後編が思いの外長くなったため、後編①と後編②に分割しています。分割しても、この後編①は3万字超となりました。
後編①はこの通り『悲劇が潜む行路/あなたの在り方』、後編②は『そして悲劇は来たる/魂が望むところ』となる予定です。どちらも、魔女、日下部、羽場、この3名の目線または手記形式で話が進みます。
当作品には夢主以外にオリキャラが出ます(日下部誠が司法修習生だった頃の恩師など、弁護士複数)。話の都合上、原作や劇場版のキャラクターが使えなかったため、当作独自の登場人物として創作を行いました。
現実の司法研修所の検察教官の実年齢については不明でありましたが、調査する中で『40代が適齢期とされる』という記載を発見出来たため、『日下部誠が大学を出たての頃に、40歳前後で教官をしていたキャラクター』として設定しています。設定として不自然になっていないことを願います。
【当時の私は、いくら寝なくても食べなくても生きてはいける身であったわけで、ただ寝たいと思った時に眠り、ただ食べたいと思った時に食べるという生活でした。
その時の私にとっては、睡眠も、食事も、必需品ではなく気まぐれに摂るだけの嗜好品であったわけです。
まことさんは失神してからそのまま睡眠へと移行してしまいました。
私は、その寝顔を思う存分堪能してから起き上がり、シャワーを浴びて、別のネグリジェに着替えてから客室に戻ったのです。
私がシャワーを浴びた30分の内に、まことさんはとてつもなく重い内容の悪夢を見始めていたようです。毛布が随分とはだけた状態で、思い切りうなされていました。
どんな夢を見ているのか、おぼろげに見抜きました。夢の中でのまことさんは、国際会議場爆破事件の被害者達に雁字搦めにされて、暗闇の方向へと連行されていました。連行する側の被害者達は、爆発で損傷した亡骸そのままの姿だったようです。
こんな苦しみにさいなまれる性分だと、最初から理解していました。逆にテロを起こした後も何もなかったかのように日々を過ごす性格であったなら、そんな性格の人に惚れることも無かったでしょう。
まことさんがそういう苦しみに襲われたそんな時にどうするのか、事前に心に決めていました。突き放すのでも責め立てるでも無く、温かな安寧こそ、この人に差し向けたいと思っていたのです。愛でる日々の中でそういうこともあるだろうと想定はしていました。
私ははだけた毛布を被せ直してからベッドで横になり、その毛布を被ったまことさんの背中に抱き着いたのでした。夢の中にも介入しました。被害者達を止めたのです。「止めなさい。まことさんは私のモノよ」、と、彼等にはそう囁きました。
深い夢の中でも、現実の毛布の中でも、私の腕の中のまことさんは号泣していました。
罪悪感に打ち砕かれ、自身が涙を流す資格すらないのにと自己嫌悪し、更には私が提供した安寧に寄り掛っている情けなさにも、素直に寄り掛かれない申し訳なさも、ひっくるめた感情全てが涙になって止められなくなったのです。
しゃくり上げるまことさんを、私はずっと抱きしめていました。どこか恐縮しためらいながら私に寄り掛からざるを得ない、そんな心の堅さと弱さ、私はひっくるめて愛でていました。
あのまま日々を積み重ねれば、いつか、魂の芯から頼られ、愛情を向けられるという日が来ていたのでしょうか、想像は尽きません。
ああいう風に悪夢に苦悩する夜、まことさんを黙って抱きしめてくる存在は、どう考えても私しか有り得ない状況です。私以外に出来る人が居るわけがないのです。その構図は固定化したまま続かざるを得ないわけで、少なくとも私への精神的な依存はより進んだろうと思います。
もっとも当人亡き今、もう無意味な想像なのですけれども】
◇ ◇
5月3日 9:19 狭間の屋敷 リビング
上の段を左から順に、『日下部誠容疑者(40)』、『羽場二三一氏(32)』、『降谷零警視(29)』、『岩井紗世子検事(40)』、下の段では、『橘境子弁護士(29)』、『毛利小五郎探偵(38)』、『魔女?(?)』である。
TVを付けたまさに今この瞬間に映っていた、ワイドショーのパネルの話である。
日下部は、逮捕時に撮った正面写真。下部に『(5月1日撮影 警視庁提供)』の文字がある。羽場と橘弁護士と毛利探偵の三者は、昨日会見を行っている時の姿だ。岩井は、(過去の何かの事件報道の流用らしい)公判直前の法廷の画像、検事席の横顔だ。
降谷警視は、……いつ撮られたのか知らないが、『(視聴者提供)』とある、潜入先の喫茶店店員をしている時の顔。潜入捜査中の公安刑事をこっそり隠し撮りした客が居た、という事らしい。
全員がほぼ真面目な表情をしている中、ひとり『魔女?』だけが、きのう国際会議場でカメラを前にノリノリで叫んだ時の姿。つまるところ満面の笑みを浮かべている。明らかに浮いていた。
「……名前の書き方、これで良いんですか? ご主人様」
昨日、スーパーで自ら選んだ見切り品のサンドイッチのビニールを解いて、これまた見切り品だった200ml紙パックの牛乳にストローを刺しつつ、日下部は一応訊いてみる。
リビングのテーブルの、自分から見て右側の椅子。ワンピース姿にポニーテールで、前髪左側に髪留めモードのホウちゃん65号を付けているご主人様は、紙パックの牛乳を片手にTVを見ている。基本的には何日も飲まず食わずでも生きていける存在らしく、気が向いた時に気が向いたものを飲み食いする生活らしい。ひとまず今日の朝は牛乳『だけ』にしておきたいそうな。
「良いんじゃないかしら。名前自体、私は持っていないから。昔、追放喰らった時に魂から剥奪されているもの」
「名前が無いことで不自由することは、……無いんでしょうね。もし厳密に書かないといけない書類があったとしたら、『本名 不詳』で、『自称 魔女』と書くのが正しいんでしょうか?」
最初訊き掛けた質問は途中で愚問だと気づいて、別の問いを向ける。ヒトを凌駕する力があるのだから、あらゆる事が力押しで行けるはず。名無しでも不自由を感じる機会があるわけがない。
「まあ、そうなるわね。そんな書類を作る機会があるのかどうか分からないけれど」
「決まった偽名を使うということも無いんですか?」
「んーと、私ね、魂に制約があるから、今はまだ特定の名前を名乗ることが出来ないのよ。遠い将来、弱体化が進んでヒトになっていけば、問題なく何かしらの名前を名乗れるようになるんでしょうけど。……その時に使いたい名前は決めているけれど、今まで使ったことは無いわね」
初めて聞く情報だった。今は名乗れないというのも、将来使う名前を決めているというのも。
「それは、どんな名前を使うつもりなんです?」
「他のヒトには話さないでね。……タケノハラ ウヅキ。名字はね、植物の『竹』にカタカナの『ノ』、原っぱの『原』。名前は、ひらがなの『うづき』。それで『竹ノ原 うづき』。私がこの世界に来た時は今の5月の下旬でね、当時は旧暦で
「名字は、この国に降り立った時の場所からですか? 竹林の中だったから」「ええ」
江戸時代の終わり、嘉永の頃の、茨城県の竹林。季節はちょうど今頃。きのうの夕食中にあの洋食屋で自ら話していた事だ。……『竹しか見えない青空の光景が今でも忘れられない』、のだと。
「繰り返すけど、今の名前は他のヒトには話さないでね。私を呼ぶのに使うのもNG。魂レベルで使えないし名乗れもしない名前を連呼される趣味は無いから」
「分かりました。……今の時代のヒトが生きている内に、名乗られることはあるんでしょうか?」
「無いでしょうね。きのう話したのと同じ、私が子供を生めるようになる時と同じくらいには時間が掛かる。遠い未来だと思うわ」
「つまり300年近く先、と」「そうね」
明言が来た。自分が生きている内は、なるほど絶対に無かろう。『好きなように呼ぶように』と出会った時から言われていたが、これまで通り『ご主人様』一辺倒で良さそうだ、と、思う。
サンドイッチを咀嚼しながら、TVに視線を向ける。画面に映るパネルが別のものに切り替わったのだ。こんなややこしい経緯の自分に対して、弁護を名乗り出たという弁護人達の特集に。
刑事事件が起きた時、本来はTVがいちいち弁護人特集なんてしない。こんなパネルが出たのは、明らかにきのう昼間にぶちまけられたあの怪文書の影響だろう。『誰が弁護人になるのか決めて一般に公表して頂けると助かる』と書かれていたからだ。
ずらずらと、フルネームと年齢付きで横一列で並んでいる弁護士の写真は、全員が男性で、トータルで6名。
うち3名は、日下部が修習生だった頃の同期。日下部にとっては、己が決別した世界に今も居るというだけの古い親友達であるが、彼らにとってはそうではなかった、という事なのだろう。有り難い話だ。
TVによると、彼等弁護士有志はちらほらと自発的に自分の両親に申し出て、両親が諸々を負担した私選弁護人、という形になった、らしい。現在は6名全員で弁護士会館にて会見中。弁護士会の決まりで生中継禁止となっているため、動画が流せないらしい。
「……このパネルの一番右の弁護士さん、私が司法修習生だった頃に研修所で検察教官をされてた方で、私のクラスを担当されてた方ですね。この件でTVで見るのは初めてです。他の5名の弁護士さん方は、昨夜の段階で名前と顔がTVに出てましたが」
「56歳って書いてるけど、その割に老けて見える写真ねー、その人。……検事の定年って基本は63でしょ? いつ検察辞めたの?」
「私達の任検と入れ替わるタイミングでした。はっきり覚えてます」
かなり久しぶりに見る顔だった。パネルに掲載された写真は、確かにご主人様の言う通り、記憶の中の姿よりも、大分老け込んで痩せている。退職されてから今に至るまで、一瞬のように感じられるが、実は長い長い年月が過ぎている、そういう事なのだろう。
◇ ◇
――日下部誠容疑者の弁護人グループの会見が、先ほど終わりました。
