後編が思いの外長くなったため、後編②と後編③に再度分割致しました。それでも後編②は2万字超となっております。
後編②はこの通り『そして悲劇は来たる/思惑とチカラ』、後編③は『魂が望むところ/名乗れる魔女と想い出の犬』となる予定です。どちらも、魔女、日下部、羽場、この3名の目線または手記形式で話が進みます。
当作品には夢主以外にオリキャラが出ます(日下部誠が司法修習生だった頃の恩師など、弁護士複数)。話の都合上、原作や劇場版のキャラクターが使えなかったため、当作独自の登場人物として創作を行いました。
現実の司法研修所の検察教官の実年齢については不明でありましたが、調査する中で『40代が適齢期とされる』という記載を発見出来たため、『日下部誠が大学を出たての頃に、40歳前後で教官をしていたキャラクター』として設定しています。設定として不自然になっていないことを願います。
【自分の感性が、ヒトとは違う方向に向かって生えている自覚はありました。そもそもホモ・サピエンスではない生き物ですから。
しかし感性が常識から外れていても、力と想いを向ける先が公的機関にとって想定外であったとしても、己の言動自体はおおよそ誠実であった、少なくとも現代日本の政治家さんよりは誠実であったと私は思います。
言えないことはあっても嘘偽りを吐く必要は無い。自分の心の流儀や故郷の慣習により守るべき作法は有っても、ヒトのしがらみに縛られることは無い。そんな人外にとって、本心から惚れ込んだ相手とその関係者に対し、不誠実に振舞う必要性がどこに有ったというのでしょう。】
◇ ◇
5月3日 13:00 東都弁護士会館 501号会議室
ワンピースの黒と、露出した肌の色が、突如、視界に湧いた。
「迎えに来たわよぉー」
予告通りの13時ちょうど、魔女さんは、日下部さんの椅子の真後ろにフッと湧いて出た。エッジオブオーシャンから消え去った時と同じく、音や光は無い。本当に前触れのない出現。
前髪を箒型の髪留めで留めて、ポニーテールを揺らしながらの笑顔。まるで子どもを迎えに来た母親のように、細い杖1本だけを握った右手を、こちらへ、……羽場二三一達に向けて大きくブンブンと振ってみせるのだ。
予告通りの時間だ。弁護士さん方にも日下部さんにも、魔女さんの現われ方にさほど驚いた表情はない。転移する魔術を初めて知るという訳ではないし。
日下部さんは、ひとりパイプ椅子に腰掛けていた。ローブと背広は脱いで傍の机に置いてあり、本人は白いワイシャツと黒いズボンという姿。
二三一と弁護士さん達は同じ型の椅子に座し、日下部さんをぐるりと囲んでいる構図だった。乱入した二三一がしがみ付いた先ほどの僅かな時を除けば、ずっとこの形で1時間半と少々の間話し合っていた。そんな位置関係の視線を浴びながら、日下部さんは座ったまま素早く振り向く。
「……ご主人様、羽場に何を語られたのか伺っても良いですか? 派手に泣きながらここに入ってきましたよ。本人が言うには、『日下部さんの人生に関わることを言われた。口止めされているから詳しくは話せない』と」
落ち着いた、なおかつ随分と気にしている様子を隠せない声。あえてこう訊いたのは、魔女さんの見解をこの弁護士さんらにも聞かせたいからか。あと、二三一が、魔女さんが口止めした事柄を即刻バラしたのではないか、と、危惧もしてるのか。秘密だと言っていた姪っ子さん周りの事は伏せているから、――その辺りは責められないはずだけども。
魔女さんはまず苦笑で返した。
杖を振って部屋の隅に立て掛けてあったパイプ椅子を引き寄せ、日下部さんの斜め後ろで座面を広げる。自分達と同じ様に腰を下ろし、杖を持つ腕を組んで、苦笑のまま視線を二三一に向けた。
「あらまぁ、結構きわどいことを言ったのねー。羽場さん。
まことさん、推理してみなさいな、ヒントを上げるから。……1つ目、『あなた達ふたりのさいわいは、この世界には無い』。2つ目、『羽場さんは、二択の前で立ち
二三一がややドキリとさせられた話は、この程度の言葉で取り合えずは流された。
柔らかさと真面目さと、それからほんの少しの揶揄が混ざった喋りで、魔女さんは、日下部さんに更なる思考を促してみせる。隣の会議室で二三一に問いを投げてきた時のように。
日下部さんの顔の変化は分かりやすかった。
