名もなき魔女と灰色の犬   作:oJG7

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※何でも許せる方向けです。ただし登場人物全員割と良い目が皆無になる予定の中編なので注意※

※未成年に対する暴力描写(小五郎のおっちゃんの平手打ち)、性的関係の描写(魔女関係)があります。


中編 生き方と魂に関するエトセトラ

 5月2日 18:12 警視庁 捜査1課

 

 TVのニュース枠は、きのうからずっと日下部誠関係の事件で占拠されている。

 単に、リアルタイムで報じなければいけない事が多すぎるのだ。はくちょうの落下未遂事件から、日下部誠の逮捕、逃走(=正確には留置場からの略取)、そして本日正午の怪文書事件、14時に被害の一斉回復、と、刑事ですら時々振り返らないと何が何だか分からなくなるほど、事件は現在進行形で動き続けているからだ。

 

 最低限一通りの片付けが終わった捜査一課の片隅で、目暮達はTVの中継に見入っていた。注目を向ける先もまた、現在進行形の事件の一端だ。

 ――毛利小五郎探偵と妃英理弁護士の会見中継。

 

 怪文書事件で、警視庁公安部自体が疑いを掛けられている立場となったために、魔女の日下部略取事件を含めた一連の事件の対応は、刑事部の方にお鉢が回る事態となっていた。

 当の公安部からも、目暮達に内々に情報提供がなされている。曰く、『安室(降谷)は、怪文書の記載の通り潜入捜査中の身だった』、『怪文所の記載は全くもって正しい。降谷達はいずれ処分されるだろう』、かつ、『毛利探偵事務所には正午よりも早く怪文書が降ってきていたらしい』。

 公安部の行動には、目暮にも思うところはある。が、それは監察がどうにかする話だ。刑事部の捜査一課の者として、魔女が引き起こした事件の捜査に集中しなければならない。何か少しでも手掛かりがあれば、という願望込みで毛利夫婦の会見に注目する事態となっているのである。

 

 TVに映し出されている妃英理弁護士の事務所は、簡易な会見場に仕立て上げられている。代理人と妃英理弁護士を左右に並べて、中央に座る毛利小五郎が原稿を読み上げていた。

 原稿は時系列順らしい。既に、一時逮捕された後で不起訴で釈放された件には(心当たりがないらしい証拠の件を含めて)触れられている。毛利君のダミ声の朗読は、本日昼頃に起きた騒動に進んでいた。

 

「……続いて、今日の昼に起きた事を御説明させていただきます。

 関係者はご存知だと思いますが、うちの探偵事務所は私の持ちビルの2階で、自宅が3階にあります。1階はポアロに貸しております。

 今日の昼前、その3階の自宅に妻を含めて家族が勢揃いしている時、安室君が、ポアロのアルバイトの恰好で訪ねてきました。『釈放祝いです』と言って、家族の人数分のポアロのサンドイッチとスープを持って来たんです。普通にお礼を言い、みんなで食べようとした時でした。

 私達一家と安室君が居るリビングに、あの怪文書が突然降ってきました。

 ……その時降ってきた怪文書の枚数は、トータルでも十数枚ほどでした。TVで言っていた警視庁の状況のように、ドサドサと降ってきて積み上がるという物ではありませんでした」

 

 ――嫌なタイミングの暴露だな。

 目暮は正直にそう思う。毛利夫婦が事実に著しく反する脚色をするはずがない。ここで喋っていることが事実なのだろう。

 話を聞く限り、魔女は、単純に冤罪被害者と加害者が鉢合わせるタイミングに合わせて、言い逃れをさせないように情報を与えたように思える。毛利君達か、安室君(正しくは『降谷君』らしいが)のどちらかを監視、全員揃った時に、あの魔女は修羅場か何かを期待して暴露文書を降らせた、……というだけなのか。

 

「怪文書が降ってきた具体的な時間は覚えていませんが、11時50分台だったと思います。正午よりも前なのは間違いありません。

 訳が分からないなりにあの文書を読み通して、『おい、どういうことだ安室透。これは本当なのか。お前は俺をハメたのか?』と、私が思わず呼び捨てにして詰め寄った時に、ちょうどTVの正午の時報が被りました。……この私の台詞の後半あたりから、妻がとっさに録音をしていました。

 詰め寄られた安室君はしばらく無言でした。多少手が震える状態で怪文書を目の前に大きく広げて、視線が文面に釘付けになっていました。点けっ放しにしていたTVが『警視庁記者クラブで変な文書が降ってきた』と言い出してから、安室君はハッとした顔になって、急に土下座をしました」

 

 毛利君は極力感情を抑えて読み上げているようだが、抑えきれていないことが声の端々から感じられて、それが余計に生々しい。

 目暮の横、高木が「うわぁ」と小声で呟く。浮かんでいる感情は、同情か、憐憫か、驚愕か。毛利君とも安室君とも面識があるのだから、読み上げられている情景は鮮やかに頭に浮かんでいることだろう。

 

「安室君は頭を下げたまま、声を張り上げて、『お願いします。今この状態の僕の立場では、言い訳も説明も何も出来ません。察して下さい。皆さん、何も言わずにこの事務所から離れて下さい。すぐ、ここにマスコミの取材が殺到するはずです。その前にお願いします』と、そう言いました。その時の安室君は、土下座の姿勢で頭を下げたままそれだけ言い切りました」

 

 正体を暴かれた直後の潜入捜査官の咄嗟の台詞としては及第点、なのだろうか。

 一番避けたいのは、己自身が逃げ場のない状況で何の備えもなくマスコミに晒されること。毛利家の皆を気遣っている風に振る舞い、それを隠れ蓑にして職場に戻ろうとする、そういう喋り方だ。……どんな空気だったのだろう、その時の毛利家のリビングは。少なくとも英理君は(多分コナン君も)、そういう言い回しの意図を即座に見抜ける頭がある。

 

 見計らったように英理君がマイクを口に寄せる。そうして原稿を読み上げた。

 

「次に口を開いたのは私でした。『何を言っているの。それで通用すると思っているの? 毛利小五郎は、訳が分からないまま冤罪に巻き込まれた被害者よ。正しくは、貴方がマスコミから逃げたいだけではないの?』と言いました。そこで夫が私を止めました」

 

「安室君に一言だけ尋ねました。『お前の言う通りにする前に、一つだけ訊かせてくれ。後でお前の職場から、正式な説明が俺にあるんだな?』、と。安室君の返事は『はい、それは必ず』でした。私は『分かった、それなら良い』とだけ答えました。

 妻は更に安室君に詰め寄ろうとしましたが、私が制して、家族全員に急いで家から出るよう指示しました。

 私達は探偵事務所を出て、この弁護士事務所に移動しました。安室君は、うちの家を出たところまでは見届けましたが、それからどうなったのかは知りません」

 

 目暮は知っている。あの青年は警察庁にすぐ引き揚げた。身柄は警察庁の監察が抑えている。

 

「最後に、私、毛利小五郎の、私自身の考えについて、一言述べさせて下さい。

 安室君は、公安に属している事を事実上認めた、と、私も妻も解釈しています。TVも入っている会見でこうして述べているのです、違うのならば公式にお知らせを頂きたい。

 辞めてだいぶ経つとはいえ私は警察OBです。この怪文書事件が無ければ、身に覚えのなかった証拠の件も含めて、警察を何も追及せずに黙っていた未来があり得たでしょう。

 しかし現実として、隠されていた情報は、あの魔女にああいう形で明かされました。それも、少なくとも私が知り得る範囲に関しては事実らしい情報です。あの魔女に無意味な反論をしてまで事実を捻じ曲げる意義は、私には感じ取れません。ですから、会見を開くことに決めました。……上手く言えるか分かりませんが、私は、そういう考えです。妻は少々違うようですが」

 

「私は弁護士です。正義と法と、何より人権を重んじるからこそ、この職に就いています。証拠をでっち上げ犯人を仕立て上げるという行動が本当であったのならば、絶対に許せません。

 暴露された時に違法性を問われて慌てるような事態になるくらいなら、そもそも最初からそんなことをするべきではなかった。私は強くそう思います」

 

 元刑事である探偵の夫、若い頃から弁護士であった妻、両方の考えを対比するように披露し、中継は終わる。会見が続くかどうかは分からないが、TVの中継はここまでだ。

 ……当初から期待薄だったが、魔女の捜査という面で新たに手掛かりになりそうな情報は無い。強いて言うならば『毛利家には正午前に怪文書が降ってきたらしい』という公安部の情報は、『安室君/降谷君』の報告がベースだったのだろう、という確信が取れただけ。