――日下部容疑者と魔女に対して、『東都弁護士会館に本日面会に来てほしい』と呼びかけています。面会用に、東都弁護士会館5階の会議室を2部屋、今日の9時から18時まで押さえたそうです。
――羽場二三一氏と日下部容疑者の両親がお金を半分ずつ出し合い、非常食500セットと水500本を購入したそうです。『弁護人グループを通して魔女と日下部容疑者に差し入れたい』と表明しています。
――この非常食と水は、現時点で全て弁護士会館の会議室に搬入済とのことです。『本日面会に来るなら、即時に全て魔女と日下部容疑者に渡すことになる』と弁護人グループは表明しています……。
◇ ◇
5月3日 9:30 狭間の屋敷 リビング
TVを見つめるまことさんの横顔に、……ああ、一瞬見とれた。面会に行きたいのだろうな、と、丸分かりの横顔。花瓶に挿したブルースターと合わせて、本当に絵になる光景ね、と、心の内にメモして苦笑1つ。ひとまず思いついた感想を言っておく。
「中々に考えるのね、私達が会いに来たくなる方向に。現職の公務員さんが自腹を切って差し入れをするのは問題があり過ぎて出来ないけれど、特にまことさんの『元』職場周りの人は余計に無理でしょうけど、……そうじゃない人がお金を出す分には摩擦は少ないでしょうし」
『元』を強調しておく。きのう15時の段階で懲戒免職処分済、今は無職男性(40)だから。
最高検は、『現職検事が逮捕された』という一報のみを受け取って困惑しきりの状況で、直後に『その検事が留置場から消えた』という訳の分からない連絡を受けた、という立場だった。処分前にまず警察に事情を聴くという判断で、免職の手続きは一旦は停止。が、きのうの昼以降に急転直下で手続きを行った、という流れになっている。
そうなったのは、きのう私が警視庁周りに降らせた告白文が原因。追伸その2の内容が最高検にクリーンヒットした。まことさんを早急に処分しなければ、私に変なメッセージを送った意味に取られてしまうから。
飲み干した牛乳の紙パックをテーブルに置く。ハッとしたまことさんがピッチを上げて手の中のサンドイッチに喰らい付き始め、「……まことさん、私に合わせる必要ないわよ? 食べる量が根本的に違うのだし」の一言で、一気にペースダウンする。うん、可愛らしい姿だこと。
さてさて、TVに向き直る。分析の眼差しを、弁護士会館での会見場に座る彼らに向けた。
「この差し入れのお話、必ずしも完全には、弁護士と羽場さん限りでまとまったわけじゃないわね。間に警察が噛んでる。羽場さんについてる弁護人は警察から紹介されている方で、公安警察の協力者みたい。この事件、今は警視庁は刑事部中心で当たっているけれど、部署が違っても、弁護人との連携自体はきちんと出来ているみたいね。
というか、差し入れの言い出しっぺは警察よ。弁護人と羽場さんに提案して、両方ともが話に乗った。弁護人も警察も、私達に面会に来てほしいっていう点は、意見は一致しているでしょう? 羽場さんの方は『日下部さんのために自腹を切ってくれないか』って言われれば、喜んで出費する性格だし。
ただ羽場さんは、『弁護士会館で自分も待機させてくれ』って交換条件を、貴方の弁護人に突き付けているわね。貴方の親と完全に折半だから非常食と水を250食分、本当に自腹を切ってるもの。そういう条件を出しても責められはしないでしょう。……でね、私が弁護士会館に来たら、私に打診するつもりでいるみたいね。『日下部さんに会っても良いですか?』って」
お金を出したのだから引き換えにこっちの意見を飲んでくれ、という提案。言う側としては、単に想いだけで主張するよりもずっと主張しやすい意見だと思う。言われた側も断りにくい。
まことさんの瞳が揺らぐ。会いたい方向にも会いたくない方向にも感情が揺らぎ、結局どちらとも言葉は出せない。揺らぎを押し殺して紡ぎ上げるのは、素直で実感のこもった感想だ。
「……羽場らしい」
「私が『ノー』と言った時は大人しく引き下がるように弁護人が釘を刺して、羽場さんはそれで同意した。弁護人とまことさんの面会は問題ないとして、それ以外の人は私の判断を通さないと色々と危ういから。
……ま、私としては許可は出しましょうか。羽場さんと私でサシで話し合った後に。羽場さんには私からも訊きたいことがあるものね。……今後どうするかは何とも言えないけれど、今回は許可しましょうかね。まことさんも会ってあげなさいな、出費に対する敬意として。会ってあげないと気の毒でしょう」
数千円ならまだしも、本当に、一気に10万円越えの出費という決断をしているのだ。突っぱねることはもちろん出来るけれど、訊きたいこともあるし、弁護人に会わせて、かつ、彼に会わせない、という決断は『無いわ』とは思う。
「! ご主人様、弁護士会館に連れて行って頂けるのですか!?」
「本日11時から13時までの2時間。それだけよ? で、次に弁護人と面会させるのは1週間後で、その時の場所は弁護人と私の間で要協議。捜査機関とか第三者が乱入したなら、どんなタイミングでも面会自体を中止する。録音録画は良いけど、外部との通信は禁止。……以上、全部飲みなさい。まことさんが飲めば、この条件で、弁護士会館に今から御手紙を降らせるから」
「……、分かりました」
短い思考の末に、簡潔な答えが来た。条件を飲めないのなら弁護士会館に連れて行ってあげる義理は無い。そんな風に私の意思を感じ取ったのだろうし、実際、そのつもりでの言葉だった。
「ちなみに、まことさんが言った6人目のヤメ検の弁護人さん、昨夜の段階で急遽弁護人に立候補した人みたいね。これは完全に自分の意思で。この人ね、『修習生時代、日下部くんを最初に検事に推したのが私だった』って、今朝、貴方の親と弁護人達の話し合いで言ってる」
分析対象を広げて、見えた結果をそのまま話す。するとまことさんはとっても慌てた顔をして、食べかけのサンドイッチから手を放した。両手を膝に置いて身体の向きを私の方に変え、お願いをしてくる。
「! あ、……あの、ご主人様。……出来れば、弁護士さん方への覗き見は、……避けては頂けませんか? 話し合いの内容も、おそらくあの人達は何か資料をお持ちだと思うのですが、その資料の、覗き見も」
「どうしてそう望むの? 要望する前に理由を言いなさいな。まことさん、あなたの希望で弁護人に会わせることを飲んで、また、今になって要望が出るのは何故?」
あえて険を含んでいることを隠さずに、訊いた。返ってくる答えはおおよそ分かっている。まことさんの元の居場所における作法(というか権利)の問題だ。予想は付くけれどその予想は予想で置いておいて、まことさん自身の言葉での答えが欲しい。
充分に充分に言葉を選び、私の心を害さず、かつ己の魂の筋に沿う回答を生み出そうとする、その、思考する顔。――うん、凄く良い!
「……留置場に居る者に与えられる以上の物は、私は望みません。望むべきでないと考えています。だから、……どうしても、希望として、留置場に居る時の環境に準拠したくなる面はあると思います。この状況では、どうあってもご主人様の一存でしか決められないのだと分かっています。それでも、……駄目ですか?」
「なるほどねぇ。留置場に面会に来る弁護士に向けて、荷物を漁る人も、会話に聞き耳を立てる人も、現実の法制度では存在しない、と。公権力がそれをやると接見交通権の侵害になるし、公権力以外が入り込める場所でも無いものね」
「はい」
ここは私の屋敷、まことさんは私のモノ、何をどこまで許すかは完全に私の裁量だ、まことさんの言葉はその現実自体は肯定している。
きのう洋食屋で向かい合った警部は、『ヒトを囲っている内はヒトの司法の在り方に少しでも合わせてくれ』と懇願してきたけれども。きのうのあの言葉は、まことさんへの心配だけでなく、警察にとって少しでも情報を得る機会が欲しいのだという一面が見え見えで透けていたけれども。
まことさんの目を見る。私はフッと短く息を吐いて決断した。
「……いつか法廷に立つかどうかも分からない以上、その貴方の態度はたぶん正解でしょうね、まことさん。欲求の範囲がその中に収まるならば、検察がツッコミを入れることも無いでしょうから。良いわ、その要望も飲みましょう」
「ありがとうございます……!」
心からの感謝を込めて、深く深く頭を下げる。私は柔らかく指示した。
「そのサンドイッチを食べてから、貴方の部屋の掃除と、ベッドシーツときのう着た服の洗濯、やってもらいましょうか。私が魔術で何もかもやっても良いけれど、貴方、自分の身の回りのそういうことは自分の手でした方が精神衛生上は良さそうだもの。作業中、弁護人と羽場さんに向ける言葉を考えておきなさい」
「! はい……!」
自分で考えて迷いがあるのなら、私が指示して心の方向を向けてしまえば良い。更には思考を整える時間を与えてしまえば良い。
再会の時は1時間半後。それだけの時間を与えられて、頭の中で何も言葉を組み立てられないほどに愚かな人ではないはずだ。身体を動かしながらなら、思い詰めすぎることも多分ない。
◇ ◇
【まことさんの弁護人の皆様へ
会見内容はTVで把握しました。非常食も水もどちらも有り難く頂くつもりです。まことさんと一緒にそちらに伺います。
・まことさんとの面会は本日11時から13時までの2時間。
・次の弁護人との面会は1週間後、その時の場所は弁護人と私の間で要協議。
・面会中の録音録画は可。外部との通信・生中継は不可。
・面会の場への、(羽場二三一さんは除く)第三者の乱入があれば、どんなタイミングでも面会自体を中止する。
上記4点、全て飲んで頂きたいのです。まことさんは承諾しています。
羽場二三一様
貴方が弁護士会館で待機されていることは承知しています。本日11時、非常食を置いている部屋に待機して頂けないでしょうか?
