に来たはずだ! 痕跡を探せー!」と大々的に鑑識が入る騒ぎになったそうです。
警察側でそんな騒ぎを生み出したものの、最終的に、このお部屋からの持ち出し行為自体について何か罪に問われることはありませんでした。持ち出した物に官舎備品は無く、全部まことさんの私物。家宅捜索で押収となった物は部屋になく、つまり部屋に残されていた物は押収されていない物。お部屋に出現することも居住者の許可付き(この時点で、まことさんと国の間の入居契約は、書類上まだ解消されていませんでした)、ということなのです。
屋敷に戻ってからは持ち出した物をそれぞれ必要な場所に据え、TVはリビングで台に据え、すべて東京基準でTV電波が入ってくるよう屋敷を調整しました。そこでTVの電源を点けて、まことさんはその日の正午に、私の告白文がどれだけ配布されたのか、初めて知ることになります。
映し出された臨時ニュースの、東京地検のロビーの情景で顔面蒼白になり、「魔女さん、まさかこれだけばら撒いたんですか!? 紙に潰されて死者が出てもおかしくはないですよ?」「圧死者なんて出るわけないわよ。ヒトの頭にはそこまで落ちないように調整したもの。私、自分の力でも取返しが付かないことはしない主義だし」「……そうですか。それなら良いですが」というやり取りがありました。
それからしばらく、集中してTVを見つめていたまことさんは、朝方に取引を結んだ時や、私が告白文を記していた時以上に、じっと考えこむようになりました。私が話し掛けても、返事をする前に思考する時間が明らかに増えていました。
エッジ・オブ・オーシャンに行った時くらいに、様子は元に戻りました。その辺りくらいから、まことさんが私を呼ぶときの呼び方が変わったのです】
◇ ◇
5月2日 13:59 エッジ・オブ・オーシャン 国際会議場前
爆破された国際会議場の前には、建物自体からはだいぶ離れた形で規制線が張られていた。マスコミや野次馬は線から溢れかえるくらいに勢揃いしていて、その有様を眺めながら魔女はニヤニヤと笑っている。
見た目20歳の美人である。結い上げた茶髪、白い肌、品のある黒いワンピース、黙っていれば深窓の令嬢くらいには見えるであろう。『ホウちゃん65号』と呼ぶらしい箒に横座りして、浮いている。トランクを抱えた日下部誠の横で。
規制線の『中』に立っているのだから、本来、自分達は咎められるはずである。が、魔術で秘されているから、マスコミ等のヒト達は存在に気付かずに無反応でいるらしい。ブルーにうっすらと光る膜、という日下部にも分かりやすく可視化された『姿を隠す魔術』は、魔女が愛用するものであるらしい。杖の一振りで魔術を纏ったり解除したり出来るもので、互いに認識できない状態にもやろうと思えば出来るらしい。が、今はそのような設定は行っていないそうで、だから日下部は、魔女の姿を認識出来ている。
「まことさん、流れ次第では、途中で貴方の姿をこの人前に晒すかもしれない。マスコミがここまで殺到したらその前に転移で逃げるから、晒さないけど。……承知しておいてね。この場所での作業が終わったら、貴方のスーツを買いに行きましょう」「……はい」
囁きの声に囁きの返事を返す。すると魔女は微笑んで頷き、そのまま日下部を置いてゆるゆると飛んで行った。
マスコミ達の手前まで飛んでから杖を一振り、姿を露わにし、ざわめきとフラッシュの目の前で、両手を広げてからの丁寧な礼を見せる。
雑多な呼びかけが彼女に飛ぶ。報道機関各位も野次馬も、色々と訊きたいことがあるらしい。それらの声を無視して彼女は回れ右、残骸の如き国際会議場に相対し、杖を一振り。
ヒュン!