 

 毛利家の皆への同情と、公安部への感情をひとまとめに、妙な疲労感が湧く。色々と面倒な煮詰まり方をしそうな思考を意図的に逸らすべく、今後の警察上層部の反応を想像してみる。

 毛利家へのバッシングは無いだろう、明らかに被害者だ。あるならば公安部と日下部誠に対するバッシング、これは違法行為が本当ならばどちらも止む無し。魔女に対して敵愾心を煽るプロパガンダ、……多分、無い。恐ろしくて敵には回せまい。

 何しろ目暮達への指示が『警察として体面を損なわない捜査を一通りやれ。全力を挙げた結果、ヒトでは及ばない相手だと分かったとしても、それはそれで良しとする』だったのだ。

 

 目暮は元の席に戻り、溜息一つついて自席の椅子を引く。……直後、やって来る情報に、急速に頭を切り替える羽目になるとも知らないまま。

 

 ――魔女と日下部誠を発見したとの通報あり。杯戸町の路上を仲良く歩行中。

 2人とも、『意識しないと姿を見落とす』状態になっている。

 

    ◇     ◇

 

【まことさんのスーツを買った後、別の洋服屋さんで私の分の服も買い、スーパーで翌日の朝ご飯を買った。更に私が花を欲しくなったので花屋さんで一本だけ買った。

 それから夕飯を食べに杯戸町の洋食屋さんに行き、私がメロンパフェを食べ、まことさんがスパゲッティセットを食べた。洋食屋で私達を尾行していた刑事さん達と揉めて、洋食屋の店主さんに迷惑料込で3万円払った。

 払ったお金の流れだけを一言で言えばそれだけなのですが、もっと具体的な情報をこの手記に書いておこうと思います。

 

 国際会議場をああいう形で去った後、無防備に街中を歩き続ければ、通行人に通報されまくり、たちどころに警察官が殺到して騒ぎになると分かっていました。ですから、私達2人とも魔術で対策していました。

 単に姿を隠していた訳ではなく、見る人が『魔女&日下部誠を探そうと意識し続ければ、ふたりの姿を認識できる』・『意識しなければ、ただの赤の他人として見落とす羽目になる』、そんな認識阻害の魔術です。

 

 入店したスーツ屋さんは、朝から仕事でニュースを見ていなかったのでしょう。私もまことさんもただデート中の2人組だという認識のようで、警察に通報することはありませんでした。その後の洋服屋さんも同様です。

 最初に私達に気づいたのは、洋服屋さんから出てきた後にすれ違った通行人です。当日14時にあんな中継が流れた直後でしたから、路上を歩きながら強く意識して私達を探す人が居ても不思議ではありません。その人はギョッとした顔をしてから、小声で110番通報していました。

 黙ってついてくる他人に害は無いので放置していました。しばらくしたら、私服刑事達が私達を尾行し始める、という流れに至ったのです。その時既に18時は過ぎていました。

 

 意識して私達を尾行し続けていた刑事達は、全員が警視庁本庁の刑事部に所属する方々。総数は10名を超えていました。尾行当初から見抜いていました。

 その内、一番近くを歩き続けたのは、女性1名+男性3名という集団でした。私が女であるために、万一に備えて女性を含めたのであろうと思います。刑事達は4名であるけれど、実はもっと生命が在ること、その有様も私は見抜きました。

 

 ちょっとお節介をしたい気分でした。私が力を顕示したい気分だった、そう言い換えても良いと思います。予定通りにスーパーに寄ってまことさんの朝ご飯を買った後、少し考えて花屋さんに行きました。

 流れ次第では刑事さん達に渡すこともあるのだろうかと思いつつ、その時の売り物の中では一番向いていると思った、ブルースターの花を、一本だけ買ったのです。花屋さんも、私達が当時TVでリフレインされまくってた者達だとは気づきませんでした。

 

 それから向かった先は、杯戸町のとある洋食屋さんでした。その洋食屋さんは食券式で、売り上げ不振でゴールデンウィーク直後に閉めることが決まっていた、こじんまりとしたお店でした。

 夕飯のかき入れ時なのに私達が入店した時には誰も客が居ない状態で、私は食べたいと思っていたメロンパフェを、まことさんは少し迷って(安そうでお腹に溜まりそうなメニューを選んだらしいのです)スパゲッティセットを、それぞれ食券機で選び、席を選んで座りました。

 

 刑事達も、もちろん私達を追いかけてお店の中に入ってきました。入店したタイミングには時差があり、4名全員が揃ったのは、私達にそれぞれ選んだメニューが提供されたタイミングでした。

 「取り押さえるタイミングをずっと見計らっていたけれど、その前に魔女が日下部に向けて大事な話を始めやがったので、取り押さえる前にひたすら話させて情報を引き出すことにした」、刑事達は、その時はそう捉えていたはずです。】

――あの『彼女』の手記より

 

    ◇     ◇

 

 5月2日 18:55 杯戸町 とある洋食屋

 

 入口のガラス戸に、近日中に閉店するという告知が貼ってある店だった。白鳥の目から見た第一印象は、……口には出せないが、『あまり儲かっていなさそうな洋食屋』。

 うらぶれた小規模な店内、カウンターはともかくテーブル席は全部で3つしかない。うち1つを魔女達が使っており、その彼等を追う自分達の入店で、テーブル席は全て埋まる形となる。入口から見て、『白鳥□千葉』・『日下部□魔女』・『佐藤□高木』の席順だ。他に客は無い。

 

「まことさん、今から割と大事な話をしましょう。私ですら危なっかしくて手が出せなかった、因縁の話。守秘義務を守り切れるかどうか確証が持てない相手には、たとえ弁護人であっても話してはいけない話よ? 一応、ここの店主には聞き取れないようにはしているけれども」

 

 店主にアイスコーヒーの食券を差し出して、白鳥が席に着いた瞬間、隣のテーブルから聞こえてきた言葉がこれである。千葉君と目を見合わせ、頷いた。

 千葉君は無表情で、集音機とか諸々の機器入りのカバンを椅子の下に置いた。これで日下部側からの音声はリアルタイムで本庁に流せるはずだ。別テーブルの佐藤さんもまた魔女側の音声を狙い、最初から同様の対処を済ませている。

 今回、どちらかというと身柄の確保よりは情報収集を念頭に置いた尾行である。黙っていても重要な話を聞き出せるのならば、それに越したことはない。

 

 千葉君の真後ろ、白鳥から見れば目の前の方向にあるテーブルで、魔女はメロンパフェに挑み始めつつ日下部に話を振っている。彼女は昼に国際会議場に湧いた時と同じ服で、髪型だけはポニーテールに変わっていた。大きな箒は持っていないが、前髪を箒の形の髪留めで留めている。

 日下部の表情は全く分らない。白鳥は、魔女はともかく日下部の顔まで見える位置ではない。

 

「……私がこの世界に初めて降り立った時、降り立った場所は、孟宗竹ばっかり群生している竹林の中だった。今の茨城県でね、現在は完全な住宅地になってるわ。

 当時は色々やらかして元の世界から追放喰らった直後で、名前を奪われたことも、自分の魂がああいう風に変わったことも、どっちも悔しくて、とにかく泣き叫んだものだったわね。裸にローブ一枚着た状態で、竹林の中でとにかく喚き散らしたの。季節はちょうど今頃で、……竹しか見えない青空の光景だけは、未だに忘れられないの。明治時代よりもっと前、元号が嘉永の頃の話よ」

 

 『嘉永』、――確か、江戸時代末期、孝明天皇の頃の年号だったか、と、昔何かで読んだ日本史の知識を思い出す。日下部が40歳で、魔女は(この世界だけで)その4倍は生きている、そう怪文書に書いていたはずだ。160年前の日本は、まだ江戸時代だった。ざっと考えると年齢計算に矛盾は無さそうだ。

 店主がコーヒーを2杯持ってきた。黙って受け取って、千葉君と一緒にひたすら聞き耳を立てる。この場で唯一口を開いている女は、パフェのてっぺんのメロンをスプーンで攻略しながら、いかにも懐かし気だ。

 

「たまたま周りに人は居なかったけれども、もし誰かに目撃されていたらとにかく化け物だとは思われたでしょうね。当時は、今ほどヒトに近い見た目ではなかったから。まぁ、それから私は、この日本列島でヒトが生きていく様をずっと見てきたの。何だかんだ言ってここのヒトの在り方には愛着があるから、だから、ここのヒトの営みが根こそぎ滅ぶようなことは私は望まない。そのことを前提にして聞いてね」