私から貴方にお尋ねしたいことがあるのです。まことさんの面会同様、録音・録画は両方ともして頂いて構いませんが、外部への通信は禁止します。あくまで、私と貴方の、1対1のお話ということでお願いします。
そのお話の後で、貴方が、まことさんと弁護人さんとの面会の場に加わって会話する分には、私は制限は致しません。更に面会の場での喋りを制限するかどうかは、まことさんの弁護人の判断に任せます。
名を持たぬ とあるひとりの魔女より
追伸
私は、日下部誠さんという人を「本当の犯行動機が裏に葬られかけた、(あえて書きますが)テロ行為の実行犯」と認識しています。
5月1日の夜、降谷警視に取り押さえられる様子も、泣きながらはくちょうのパスコードを自白する様子も、私は現地で見ていました。逮捕されたこと自体は濡れ衣ではなく、「犯行動機が捻じ曲げられて報道されかかった人」ではあっても、「冤罪被害者ではない」という認識です。その認識の上でなお、彼に惚れて留置場から連れ出したのです。
日下部誠さん本人が自身をどう認識しているのかは、本人から聞いて下さい。】
◇ ◇
5月3日 9:40 東都弁護士会館 502号会議室
二三一の頭上に降ってきたのは、きのう正午に警視庁や検察庁に降った量よりはずっとずっと少ない規模だった。比較するならば、自宅に降った時と同じような降り方で、きのうよりは遥かに短く簡潔な怪文書が出現した。
心に焼き付くほど何度も何度も読み返したきのう正午の文書と、形式は全く同じ。光を生み出しつつ何も無い場所にバラバラと降ってくる、今回はA4サイズ1枚だけのルーズリーフのコピー。
「11時まで、あと1時間20分。魔女さんと話して、それから、……日下部さんに会える」
非常食や水が入った段ボールが、うず高く積み上がったこの部屋。
段ボールの無いスペースに置いてもらったパイプ椅子の上に、スーツ姿の羽場二三一は座っていたのだった。拾い上げた怪文書を一気に読み切って、口から自然と呟きが漏れた。
羽場二三一の、この頭で予想できる範囲の中では、最良に近い回答だ。弁護士さん達の会見自体が無視されてここに来ないとか、弁護士さん達だけに会うとか、……そういう事態になるよりはきっと良い。
「羽場さん、魔女さんとのお話も、日下部さんとのお話も、どちらも希望されますか?」
「希望します。話さないという選択は、私の中にはちょっと無いですね」
この部屋には他に弁護士さんが2名、それぞれ二三一の目の前と横に同じようにパイプ椅子に座っている。目の前に居るのは日下部さん弁護人チームの内の1人だが、横に座っているもう1人は自分の方の弁護人だ。
後者の弁護士さんが同じ怪文書を片手に質問してきて、二三一は迷いなく答えた。この状況で相手の方から明確に話したがっているのに、自分が逃げるのはおかしい。
更に、日下部さんの方の弁護人が質問してきた。
「……羽場さん。もしも、冷静でいられないような言葉が魔女さんから来ても、それでも冷静に振舞うということ、そういう態度を取り続ける自信は有りますか? 日下部君の安全のために」
「え?」
この人は、昔、日下部さんが修習生だった頃に検察教官だった人、だという。羽場と同じくらいの背丈だが、触れば折れるのではないかと思う位の細身で、髪は白く禿げており、見た目は70代くらいに見える。ただ声は厳しくも落ち着いていて、こちらの目を見て滔々と問うてきた。どちらかというと会わせたくはないという雰囲気をにじませて。
「この状況で、ヒトではない相手から向けられる言葉なんて、誰にも予想が出来ません。
法廷用の想定問答なら相手の狙いはパターン化できますが、今回の相手は、法律で縛られる相手ではありません。向けられる問いがポジティブなのかネガティブなのか、全くもって分かりません。最悪の場合、頭に血が昇ってしまう位に、下品で屈辱的な質問が来るかもしれません。
そんな言葉が来た時、羽場さんは冷静に振舞える自信はありますか? やり取りが制御不能になれば、それ自体が大変な大変なリスクになります。貴方だけではない、日下部君も危うくしてしまう事柄なのです」
もっともな内容だ。相手の力が最悪の方向に向いた場合のリスクを恐れている。
司法研修所の修了式での自分のやらかしも、日下部さんの下で2年間にやってきたことも、昨夜の会見で二三一が明言して以来、散々TVで流されている。『ヒートアップしやすく正義の下に
まぁ、4年前に比べれば、まだ成長はしているとは、……思いたい。司法研修所で引き起こしたあの騒動は、やらかした二三一ひとりが進路を絶たれただけで終わった。今回、あの時のように制御不能になって暴走したら、二三一だけではない、日下部さんも確かに危なくなるのだ。
「……私が恐れて会わなければ、かえって魔女さんの気分を害してしまいそうですし。相手の力が強いことだけをとにかく意識して、自分を律するしかないんでしょう」
魔女が自分に向けてくる質問は、果たして、身構えているところにやって来る柔らかなド直球なのか、予想外の方向からやって来る猛烈なカーブなのか、本当に全く持って予想がつかない。
一つだけ言えるのは、録音・録画がはっきりと許可されているのだから、それを最大限利用するくらいしかしかない、ということくらいだ。自分の性分を自覚しながら、二三一は言葉を続ける。
「録画機材、出来る限り沢山置いて頂けますか? どこを見ても目に入るくらいに。他人が記録していると常時突き付けられていれば、まだ冷静で居られると思います」
◇ ◇
5月3日 10:25 狭間の屋敷 内庭
目の前の物干し竿で、衣類やらシーツやらが何とも平和そうにはためいていた。
きのう官舎の自室から持ち出したこの物干し竿は、一人暮らしにしてはそこそこ大きめの、室内用のスタンド型。小さめに折り曲げたシーツと、きのう着ていた男一人分の下着やらシャツやらジャージ上下やらを吊るす分には、何とか間に合ったのだった。まぁ、シーツに関しては結構無理がある折り曲げ方にならざるを得なかったが。
掃除と洗濯の指示を受けてから、日下部誠は、効率重視で今までひたすら動き続けていた。手早い作業の結果、出発まで30分くらいの時間が残ったのだから、時間の使い方は多分成功だろう。
「ん、ん゛……」、と声を上げながら、肩を回しつつ小さく伸びをする。着ているジャージの生地の下で、関節がボキボキ鳴った。
この屋敷の内庭から見上げた空は、東京準拠で設定しているという。東京の霞が関準拠で、日差しが差し、曇り、雨が降り、風が吹き、日が沈む。『そういう風に設定している』のだと、ご主人様は言っていた。
『どこにもあってどこにもない場所、私が許した者にしか入れない時空の狭間』の屋敷だ、と、ご主人様はきのう書いていた。その記載が正しいのならば、こうして日差しを向けるのにどれほどの技術が必要であるのだろうか。
――結局は『魔力があるから』の一言で言い捨てられることなのだろうな、と、ぼんやりと日下部は思った。
冷静になって振り返ってみると、物質的な境遇面ではかなり不相応なレベルで恵まれているな、と、我ながら思う。
宛がわれている客室は、ベッド込みで15畳くらいの広々とした部屋だし。それと、ご主人様は身体年齢20歳で、美人で、(他人に言い触らせるような話では無いが)昨夜までは生娘だった床上手だし。そういう女性に望まれてそういう関係になるという事は、ご都合主義の青年漫画でも中々無いような話だと思う。
自分でも信じられなくなるのだ。留置場から連れ出されたのが、顔が良い若者とか、冤罪被害者とか、そういう男であるならばまだ、肌感覚としては理解の範疇に収まる。しかし、自分のように完全なる自業自得で留置場に居た中年男が、どうしてあんな女性に惚れられて、こういう風に恵まれた環境に置かれるのだろう。
一般人の中年男でも中々望めないことだ。ましてや留置場なり拘置所なり刑務所なりに居る男共にとって、この状況は、大抵の野郎が喉から手が出るほど欲しいと思う環境に違いないのだ。
――『こんな男に惚れた、貴女の感性が分からない』、と、言う勇気も無いな。今更。そんな言葉を向けたら、それこそご主人様の感性を侮辱する意味に取られそうだ。
そっと、心の中でだけ苦笑しつつ呟いた。
倫理観がどうにもズレている人外の方を、上から目線の正義感で
物的被害の回復は望みどおりに成された。その代償の忠誠、それだけで良いのだ。いつか自分に向けられる愛が尽きて、捨てられる時こそが、己の生命を投げ捨てる時だ。その覚悟さえ決めておけば、それで良い。それまで正気を維持するためだけに、たまに弁護人に会えれば良い。