頭に閃くものが有った、のは、……一瞬だけ。険しさしかない表情で浮かんだ事を言おうとして、しかし直前に逡巡が先立った、らしい。代わりに出たのは、膝の上の両手を握り締めながらの、感情を無理やり抑えつけた低い声。
「……今、推理した事を言ってみてもよろしいでしょうか? 突拍子も無くズレた内容になるかもしれませんが」
「言ってみなさい、まことさん。外れても責めはしないから」
――きっと良い線を行っているのだろうな、と、二三一は察した。
ここで日下部さんが見当違いの解答を述べる姿なんて想像出来ない。自分が泣いて告げた言葉と、魔女さんの2つのヒント。合わせて思考すれば、この人の頭なら妥当な推論が出来るだろう。
「ご主人様は、『この世界の生まれではない』と仰っていましたね。貴女は、……この世界ではない場所に、私と羽場の居場所を創り上げようとしているのではないですか!? それも、羽場が号泣してしまうほどの選択肢を付けて……!」
斜め後ろの
しかし元検事の気迫を目前にしてなお、やはり魔女さんは平然としていた。むしろ面白そうな笑顔でパチパチと軽い拍手をしてみせる。魔女さんらしく。
「勘が良いのねぇ。正解よ。全てを言い当てているわけではないけれど、貴方が今持っている情報の限りではほぼ満点の推理でしょうね。まことさん。……決断は羽場さんだけに委ねたの、答えは1週間後。そうでしょう、羽場さん?」
突然話を振られて虚を突かれ、我に返って大きく頷いた。
「は、はいっ! そういうお話でした! 『予定通りに日下部さんを心ゆくまで愛でて捨てる流れになる』のか、もしくは、『ここではない世界に日下部さんと私だけが逃がされて、手を取り合って生きることになる』のか、この二択だ、と……!
『日下部さんと一緒に生きていく覚悟が無いのなら、二度と日下部さんと会ってほしくないし、やり取りしてほしくない』、って、魔女さんは仰ったんです!」
姪っ子さんとか、異世界の伝手とか、その辺りのことは伏せた。明確に口止めされている範疇に入る。
魔女さん以外は流石に皆さん多かれ少なかれ驚愕の表情。弁護士さん達の中には、腰が浮いて絶句している方も居た。
◇ ◇
5月3日 13:03 東都弁護士会館 501号会議室
「羽場、」「まことさん、ストップ!」
日下部が具体的に喋り出す前に、――もちろん自分を見捨てるよう本人に告げるというか説得するつもりだったが、右斜め後ろからご主人様の制止が来た。声だけでなく、ワイシャツの右肩にも掌が置かれる。
「……この件については誰であれ口出しを禁じたの。これからどうするかは羽場さんが一人で決める。羽場さん『だけ』で」
腕を振り払ってみたくなる、『ふざけないで下さい』と一喝して、撤回を求めて
二択を提示されるのが羽場ではなく己ならば、迷うことなく即時に答えていただろう。
逮捕時に見せられた動画越しのあの対面が、結果的に今生の別れになっても構わなかったのだ。今日ここでこうして直に詫びることが出来た、それだけでも過分に幸せな事。
自己の生命など、幾らでも投げ捨てられるのだ。元々は拘置所の中で吊るされて終わりだと想像していて、昨夜からは飽きて捨てられて自ら生命を絶つことになるのだと想像している。どんな場所でも、平穏に生きる資格などもはや無い。無残で、孤独で、打ちのめされた死こそが、罪にまみれたこの身には相応しい。人命という被害は永遠に癒せぬままなのだ。
――何よりも、こんな自分が羽場の人生を拘束するなんて、……そんな道を選べるわけがない!
短く息を吸う。
責めたてない言葉を語彙から探して、ご主人様の目を見返しながら、質問する。端的に。
「…………。
では、ご主人様にお伺いしますが、……貴女を、そんな風な行動に駆り立てるものは何なのですか? 私は、いつか飽きて捨てられるのならそれで良かったのですよ」
この社会の公的機関ならば、もしもテロリストを留置場から連れ出すような行為があれば、その連れ出しは、何かの打算の末の決断でしかない。
だが、この方は人外だ。ヒトの倫理観を知ってはいても、振る舞いは捻じ曲がっている。おそらくは善意からこういう事を為したのだとは思うが、その動機を明確な言葉として聞いておきたい。
日下部の視線を受けたご主人様は、ゆるやかに微笑んだ。
「そうねぇ。私の魂のかたちはホモ・サピエンスにどんどん似ていくものだけど、でも、今のかたちは違うものだから、……という言い回しだと、理解し辛いかしら?