 

 魔女は、パフェに向けていた目線を日下部の方へ上げた。

 

「もう一度念を押しておくわ、……今から話す話は、守秘義務を守れるか確証が持てない相手には話しません。復唱して頂戴」

「え? ……『今から話す話は、守秘義務を守れるか確証が持てない相手には話しません』」

「よくできました」

 

 戸惑いながら指示に従う日下部に、子どもを褒めるように笑いかける。メロンからこそぎ取った果肉をとても美味そうに齧って、飲み込んで、……こちらが全く知らない情報を言ってのけた。

 

「まことさん。きのう警視庁で確保された時のことを思い出してほしいの。私はあの捕り物を見ていた訳だけど、貴方が警視庁を駆け上がっていく『前』に対峙していた相手は、公安の人だけではなかったわよね? 大人ではない、子どもが居た。その子どもはどこの誰なのか知ってる?」

「毛利小五郎探偵の所に居候している坊やですね。信じられない位に鋭い追い詰め方をしてきた子どもでした。公安の刑事とは、かなり息が合っていましたね」

 

 ――待て。それは初耳だぞ。

 白鳥は内心でだけ突っ込みを入れる。コナン君がきのう警視庁で日下部を追い詰めていた、そんな話を自分達は一切聞いていない。日下部を追い詰めたのは公安部の者のはずだ。

 だが魔女が、……何より、現場に居た日下部本人がそう言うのならば、本当はそれが正しいのか。

 

「そうね。……私が話したいのは、その坊やのお話。あの坊やは、とんでもなく厄介な性質の犯罪絡みの因縁を魂に抱え込んでいるから。たまに私がこっそり覗き見したくなる、本当にややこしい因縁をね」

 

 魔女は水を一口あおり、皮だけになったメロンの切れ端を皿の上に除けた。スプーンを握り直して話に戻る。

 

「あの坊やが居候している経緯を毛利探偵の取り調べの現場で訊ねたことはあった? 預かっている側は、どんな風に話していた?」

「職務で聞いた事なので話したくはないのですが、」

「実の両親が海外に出かけている。知り合いの阿笠博士経由で預かるように頼まれた。養育費として1,000万円貰っている」

「……ご存じなんですね、ご主人様」

 

 少しは元検事らしい面があったのか律儀に言い淀む言葉は、食い気味に言われた情報であっさりと翻される。教えるも何も、言い当てられたら否定しようがないのだろう。

 ちなみにこの経緯は白鳥の記憶とも合致する。以前に毛利探偵や目暮警部から聞いたことがあった。不気味にも個人情報を言い当てた魔女は、ホイップクリームの山を崩し始めながら、にこやかだ。

 

「表向きの事情はその通りだけど、実はもっと深い事情があるのよ。取り調べで聞き取っただけでは絶対に分からない、ロクでもない事情でね。何しろ、預かった側が全く把握してない事柄なの。どんなものなのか想像出来る?」

「……ある種のギフテッド教育か、何か、でしょうか? あの子に探偵としての才能が有って、それを見抜いた親御さんが、黙っていても才能を伸ばしてくれるだろうと思って毛利探偵に託した、とか。……ロクでもないということは、……あの子が、才能に溢れすぎているせいで実は身内に捨てられた、とか」

「残念ながら大外れ。実のところ、言い当てられる訳がないもっとヘビーな話だけど」

 

 日下部の推理はまだ常識の範疇だ。確かに内容は重いが、もっとヘビーな話とは、果たして。

 ――答えは、バニラアイスにスプーンを差し込みながら返ってきた。

 

「あの坊やはね、……名前を呼びたくないから今は『坊や』で通すけれども、魂の芯から探偵として生きようとしている男の子なの。

 坊やが因縁を抱え込んだのはね、トロピカルランドで、ジェットコースターで遊んでいた人の生首が飛ぶ殺人事件が起きた日。その日、園内で坊やは殺されるはずだったけれど、因縁を抱えるのと引き換えに生き延びた」

 

 そう言えば少し前に聞いた覚えがある。『ジェットコースターで生首が飛んだ事件』、目暮警部が何かの拍子に愚痴っていた気がする。どういう話だったか、白鳥は古い記憶を掘り起こす。

 魔女は小さなアイスを何口かで一気に食べつくす。それだけの時間を会話の溜めにしてから、とんでもない情報を言ってのけた。

 

「警察の記録に残っているはずよ。『ブカブカの服を着た子どもがトロピカルランドの園内で倒れていた。警察官が保護したけれど、変なことを言っていた。目を離した隙に居なくなった』って。

 坊やが保護された時に警察官に言ったのはね、『トロピカルランドの園内で、怪しげな男が企業を強請(ゆす)っている現場を目撃した。取引を見るのに夢中になっていたら、別の男に後ろから殴られた。意識が朦朧としている状態で毒薬を飲まされ、目が覚めたら身体が若返っていた』、……って話。荒唐無稽すぎたから、話を聞いた警察官が笑い飛ばしたの。実は本当の事を話していたのに。

 そうして元の年齢から小学1年生にまで戻ってしまったその坊やは、自分を殺そうとした男達との因縁を抱え込んだ。

 殺そうとした側は全く無自覚だったけれど、抱え込んだ因縁自体が、放っておいても次から次から刑事事件を引き寄せてしまう、っていう性質を持っていた。かつ、それで引き寄せられる事件の半数以上が殺人事件というオマケ付き。坊やは、自分の魂に纏わりついた因縁を自力で解消するつもりで、警察を頼らず、唯一信頼できる大人の、お隣さんの阿笠博士の所に身を寄せた。で、そのお隣さん経由で居候先を決めた」

 

 ――待ってくれ。

 すんでのところで叫び出しそうになる。『魂の芯から探偵として生きようとしている男の子』、『お隣さんの阿笠博士』、その条件に当てはまる『坊や』を、白鳥はひとりだけ知っている。

 千葉君もグラスを握ったまま呆然としている。同じ『坊や』に思い至っているのだろうか。

 その『坊や』は、トロピカルランドである殺人事件を解決した後、急に居場所が分からなくなったらしい。思い出した、目暮警部が前に言っていた情報だ。では、『コナン君』は幼児化した姿で、そうなる前は、つまり、……。

 

「……中々に信じられない話ですね」

 

 日下部は、声を聞く限りは半信半疑らしい。『工藤君』とも『コナン君』とも長く付き合いがある身分ではないから、話を聞いた時の感じ取り方は自分達とは違うはずだ。

 そういう自分自身だって、情報を完全には受け止めきれない心情だ。己の状態を自覚しつつ、警察の者として白鳥は考える。話に引き込まれすぎないために、真に受ける前に警察がするべき事を。

 

「でも、事実なのよ、まことさん。そういう流れだから、あの坊やの今の名前は本人が決めた偽名だし、あの坊やの表向きの家族も架空の存在よ。本当の両親は別に居て、ある時、毛利家に居候している坊やを止めようとしたけれど、結局は坊やが反発して両親の方が引き下がった。毛利探偵には何も言わず、養育費名目で、実は迷惑料のつもりの1,000万円を引き換えにしてね。

 坊やも両親も非常識な決断をしたけれど、それでも、殺そうとした側との因縁の解消に向けて、周辺の被害が一番少なくなるという意味でのベストルートを無意識に選んでた。……逆に常識に従って動いたら、どこかのタイミングで盛大に巻き添えを生みながら破綻していたでしょうね。

 当時でも、今でも、どのタイミングでも、頼られたとしても警察中心では解消出来ない因縁には違いないの。むしろ、坊やが主体的に解消する以外にはどうしようもない因縁であるのよ。

 今も、あの坊やはベストルートを突き進んではいるわ。少し前までは見ていた私が誰かに話すことさえ、どう転ぶか分からない位に危なくてややこしい状況だった。今はここで話しても問題ないくらいには因縁は解けかけてる。坊やが諦めた瞬間に破綻一直線だけどもね」

 

 ――警察として看過できる話では無い。『コナン君』の両親の実在を調べて、いや、一番手っ取り早いのは『工藤新一』の指紋やDNAとの照合か。照合結果が魔女の言うことと合致するのなら、工藤家の小説家と元女優の夫婦、それから事情を知っているはずの阿笠博士、彼等から事情を聴かねばなるまい。聴いたところで協力してくれるかは未知数だが。