本来、拘置所の中で管理されていつか終わる人生が、この屋敷で飼われていつか終わるという人生になった、それだけのこと。単純に、この愛が永遠に続くとも無邪気に信じる事は出来ない。その程度には達観した人生の経験と自虐意識を、己の魂の中に抱え込んでしまっている。
突然、ガラスサッシをガラガラと開ける音がした。
「まことさーん、ちょっと良いかしらー?」
今の日下部と同じくサンダルを突っ掛けて、ご主人様がこちらの方へ駆け下りて来る。そうして目の前に立って、胸に抱えていた物をこちらに差し出して見せた。
見るからに新品らしいA4サイズのノートである。薄青い無地の表紙に、丸い何かの、緑と白の何かのマークが大きく載っている。
「この大学ノート、さっき創り上げたの。貴方にあげるから、日記帳にでもして頂戴? 弁護士会館に行くまでにまだ30分くらい残っているから、その間に色々書いておくのも良いでしょう」
「!、ありがとうございますっ! ……弁護士会館にこれを持って行っても良いですか? 弁護人にコピーを取ってもらって、その上で読んでもらいたいのですけれど……!」
頭を下げて有り難く受け取ってから、質問した。
もし許可が出れば、書いた分については弁護人に対して喋る必要が無くなる。それだけ面会の時間が有効活用出来ることになるのだ。
「大丈夫よ、まことさん。……でも、制限は付けさせてもらうわよ。
きのう洋食屋さんで話した坊やの話と、さっき話した私の仮名のことは書かないでね。私に口止めされた事自体は書いても良いけど、具体的な中身は書いちゃダメ。それ以外に知られると困る事は無いから制限はしないけれど。面会でしゃべることも含めてね。
……洋食屋でのお話は、内容が内容だから『守秘義務が守れる』と絶対的に確証を持てる相手にしか話せないもの。『坊や』の『ボ』の字ですら書かないで。
私の仮名の方は、今は弁護人にすら絶対に知られたくはない、今呼ばれるべき名前ではないのだから。使う予定の名前を教えてもらったことは書いても良いけど、どんな名前なのかは書かないこと。守れる?」
どちらも納得出来る制限だ。
毛利探偵のところの坊やの話は、バッドエンドに転べば最悪国が危ういというのだから、保秘を徹底するべき話に違いない。ご主人様の仮名については、最初から『他人に話すな』と釘を刺されている。
「分かりました。……あの、このマークは何かの印ですか? 『竹』ということは、ご主人様の……?」
受け取ったノートの表紙。指して訊いてみる。
緑色の線による円の中、背景になっている緑色の竹は、真っ直ぐに立つ3本。その手前には茶の枝が伸び、2輪の白い花が、同じ枝の先から下方と横を向いて慎ましく咲いている。花びらは真っ白で、数はどちらも5枚ずつ、だ。
円の外側には、ぐるりと囲う形で小さな文字らしい綴りがある。一見筆記体に見えるが、どうも読む限りはアルファベットとも違う。
少なくとも、法曹関係で見るマークではない。文具のメーカーとも違う。ヒントになるのは背景の『竹』の絵。先ほど教えてもらった話ではないか、……この方が使う予定の仮名は『竹ノ原』。
「ええ。予想通りよ、私の紋章。さっき決めたの。
背景は孟宗竹。これはこれまで話した通り、私が降り立った時の場所から。手前の白い花2輪は、
で、周りの文字は私の故郷の言葉。貴方どころかこの世界の誰にも読めないはずよ」
通りで、全く読めないはずである。これまでのご主人様の言葉が正しいのであれば、異世界の出身だ。
「綴りの意味、教えて頂けますか?」
「意味はね、『己の魂が望むところこそ、己自身の進路である』。私の在り方として一番良い言葉でしょうから」
「……そうですか。教えて頂きありがとうございます。このノート、これから使わせて頂きますね」
丁寧に一礼し、ノートを抱えて、建物の方へ身体を向けた。面会の11時までもう30分もない。ノートに文字を連ねる時間は、1分1秒でも貴重だ。
「まことさん。ここを出る時は、きのうのデートの時みたいなスーツの上に、私が用意した灰色のローブを羽織ってもらうわ。胸にそのノートと同じ紋章を縫い付けてね。服は私が魔術で着替えさせるから」
「分かりました。あの、……ちなみに、ご主人様は、そのワンピースがお好きなんでしょうか? それを着られて行かれる予定ですか? ……ぃえ、決して問題ある格好とは思わないのですけれど。単純に訊きたくなったので」
不意に思い浮かんだ質問が、口を突いて出た。夜に寝る時はネグリジェを着用されていたけれども、それ以外はずっと同じ黒い半袖のワンピースなのだ。一昨日の夜に留置場の独居房に湧かれた時も、国際会議場に出て更にデートする流れになった時も、そして今も、同じワンピースを着用されている。
「ええ。この格好が好きだし、あと、上着を羽織らないのは私の故郷の慣習もあるわね」
「慣習ですか?」
「前開きの上着はね、改まった場所に出るか、目上の相手の前に出る時の格好だったから。
ヒトがヒトの社会で着ている分には何も思わないけれど、私がヒトを相手にするときに着るのは、気分的にちょっと嫌。今のところ、私の故郷ぐらいにしか私より目上の存在は居ないものね。……まぁ、人化が進めばそういうこだわりも減っていくんでしょうけど」
この方らしい言葉である。どんなヒトよりも、どんな組織よりも、強大な力を気ままに振るえるという事。それはすなわち、おしなべて人間は目下の存在でしかない、という事なのだ。
文句の言いようがない事実であろう。
◇ ◇
【洋食屋で口止めした坊やのこと、それから私が名乗るつもりの仮名のこと。それらを除けばまことさんの喋りに制限は掛けていません。
私の生き方に関してまことさんに明かした事柄は、当日11時以降の面会で、ほぼ弁護人に話されていたのではないでしょうか。
まことさんを襲ったあの悲劇の後、この時に弁護人達が知った情報は、(どういう手続きと判断があったのか知りたくもないのですが)全て警察に渡ります。
6月下旬以降の私は、羽織る形のカーディガンやら上着『ばっかり』渡される、という事実から当局の性根を薄っすらと悟り、心から呆れる羽目となるのです。
さて、その日の話に戻ります。面会5分前になった頃、私は杖を振ってローブを創り上げて、まことさんに宣言通りの格好をさせてから、一緒に、弁護士会館近くの河川敷に転移しました。
浮かせたホウちゃん65号にまたがってから、更にまことさんを後ろに座らせました。私に強くしがみ付くように指示してから、まことさんと一緒に、仲良く空を飛んだのです。
寄り道なく東都弁護士会館の5階に向けただけの飛行は、そこそこの速さで突き進みました。オートバイ並みの速度を意識していました。後ろのまことさんは大きな悲鳴を上げたりはしませんでしたが、声を出せないくらいの恐怖だったようです。相当強くしがみ付かれました。
この時のホウちゃん65号は割とミシミシ言っていました。飛んでいる最中にポッキリいくではないかという想像は、常にぬぐえなかったのではないでしょうか。
実際に、折れる可能性はありました。ハルちゃんとは違って、ホウちゃん「65号」という名前は、1号から64号まで、飛行中に突然折れて廃棄した歴代のホウちゃんシリーズが存在していた証です。
飛行中に折れても何とかなるように対処はしているから、だからまことさんを後ろに乗せたのですけれど、その『折れても何とかなる』という説明を私は一言も言っていませんでした。まことさんは本気で恐怖を感じて私に密着していたはずです。
地上の人々から大いに注目されつつ、私達は東都弁護士会館5階の窓に突進する事となります。
衝突直前、ガラスを魔術で消し去り、窓から会議室内に突っ込んでから、即座にガラスを元に戻したのでした。部屋に突っ込んだ時もそれなりのスピードで、それこそオートバイのように徐々に勢いを殺しつつ、部屋の床に足を付けたのです。
羽場さんが思わず上げた「うわぁっ!」という声と、げんなりしつつホッとした顔のまことさんの安堵の息が、とても印象的でした。】
◇ ◇
5月3日 10:57 東都弁護士会館 502号会議室
とっさに立ち上がりパイプ椅子を引きつつ、積み上げた段ボールの方に飛び退いた、羽場二三一の瞬時のその判断はたぶん正解だった。
バイクや自転車の二人乗りのように箒にまたがり、猛スピードでダイナミックに入室してきた彼等は、数秒前まで自分が座っていた辺りで急停止。もう少し自分の位置がズレてれば、面会以前に大胆に衝突事故で病院沙汰になってそうな予感が、とてつもなく濃厚に感じられたのである。
――イヤ、魔女さんなら治療以前にチャチャッと怪我を癒してくれるのかもしれないけれども!