ねぇ、まことさん。私が狭間の屋敷で最初にしたお話、覚えてる? 私はね、『己がやりたい・面白いと思った方向にしか生きていけない』、更に『その生き方を維持する限りヒトを必ず凌駕する』という法則を、魂に宿してるの」
右肩に載せられたこの
目を見つめ返しながらの真摯でどこまでも落ち着いた言葉が、日下部を包むように連ねられた。眼差しも、声も、至極柔らかい。
「疲れたヒトが眠らなければいけないように、お腹が空いたヒトが何か食べないといけないように、……私は、私が貴方に惚れたあの夜から、『日下部誠に惚れた』という感情に、誠実に在りたいと思った。そう在るしかなかったの。
だからね、まことさん。私を駆り立てるものがもし有るとすれば、そうね、一言で言えば、そういう意味での『魂の望み』でしょうね。
タイミングが良かったのもあるけれど、でも、大事だったのは、……はくちょうが光りながら落ちてくる夜空の下、あの場所で見上げる貴方を見て、私が『この魂がこのまま失われるのは惜しい』、って、そう思ったこと、そう思ってしまったこと。本当に、いっちばん重要な点よ」
一昨日の夜、あの屋上を思い出す。傍で『はくちょう』に対処していた坊やと降谷警視。それから日下部。実はこの方も、魔術で姿を隠して現地に居られたという。きのう昼の怪文書に書かれていた事だ。
あの強烈な爆音、光、爆風、どれも紛れもなく己の過ちが打ち砕かれた証だった。自分の身勝手さにうちのめされながら、目を逸らすのは許されないと痛感して見届けた光景。
――そんな私に、こんな大罪人に、貴女は惚れ込まれたのか。
弁護人の方々も、羽場も、傾聴していた。誰もこの告白を遮ったりはしていない。
反論出来ない。望みのままに行動すること『しか』出来ない生き物であるという、その答えに無理に反論しようとするのなら、それは魂そのもの侮辱、あるいは、存在意義の否定。そんな内容で反論してのける度胸なんて、この場の誰にもあるはずがない。
警察の者なら、機会があれば『こんな男に何で惚れたんだ』『貴女の趣味が分からない』くらい言うかもしれない、が、……リスクを鑑みるとそんな言葉でさえ避ける確率も、同等に高い、か。
「私の力でも時を遡れない以上、起きた事件は取り消せない。死んだ人を生き返らせることも、産み直すことも、同様に不可能よ。
それでも、惚れ込んだ貴方と貴方達の在り方に、納得出来るように振る舞いたくて、……そうして考えた結果が、羽場さんへのさっきの提案になったの。1週間後の答えを待ってる」
――貴女を憎むことが出来れば、まだ楽だったでしょうか。
心の呟きもやはり声には出せなくて、ただ膝の上で拳を握り締める。自分が望まない形であっても、この方は、惚れ込んだという思慕から突っ走ってきた。そんな方を嫌悪することは出来ない。……何より、(物的な被害や他人の負傷だけとはいえ)望んだ一切を癒してもらったという恩がある。
そしてご主人様は、姿勢を正して羽場に向き直る。
「羽場さん、今日のしめくくりとして言わせて。
迷い抜いて決定してほしいの。今ここで打ち明けた事柄も、今は私と貴方しか知らない事柄も、全部ひっくるめてから考え抜いてほしい。
貴方達の絆を終わらせるのも、続けるのも、結局はどっちも方向性が違うだけの茨の道でしょう。それでも、自分だけの意思で選べるというのは、……今の貴方が一番欲しかったものじゃないかしら。どちらであっても私は責めないし制裁も無い。私が魂にかけて誓ってもいい。少なくとも、私からは。……私以外がどう行動するかなんて知ったこっちゃないけれど。
……まことさんでも弁護士さん達でも口出し禁止。貴方がひとりで決めた、答えを待ってるわ」
彼は、迷うだろう。言葉通りに迷うだろう。すぐ目の前で頷く顔を見れば分かる。
こんな自分との別離も、過ちに下されるはずの厳刑あるいはその前の自死も、羽場は心の底からは受け入れきれてはいないのだ。表面上はともかく、納得しきれている訳ではないのだろう、――日下部自身の思いとは違って。そうでなければこうも迷った風は見せまい。