 因縁を解消できるとか解消できないとか、そういうオカルトチックで見えない事象について、警察では一切分からない。見える範囲で魔女の言うことを検証して、その検証を踏まえて、見えない範囲の情報をどれだけ信じるのか、……それは白鳥には決めきれない。上層部の判断だ。

 

「……もし、その因縁が解けないまま破綻した場合、どのくらいの巻き添えを生むのです?」

 

 日下部の質問を少しだけ褒めたくなった。この答えは判断の一助にはなるだろう。

 ベラベラ喋っているあの女は、ガラスの器の中にスプーンを突っ込んだ。サイコロ状のメロンの果肉を掬い取って口に入れてから、世間話をするような口調で更にとんでもない情報が来る。

 

「少なくともこの国の統治機関を本気で駄目にするレベルの被害は生み出すでしょうね、今でも。坊や本人は無自覚だろうけど、半端に解消出来ない状態で放置された因縁が、あの子どころか周辺を大いに巻き込みながら暴発してしまうから。

 これまで私が見ただけでもそういう危機は何度かあったわ、坊やが協力者を従えて全部切り抜けてきたけれど。何より、坊や自身が努めて有能な探偵であろうとしたのだから。その協力者だってナチュラルにこの国の主権を無視して、ナチュラルに坊やの目の前で発砲する他所の国の捜査員とか、非常識な面々が多い訳だけど、……結果として今に至るまで破綻を回避してベストルートを突き進んできたのだから、坊やの事は、私、結構評価しているのよ?」

 

 そこで一呼吸置いた。メロン風味らしい色のスポンジ生地を器から掬い取って、咀嚼。

 

「あの坊やの状況は過酷すぎて、敵意を持ちようがないくらい哀れだと思ってるわ。本質として、坊や自身が何とか探偵としての熱意を持ち続けて、中心的な立場で因縁を解消する、それ以外の結末だとバッドエンドになってしまうから。そんな厄介な因縁を魂に抱え込んでしまったのだから。

 バッドエンドの中で一番被害が大きくなるのは、坊やを無視して他のヒトの手で因縁を解消しようとすること。次いで、あの坊や自身が死んだり、探偵として無力化されたりすること。

 どっちもかなりの被害を生むわ。坊やを狙った組織がどこであれ、それこそ国だろうが、最初に坊やを殺そうとした組織だろうが、間違いなく再起不能なレベルで組織ごと悲惨な目に遭うし、その周囲にも飛び火する。……本当に過酷でしょう?」

「……。過酷すぎますね」

 

 説明を聞いた日下部の一言は、『コナン君』だけでなく彼を取り巻く状況全てを踏まえた感想で、とても正直で的確だ。

 『バッドエンドの回避のために、未成年者を事件の渦中に置き続けろ。非常識で居続けろ』、捜査当局が取るべき態度としては確かに、酷に過ぎる。話を丸ごと信じるならば、……まずあり得ない決断だと思うが『コナン君』を世の中から排除する決断も出来ない。

 魔女は頷いた。クリームまみれのフレークを笑顔で口に入れる。

 

「ええ、過酷よ。あの坊やは根っからの探偵で、時々は警察を激怒させるような非常識な振る舞いがある子で、それでも、あの子が探偵の熱意のままに動くことが一番ハッピーエンドに近づくことなんだから。

 ハッピーエンドを志向するのなら、あの坊やはこれまで通り探偵で居続けるしかないの。かつ、出来れば毛利探偵の所に居候し続ける形で、それが出来ないのだとしても米花町には住み続けるのも条件ね。そうでないとハッピーエンドには至らない。

 周りの人は、ハッピーエンドを願う限り、あの坊やが探偵として主体的に動くのを黙認し続けなければいけない。周囲の人も、坊やが魂に纏わりついた因縁を自力で解消する時まで、引き寄せられる刑事事件に巻き込まれ続けるしかない。

 おまけに若返ったことそのものが身体に負担がかかる出来事だから、あの坊やは根本的に長生きできない事が確定している。あの坊やの本当の母親は、まことさんより何歳かは若い人なのけれど、今現在のその母親の年齢を越えて生きることは、まず、ないでしょう」

 

 ガラスの器を彼女は掴んだ。底の方に掬い取りたいものがあるようで、スプーンを細かく突っ込みながら締めくくる。

 

「取り合えず、守秘義務厳守の危うい話はここまで、……変な顔してるけど、何か他に訊きたいことがあるのかしら?」

「いえ、とても美味しそうにメロンパフェを食べながら話されるので、……少し驚いただけです」

「だって本当に美味しいんもの。これ。そういう貴方はスパゲッティセットほとんど手を付けてないじゃないの? しっかり食べておいた方が良いわよぉ。今夜、夜も夜でやりたいことあるから」

「……えー、いったい何をやるのかお伺いしても?」

 

 明らかに恐る恐る訊いているらしい質問に、これまでの話とは別の意味で爆弾のような発言が投下された。白鳥を含め刑事達全員がコーヒーを吹きたくなるような。

 

「ベッドの上で、惚れている女が男相手にやること」

「え……?」

 

    ◇     ◇

 

 5月2日 19:07 杯戸町 とある洋食屋

 

 ――待て! 誘拐犯とその被害者が交わすような会話じゃないだろう!?

 高木の背中にぞわりと寒気が走った。佐藤さんも、驚愕で目を見開いている。彼女達をこのまま放置するわけにはいかない。2人は、どちらも『そんな事』をさせて良い身分ではない。どこかで止めなければいけない、……だが、止められるだろうか。日下部はともかく魔女の方はヒトの身で何とか出来る存在なのかも分からない、それでも、警察として、……放置は駄目だ!

 

「まさか、まことさん。私の想いがプラトニック限定だとても思ってたわけ!?」

「え!? へ!? ……えっ? え……!?」

「ま、まことさん。水飲みましょうか。落ち着いて。別の話をしましょう。えーっと、そうね。ちょっと、……思考実験というか相談良いかしら?」

「な、何でしょう?」

 

 高木の前方で日下部はあからさまに狼狽え、魔女も何故かつられるように狼狽えた声を出している。この女の声が演技なのかどうか、高木の位置では分からない。演技なら大した女優だ。

 魔女はまた水を一口あおったようだった。一息吐いて、話をガラリと変えた。

 

「私、屋敷で言った通り、出来ないこと以外は何だって出来るわけよ。ヒトの魂の在り方とか身体の在り方とか、見ようと思えば見えてしまう訳ね。例えば妊娠の有無とか。私のスタンスとしてね、本人が気づいていない妊娠に普段口を出すことは無いの。放っておいてもいつかは気付くものでしょうし」

「そうですか。スタンスとしてはありだと思います」

「で、ここからが問題。放っておくと母子ともに死んでしまうような場合って、本人に知らせてあげるべきなのかしら?」

 

 これまでの話よりはとっつきやすい話題だろう。

 誰の事を訊いているのか分からず、日下部の話をしていない事も明らか(何しろ日下部は男だ。妊娠できない)だから。求められているのは一般論としての答え。回答しやすいはず。

 

「それは、……その妊娠が、正常な形で進んでいないケースなんですか?」

「ええ、そうね。具体的に言えば、子宮外妊娠が継続中なのに無自覚なの。子どもの生命は今の医学では確実に救命不可能で、母親の生命は、放っておけば明日の朝にはたぶん死ぬ。しかも、母親は堅めの仕事に就いてる独身さん」

「……私の意見を訊きたいのですよね? ご主人様」

「ええ」

 

 少しばかり日下部は考え込んだ。少し間をおいて、いかにも優等生らしい答えを告げる。

 

「その話を聞いた上で放置するのは、少しどころではなく気まずいですね。本人に教えた方が良い、と私は思います。魔女としての貴女の顔は今日とてつもなく売れていて、ご主人様がヒトを超える力を持っていることも誰もが知っている状況です。例えば箒で浮きながら話すとか、貴女の正体が何者であるのか一目瞭然の状態で、その女性本人に教えてしまえば、……言われた側は、半信半疑でも医者に掛かろうとするのではないでしょうか?」

 

 魔女は、スプーンをパフェの器に放り込んだ、らしかった。

 

「なるほど、説得力あるわ。それも一つの解でしょうね。では、そうしましょう」

 

 彼女はスッと立ち上がり、こちら側、高木達の居る席の方に向いた。椅子から完全に離れて1歩歩いて、こちらのテーブルへと腕を伸ばす。

 不意に、嫌な予感を感じた。店長は男性、店員は他に無く、張り込みの人員は佐藤さん以外は全員男性だ。ここにいる女性は、魔女と、高木の目の前に座している『この人』しかいない。