「お、お二方とも、ようこそおいでいただきました。……えー、日下部君、大丈夫かな? 話す前にお水は飲むかな? これ全部、君らへの差し入れだが。君の親と、そちらの羽場さんから」
弁護士さんはこの部屋に3名居る。全員が日下部さんの弁護人で、3名ずつこの部屋と隣の部屋で分かれて待機していたのだ。うち1人、ヤメ検の日下部さんの元恩師の方がドン引きしながら何とか出した声は、途中で案ずる内容に変わった。
魔女さんは、TVで目に焼き付くほど見た姿と同じだった。黒いワンピースに、凝った結い上げ方をした茶髪。ケロリとした顔だ。
後ろの日下部さんは、見慣れない、フード付きの上着を羽織っている。胸に緑色っぽいロゴだけが付いた、灰色の無地の上着で、フードの下の顔は、いかにもしんどい経験に耐えたらしい表情だ。無言で箒から降りられ、床に足が付いた途端に心からホッとしたような息を出した。ジェットコースターから降りた直後の体験に限りなく近い、いや、未知の乗り物だから恐怖はそれ以上に有ったのかもしれない。一応、足元はふらつかずにしっかりしているけれども。
その灰色の上着を脱ぎながら、日下部さんはこちらの方を見た。黒い上等そうなスーツが露わになる。かつての恩師を含む弁護人3名と、それから積み上げた段ボールの目の前に立つ二三一と、両方を見て、
――ああ、こみ上げる感情に表情が一瞬だけ崩れる。ほんの少ししだけ俯き、数秒で真顔に戻って頷いた。
「……お久しぶりです。お水、頂けますか?」
その返答で、弁護人さんが二三一を見る。自分が段ボールから出せと言いたいのか。なるほど、水の入った段ボールは自分の真後ろだ。
「! っぁ、はい! えっと、みずですね、み、み、みず、……!」「落ち着きましょうか、羽場さん。貴方が渡すのは水でしょう、ミミズではなくて」「「「水です」」」」
慌てて段ボールのガムテープを剥がしている己に向けられた、落ち着きの中に揶揄が混ざった女声のツッコミ。反射的に答えを返す、その回答は二三一だけではなく何人かの声で同時に被った。
それで一気に頭が冷えて、水のペットボトルを1本取り出しつつ振り返る。ツッコミの主は魔女さんで、立てかけた箒を手に持ってクスクスと笑っている。
「貴方達、綺麗に声が被るのねー」「そう言いたくなる言葉でしたから。ご主人様」「!?」
――『ご主人様』、って……!?
その呼び方に驚く、しかし、すんでのところで喉まで出かかった声を無理やり押さえつけた。弁護人が同席する場で何か訊きたくなる時は、二三一ではなく弁護人から訊くと、そう打ち合わせていた。この後の弁護人さんとの面会で、この呼び方について弁護人さんから質問することもあるだろう。
「えっと、はい! 日下部さん、『お水』ですっ! 本当にお久しぶりです。……貴方が御無事でよかった」
「羽場。……私は、どう詫びようとも取り返しがつかない位の傷つけ方をしてしまった、……本当にすまなかった!」
ペットボトルを受け取った日下部さんは、こちらを向いて深々と頭を下げた。
本当にこの人らしい。
エッジ・オブ・オーシャンの国際会議場をはじめとして複数の人を殺めたこと、更に物的被害の回復のために世間に伏せられていることを独断で明かしたこと。どちらも確かに、実は生きていた二三一の心を大いに傷つけることだった。おまけに今後の二三一が正常な社会生活を送れるのかどうか、結構、怪しいところがある。この人が気に病むのも、客観的に考えれば当然のことだった。
「頭を上げて下さい、日下部さん。貴方を責めるつもりは全くありませんから。『私達は一心同体だ』って、一昨日の夜、貴方が連行される時に言いましたよね? あの言葉は本心でしたし、今も私はそう思っています」
ずっとずっとこの人に言いたかったこと、心からの本心だった。
この人と一緒だった2年間は絶対に忘れない。二三一がどん底だと感じていた日々の中、自分を救い上げてくれたのはこの人だ。
最初の怪文書が降ってきた時もそうだったが、今でも責める気は全く浮かんではこない。正義の名の下に暴走して道を踏み外したこの人を責める立ち位置には、自分は、羽場二三一は、絶対に立てない。その位置に立つのは、別の公的機関か誰かだろう。少なくとも二三一ではない。
「ッ、はばっ……!!」
日下部さんの目尻に涙が浮かぶ。『感極まって何も言えない』という言い回しをそのまま体現したような顔で立ち尽くす、……その背中に、魔女さんが優しく手を当てた。
「まことさん。感極まるのも良いけれど、その分、弁護士さんと話し合う時間が減っちゃうわよ。面会は今日の13時まで。私、これは誰が何と言おうと曲げるつもりは無いわよ?」
◇ ◇
5月3日 11:00 東都弁護士会館 502号会議室
控えめに言っても感傷をぶっ壊す一言に、羽場の表情が一変した。日下部誠は硬い声で「はい」という即答を返し、羽場に軽く会釈して弁護人の方へと歩を進める。
「弁護人さん方。これからの事なのだけど」
そう切り出したご主人様は笑顔のまま、弁護人達に向けて言葉を続ける。
「私は羽場さんとお話して、それからこの水と非常食を屋敷に転送して、屋敷に引き上げて、13時ちょうどにまことさんを迎えに来る。その流れで行くわ。
貴方達弁護人さん方とまことさんの会話内容は覗くつもりは無いけれど、隣の会議室への人の出入りは私は常時マークしてる。羽場さんはともかくそれ以外の誰かが乱入してきたら、その時点で容赦なくまことさんを引き揚げさせるわ。そのつもりでいてね?
それと、一週間後の面会について。同じ時間帯で、場所は、ここではなく貴方達弁護人さん方の中の、誰かの事務所、ってことで、お願いできるかしら? 弁護人が6人付いてるのなら、誰かしら11時から13時まで事務所で面会場所を確保できる人が居るでしょう? 誰の事務所を使うのか今から2時間で詰めておいて、まことさんを迎えに来る時に私に教えてほしいのだけど」
弁護人3名が、無言で顔を見合わせた。全員が軽く頷き、これまで喋っていた恩師が口を開く。
「では、これから6名で協議しますので、2時間後に協議結果をお伝えしますね。出来る事なら週に一度と言わず、もう少し面会の頻度を上げて頂きたいのですけど、」「それはダメ」
ごく当たり前の懇願を、ご主人様は真顔でぶった斬った。
「っ、ですが、拘留中での接見に比べても時間の制限がはるかに、」
「この人は私の管理下よ。貴方達にどう会わせるかは私が決める、私が圧倒的な実力を持つ内はね。私が弱くなるか、貴方達ヒトが私並みに強くなるか、どっちかになってから出直しなさい。今の段階で同じ事をしつこく言ってくるなら、もう二度と連れてこないけど?」
洋食屋で斧を突き付けた時のように冷たい声で言い切る、その顔に、一切の笑みはない。
もう、これ以上の懇願は危ういだろう。この方がどれほどの力を持っているのか、皆、嫌というほどに承知している。恩師は表情を硬くしつつ諦めざるを得ない。
「……分かりました。別にもう一件、日下部君と魔女さん両方が居る時にお伝えしたいと思っていた事が有るのですが」
「ん、何?」
「今日の9時40分頃にこの建物のこの階に降ってきたお手紙なのですが、降ってきた箇所が何分この階全体だったので、我々弁護人と羽場さん以外にも拾った方が居る構図となりました。そこから警察に情報が伝わったようです。
ここの弁護士会の理事者と、それから我々弁護人と、警察の間で、かなり突っ込んだやり取りが行われています。警察は『指揮系統が真っ当に生きている限りは、これから2時間の間は会議室への乱入は無い』とは、言っています」
ご主人様は、「……そう」と一言返した。箒を抱えたまま腕を組み、揺らがずに恩師を見つめてただ無言で話の続きを求める。
日下部を真横に置いて、恩師は引き続き喋る。
「2時間後、この会館の1階正面入口から警察が堂々と入って来るとか来ないとか、警察と理事者との間で結構なやり取りがありました。
警察という組織にとって一番の理想は、日下部君が連れ去られる前の状態に戻る事です。組織の性質上、日下部君を奪還しようという試みは、貴女が手元に置いている間は絶対に続くことでしょう。今日の面会の後にも、そんな事が起こらないとは言えない。
一方でこの弁護士会の理事者が懸念していたのは、この会館で流血沙汰の大惨事が起こるのではないかという事でした。我々弁護人としても、今日のこの場に限らず、日下部君が絡む問題で、警察と魔女さんの間で果てしなく揉め続け、やがて惨事が起こるのではないかと懸念しています」
ここで少しだけ逡巡した間を経て、これまた懇願の籠った言葉が来る。
「警察がどう動くのかは、我々には分かりません。魔女さんがどう動くのかも当然分かりません。
私としては、後遺症が残ったり、遺族が生まれたりするような事は流石に避けて頂きたいというのが願いです。……貴女ほどの実力であれば、それは避けられるのではないですか。揉める時に実際に動き回るのは、命令を受けた末端の方々です。あまり酷い目に遭われるのは気の毒ですから」
ご主人様は視線はそのまま、少し妖しい微笑みを向けた。落ち着いたトーンで、やれやれと言わんばかりの声で答えを返す。
「貴方、『警察と揉めてくれるな』とは言わないのね。まぁ言われても守れはしないけれど。そのお願いを言うに至るまで、どれだけの水面下のやり取りが有ったのかも追及せずにおきましょうか、今は。
……まぁ、善処はするわ」
不意に直感めいた推測が頭の中を走り、日下部はハッとする。この恩師の願いは、この状況下ではなるほど真っ当な台詞だ。だが、本当に、この願いはこの人の独断で向けられたものだろうか。