己の魂の軸、歪んでいても確かに確固として持っていたものが、またひどく曲げられていく気がする。羽場が決めた事であるのならば納得してしまってもいいのではないか、という言葉が、悪魔の姿で脳裏に囁く。『断絶という道ならば自分は納得出来るだろう』、同様に、……『世界を跨いだ移住という選択でも、従うべきでないのか』と。
その思考の後ろめたさに、無言で唇を噛み締める。取調室で受けるような物とは方向性が違う、心への負荷。
厚意には違いないのだ。己の罪を追及されることなく、惚れ込んだという理由のみで望外な選択肢を提示する、それは間違いなく厚意だ。
ただ、単純にこの厚意を受け取って羽場との生を期待するにしては、身に着けてしまった正義感は強すぎた。逆にこの厚意を振り払って犯罪者たる魔女を嫌悪するにしても、受けてしまった恩恵が巨大に過ぎた。
◇ ◇
5月3日 13:07 東都弁護士会館 501号会議室
「で、弁護士さん達にも。ここでのお話は当然のこと、お隣りの部屋での羽場さんとの会話の記録も、羽場さんと貴方がた限りという条件付きでならデータに自由に触れて良いわ。それに基づいた討議も、弁護人限りであれば制限はしない。ただし守秘義務は厳守してほしいし、羽場さんに口出しを禁じた領域には、口を出さないで。分かってるでしょうけど。
当局への任意提出も止めてね。令状が根拠の差し押さえにまで『抵抗しろ』とは言わないけれど。……わざわざ自分達からデータを提出するなんて、そんなこと、刑事事件の弁護人の立場では、まずやらないでしょう?」
私の言葉を受けて、私選弁護人6人が互いに目配せを交わした。引っ掛かる事は有っても弁護士として致命的な行為の指示は無さそうだという思考のようで、しぶしぶながら全員が頷き合う。
そういう視線のやり取りの末に、まことさんの司法修習生時代の同期の一人が、答えた。
「……。分かりました」
「ところで、一週間後の面会はどこでやるのか決めてるのよね?」
これに答えたのは、まことさんの元恩師。弁護団6人全員がぐるっと並んで座っている姿を改めて見ると、やはりこの人だけ突出して老けてるし痩せていて、すっごく目立つ。残り5人が、まことさん並みにガタイが良いか、あるいは太っているか、どっちかだから、余計に。
「私の事務所です。弁護団の代表を私がやる事になりまして、『次の面会は取り合えずそこで良いだろう』という話がまとまりました。更に次どうなるか分かりませんが、まず来週はその場所で確定です。
日時は予定通り5月10日の同じ時間で、11時からでお願いします。ホームページに載せた案内図の印字資料を日下部君に渡しています、……さっき日記帳に挟んでましたね。魔女さんにもお渡しした方がよろしいでしょうか?」
その老け顔の視線が、傍の机の上に向いた。丁寧に畳んだ状態の上着類の、真横。今朝まことさんに創ってあげた薄青いA4紋章付きのノートも置いてある。
「いえ、まことさんに渡したのなら大丈夫よ。……さて! 行きましょーか、まことさん。
公僕の皆さんは、この建物の出入り口に観測用の機械をわんさか向けて、私達を外で出待ちしているみたいだから。ギリギリ犯罪にならないレベルでからかって、転移でトンズラしましょ。私にも貴方にも指一本触れさせるつもりは無いけれど」
立ち上がりながら杖を一振り、机上のローブと上着を畳まれたままで無音で飛ばし、まことさんの膝に置いた。『着なさい』という意味を汲んだ本人が、広げて羽織る。
着終わって椅子から腰を上げる姿を見て、更に日記帳を飛ばした。これは会釈して、……両手で抱えておくつもりらしい。可愛らしい仕草だ。
「具体的に、警察相手に何されるつもりか、伺ってもいいですか?」
弁護人のひとりが、本当にこわごわと訊いた。私の『からかう』がどんな物になるのか想像するのも恐ろしいのだと、そんな事を言いたげな顔で。
別に凶悪な犯行に手を染めるわけではない。まこさんの腕にしがみ付きつつ、あっさりと笑って答えてあげることにする。
「例えば、例えば、だけど、警察無線を故意に全体的にぶっ壊したら、それは犯罪でしょう?