 

「警視庁本庁の捜査一課強行犯三係の佐藤美和子警部補。ずっと私達を尾行していてこの会話を聞いている佐藤美和子警部補。今まことさんに相談したのは貴女のことよ。

 貴女が尾行し始めた時から気付いていたの。妊娠9週の子宮外妊娠中なのに無自覚なのね、貴女。放っておいたら明日の朝には死んでるわよ?」

 

 ――後から振り返ると。この時はあまりの意外性に動けなくなっていたのか、あるいは魔女が自分達を動けなくしたのか、高木は自分自身でも分からなくなる。

 ただ、店主も聞いていたらしい朗々とした魔女の声を、誰も止めなかった。それが外形的な事実だ。誰もが動かない中、右手に杖を、左手に花屋で買った青い花を持っている魔女は、花の方を佐藤さんの目の前に差し出したのだ。

 

「この花は差し上げましょう。貴女と、心当たりが有るはずの高木渉巡査部長と、どう頑張っても育ちようがない男の子に」

 

 この時、高木は、……たぶん唖然とした顔をしていたのだと思う。間抜けな顔を晒して、目の前のあの魔女を見上げていたのだ。

 佐藤さんにとっては、右斜め前方から得体の知れない言葉と花が差し出された構図だった。

 

「ブルースターの花、あの花屋の売り物の中では一番貴女達にふさわしいと思った花よ。5月のこの時期に売り物になっているのがちょっとビックリだったけれど」

 

 まるで善行をしたかのように薄く笑う魔女は、右手に杖、左手に花。右手の杖は、高木が腕を伸ばせば届く位置に無造作に、こちらのテーブルの傍に――。……!

 

 気が付けば、立ち上がった高木は、魔女の右腕を引っ張ってひねり上げていた。

 杖は掴み取ってへし折る、掌で感じる感触は割り箸よりも細くて軽い。あっさりと折れた感触に、本当にこれほど脆いのかと感じてしまうくらいに。

 「動くな! 千葉君は日下部を! 佐藤さん大丈夫ですかっ!?」、白鳥さんの声だ。佐藤さんを見下ろす。テーブルに伏していた、お腹を抑えているようだ。肌が蒼白で脂汗が浮いている……!

 

「大丈夫、です」「大丈夫には見えないわよ、貴女」

 

 何とか出せたような小声の報告に、見たままのツッコミが魔女から入る。腕を掴まれているというのに声色はどこまでも呑気だ。

 ともあれ今やるべきは魔女の身柄の確保、日下部の片腕を持ち上げて立たせようとしている千葉と、手錠を持って近づいて来る白鳥さんを横目に、掴む力が、……手に、力が、入らない。魔女の右腕が難なくすっぽ抜けていく。

 

「杖を折って安心しているの? 私にとってはただのお飾りなのに。無くても力は振るえるのよ、……さて」

 

 イタズラっ子のような笑みだった。その笑みのままに魔女は1歩後ろに遠ざかる。

 高木の身体は、動かない。……動きたくとも動けない! 何より彼女の身柄を抑えるべき時なのに……!

 

 目の前で完全に自由な身となった女は、左手に花を持ったまま、右手で肩に掛かったポニーテールを軽く後ろに払う。表情を一変させ、自分達を冷たく睨み回した。

 彼女の左横、宙に光が生まれ、何かが生えてきた。

 ――ファンタジーでよく見るような斧槍(ハルバード)だ。全長2mはありそうな厳つい西洋武器は宙に浮き、誰も触っていないのに回転を始める。バトントワリングのバトンのような、素早い縦回転。

 

「私のものに許可無く触るな。不快だ」

 

 ドスの効いた声だった。言い切った瞬間にピタリと回転が止まる。『Halchan No.1』と大きく刻まれた柄と、大きな刃、魔女の険しい横顔、どれも高木は間抜けな姿勢で身動きできないまま眺めるしかない。

 中空の斧の刃も、強い怒りも、魔女が伸ばした右手の人差し指も、隣のテーブルの傍に立つ後輩に明確に向いていた。日下部の右腕を掴み上げている、千葉に。

 

    ◇     ◇

 

 5月2日 19:10 杯戸町 とある洋食屋

 

 自分の背丈よりもずっと長い柄と、顔よりもデカくて黒光りする刃が、自分の方に向いている。

 「……うわ」という小声が日下部から漏れた。この男は自分に抵抗する気は無いようだが、千葉に上げさせられた形の右腕が強張っているのはスーツの布地越しでも分かる。当たり前のことだ。

 

 ――刃物を突き付けられたくらいで退くようなメンタルじゃないはずだ、頑張れ、俺。

 千葉は、日下部の右腕を握りしめたまま自分自身に言い聞かせる。ゴツいだけのただの刃物だ。そう思わなければ刑事としてあまりにも格好が悪すぎる。

 

「今の話を聞いて、アンタらをわざわざ見逃す捜査員が居るわけがない。どんな取引をしようが、日下部本人をどれだけ納得させようが、アンタがやっていることはれっきとした犯罪だ。この人は身体をアンタに差し出すために留置場に居たんじゃない、被疑者として刑事裁判の手続きを受けるはずだったんだ。……、この浮いた斧を仕舞え……!」

 

 刑事として正しい言葉を吐く己の声は、結局、最後は震えていた。魔女はその場で邪悪そうな笑みを浮かべ、千葉を指差したまま動かない。斧だけがまた縦に1回転しながら近づいて来る。

 真横の白鳥さんが息を呑むのが分かった。この人も動かないのか、動けないのか。唯一分かるのは、斧であれ魔女であれ、拳銃を使って止めることは出来ないという事だ。止める止めない以前の問題として、この女の背後、射線と重なる店の奥に、呆然として立つこの店の店主が居る。この人は巻き込めない。

 

「正論ね。私がヒトの力が及ぶ存在であったのならば、これ以上ない正論ね。私が強くある限りは無駄な遠吠えでしょうけど。結局あなた方はヒトでしかない。あなた方の力の及ぶ範囲でしか法律も実力も振りかざせないし、今の私を縛ることは無いわ」

 

 それが事実なのだろうか。あれだけの怪文書をぶちまけ、沢山の物やヒトを一瞬で癒し、無から武器を生み出す女。ヒトを越える存在なのは最初から分かっている。――それでも、引き下がるわけにはいかない。

 魔女はそのまま笑みを更に邪悪なものとする、しれっととんでもない事を言いやがった。

 

「一度やってみたかったのよ。ヒトの手首ぶった斬ってからまた生やす、っていうの。私の力なら問題なく出来るでしょうから。ねぇ? 千葉和伸巡査部長」

「! ご主人様! 貴女の実力なら、あえてこの人を傷つける理由は無いのではないですか!?」

「でも、傷つけない理由も無い訳よ。まことさん」

 

 血相を変えた日下部の叫びを、魔女は一言でぶった切る。日下部は絶句して言葉に詰まり、そうこうしている内に斧は更に1回転。あと1回転少々で千葉の手首に届きそうだ。

 彼女を止める言葉を考える、考える。……駄目だ、思い浮かばない。思い浮かぶ言葉が全てヒト向きのそれだ。何も話せない内に、魔女は言葉で追い打ちを掛けてきた。

 

「そもそも貴方の言い方を借りれば、上の指示に反する捜査員も有り得ないはずなのだけどね? 貴方よりも偉い人が尾行の前に言ったはずでしょう? 『出来るだけ魔女と揉めるな。何をしでかすか分からんのだ。どれほどの事を出来るのか分からん状態でつつくことは出来ん』って。

 最後の警告よ、まことさんから手を離して。出来ないのなら、今から貴方を痛めつけます。手首を斬り落としてでも引き剥がして、まことさんと一緒に狭間の屋敷に撤収するわ」

「……何で、貴女、本庁での目暮警部の言葉を知ってるの……?」 

 

 椅子に座ったままの佐藤さんがツッコミを入れた。青白い顔を魔女に向け、声を絞り出している。

 

「今更そんな事を訊くの? 佐藤美和子警部補。あの告白文で『出来ない』と書いたこと以外は、私は何でも出来る。例えば、外に出ない情報の覗き見とか、ね。それが答えよ」

「では、……ここで守秘義務厳守の大事な話をわざわざ話した時、私達が聞き耳を立てていたのも、本庁に音声が流れていたのも、貴女は気付いていた……?」

 