音は無かった。光っただけだった、建物全体が瞬間的に光った、無残にも爆破された廃墟が、一瞬の光の後で、……気が付けば新築の在りし姿に戻っているという、そんな奇蹟の御業。
規制線の向こうがこれまで以上に騒がしくなる。彼女は箒に座したまま再度旋回し、マスコミ達のカメラに目線を戻した。この日下部の位置からはもう彼女の背中しか見えないが、テンション高そうな雰囲気で目一杯両手を広げ、何か言いたげなのは分かる。
「ごしゅじん、さま」
日下部は小さく声に出してみる。呼び掛けるのではなく、口の中で単語を転がすように。己の立ち位置で一番ふさわしい呼び方は、これ、だと思う。この呼び方に慣れるべきだ。
ペットショップのケージ越しで買う犬を選ぶように、気まぐれに近い形であの留置場から連れ出されたのだ。ここで見せた力もきっと気まぐれ程度で結んだ取引のため。ただ、そんな気まぐれであっても、ヒトには絶対に出来ず、彼女だけには出来る類の偉業には違いない。
この取引を申し出たのは日下部自身だ。今までもこれからも決して対等になることはなく、日下部が仰ぎ見る構図が続くだろうが、それでも取引は公然と成立している。この女性は、……見た目がヒトでも実質はヒトではなく、当然倫理観が日本人のそれとは明らかにズレている。そんな女性が、犬を愛するように自分を愛そうとしている。……ならば自分は忠誠として返すしかない。犬らしく。
日下部ひとりの視線を背中に受け、正面からは大勢に注目されて、彼女は嬉々として叫ぶ。
「……関係者各位、見てるー!?」
◇ ◇
5月2日 14:00 エッジ・オブ・オーシャン 国際会議場前
「関係者各位、見てるー!? 警察、検察、その他諸々、関わったヒト達にー! 私は、ここで宣言するわ!」
野次馬、マスコミ、警察、大勢が居た。数えきれないほどのフラッシュと視線を受け止めながら、ホウちゃん65号に腰掛けて宙に浮いた私は、満面の笑みを浮かべて絶叫してやった。
「取引は成った! まことさんはもう、私のものよ!」
◇ ◇
5月2日 14:01 東京地方検察庁
ベシッ
TV画面を凝視していた視界が、突然何かに覆われた。岩井紗世子は反射的に顔面に張り付いたそれを払い除け、そして右手で掴んだ『それ』が、覚えのある物である事に気づく。
「岩井くん、それは」「……私のジャケットですね。きのう着ていましたが、燃えました。日下部がスマホを発火させた際に引火して」
最高検から派遣されてきた男に、そう答える。
紛れもなく、あのIoTテロ行為で被害を受けた物品の一つであった。机の上に広げてみる。間違いなく盛大に焼けたはずであったのに、今このジャケットには焦げ跡一つない。
胸ポケットには何かが入っているようで、確認してみるとやはり昨日燃えたはずのスマホがあった。取り出してみる、……これも燃える前の正常な状態だ、ボタンも何も触らず、ジャケットの横に置く。
信じ難い事象を目の前にしても、岩井の心に動揺はなかった。予想通りの事では、あったから。
あの怪文書が降ってきた騒動から2時間、上の命令で一応机周りだけは片付けたというこの部屋に隔離されてから、1時間と少々。この間、延々と動揺し続けるような性根はしておらず、今は一応、冷静だ、と、……思う。
怪文書中の記述、特に魔女自身に関する記載がどこまで真実か分かりはしないが、ヒトが持ち得ない技術を持っていることは、正午の騒動の時点で悟っていた。
TV画面の向こうで笑顔になっている『彼女』の姿。それと、『食べ物と人命以外の被害を回復させる』という取引には誠実であるらしい、という情報。どちらも心の中のメモに書き留めておく。
もっとも、その考察が生かされるかどうかはかなり怪しいところだ。あの怪文書の記載のせいで岩井はここに隔離されている。ああいう風に暴露された以上は、とりあえず自分が職を追われること自体は既定路線。最高検の幹部が誰であろうが、絶対にそうする。
「ぁのー、非常に言いづらいのだけど、岩井さん。貴女の、あたまの上……」「?」
最高検が派遣してきて今ここで岩井と対面している男女各1名、女性の方が本当に言い辛そうに告げ、岩井は言われたまま己の頭に手を伸ばす。何かが頭の上に乗っており、これも覚えのある感覚で、ハッとして右手で掴んだまま、思わず机に叩きつけた。
ブラジャー。紛れもなく己の物である。確かにあの事件のせいで被害を受けた物品だった、確かに!