では、もしも通信指令室の機械が、単純な経年劣化と整備不良で内部に埃が溜まってたせいで火花を吹いて、そのせいで警察無線が一時的にダウンしたのなら、どうかしら? 整備してる会社や担当者の責任は問われこそすれ、誰かがわざと破壊したのではないから、そういう意味では犯罪にはならない。そうよね?」
『もしも』がついた一般論だが、法律の専門家としては即座に同意できる質問のはず。
……現に、私以外の全員が(羽場さんもまことさんも)直ぐに頷きを見せてくる。
「じゃあ、
ちょっとだけ空気が固まる。固まるだけだ。「それ、本当に経年劣化と整備不良なんですか?」とは、誰も訊き返してこない。
気を取り直していち早く答えたのは、まことさんの恩師たる弁護団代表。
「……。えー、法的には、警察無線の関連法規には詳しくないし、専門書も手元に無いので一概には言えません。道義的には、……通報、した方が良いとは思いますけれど」
みんな悟れてはいるはずだろう。『正真正銘の内部不良』なのか、あるいは『内部の不良を装った、魔術による故意の破損』か、捜査する側も区別が付かない形で、おそらく無線は実際に駄目になってしまうのだ、とそう感じてはいるはずだ。
事実だった。数分後に起きるであろう異常、正確な時刻を世界で唯一私だけが見抜いている。
「あらぁ。そういう答えで逃げちゃうのね。まぁ、想像してみて。公僕の皆さんが、取り押さえたい者達に対面して、上司の指示を仰ぐその時。その瞬間に、無線から、ロクでもないレベルの悲鳴みたいな雑音しか聞こえてこなかった、としたら。……動く前にギョッとしちゃうでしょうね。
……ねぇ。実にタイミングよくロビーに出てきた相手は、この構図の中では、犯罪は何もしてないでしょ? 更に指一本でも触れずに対象が揃って消え去れば、本当に、どんな罪にもならない。通信指令室を整備してる会社が修羅場になるかもしれないけどね」
ニヤついているのは私だけだった。肯定したくないという肯定が、部屋に満ち満ちる。
◇ ◇
【「1階まで降りられるのですよね? お見送りさせて下さい」
「好きにしなさい。ただ、前触れなく揃って転移魔術で消えるから、それは承知しておいて」
「分かりました」
結果的にはこのやり取りが、私と羽場さんの間では、最後の会話になりました。
「! 魔女さん。羽場さんだけでなく私達もお見送りさせて下さい。……ここのエレベーターは案外窮屈ですから、全員とは言えませんが」
「それも、好きにしなさい」
「では、自分が残りましょう。ここのカメラ片付けておきますね」「僕も残ります。隣室のカメラを回収しておきましょう。部屋の鍵、お持ちですよね?」「……あ、はい、どうぞ。お2人ともお願いします」
この時弁護団代表に申し出て部屋に居残ったのは、いずれも体格が特に太めの弁護人2名。彼等にとっても、結果としてまことさんの生きた姿を見たのはこの時が最後になったのでした。
かくして、私、まことさん、羽場さん、弁護団のうち4名。総計7名でエレベーターに乗ってロビーに降り、あの現場に居合わせるのです。
痛恨の極みです。振り返ると、直後に発生する悲劇を全く察知出来ないまま、私はどれだけ偉そうな口を叩いたことでしょうか。
隠れた殺意から、私はまことさんを守り切ることは出来なかったのです。
何度も何度も思い返すのです。まことさんも当然ですが、羽場さんにも酷な形になってしまいました。一週間迷い抜く覚悟を固めていたのに、固めたそばから肝心の人が喪われてしまった。とてつもなく残酷な事でした。】
◇ ◇
5月3日 13:12 東都弁護士会館 1階ロビー
会館の正面玄関から見て、エレベーターはロビーの右奥の端に位置する。つまりエレベーターから見て、会館玄関のガラス戸は右斜め前方。――うん、警察の人達が踏み込む様子はない。
エレベーターのドアが開くなり、弁護士さん達の内1名と共にロビーに出た羽場二三一は、数歩で足を止めて後に続く人達を振り返った。弁護士さん2名の後に、魔女さんと日下部さんが出てきて、最後に弁護団の代表が続く。
消え去る瞬間そのまで見届けたい、と、羽場二三一は思っていた。見送ると申し出たのも、もちろんそれだけが動機だった。
振り返ったまま身長差のある主従を凝視する。魔女さんの背は成人女性の平均よりはやや高いくらいで、つまり日下部さんの方が明らかにデカい。ローブを着た日下部さんは日記帳を大事そうに左手で抱えている、右腕には魔女さんがくっ付いていた。魔女さんは、素肌の左腕を絡ませ、……右手はフリーだ。下げた腕は杖を握っている。
にこやかに、演奏を始める指揮者のように、魔女さんは玄関の方を見据えて杖を持ち上げる。
……「え?」、の呟きだけ声に出して、魔女さんだけでなく皆さんが表情を一変させて、それから一瞬あって。
――――!!