理事者とこの人達だけのやり取りの末、この願いが来た、その可能性はもちろんある。でも、実は警察の意向が絡んでいるというのなら。警察とご主人様が、……この会話を通じて間接的にニギったことになるまいか。
――『面会後に末端の警官がやって来るが、殺したり後遺症が残ることは避けてくれ』と。
本日、面会後に身柄を確保されようとして、その不意打ちにブチ切れたこの方が警察を殺すリスク、そのリスク自体はこのやり取りで小さくなったろう。反面、それで身柄の確保は絶対に出来ないという大きなデメリットがあるが。
もしそんな構図なら、2時間後、身柄確保劇の茶番が起こる。そうであれば警察が得るのは、『頑張って身柄の確保に動いたが、強大な魔女に一掃された』という、組織の体面を何とか保持できる物語だ。
ご主人様は微笑みのままに静かに続ける。
「今日、私達がここから帰る時は、……この階から転移で消える、あるいはまことさんと一緒にこの建物の1階ロビーで転移して消える、どちらかになるでしょう。どちらになるのかはその時に私が決める。行きと同じような箒はもう使わないわ、まことさんが大変そうだもの」
「……。そうして頂けると非常にありがたいです、ええ」
日下部はとっさにそう返す。あの飛行はもう体験したくない。
この部屋での会話はこれで終わりらしい。時間が一秒でも惜しいのだろう、弁護人達が日下部に異動するよう無言で促す。再度羽場に会釈してから、彼等に従った。
ご主人様と羽場は、ふたりだけこの部屋に残さざるを得ない。沢山のカメラ類がセッティングされ、段ボールが積んであるこの部屋に。
◇ ◇
5月3日 11:04 東都弁護士会館 502号会議室
「これ、お使いください」「どうも」
羽場さんは、私にパイプ椅子を渡してそう言った。素直に受け取って、座っておく。彼は別のパイプ椅子を広げて、私に対面する形で腰掛けた。
この会議室のドアに近い方に羽場さん、会議室の奥の方に私が座る構図だ。何かあった時には私に遮られずに羽場さんが即座に室外に出られるよう、たぶん弁護人あたりが入れ知恵している。私が本気を出せば無意味だと分かっていても、やらないよりはマシな気休めとして。
ホウちゃん65号は小型化して髪留めモードに変えて、前髪を留める形で挿した。ついでに髪型もポニーテールに変更。何もしていないのにシュルシュルと編み込んで結った髪が勝手に解かれていく光景に、羽場さんの目が釘付けになる。
もっとも、何か言いたげな表情をしつつも、髪型について言葉としては沈黙を通した。スーツ姿の彼は気を取り直したように姿勢を正して、緊張した面持ちで発言する。
「えっと、……『魔女さん』とお呼びすればよろしいのでしょうか? 改めて自己紹介させてください、羽場二三一です。私にお尋ねしたいことがあるとのことでしたが」
事前に用意していたらしい口上には、事前に用意していた口上を返そう。この対話で最初に言うことにしていた、率直な彼等への敬意を。
「ええ。そうね、でも、まず本題に入る前に。羽場さん、貴方がたの強い絆に敬意を。
歪んだこの世間の中で、ある意味真っすぐで、ある意味
緊張した心に、その言葉はそこそこネガティブに刺さったらしい。一瞬だけムッとした表情を見せて、それでも口調には自制を何とか効かせて、羽場さんは尋ねてきた。
「
「公安の検事だった人をあんな風な犯行に走らせたのだから、それはやはりヒトの社会の中では
「……いえ、それは、……。その通りだと思います」
反論は出来ない言葉、そのはずだ。
羽場さんを『殺した』相手に報いるために、まことさんは、ヒトの社会の倫理に思い切り背を向けた。まことさんの犯行は、紛れもなくまことさん自身の意思と決断に基づく。決して、他人に強制された行為などではなく。
意識してゆっくりと言葉を連ねる。羽場さんの心に、練り込むように。
「この場が録音録画している場所だからこそ、訊きたい事を訊く前に、ここで明言しておくわ。
きのうの告白文に書いた事の繰り返しになるけど、私は、まことさんが確保される時の姿に惚れた女。まことさんが起こした事件自体には、私は一切関わっていない。
また、留置場からの連れ去りは、完全に私の独断よ。まことさん本人を含めた関係者一同、誰にとっても全く想定外の連れ去りだったはず。何しろ、私が留置場に湧いた時こそが、人外としては、初めて明確にヒトの前に姿を晒した瞬間なのだから。
私の介入が無かったら、まことさんは普通に司法手続きを辿ったはずだった。その時にどんな末路に至るのか、あの人は十分承知の上であの犯行に手を染めた。そのはずよ。……ここまでは良いかしら?」
「はい」
重苦しく羽場さんは頷く。
――『末路』、その言葉の意味を、補足する。噛んで含めるように。
「短期的に取調べ中に他者からどう見られるか、法廷でどう見られるか、それだけでは無く。……拘置所の中で朽ちるとして、最終的に、己の身体が、どんな風に見られるのか。まことさんは全部ひっくるめて承知の上で、犯行に及んでいたはず。爆発物絡みの事件は、この国では死者がひとりでも出た時点で、一番厳しい判決が出るという想定が要る。職業上、その辺りの判例は認識してないとおかしいものね。
……仮に、今の段階では有り得ないけれど、私がまことさんを留置場に戻したとしても、法廷での結論は変わらないでしょう。関係者全員、『判決は一択しかないんだな』って薄々考えながら、手続が進むのでしょうね。爆発ではない単純な殺人事件であったとしても、犠牲者の人数から考えて量刑相場上は迷いようがないもの。私が癒したヒトなり物なりを検察が起訴の範囲から除外しても、亡くなってしまった人の数自体は、どうあっても覆しようがない」
口をギュッと噛み締めて、拳を強く握りしめて、……しっかりと、羽場さんは頷く。曲がりなりにも判事を目指していた身だ。私の推測は妥当だと、分かり過ぎるくらいに分かるはず。国際会議場の爆破での死者、それからIoTテロに巻き込まれた死者。トータルでは『辛うじて、一桁には収まった』という、それだけの犠牲者が出たという事実、それが意味する判決を。
だから私は頷きを返して、言葉を続ける。静かに、落ち着いて、真っ直ぐに。ナイーブでもあり
「
そしてその魂が辿る未来が、私には見えた。あの人には、独居房の中で自分の精神を責める事、それくらいしかやる事がないんだ、って。
……あの人、熱意とスペックは凄いものね。徹底的に自分を責めて責めて、どこかのタイミングで自分自身の魂を壊す未来が見えた、それこそ裁判が続けられなくなるくらいに。それでも、関係者一同その精神状態を見なかった事にして、裁判を無理やり続行させる未来も、私には見えた。
それだと絶対に私は後悔する、って、悟ったのよ。『この魂が壊れるのは余りにも惜しい』って、あの時の警視庁の屋上で」
降谷警視(+亡霊のお兄さん)、因縁を抱えた坊や、まことさん。それだけの存在があの場に居た。坊やのことは、録音録画がされているこの場では触れるべきでない。亡霊のお兄さんは、存在自体が私のみの心の内に秘匿されるべき。どちらも不用意に明かせばヒトの社会が歪む。故に、彼等には一切言及してはいけない。
「絶対に忘れない記憶に、なるんでしょうね。……みんな屋上で夜空を見上げて、落ちて来るはくちょうを見守っていた時。姿を隠した私だけが真っ直ぐにまことさんを見つめてたわ。
暗い空から、爆発の光が思いっきり届いた、あの瞬間。私は、自分の魂の中でグルグル渦巻いてるこころの意味に気が付いたの。立てかけたホウちゃん65号を両手で握りしめて、ひとり立ち尽くすしかなかった。嘉永2年の春からずっとこの列島で生きてきて、初めて感じる感情だった。
『ああ、これが誰かに惚れるっていう事なんだ』、って、あの夜のあの場所で気付いたの」
羽場さんはただ私の言葉を傾聴している。一言すらも聞き漏らすまいとする態度で私の態度を分析しようとしてはいる。実際のところ、あの夜の追憶、その前のまことさんの思い出、そしてこの私の言葉。それらに飲み込まれ、私を分析するということも、己を客観視するということも出来ていない。
――なるほど、裁判官には向いていないと判断されるはずね。感情と理性を切り離しながら相手の態度を分析するという、法曹には必須の技能が、貴方は未熟だ。そのくせ正義感だけは強いらしいと来た。司法修習生を罷免されてから4年が経った、今でも。
強引さと未熟さ、このように併せ持つからこそ、まことさんはきっと惹かれたのだろう。私は心の中でだけ『微笑ましい』と呟く。
「私は、自分がやりたいと思った方向にしか生きていけない生き物よ。だから私は己の望むとおりに動いた、やりたいように動くことにした。それが、この連れ去り事件の方の発端。
で、前置きが長くなったわね。ここからが本題、の前に。……ちょっと頭を回転させてもらいましょうか。貴方、私の言葉に飲まれてしまっているから。すごく集中はしているけれど、冷静にこれからの言葉を聞ける顔じゃなさそうだもの」
羽場さんはハッとした顔して、「はい」とだけ答えた。
◇ ◇
【この時の質疑の模様を、あの告白文と同じ形で、一言一句違わず書き残しておこうと思います。
Q.きのう、昼に警視庁を中心にぶちまけたA3サイズの告白文を、思い返してほしいの。私の生まれについて、まことさんとのQ&Aの冒頭で書いていたでしょう?もし「〇〇人」の単語の枠の中で表現するとしたら、――元々
A.えっと、「この世界の生まれではない」と書かれていました、よね。だから、その単語であれば「異世界人」でしょうか?