「これも、私のです。昨日火の粉が飛んで紐が少々焦げましたが、今は何も痕が無いようです。……透明ではない袋か何か、お持ちでしょうか?」
湧きあがったムカつきを押し殺して報告する。流石にそのまま机の上に晒すのは憚られ、広げたジャケットの下に押し込む。
他人のブラジャーをこう返すのは、魔女か日下部のどちらかが、岩井に喧嘩を売っているということなのか。あるいはただの偶然か。あるいは配慮が無いだけか。ひょっとしたら、明らかに度を越した怪文書の暴露と言い、魔女は本気で底意地が悪いのかもしれない。
「分かった。ちょっと待っててくれ、岩井くん。……ところで、私達の目には、服が降ってきた時に、君の髪が一瞬光って突然伸びたように見えたんだが、……君の火傷はどうなっているのかな?」「……え?」
言われて初めて気付く。
胸や肩周辺、火傷のヒリヒリした感覚を、そういえば一切感じない。
◇ ◇
5月2日 14:02 警察庁 監察官室
己の左肩があの建物のように一瞬だけ光り、直後に痛みが消えた。思わず撫でる。……怪我がすべて消えている。昨日、あの坊やと国際会議場のガラスに突っ込んだ時に負った傷が。
――この傷も、日下部の犯行による被害だと見做されたのか。
椅子に座る降谷零は心の中でだけ呟き、しかし口には出さない。魔術がどれだけ他者の身体を癒せるものなのか、徹底的に調べるべきだろう。変な副作用が出たら困るな、と、思考が浮かぶ。
自分の真横のTV画面では、魔女が大写しになっていた。
『Houchan No.65』とデカデカと銘を入れた2mほどの長さの箒。物理法則に逆らって地上1mほどの高さに浮いたそれに、彼女は腰掛けている。右手に細い杖を持ったまま両手を広げて、箒に座ったまま、いかにも優雅でしかし大仰な一礼を見せる。
カメラの注目を浴びる中で恐る恐る制服警官達が取り押さえようと走りかかる、その前に顔を上げた魔女の杖の一振りの方が早かった。走りかかった彼らの足元も、また、一瞬だけ光った挙句に酷い泥濘と化した。局地的に水田のようになった地面に足首まで嵌まり込み、皆、先に進めなくなる。
その彼等をからかうように嘲笑を浮かべながら飛行(?)を続けて、カメラから少し遠ざかった場所で、更に杖を一振り。彼女の真横、これまで何も居なかったはずの場所に誰かが出現した。がっしりした体格の中年男、古びたトランクを抱えた、……日下部誠!