揺れる。
形状し難い音と衝撃、全身まるごと呑まれた気がして二三一は反射的に身を
ここから直線距離で20mくらい先、右斜め前の会館正面玄関、大型トラック、ガラスを割りながら突っ込んで、バックして、また突っ込む。
怒号、青い制服姿が何人も巻き込まれている、目と鼻の先、血と悲鳴と、大型トラックは玄関ドアのフレームに引っ掛かり、またバック、トラックの前面に視線が引き寄せられた。人が、ヒトの形をしていないニンゲンが、意識が無いようで、血だらけで――!
このロビーには、自分達の集団の他にもスーツ姿で立っていた人達がちらほら。みんな、目の前の状況に腰を抜かしているか凍り付いている。
「……まことさんっ、この建物から出ずに待機! 人助けして来るわ、想定外だけどっ!」「、はいっ!」
魔女さんの額、箒型の髪留めがひとりでに外れて本物の箒になった。駆けながら飛び乗られ、……ああ、髪型が、ポニーテールから、凝った三つ編みの結い上げに自動で変わっていく。
ガラスが衝撃で完全に外れきったドア上部を通り抜けながら、トラックを見下ろす形で、大振りに杖は振るわれる。
◇ ◇
5月3日 13:13 東都弁護士会館前
被害者は制服警官がメインだった。私達を表向きは取り押さえるために(実はパフォーマンスのために)やって来た、所轄の杯戸署の人達。1名だけ違う中年男性が軽傷を負っているけれど、逃げるはずみで転んで膝を擦りむいたというもの。『日売新聞』の腕章を着けている、たぶん仕事中の記者さんだ。
報道関係者は複数居て、お巡りさん達から見て一番の至近距離に居たひとりだけが特に巻き添えを喰らったというだけだ。TVの撮影クルーとか、他の新聞社さんとか、遠巻きに撮りまくって私を見上げている。面会や警察出動の情報がどこかから漏れていたのだろう。もしくは情報漏れに関係なく弁護士会館前にスタンバっていたのか。
ともあれ、箒の上で杖を振るった。重症そうな怪我人だけを見抜いて癒し、ふわふわと移動させて歩道に並べてそっと置く。唐突な浮遊移動に目を白黒させている人は居ても、文句は無い。
会館の出入口に半端に嵌り込んだトラックも、ギアをニュートラルに入れて車道に置いた。運転席には触れずにおく。暴走犯の脱力した足は、ブレーキからもアクセルからも外れている。手を出す必要など感じない。
「魔女さんっ! あの、」「負傷者が9、死亡者が2! 私が、魔術で視た結果だけどもね! 亡くなった人のうち1人は運転手よ! 轢かれて亡くなったもう1人は、そこの歩道で倒れてる!」
こちらを見上げて呼びかけてきたのは、さっきすっ転んだ記者さんだった。何か言ってくる前に叫び返して、ついでに魔術で拡声して教えてあげる。
それにしても嫌な話だ。毒を
「怪我人は後遺症がギリギリ残らないレベルで癒しておいたわ! 細かい外傷とかは自力で医者に掛かって何とかしなさい! 死んじゃった人は、どうしようもないから手を付けていないけども!