Q.正解。それで、
A.……その二択ならば、……私の目からは、どちらかと言うと、誰かを従える事の方が遥かに多い立場に見えました。私という、何も力の無いホモ・サピエンスから見た印象でしかありませんが、……「何かしかをやらかして強制隠居を喰らった」と書かれていましたね。その追放先がこの世界であったというのなら、楽隠居生活先のこの世界でこれほど強大な力をお持ちだと言うのなら、追放されて弱体化される前は、もっと強い力をお持ちだった。そういう生き方をされていたように思えます。
Q.正解。更に質問、論理的に考えればすぐ分かる内容よ。その私の故郷において、追放される前の私並みに力の強い存在は、果たして居たでしょうか?
A.論理的に考えれば、……「居た」と考える方が自然です。少なくとも、貴女を捕らえて、弱体化ペナルティを掛けるだけの力を持った何者か、そういう存在が居たのだと、……そう考えないと、あの告白文に書かれた貴女のお話が成立しません。その何者かが単体で貴女よりも強かったのか、集団で力を合わせて貴女よりも強く振る舞ったのか、それは分かりませんけれど。
Q.今、現代を生きるヒトに、私の故郷に足を踏み入れるだけの技術があると思う?
A.いえ、そんな技術が有るとは思えません。異世界に行く技術ということになりますよね? 私は技術分野のことには詳しくありませんが、今の世の中にそんな技術があるなんて、私は聞いたことがありません。
Q.追放された時の処分の絡みで、私は故郷に足を踏み入れることは出来ない。でも、「故郷の一族と連絡を取ることだけは今のところ出来る」。そう言うと、貴方は驚くかしら?
A.そもそも貴女の力の詳細も、故郷のことも、誰も何も知りませんから。……そう言われても、そういう物なのかと納得するだけです。
Q.私の実の姪っ子がね、――私にとっては兄と兄嫁の子なんだけど、……その子が、故郷の一族のまたややこしそうな相続争いに巻き込まれてしまってね。兄達が、「娘をどこかに一時的に避難させてくれ」って、伝手がある場所にほうぼう打診して回わってるらしいのよ。追放を喰らって狭間の屋敷に住まう私のところにも、打診が来たの。こちらの暦で4~5年預かってくれればそれで良いんですって。打診が来たのが10日くらい前でね、今は返事を保留していて、イエスかノーか、だいたい8日後くらいには返事しないといけないことになってる。
当たり前だけど、ホモ・サピエンスではない子よ。見た目4歳か5歳くらいの、ここの童話で言えばケットシーみたいな女の子。種族としての寿命が長い分、成長は、ヒトよりはだいぶ遅いわ。
この打診があった時は私は誰にも惚れていなかったし、まことさんを誘拐するなんて思ってもみなかったわけだけど、……今、まことさんを手元に置いた状態で、私がもしも「その子を預かる」「私と協力してその子の面倒を見てほしい」と言えば、まことさんは従ってくれるかしら?
A.私に訊くよりも日下部さんに訊いた方が良い気がしますが、……日下部さんは「物やヒトを治してもらう代わりに貴女に従う」と言われているのでしたら、心の中でどう思おうとも貴女に従うと思います。
話を聞く限りでは、そのお子さんを預かることが、この国の法律上での犯罪になる、という訳ではなさそうですし。恐縮しながら従うのではないでしょうか。
Q.そうね、羽場さん、ここから大事な話をするわ。私が訊きたかったこと。
兄に対してね、「4~5年の間、姪を預かる代わりに、その後は、私が守りたい相手を故郷に一生置いてくれ」って交渉すれば、おそらく兄は要求を飲んでくれるのよ。
追放者が、そういう風に死なせたくない相手を追放先の世界で見つけて、交渉の末に自分の故郷に置いた例、いくらでも私の故郷に転がっているから。私達一族の遠い遠い先祖も、同じように処刑逃れで救われて、救われた先で財を成して、それから相続争いが起きるくらいに大きく成り上がった。そんな一族だから。
もしも私がそんな交渉を兄と交わし、4~5年の間、姪の面倒を見た後、私の故郷にまことさんを逃がした場合。この国の警察はまことさんを捕まえられるかしら?
A.いいえ。……ヒトの技術で行ける場所ではないですから、そうなると、無理でしょうね。
Q.ねぇ、正義の名の下に強い絆を結んだ貴方に問うわ。一度渡るともう戻れない場所で、異世界という私の故郷で、まことさんと一緒に生きていく覚悟はある?
羽場さん。今から一週間後、貴方にこそ答えを出してほしいの。日下部誠の今後について。
まことさんは一人で放置させると勝手に病んで、壊れていってしまう状況よ。異世界に逃がすのであれば、貴方が一緒じゃないと厳しいと思う。
まことさんはね、まだ、何も知らないの。『私が飽いたらこの国のどこかに捨てられて、それで最終的には人生が終わる』流れなのだと、そのつもりでいるみたい。まだ、まことさんには何も、一言も言っていないものね、この姪っ子の打診の件は。私が故郷と連絡が取れる事、それ自体も何も知らないから。
貴方がこの話を望まないのであれば、私が兄に断りを入れて、姪っ子を預かる話を断って、それで終わりになるでしょう。その時はまことさんの想定通り、私が心ゆくまでまことさんを愛して、そして飽きたら捨てる流れになるだけ。
そこから、まことさんがまた拘留されて収監されることになれば、……貴方にはまことさんと一緒に生きていく覚悟が無いということなのだから、私、貴方にはまことさんとは二度と会ってほしくないし、やり取りも、してほしくない。
もし逆に、姪っ子を預かると決めた時は、4~5年後にはまことさんは私の故郷へ行く。貴方も、同時にどこで何してようと異世界に行くことになるでしょう。
運が良ければ私の実家周りの家事使用人、最悪スラムで身を寄せる羽目になるけれど、どちらにせよ貴方達は殺されはしないはず。文化上は、さっきまことさんが着ていたような灰色のローブを揃って着て、髪を今の貴方と同じ位に伸ばして、誰かにヘイコラしながら生きていく日々になるでしょうね。ホモ・サピエンスが他に誰ひとり居ない、倫理観も正義感も全く違う形をした世界で。
姪を預かっている4~5年の間、まことさんには故郷の言葉も文化も教えましょう。貴方には何も教えない。異世界に渡る日が来るまでの貴方の生活については、私は一切関知しない。
そうすれば、どう頑張っても、私の故郷でふたりで支え合って、生きていかねばいけない構図になるでしょう? 事件のことを思い出して思い詰めて病む暇も無くなるでしょう?
何も知らない羽場さんを遺して、ひとり勝手に生命を投げ出す性格ではないものね、あの人は】
◇ ◇
【羽場さんからの問いは2つだけでした。
Q.もし姪っ子さんを預かって、代わりに異世界に行く話がまとまったとして、もしもその4~5年の間に、私と日下部さんのどちらかが死んだり殺されたりしたら、……話がどう転ぶんですか?
A.貴方が突発的に死んだ場合はやむを得ないわよ、まことさんひとりでは病んでしまうのだろうと承知の上で、それでもあの人だけを兄に託すしかなくなる。死んだ人を蘇生させることは私には出来ないもの。
まことさんが突発的に死んだ場合は、……私が傍についている限り確率は極めて低いけれど、もしそうなった場合は、この話は最初から無かったことにならざるを得ないのではないかしら?