 この状況の千葉が思いつきもしなかった事だ。時間稼ぎなのか情報を引き出したいのか、佐藤さんが精一杯の力で出したかすれ声に、魔女は目線を変えずに硬い声で答える。浮いた斧もそのままだ。

 

「ええ。むしろそれ狙いで話していたと言って良いでしょうね。話題に出した人は、この世界で10本の指の中に入る位ややこしい因縁を抱えて、延々と戦い続けてきたの。これからも熱意と能力を持ち続ければ、ハッピーエンドになる目は維持できるくらいにはなっていた。ここらで背中を押さないと、流石に本人も周りも気の毒だと思ったから。

 私のこの場での情報公開は、バッドエンドにもハッピーエンドにも転がりやすくなるブーストよ。ひとまずバッドエンド一択にはならない。……実は、今日のここの会話を私も録音しているから、録音データを話題を出した張本人に今日中に贈呈するつもりなの。警察に伝えて本人に伝えないのは非礼だものね。

 ところで、貴女はこれ以上喋ると本気で生命が危ないから黙っていた方が良いと思うわ。今だって相当無理してるでしょうに」

 

 佐藤さんへの口調は柔らかいが、こちらをまっすぐ向いて指差す姿勢はそのままだ。

 高木さんも、白鳥警部も動けない。佐藤さんは戦力として使えない。……そして自分は、日下部の腕を掴む手を離さない。膠着した構図だ。大きな斧も、目の前で浮いたまま引きはしない。

 ――魔女の言う通り、両腕を切断して、生やされて、この被疑者を連れ出されて、それで終わるのだろうか。魔力に屈服した記憶が長く残る気がする。自分の手首から先を見るたびに、この女の力の強さを反芻する羽目になる気がする。

 

「千葉君、手を離しましょう。魔女さんも、この斧は引っ込めて頂けますか? 今は佐藤さんを病院に連れていくことを優先しましょう」

 

 長いような短いような膠着を打破したのは、白鳥警部の声だった。

 

 表面上は穏やかでも悔しさを隠せない指示だ。千葉は、従うしかない。日下部の右腕からゆっくりと両手を離す。

 呼応するように目の前の斧が動く。ジャンプするように大きく後ろに飛び退き、長い柄が魔女の右手に収まった。みるみる小型化して彼女の掌の中へ。そのままワンピースのポケットに収まる。……流石、魔女、か。

 日下部は即座に腕を下ろしてあからさまな安堵の溜息を吐き、今まで掴まれていた辺りをさすり始めた。かなり強くしがみ付くような形だったから、服の下には掌の形の痣でも残っているかもしれない。――悪いことをしたな、と、心の中でだけ呟く。

 

 魔女は元々の席に座る、そのまま無言で佐藤さんの方へ顎をしゃくった。

 『死にそうだ』という評価をそのまま表すように血の気が引いた先輩は、口からうめいているのか喋っているのか分からない声をわずかに出しながら、フラフラと椅子から立ち上がろうとしていた。高木さんが目の前に出て制止、……意識が飛びかけているのか、ぐったりともたれかかる。

 

「佐藤さん、大丈夫ですか!?」

 

 高木さんが叫ぶように言った。身体を受け止められた佐藤さんからは、全く応答がない。

 

「……! 魔女さん、店の外でここを見ていた捜査員にも、貴女は何か力を振るっているのではないですか!? こんな状況でも誰も入って来ない、外とのやり取りも一切できない! 流石におかし過ぎる!」

 

 白鳥警部が大声で訊いた。確かに、おかしい。

 

「勘が良いのねぇ。……この店から通信を飛ばしたり、外に出たりする分は、妨害は無いわよ?」

 

 首をすくめながらの、その答えは、つまり、――外からの通信とか、入店とか、妨害しているのかよ。この女。

 

「……千葉くん、佐藤さんを抱えて外へ出て下さい! 高木くんもです! 佐藤さんをここに居させるべきではないでしょうから! 外の人達の状況次第ではその分も救急車が必要かもしれません、片方が抱えて片方が救急車要請、出来るでしょう!? 私はここに残ります!」「は、はい!」

 

 怒鳴り声そのものの指示が横から降ってきて、我に返った千葉は動く。高木さんとの間に身体を滑り込ませ、補助してもらいつつ佐藤さんの身体を丸ごと両腕で抱え上げた。両腕の中の先輩は、息をしているのがやっとという様子で意識が無い。――本気で危ないのか……!

 

「……店主! 私、この騒動の迷惑料込みで、今まことさんが使ってる食器ごとスパゲッティセットを買い取りたいのだけど、いくら払えば良いかしら!?」

「へ!? ここの売り上げ、良い時でも一日トータルで1万くらいなので、とりあえず3倍で3万円頂ければ!」

 

 魔女と店主のやりとりを背中で聞きつつ、腕の中に先輩を抱えた千葉は、高木さんと共に洋食屋の外へと飛び出した。

 

    ◇     ◇

 

 5月2日 19:14 杯戸町 とある洋食屋

 

 財布を空中に出し、万札3枚を取り出して浮かせたまま店主へ。店主はあわあわと、手の中に飛び込んできた3万円を受け取った。

 根拠は自分で言った額だ。後で「もっと吹っ掛ければ良かった」とこっそり後悔するかもしれないけれども、足りないとかいうふざけた文句は無いはず。もしも言われたら返す言葉はオブラートに包んだ「ふざけんな」で良い。この店主のうだつの上がらなさから考えて、表立った文句は多分無いだろうけれど。

 

 隣のテーブルに放置された杖を手元に呼び戻す。あの巡査部長に真っ二つにされた部分に修復を掛けてから、小さな一振り。まことさんがほぼ手を付けていなかったスパゲッティセットを食器ごと屋敷に転送した。

 唯一ここに残ったもじゃもじゃ頭の警部は、私の真横に突っ立ってテーブルを凝視している。堂々と買い取った物について、窃盗だの何だのの文句は流石に付けてこない。

 この人、手錠は内ポケットに戻して両手を自由にしていて、私が立ち上がった時に妨害出来るつもりの立ち位置で、……あー、『店主が離れた場所にいる。万一を考えるとここを離れる訳にはいけない』っていう思考だ、これ。まるで無意味だと分かっているはずだけども。

 

「まことさん、荷物全部持って。狭間の屋敷に撤収しましょ。夕飯の続きはそこで」

「は、はい……」

 

 私の洋服とかスーパーの袋とか、これまではまことさんに持たせていた。内訳は洋服屋の紙袋2つとスーパーのビニール1つ、ハッとして慌ただしく荷物を確認する下僕も、まぁ愛おしい。

 私の荷物はというと、……うん、結局は渡せなかった花、くらいか。

 

「このブルースター、どうしましょう?」

「ご主人様、今の貴女の立場では、……言い辛いですが、何を渡してもワイロ扱いにしかなりません。諦めて持って帰った方が良いのではないですか?」

「それもそうね」

 

 刑事さん達の病室に無理やり押し込んでも良いのだけど、流石にそうして気味悪がられる趣味は無いから止めておこう。屋敷のリビングに花瓶を置いて愛でるのもまた一興だ。愛の象徴のような花だし。

 

「魔女さん、日下部さん。……私達の立場では、あんな巨大な斧を生み出して突き付けてきた方に、留置中だった方を委ねたくはないのですけども。日下部さんだけでもここに置いて帰ることは、」

「そんなこと、するわけないでしょう。私の力がヒト並みに弱体化するか、貴方達がもう少し力を強く持つようになってから出直しなさい。私には、貴方達ヒトの世界に縛られる義理も理由もないのだから」

 

 現時点では力の強さを示すだけで押し通せる。ヒトは引き下がるしかない。それが私の力だ。

 それでも、警部は言葉で食い下がろうとした。またハルちゃん1号が出てくる騒ぎは避けたいのか、まことさんにも私にも全く触れようとせず、屋敷に戻ることももはや止めようとはしないけれど。

 

「……。それでも、日下部さんは人間ですよ。せめてこの人を囲っている内は、ヒトの司法の在り方に少しだけでも合わせて頂けませんか?

 今日降らせた文章に、『弁護人には会わせることを検討している』と書かれていましたね。留置場から居なくなった後で無事かどうか分からない状態が続けば、私達に限らず関係者みんなが心配するんです。警察でなくても、せめて弁護人には定期的に会わせるようにして頂けませんか?」

 

 うーん、説得の言い回しは、……合格点、かしら?