野次馬の歓声が沸き起こった。恐怖よりも驚きを遥かに多く含んだ声をBGMとして、ズームであの男が映される。留置場に居た時のままの恰好の彼は、突然浴びせかけられた注目に少し戸惑っているように見えた。腕の中のトランクをそのままに、カメラに向けてやるせなさそうに視線を下げ、しかし魔女が彼の手を強く引いて笑いかける、更に杖を一振り。
本当に跡形もなく、彼女達は瞬時に姿を消した。
「……何でもありだな、この、魔女」
降谷は監察官と対面する形で椅子に座らされていた。デスクの向こう側、同じくTVを見ている監察官の顔からは、乾いた笑いしか出てこない様子がうかがえる。降谷だってそうだ、乾いた笑みを浮かべて空を仰ぐしかない。
「本当に、単に『惚れたから連れ出した』んでしょうね……」
あんな風に力を使える者が、公安・検察・裁判所、etc、ヒトの組織を意に介するはずがない。本当に『やりたいことをやる』のに、陰謀や工作の類に手を染める必要性は一切無く、単に魔力を振るえばそれで良い。怪文書にあった日下部との取引も、申し出を受けて『やりたいと思ったからやった』、……そして公安が全力を挙げて行おうとした営みを暴露しやがって、結果、違法工作を暴かれる、訳だ。
唯一の救いは、毛利探偵の所に居候しているあの坊やが、一時は間違いなく協力者であったのに、怪文書中で全く触れられていないことくらいだ。おそらく、魔女は日下部の世評にしか関心がなく、故に完全に無視された、のだ。日下部を単純な異常者にしたくないだけで
橘弁護士辺りから、あの時警視庁屋上に居たことが毛利家の面々にバレる恐れはあるが、……あの子は、工藤新一君に悪役の疑いを押し付けて対処するカバーストーリーを、昨晩の時点で自力で作り上げていた。魔女が何か再暴露しない限りは、あの坊やは上手く切り抜けるはずだ。
さて、元に戻って魔女の事を考える。
ヒトの組織が間違いなく繰り出すであろう声明も、あの女は記載通り『ドッグランで犬の群れが吠えてやがる』程度の感覚で捉えるだろう。何を言っても、世間には白けた雰囲気しか生まれまい。
上司、同僚、部下。この職に就いてから関わってきたあらゆる顔が思い浮かび、これからどうしようもなく苦労するのだろうなと同情じみた感慨が沸く。その苦労するであろう環境に、己が身を置くことはない。もう確定的だ。
ただひたすらこの味気ない部屋で天井を仰ぐ。……どうあれ、こんな滅茶苦茶な横槍のせいで、社会的な生命ごと諸々の隠蔽工作が破綻するとは、全く思ってもいなかった。
◇ ◇
5月2日 14:04 妃法律事務所
壊れたまま放置されていた壁面のTVが、エッジ・オブ・オーシャンの建物のように一瞬で正常な状態に戻ったのを認めた時、しばらくして妃英理の頭に浮かんだのは、――そういえば『これ』も、あのIoTテロの被害に遭った物品だったわね、という、間の抜けた思考だった。ノートパソコンの画面越しに見た光景が衝撃的過ぎて、一時的に思考がマヒしたらしい。
「……ねぇ。僕さ、分からないことがあるんだけど、弁護士としての妃先生の考えを、質問しても良いかな?」「ん?」
英理と同じソファーに座しているコナン君が、顔を上げずに唐突に言った。正午以降、家族の中では一番ショックを受け、更に昨夜のことで全員から説教を受ける羽目になり、ずっとしょげていた子だ。今日、この子がここに来て初めて出た質問に、英理は向き直る。
「留置場に居た人がこんな風になっちゃった時、弁護人って付くの? 怪文書の内容が正しければ、弁護人には会いに来るかもしれないんだよね。日下部誠さん」
「んー。……ちょっと、『分からない』としか言いようがないわね、それは。起こったことが前代未聞だし、それを決めるのは私ではないし。
ただ、『仮に弁護人を付ける流れになっても、弁護士としての私が関与する事は一切ない』とだけは言えるわね。私は『事件に巻き込まれた人の、妻』だから」
小五郎を見やりながらの回答に、注目を受けた側が無言で頷く。蘭は納得した顔をして、コナン君も同様に頷きを見せて顔を上げた。
「そっかぁ。……おじさん。警察や検察の人達って、心情的には『弁護人を付けた方が良い』ってたぶん思うよね? 会いに来た時に身柄を確保できるかもしれないし、それでなくても何か手掛かりが掴めるかもしれないから」