それと、……この暴走運転手、服毒自殺してるっぽいけど、身柄確保、やらなくて良いのー!? 私が魔術で視たところ、警察手帳を助手席の鞄に入れてるみたいよ? 貴方達と同じ、杯戸署勤務のお巡りさんっぽいんだけども!」
血だの傷だので制服がボロボロになった警官と、……それと、別口で遠巻きに待機していて難を逃れてたらしい私服刑事の皆さん方が、慌ててトラックに取り付いていく。同時に、装備していた無線が絶叫のような雑音を立ててからプツンと使い物にならなくなって、ほんのちょっとだけお巡りさんと刑事さん達に焦りの要素が追加。こちらの方は予想通りだ、どうせ無線は5分もしない内に復旧するし、何より電話は通じてる。実務面では問題ないはずだ。
制服警官が1名、助手席側の窓は空いていたので、そこを手掛かりにドアを開けて入って行き、運転席の顔を見て一瞬動きが止まった。そりゃそうだ、同僚だもの。
「まさか、毒を飲みながら同僚やら先輩やらに突っ込むのが職務のはずないでしょうにー、ねぇ?」
半ば煽り、半ば疑問のような口調を作って、思い浮かんだことをそのまま口に出した。職務で有り得ないのは分かってる。この暴走犯が急遽仕事を休んだ経緯は、遠隔透視で知ってはいた。
嘔吐下痢症に掛かり、きのうまで3日連続で病休だったお巡りさん。職務復帰が今日だった。で、復帰早々に上から降ってきた特別な仕事が、ここ弁護士会館での私達を狙った取り押さえ任務。細かい指令を知ってすぐに顔色を変えてトイレに10分近く籠り、個室から出てきた直後の第一声が『すいません、身体が治り切っていないようですので帰らせて下さい』。……上司も周囲もメッチャクチャ嫌な顔を見せつつ、渋々ながら受け入れた。
正真正銘、昨夜まで嘔吐下痢の症状があったのは間違いない。ただ、本日追加で休んだのは(私の目では)演技のように視えた。病み上がりには違いないので確かにフラフラで、仮病を疑う者は署には居なかったけれども。『相変わらず使えない奴だな』という視線が酷い状況で早退した、署内の対人関係がそういうポジションの男性であった、というだけ。
私が視てたのはそこまでだった。怖気づいて帰宅した所轄のお巡りさん、それ以上の何者かではなく、家で寝て過ごすのだろうと思っていた。それだけの人、だったはずなのだけど……。
「……ねぇ! 貴方達、どんな風に人間関係
杯戸署の皆さんの、精神の傷に塩を塗るどころか釘をぶっ挿すような一言。自覚はしてる。同じ職場の者に轢かれかけて紙一重で生還し、マスコミに囲まれ、おまけに警察無線が何故か駄目になっているという環境。箒に乗った『犯罪者』に高い所からこんな風には言われたく無いだろう。
後で監察だの報道だのネットだのから突っ込まれまくるはずだし、生命を救われた代償だとでも思って欲しい。完全に善意で公僕を助けるような甘い性格をしているつもりはないし、なってはいけない。緩いメンタルでの魔力大判振る舞いは世界そのものを歪ませる、というのが理由の半分。残り半分は、単なる私の気質だ。
箒に浮いたまま、魔術で触れなかったもうひとり、歩道に横たわる死亡者に目を向けた。
跳ね飛ばされ、更にトラックの下敷きになり執拗に狙われた制服着用の警官の身体。TVだと間違いなくモザイクが被される位には痛めつけられた、明らかな即死体。犯人に取り付いて救命処置中の面子とはまた別の警官が、2名掛かりで向かってる。メンタルをボロボロにしながら。
署内はきっとこれから大変なことになるだろう。暴走犯の遺書には名指しで恨み辛みが書かれているようだし、……まぁ、私の知ったこっちゃないか。
公安警察に対して殺意を向けた現職の検事が居たのだ。人間関係から同じ職場の先輩を轢く警察官が居ても不思議ではない、そういうことに尽きるのだろう。
どっちにしろ、殺された側はたまったもんじゃないだろうけれども、――っ!
怖気が走って顔を上げる。
有り得ない光景を透視で掴んだ。
ロビーに置いてきた大事な生命の、有るはずの息
◇ ◇
5月3日 13:13 東都弁護士会館 1階ロビー
――羽場二三一と、弁護団の面々の計4人は、後にここでの出来事を何度も思い返すのだ。
この時の自分達の見落としを、重い後悔の念と共に、ずっと振り返り続けることとなる。
◇ ◇
5月3日 13:14 東都弁護士会館 1階ロビー
日下部は、エレベーターの前に立って、割れたガラスの向こうの有様を見ていた。弁護人達に囲まれた、その真ん中で。
倒れ伏したりへたり込んだりしていた幾人かが発光しながら空中を移動し、更に突っ込んでいたトラックも同様に空中移動の末に車道に置かれていく。誰がどう見てもご主人様の御業だ。あの悲惨な事件現場を見下ろして、箒に座って浮いておられる。