 

「それはこれから決めることね。今後のアナウンス次第。

 ところで、そちらの目暮班は人員異動が必須でしょうねぇ。……さっき抱え出されたあの人、まともに治療を受ければ死ぬ確率は低いけれど、職務復帰は当面は無理でしょうし。そもそも付き合ってそんな関係になった人同士が同じ班の中に居る事自体、お付き合いを職場に報告していれば有り得ないはずだし」

「……」

 

 遠回しにあのカップルの報告漏れを指摘してあげる。この会話を聞いている職場の関係者一同、よりによって私から煽り口調で指摘された事自体にムカっとくるかもしれないけれど、内容は事実だ。

 この発言で、少なくとも高木巡査部長の方に今日か明日には雷が落ちる事は絶対確定。更にカップル両方とも懲罰的な異動を喰らう確率はそこそこ高いはず。私の力とか関係なしに、警察という組織の性格を踏まえれば自明の事。

 ……興が乗った。一個、また爆弾みたいな事実を落としてから帰ろう。誰も気づいていないけれど、調べれば分かる事を。

 

「それに、班長やってる目暮警部。膵臓(すいぞう)を病んでいるのに無自覚だもの」

「え!?」

 

 訊き返してくる前に、杖を一振り。まことさんと一緒に狭間の屋敷に消えてやった。

 

    ◇     ◇

 

【江戸川 コナン様

 毛利 小五郎様 ご家族様

 

 これは本日18:50頃から約25分間、私の周りで起きた出来事を録音したCDです。

 杯戸町内のとある洋食店で、私達が入店してから店を去るまでの一部始終が入っています。

 詳しく言うと、日下部誠さんと共に食事をした時の会話、更に尾行していた刑事達と揉めた時の会話です。同じデータを2枚分複製しました。中身について、言うまでもなく秘密厳守でお願いします。

 

 刑事達は尾行時に聞き取った音声を、そのまま警視庁内の捜査本部に流していました。

 警察側が知っていて貴方達が知らないのは流石に順序が違うと思ったので、事後になりますが私の側で記録していた音声を贈呈します。これは私の判断です。

 

 音声の中には、あまり信じたくない箇所も、信じたい箇所も、どちらもあると思います。どこまで信じるかは貴方達の判断です。

 私は、この世界にそこそこの愛着を持っているし、唯一惚れた男性を手元で愛でていたいと思っているけれど、一方ではこの世界が壊滅しようとも利害は一切被らない立場に居られる、そんな立場の人外です。

 そんな者として、貴方達の幸運を願っています。

 

 名を持たぬ とあるひとりの魔女より】

 

    ◇     ◇

 

 5月2日 20:28 杯戸シティホテル 1205室

 

 紙が1枚と、透明ケースに入ったCDが2枚。贈り主が誰であるのかは自明であった。

 『突如光りながらホテルの部屋に降って来る』、『ルーズリーフのコピー』、『見覚えがある字体』。決定的なのは『名を持たぬ とあるひとりの魔女』という署名。あの魔女でなければ誰が贈ったのか、そういう代物だ。

 もっとも降ってきた規模は、昼の騒動と違って大分おとなしい物だったが。……ホテルの部屋の中で紙に埋もれる趣味は無いから、それでいいのだが。

 

 ただ、CD2枚が突然出現しても、手元にはこういう時に使える再生機器が無い。普段使いの端末を使うという判断は、物騒で出来ない。近くの家電量販店に走り、USB接続式のDVDプレイヤーと、激安のタブレットを調達するという一手間を経た。

 コナン君はルーズリーフの名宛人で、録音音声を聞く資格があった。自分の夫も、自分も。蘭も当然聞きたいと渋ったが、「内容次第で聞かせるべきか判断するから」と言って押し通した。夫婦揃って。

 無理やり蘭をホテルのレストランに向かわせ、夕飯を摂るように言い含め、コナン君と自分達夫婦で音声を聞いた。信じられない情報を次から次から叩きつけられながら聞き終わった、それが、今の状況だ。

 

 ――蘭に聞かせなかったのは正解だったと思いたいわね。この内容は。

 

 知っている刑事が魔女に子宮外妊娠を指摘される。魔女に明るく花を渡されて、しまいには意識がおかしくなる。知っている刑事が、留置場から居なくなった男を確保しようとして、魔女が(生み出したらしい)大きな斧で脅され、引き下がる。知っている警部が、魔女に膵臓を病んでいると指摘される。

 プライバシーを含め諸々良いところが無かった彼等・彼女等は、英理が顔を知っている面々。小五郎を通した繋がりだから、小五郎もコナン君も、全員と英理以上に親しい。2人にとってそこそこ衝撃的だろう。

 

 そして警察関係者を襲ったこれらの気の毒な出来事よりも、何よりも、重大なのが、……音声の前半部分。魔女が語った『坊や』の話。

 魔女が気の毒だと評するほどに厄介な因縁を抱えているという、居候の『坊や』。今、英理の横に座っている。

 

 心の内で荒れ狂う感情を、英理は少しだけ抑え込む。大事な話をしたい時に取り乱してはならない。弁護士として絶対に必要なスキルだ。

 

「江戸川コナン君、いえ、工藤新一君。私の目を見て答えて。

 端的に訊くわ。この、魔女の話。貴方の目から見て、明らかに事実関係が間違っている箇所は有るの?」

 

 答えは予想出来ていた。音声を再生中、この子を真横で見ていたのだから。真っ青になって、心の底からの驚愕に染まった態度で、顔に答えが書いてあるようなものだった。

 だから厳しい質問を投げている自覚はもちろんある。ただし絶対に必要な質問だ。刑事の公判で被疑者に対する時のように。

 単純な問いが結局は断罪になってしまうという構造は、問う側にとっても苦くて重い。

 

「……。

 全く、ありません。ずっと隠していて申し訳ありませんでした」

 

 果たして、小学生の態度ではなく、工藤新一のそれでその言葉は来る。

 

 夫が爆発した。英理が反応を示すよりも前に。この子を、後方へ、座っていた椅子の背もたれに張り倒したのだ。

 

「こんの、クソ餓鬼が! お前が変な因縁を抱えたせいかよ!」

 

 英理でさえ久しく聞いたことが無いほどの剣幕だった。

 椅子に投げ出された小さな身体を、襟首を乱暴に掴んで持ち上げる。無理やり立たせて向き合って、そうして小五郎は吠えた。

 

「『ベストルートだった』とあの魔女は言うがな、巻き添えに遭ったのは、身近に居た俺達だ! 納得出来ねぇ!」

 

 左手はそのまま、右手で、頬に平手打ちを2発。小学1年生の身体は、ただ、されるがままだ。手で顔を庇うことも、目を閉じることさえない。ただ耐えている。

 ――流石にやり過ぎよ……!!

 

「あなた、やめて!」

「俺はともかく、問題は蘭なんだよ!! お前が居候してから何度危ない目に遭い続けたか! その度に娘を心配する父親の気持ちが分かるか!? お前みたいな青二才の探偵坊主に!」

 

 怒鳴りながらの派手なビンタは6発目を数え、見るに見かねた英理はふたりの間に割って入った。このままでは本当の悲劇になる。

 

「それ以上はやめて。このままでは貴方、本当にこの子を殺してしまう……」

 

 意識して低い声を出して、小五郎が上げていた手首を掴む。

 目を見る。怒りに染まった瞳が揺らいでいる。英理の脳は更なる決定打になりそうな一言を作り出す。

 

「留置場に戻ってほしくないの。それも、冤罪ではない事件で」

 

 これで、夫は完全に我に返った。

 

「! すまん、英理。……坊主も」

 

 こうして掴まれ続けていた襟首から手が離される、……坊やは、長い息を吐きながら椅子の上に崩れ落ちた。

 

「いえ、完全に僕のせいですから。本当にすいませんでした」

 

 殊勝にそう返してきた子どもの頬は、無残なほど痛々しく真っ赤だ。

 馬鹿をやらかした夫は、感情のまま振舞った目の前の結果に、自分で打ちのめされている。

 

 ――さて、身内が未成年者に暴力を振るった場合、身内の弁護士はどう振舞うべきか。

 

「工藤君。

 ……今日のこの経緯を含めて、早急に、有希子達と時間を作ってじっくり話し合いましょう。これまでの事も、今日の事も、未成年者の貴方が解決できる範疇を間違いなく超えている。

 実のところ私だって、何が何だか分からない部分はあるの。ゆっくり考えてから頭を冷やさせてほしいから、だから……」

 

 喋りながら思考する。とりあえず『この子』と『毛利小五郎』は引き離すべきだと思った。将来はともかく、今は。

 