「心情としては、そうだろう。捜査する側は、ダメ元でも弁護人とつるんでおびき出して確保、くらいは一度考えるんじゃねぇか? そんな話に弁護人が乗るかどうか知らねぇけどよ。
あと、警察が思いつきそうなこととして、……俺は今思いついたが、魔女には作れない物や欲しがる物で、釣る、くらいだな。降ってきた文書が正しいなら、あの
この言葉に、蘭がおずおずといった様子で指摘した。
「お父さんの言うことは分かるけれど、それで箒で浮いてたあの人、捕まえられるのかな? 身柄を確保しようとする前に逃げそうに見えたけど……」
「分からん。そもそもあんな力を持つ犯人、誰も相手にした事ねぇんだぞ。根本的に相手の力をどうこう出来ねぇと、解決なんざ無理だろうさ。ただ俺は、相手の裏をかく手掛かりをどうにかして掴むチャンスはねぇか、って意味で言ったんだ」
言っている事は誰でも即座に思いつく程度のことでしかないが、内容はもっともだ。ただし、英理は別の視点で指摘を入れることにした。もっと重要なことが他にある。
「ただ、今の私達にとって一番大切なのは、『これからの警察がどう動くか予想する事』ではなくて、『これからの私達がどうするか決める事』でしょうね。
ねぇ、……橘先生も含めて、みんな、私の考えを聞いてほしいのだけど」
橘境子弁護士をチラリと見やる。この若い弁護士は、自分達のソファーと別の椅子に座り、今は顔面蒼白で茫然自失になっている。
……彼女の話によると、この人の下にも自分達同様に怪文書が降ってきて、直後から公安や報道機関より携帯電話宛に鬼のような着信があったものの、一切取り合う気力が湧かず、しばらくの間街を放浪し、我に返ってこの事務所に来た、らしい。
ここに来た時は30分くらい前で、その時はもっと取り乱していた。水を勧めてちょっと落ち着いてからはベラベラベラベラ、小五郎と英理の追及に半泣きになりながら、諸々の情報を、聞いていない部分まで、――コナン君が昨夜警視庁の一番危ない時間帯にウロチョロしていた事まで、白状したのだった。
(ちなみにコナン君によると、工藤新一君の真似をして勝手に燃え上がり、捜査員まがいの事をしている最中に警察の人に保護され、その時は警察の人手も足りない状況で「危ないからとりあえず目の届くところに居なさい」と言われて現場に留め置かれたらしい。
……コナン君はそう言っているが、犯人の正体を見抜いた新一君が、現地に行くように指示したのではないか、と、蘭を含めて全員が疑っている。何しろ「有希子おばさん達には内緒にしてて。ひとりで夢中になってた僕が悪いから!」と懇願してきたのだ。英理と小五郎にはその懇願を聞き入れるつもりは無論ない、言っている事が本当だとしても、そんな風に燃え上がる子を推理の手足として使うのは危ない。あとで有希子に連絡を入れる予定だ)
名指しされた橘弁護士が、ボウっと顔を上げる。こちらの言葉を聞く気はあるらしく、その様子を認めた英理は、机の上に置いていたノートパソコンと、その横の怪文書を指差す。パソコンの画面は、今もなおエッジ・オブ・オーシャンの国際会議場の模様を映し出して実況を続けている。
「私達が行う行動としては、『私達の目線で、実際に起きた事をすべて世間に明らかにする事』が最善だと思うの。
毛利小五郎が一時逮捕されていて不起訴になった事、申請された証拠に心当たりのない指紋があった事、探偵事務所に安室という助手が居て、ポアロのアルバイトだった事。さらに、怪文書が降ってきてからのあの助手の行動、どれも覆せない事実よ。
私達の目線で事実であると分かっている事項、判断がつかない事項、……それぞれを分けた上で並べ立てるしかない、と、私は思っているのだけど。出来れば会見形式で」
小五郎は目を閉じて腕を組み、考え込んだ。
長く、長く、どれほど葛藤と逡巡を抱えたのか想像できないほどの間をおいて、目を閉じたまま答えが来る。
「そうするしかねぇんだろうな。警察にしても、これだけ派手にバラされたものを隠蔽するなんて考えねぇだろう」
ヒュッ、ヒッともつかない、場違いな呼吸音がした。橘弁護士からだ。どうも、……過呼吸交じりでしゃくり上げつつある。彼女の精神が大丈夫なのか、ちょっと不安だ。自身の恥すべき部分を大々的にばら撒かれたのだから、こうなるのは分かる。