まことさんが殺されることは、私が囲っている限りは無いでしょう。
もしも、……もしも貴方が誰かに殺された場合に関しては、殺した側がただじゃいられないでしょう。私と兄の、取引の面子を潰したのだから。故郷から次元のレベルを超えて、わんさか呪いとか降ってくると思うわ。周辺数百人単位で巻き込もうとも気にしないレベルの、容赦が無い呪いが。
この場所では録音録画がされているのだから、だからこそ予言しておくわ。もし貴方とまことさんが異世界に行く道を選べば、この国の捜査当局は、何が何でも貴方の身柄を確保しにかかることでしょう。極刑にしか至らないはずの本来のまことさんの道筋を、よりによって貴方が思いっきり潰した事、その事への制裁もある。でも、何より、今後4年間ないし5年間の、その間の貴方の安全の確保のために。
今、私が話しているこの話を、偉い人ほど無視できないはずよ。貴方を、誰にも殺されない安全な環境に置かざるを得なくなる。この、ヒトの社会の安全を守るという観点から。幸か不幸か、毛利探偵とは違って、身柄確保の理由をでっち上げる必要は無いわけでしょう? 貴方、きのう夜の会見で違法行為をいくつも自分から自白してるもの。
貴方が決めなさいな。私が姪っ子を預って、それと引き換えにまことさんと貴方を異世界に逃がす話、この話を進めるべきか、否かを。
私は1週間後の面会の時、貴方の答えを聞きに来ます。貴方が面会に来ないのなら、私が無理やり貴方の答えを聞きに来ます。
それまで、他人に意見を求める事、他人の意見に耳を傾ける事、どちらも禁止させてもらうわ。貴方ひとりの決断とするのが一番良いのだと、私は思う。まことさんに、私からのこの姪っ子の話を打ち明けることも禁止します。……さもなければ貴方への説得攻勢がロクでもないことになりそうだから。特に公権力に属する人が一言でも貴方に意見をぶつけるのであれば、その時点で、その人の属する組織が丸ごと私に攻撃したものと判断させてもらうわ。
あくまで貴方ひとりで決めなさい。どちらの答えであっても私は受け入れる。
あくまでこの世界であの人の生命を終わらせるのも、ここでない場所で2人支え合って生きるのも、どちらも正解なのでしょうから。
Q.……失礼ですが、魔女さん。
貴女は4年か5年だけ日下部さんを愛でるという、……変な訊き方になりますが、その期間だけで満足できるのですか? その流れであれば、そのタイミングで、貴女ですら行けない場所に日下部さんを手放すことになりますよね? 『もっと長い年月手元に置いていたい』とか、そういう不満は無いのですか?
A.逆よ。私は私の在り方を充分に把握しているつもり、逆に、約4年ないし約5年、それだけのスパンで区切ったからこそ精一杯に愛し抜くことが出来るのだろうと私は感じてる。私がまことさんに向けた愛情はそう何十年もは続かない。
私はね、今、「まことさんに惚れている」というこの感情には誠実で居たいと思ったの。
貴方の一週間後の結論がどう転ぶか分からないけれど、……いつか飽きてこの世界の中であの人を捨てる時が来たら、その時は絆を結んだ貴方ですら、まことさんとは共に生きる道を選びはしなかったのだと、私は納得して、あの人を手放すことが出来る。
逆に、貴方がまことさんと共に異世界へと行く道を選べば、……私は、一度は心の底から愛し抜いたヒトの生命を、どう頑張っても殺されない場所に逃がしたのだと、私はまた納得して、兄達に貴方達の身柄を渡すことが出来る。
どちらであっても、私は、納得は出来るのよ】
◇ ◇
5月3日 11:20 東都弁護士会館 502号会議室
間違いなく脳裏に浮かんだ光景だった。
この時、羽場二三一は、間違いなく一瞬の夢幻を脳裏に見た。
――拘置所の建物を見上げる二三一は、ただひとり日下部さんを想って立ち尽くすのだ。
――心の内でただ反芻するのは過去の思い出。路上に立ち尽くす二三一はひとりで静かに呟く、「あの時魔女さんの手を取ればよかった」「日下部さんを死に追いやったのは私だ」と。
――ふたりの間の隔たりは遠いまま終わった、『二度と会わせない』『やり取りさせない』という魔女の言を、忠実に守ろうとする関係者ばかりだから。ただのヒトとして、ヒトが創った社会の中で、ただ法の名の下に『正義』が振りかざされた結果、あの人は拘置所の中で朽ちていった。
――孤独なだけのその日々は、どんなにか昏いことだろうか。
――灰色のローブを纏いフードを目深に被った日下部さんが、同じ格好をした二三一の腕を握ってしがみ付くのだ。
――フードから漏れる髪は白いものが交じった二三一と同じくらいの長髪で、この人は顔を歪ませて泣く、「なんで私なんかについてきたんだ」「私なんかにお前の人生を費やさなくても良かったのに」と。
――ふたりを遮る物は何もない、存分に触れ合うことを邪魔立てする者は、どこにも居ない。自分達の周囲にヒトは無く、ただ、人外が構築した人外のための社会がある。全うするべき『ヒト』の正義はここに無い、『ヒト』の正義から逃れて身を寄せて、そうして生きていくしかない。
――ふたりで支え合うその日々は、どんなにか甘美なことだろうか。
「……魔女さん。今は一言だけ言わせてください」
震える己の身を、自らの腕で抱き留めて、声を絞り出す。その声にも震えが混ざり、制御が出来ない。1対1の対話を望まれた時からずっとずっと思考し、温めていた言葉。今こそ相応しい時は無い正直な感想だというのに、それをみみっちく震えながらでしか言えないのは、己の心の、それこそ脆弱さだ。自覚しながらそれでも、ありのままを吐き出すしかない。
「……私は、貴女を心から好きになることも、心から嫌いになることも、両方とも、出来ないのだと思います……」
――『貴方がたの強い絆に敬意を。歪んだこの世間の中で、ある意味真っすぐで、ある意味
なるほど、この決断のかたちは、この重要で悩ましい選択肢の与え方は、敬意の表し方としては羽場二三一にとっては最上の物だ。この介入が無ければ、何も知らない無神経な世評に傷つけられつつ、まことさんが本来進むべき手続きを黙って見ているしか道は無かったろう。『一心同体』だと言い切った相手が、拘置所の中で償いを果たしたのをただ報道でのみ知る日が来る、そんな日が来るはずだったのだ。
しかし。自分達のこの絆はこんな敬意を払われるに値するのだと、そう判断されるほどには惚れこまれている。この女性に――!
「建前として言い切るべき回答は分かっているんです。一時は法の番人を目指していました。……でも、貴女がこんな介入をしている現状を、心のどこかで喜んでしまっている私も居る。……1週間後、私が出した結論がどんなものでも、……貴女は納得して頂けるのですね?」
魔女さんは、強い口調で言い切った。
「もちろんよ」
◇ ◇
【この時の羽場さんの心の有様は、私がまことさんに惚れた時と同じくらいに印象深いものでした。私が忘れることは無いでしょう。
例えるならばプリズムでした。プリズムに光を当てた時、一色ではない幅広い様々な色を、美しく反射して見せてくれます。羽場さんの心が見せた感情も同様でした。
決して単一色の物ではなく、散らばった多彩な感情と思考は、その心を抱える自身でも充分に把握しきれないくらいに、複雑で美しい有様を見せていたのです。プリズム状の魂の一面に、私が言葉という光を当てたのだと感じました。
羽場さんは、今後猛烈に葛藤するだろうという確信を抱えたまま隣の会議室に行き、そこでまことさんと久方ぶりに触れ合うこととなります。
最初から羽場さんは涙を流していたらしいのです。その顔のまま、開口一番、「私がどんな答えを出しても、日下部さんは受け入れて頂けますか?」と訊いたらしいのです。それから、泣きながら「さっき魔女さんに、日下部さんの生き方に関する大事な質問をされた」「質問内容は、日下部さんには教えられない」「魔女さんに口止めされた」「1週間後に質問の答えを話すことになる」と話した、と。
「たぶん迷いながら私は貴方の生き方を決めるんだと思います。どんな答えを出しても、日下部さんは受け入れて頂けますか?」と、泣きながら腕に取りすがる羽場さんを、まことさんは抱き寄せ、「良いんだ、羽場。お前の決断なら私はどんな物でも受け入れられる」と答えたそうです。
羽場さんは更に「例えば、……貴方を、本来の刑事手続きの場に、……逆戻りさせるような答えでも、ですか?」と尋ねました(私の口止めを踏まえるとかなり際どい言葉だと思います)。
まことさんは目を閉じてから「それならば、なおさら、……受け入れなければいけない事だろう。お前の決断なら、なおのこと」と、羽場さんの頭を撫でつつ、自分自身に言い聞かせるように言い切った、と。
私はその時の様子をリアルタイムでは見てはいませんでした。弁護人との面会の場と同様、覗き見るのを控え、非常食と水を屋敷に置いてくるという名目で屋敷に引きこもっていたのです(実作業として回収したこれらを全て屋敷に置いたので、嘘は吐いていません)。約束通り13時ちょうどに弁護士会館5階にまことさんを迎えに来るまで、面会の方は意図的に見なかったのです。
この時のこの場の様子を私が知ったのは、何もかもがとうに破綻した後でした。捜査機関が入手した当時の情報を諸々覗き見た際、そこから把握することとなります。
1週間後の羽場さんは、どんな答えを返していたのでしょうか、それを想像すると、この手記に文字を連ねている今時点での現実が却って突き付けられてしまいます。切なく、悲しい現実です。
結果的に、羽場さんへの私の問いは無意味なものになってしまったのですから。あの日、まことさんを襲ったあの悲劇のために】
※12/1 一部のフォント設定を変更しました。※
※日下部誠が起こした事件でどれだけの死者が出たのか、劇場版・ノベライズ版共に明記されておりません。このため、この小説でも人数の明言は敢えて避けました。作者の感覚としては、爆破事件、及びIoTテロ(諸々の事故の巻き添え)の合計で、死者数おおよそ7~9名としてざっくり設定しています。
次回予告:
「羽場、」「まことさん、ストップ!」
まことさんが口火を開く前に、私は止めた。
「……この件については誰であれ口出しを禁じたの。これからどうするかは羽場さんが一人で決める。羽場さん『だけ』で」
譲れない線だった。この歪んだ絆を含めて丸ごと惚れ込んだこの人に対して、そして絆を結んだ対象である羽場さんに対して、一番良いと思うのが、この決断のかたちだと、思っていたから。
次回タイトル:後編② そして悲劇は来たる/思惑とチカラ