「貴方は、今日からしばらく、阿笠博士の所に泊まってくれないかしら。今から博士と有希子に連絡を取るから。CDは、1枚は貴方が持って行ってね。博士達と一緒に色々考えた方が良いでしょう。

 ……コナンとしても新一としても、蘭との連絡は控えてちょうだいね。あの子に何をどこまで話すかは、蘭の保護者である私達が決める」

 

 最期の釘差しの言葉は、親としてのエゴを正論に包んだだけだ。英理の自覚を、坊やは感じ取ったろうか。

 坊やは長い時間をかけてこの言葉を消化し、「はい」という短い言葉を返した。

 

    ◇     ◇

 

 5月2日 22:05 狭間の屋敷 客室

 

 

「お待たせしました」

 

 ジャージ姿の日下部誠がそう言って客室のドアを開けた時、ネグリジェを着て髪を下ろしたご主人様は、予想通りにマグカップを持って自分のベッドに腰掛けていた。何も言わない緩やかな微笑みが、こちらに向けられた。

 

 

 この屋敷に戻ってきたのは、19:20になる少し前だった。

 リビングで、食器ごと持ち帰ってきたスパゲッティセットに向き合おうとした時、あのご主人様は、「私、お風呂に入った後しばらくしたら、貴方の客室で、飲むタイプの媚薬を持って待っているわね」と、そう言った。「急かしはしないけれども、今夜、待っているわ」と。

 何も言えない自分への追い打ちの言葉は、「私はまだヒトの子を産めないの。あと300年近く生きて、人化が進まないとそれは無理。誰かの身体を求める時は快楽としての目的だけね」。

 

 かくして、この部屋に入る覚悟を決めるまで、2時間半を要することとなる。

 持って帰ったスパゲッティセットを完食して、風呂に入って(官舎の自室よりやや広いだけの浴室だった。豪華でもみすぼらしくもなく、十分に『一般住宅の風呂』の範疇だろう)、パジャマ代わりのジャージを着て、それから、リビングでTVのニュース番組(ほぼ自分達の事件の特集だった)を見続けて。

 それだけに要した2時間半と少々。日下部誠が一人で覚悟を決めるために掛かった時間だ。

 風呂の浴槽の中で声を殺して泣いたこと、涙の痕を隠すためにTVを見続ける(てい)で時間を潰したこと。どちらも、ひょっとしたらご主人様は見抜いているのかもしれない。この40男の情けない葛藤の有様も。

 

 ご主人様を徹底的に憎悪できたら、きっと楽だった。例え屈服されると分かっていても、抗うことで、己の小さなプライドだけは満たすことが出来たはずだ。

 誰よりも強い力と好意を、己に向けてきた女性だ。嫌うことはできなかった。そもそもの日下部が生み出した被害の回復は、間違いなく彼女にしかできなかったもの。金額に直せば人ひとり殺した時の慰謝料よりも遥かに高額な賠償を、己の願いに応えて一瞬で現物補償してくれた。

 恩に報いてご主人様の忠実な下僕であるべきだと、過去を悔やむ犯罪者の理性が叫んだ。

 

 逆に、徹底的に好きになれたら、それもきっと楽だった。現状に心から酔って、喜んで身体を差し出すことが出来たはずだ。

 彼女はある意味で日下部以上に、この国の司法制度そのものに過激な喧嘩を振っている。あの洋食屋で、若く太めの捜査員が勇気を出した正論が、このご主人様に力づくでねじ伏せられて結局は退けられていった光景を思い出す。ご主人様は強いが、法律を守るという意味での正しさは無い。

 そんな者の情夫にまで成り下がってはいけないのだと、過去を悔やむ元検事の理性が叫んだ。

 

 結局、一番楽であるのは、取引に基づいてこの方に従うべき、そう考える事なのだ。

 自分の手で生み出した被害を回復させることを願い、彼女はその願いを叶えた。代償としての自分の忠誠、それが分かりやすい。

 自分は、とてつもない女性に可愛がられ、庇護を与えられてここに居るというだけの犬だ。『社会的に詰んだ男』から『犬』に、……成り上がったのか、成り下がったのか。どうあれ『貴女を畏れながら愛されるしか進む道は無い』、今朝、自分で言った言葉ではないか。

 

 

 ベッドに並ぶ形で腰掛けて、渡されたマグカップの中身を一気にあおる。喉を通った液体は無味無臭の水としか感じられない。どれほど時間が経てば効果が現れるものか知れないが、少なくとも数秒で表れるものではないらしい。

 何も言わず抱き寄せてきた彼女に、笑みを作り上げて己の意思でもたれかかった。

 抵抗しようとは思わない。苦しみや痛み、そういうものには触らずにいたいという望みがあるけれども、その願望を吐き出す勇気すら、己には無い。この身体は、頭の髪から足の爪まで、もうご主人様のものでしかない。

 

 目を閉じる。今はこの状況に酔うのがあらゆる意味で良い。

 ただ、将来、この方に飽いて捨てられて『犬』から『社会的に詰んだ男』に戻る時が来れば、――その時は留置場に戻るよりは自ら生命を絶つことを選ぼう。そう強く思う。

 ヒトを裁くための正規の司法ルートに復帰した時の『日下部誠』の処遇、手続き、向けられるであろう眼差しと言葉。ありとあらゆる物事が、耐えられないほどにみじめ過ぎるだろうから。

 

    ◇     ◇

 

【私はまことさんに間違いなく惚れていますし、留置場からの連れ去り当時から今に至るまで愛していたと間違いなく胸を張って言えるのですが、一方でまことさんが私に向ける感情が恋愛一色だったかというと、それは正直に言って厳しいところがありました。

 まことさんは、私の一方的な思慕を受容しているように、そう見せようと努めていたらしいのは感じ取っていました。強大な力にひれ伏すという判断をして、心の底でどこか私にドン引きしながら、なんとか取引の義務を果たそうとしていたのが実際だったと思います。

 

 私に対する敬意と畏怖はありました。心酔しきれてはいなかった。そういう段階でした。

 そもそも、たった1日で犯罪者に心まで許すような性格ではないのです。そんな堅めの心を持つ人だと分かっていて、それでも留置場から連れ出したのです。

 

 これからずっと愛でていけば、いつか心も振り向かせることが出来るだろうと思っていました。私は、頭の中で長期前提でプランを組んでいました。

 あのタイミングであんな(うしな)い方をするなんて思ってもいませんでした。私があんな目に遭って300年分の人化が一気に進んだこと、そのために私の胎内に、まことさんの子である貴女が宿ったこと。全て、想定外でした。

 

 5月2日の夜、ベッドの中の睦み言で、将来的にはどうしても弁護人に会いたいのだとまことさんにねだられました。

 TVの夜のニュースでは、まことさんの司法修習時代の同期さん方等、複数の弁護士が弁護人に名乗りを上げていたそうで、『報償とか諸々の調整付き次第明日にでも何かしらのアナウンスが出来る予定』と言っていたようなのです。

 私はその場での判断に迷いました。翌朝のニュースを見て判断ということにしたのでした。

 

 結果どういう風になったかは、この手記を読んでいるであろう貴女には自明のことです。

 今となってはどうしようもない事ですが、弁護人に会わせる判断自体が失敗ではなかったかと思います】

――あの『彼女』の手記より




※12/1 一部のフォント設定を変更しました※

※前編と中編の情報を組み合わせれば、魔女周りに関しては、どんなことが起きたのかが推測できるようになっています。

次回予告:

 拳銃自殺したばっかりの出来立てほやほやの亡霊さん。亡骸の横に立つ魂だけの存在は、亡骸そっくりで青白くて血だらけだ。そんな亡霊さんに、私は語った。

「これまで出会った亡霊さん達は、揃いも揃って何か世の中に未練を抱えてる。未練は一つであったり複数であったりするけれど、その未練が魂だけをこの世界に繋ぎとめる根拠になっていて、その未練が全部どうでも良くなった瞬間、亡霊はこの世の中から消失するの。消えた後にどうなるのかは私にも分からない」
「未練……」

 判断ミスで潜入中に実質無駄死にした捜査員さんにとって、『未練が何か』なんて訊かなくても分かることだ。同僚を物騒な組織の中に残してしまったのだからなおさら。
 それでも、私は訊いてみたかった。

「お兄さん、貴方は何でこの世界に居るんでしょうね? 己の魂に問えば答えは分かるはずよ」

次回タイトル:(番外編)前日譚 歪んだ世界の分水嶺
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