だが、英理は同情はしない。公安の協力者になった事は、とやかく言うつもりはない。しかし、弁護人が弁護対象をあえて有罪に追い込もうとするという行動は、巻き込まれた者が夫でなくても、職業倫理上、擁護できない。
「橘境子弁護士。同業者として、別に代理人を立てることをお勧めします。もう私達は、貴女とは直に話すべきではないのでしょう。公安でも、それ以外の伝手でも良いから、とにかく代理人を立て、代理人経由でやりとりする事。それがお互いにとっても良いのだと、私は思います」
今後弁護士業界で生きていけるのか分からないくらい未熟で、若い同業者への、一応の義理として。英理はそれだけ言い切った。
◇ ◇
【関係各所は、この日、表向きの情報だけでも目まぐるしく動きました。
・15時頃、検察がまことさんを懲戒免職処分にしたことが報道される。
・同時刻頃、探査機はくちょうがカプセル切り離し前の状態で空に戻ったらしい旨、NAZUより公表される。地球への帰還作業を元の通りにやり直す、とも。
・18時より、妃英理弁護士と毛利小五郎探偵が、代理人と共に記者会見に臨む@妃弁護士事務所
・同時刻より、橘境子弁護士が代理人と共に記者会見に臨む@弁護士会館の会議室
・19時頃、警視庁・警察庁が、正午に降ってきた告白文で名指しされた者達3名(黒田・降谷・風見)の実在を認め、本人達から事情を聴いている旨が報道される。証拠の捏造と、羽場さんの偽造死亡の件で、両庁の公安部を大々的に捜査しているとも。
・同時刻頃、最高検察庁が、同じく名指しされた地検公安部の統括検事(岩井)をはじめ、公安部の検事達から事情を聴いている旨が報道される。
・20時頃、生きた羽場二三一氏が、代理人と共に記者会見に臨む@弁護士会館の会議室
多少思慮が出来る人は正午の騒ぎの時点で見抜いていたし、この段階にまで至れば誰でも分かった話です。検察と警察は、私と世間に対して完落ちバンザイせざるを得なかったのです。
得体のしれない力を持つ私を、とてもとても刺激できないと判断したのです。壊れた建物を一瞬で直せるなら、頑丈な建物を一瞬で壊すことができる。怪文書をばら撒けるなら、溶鉱炉の中身でさえもばら撒くことができる。そんな推測があったようです。この国の国土の中に限っても、壊れたら困る建物・死なれたら困る人、大勢在りますし、居ますから。
短期間の内に、あれだけ誰にとっても全方位的にスットコドッコイな、残念としか言えない結果になるなんて、この時は誰一人として思っていなかったのです。
私も、まことさんを心ゆくまで荷物持ちとして愛でられると思っていました。まことさんを
関係各所が目まぐるしく動いていたこの時、私は、まことさんのスーツを買って、それからデートをしていました。そこで、表向きの動き以外にも色々あったことを書いておこうと思います】
※12/1 一部のフォント設定を変更しました。※
次回予告:
デート先のお店で、ご主人様は喋りかけた。
「ちょっと思考実験というか相談良いかしら?」
「何でしょう?」
「私、屋敷で言った通り、出来ないこと以外は何だって出来るわけよ。ヒトの魂の在り方とか身体の在り方とか、見ようと思えば見えてしまう訳ね。例えば妊娠の有無とか。
私のスタンスとしてね、本人が気づいていない妊娠に普段口を出すことは無いの。放っておいてもいつかは気付くものでしょうし」
「そうですか。スタンスとしてはありだと思います」
「で、ここからが問題。放っておくと母子ともに死んでしまうような場合って、本人に知らせてあげるべきなのかしら」
次の瞬間、杖を振るっていないのに、光る文字が机に湧いた。
【この文字、私と貴方しか読めないから顔を上げずに読んでほしいの。顔を上げずに。
私の後ろに座っている、私達狙いのショートカットの女刑事さん。同じ席で張り込んでいる後輩さんと独身同士でお付き合い中らしいのだけど、子宮外妊娠継続中なのに無自覚なのよね。
長く放っておくと母子ともにあっけなく死にそうなんだけど、知らせるべきかしら?】
「……えー」
次回タイトル:生き方と魂に関するエトセトラ(仮)、――鋭意執筆中!