ただこの会館の前の歩道で血だらけで伏している警官は、光りもせず動きもしなかった。一応こちらに伸ばした左肩から先の腕の部分はダランとしてヒトの原形をとどめてはいるのだが、それ以外ははっきりと分かる社会死状態。死者はご主人様の手でもどうしようも出来ない、という現実に思い至り、ただ、立ち尽くすしかない。
損傷具合を見れば、ご主人さまの魔力でもってもしても脳死状態にさえ出来るものなのかどうか怪しいところだが、……仮に可能であったとしてもそんな力を振るう事は無いのだろう。そういう考え方だと、昨日教わっているではないか。
遠慮なくズケズケと並べ立てられたご主人様の言葉が、混乱の極みにある警察官とマスコミに降ってくる。出入口のガラスは完全に無になっており、張り上げた声は不自然なほどこちらにも丸聞こえだ。何か魔術で声を届けているのかもしれない。
どうやら、この事件は『現職警官による同僚殺し』ということ、らしい。いわば身内狙いのテロ行為か。
喧騒が喧騒を呼び、多くの人が集い始めていた。
しかし道路上の面々が弁護士会館に踏み込んでくる素振りは無く、会館ロビー側で目撃していた人達も外に出る事は無い。何しろ、証拠を踏みにじらず怪我もせずに出入口を通るのが不可能なほどにガラスの損傷が激しい。しばらくは現場検証のために通行不可能になるのだろうと確信が持てるほどの『事件現場』だ。
運転席の暴走犯が複数人掛かりで地面に下ろされ、心臓マッサージが施されていく。こちらからは投げ出された足しか見えないが、暴れるような様子は見受けられない。ご主人様は先ほど「犯人は服毒自殺した」だ叫んでいた。とすると、この心臓マッサージもダメ元でやるしかない行為なのだろう。
――犯人が生きていたらどれほどの長期刑が妥当だろうか、……いや、そういう事を考える必要も無い、な。もう検事ではないのだから、
他人の事件をどうこう言える身分では最早ない。元の職に在った時のように一瞬でも考えようとしたこの頭を哂いたくなり、同時にこみ上げてきた気分の悪さに少しだけふらつく。
この暴走犯を、日下部が論評できるわけが無い。彼が受ける刑がどんな物であっても、己が受ける筈の刑よりも重くなることはあるまい。公安刑事を幾人も殺めた者が、
ふらつきも、気味の悪さも、ただ息を呑むことでねじ伏せる。結局は、体格の良い被疑者が弁護人に囲まれながら顔面蒼白で立ち尽くす、それだけだ。
その時、弁護団の代表になって頂いた先生が、そっと背後から話し掛けてきた。
「日下部くん、念のため下がろうか。ちょっとフードを被せても良いかな?」
表から見えるこの場所で顔を隠さずにずっと突っ立っておくのは色々な面で危うい、そんな判断、だろう。納得した日下部は、視線は事件現場に向けたまま頷いた。「はい」の答えを小声で返す。
――「ねぇ! 貴方達、どんな風に人間関係
――ザクッ……
唐突だった。
首の後ろ側、熱を感じた。
熱いほどに痛い、猛烈な違和感。
視界が歪む、声が出ない、上げられない。
音も色も触覚も、あらゆる感覚が木霊してひっくり返りながら、認識できるのは、首筋の温さ、視界に入った天井、いつの間にか膝をついていた床、慌てて差し出された誰かの腕に、引き寄せられて、
声が出ない、何もかも早急にグレーアウトしつつ消えていく。
唯一分かる色彩、まるで血のように温い、赤、
◇ ◇
【甘かった。その一言に尽きます。まことさんをああしておいたのは重大な判断ミスでした。
まことさんだけを狭間の屋敷に転送しておけばよかった。あるいは何か魔道具を創り出し身を守れるようにしておけばよかった。警官達に意識を向けきらず、もっとまことさんの周辺を見ていれば、あの悲劇は殺人の未遂で避けられた。そう思うのです。
一番の失敗は、警察官達の方に意識を集中させていて、まことさんの方に向いていなかったこと。弁護人に囲まれている、それだけで安心していました。前の晩、洋食屋で刑事に腕を引っ張られた時は絶対に許さなかったのに。
今更振り返って何よりも滑稽だと思うのは、弁護人は、バックグラウンドに諸々の打算を負っていたとしても、「取り合えずまことさんのために動くのだろう」と無邪気に信じていたことです。
司法研修所で大暴れして夢を絶たれた、裁判官志望者が居た。協力者を喪った恨みから公安刑事相手に爆破テロを起こした、現職検事が居た。人間関係をこじらせて職場の先輩を轢き殺した、現職警官が居た。
これら実例を全て目の前で見ておきながら、私は、弁護士の中に同種の者が存在しうることにどうして想像が及んでいなかったのでしょうか。裁判官志望者や現職検事でありながら道を誤ったヒトが居たのです。現職弁護士の中に、同じく職務倫理に反するヒトが居ても全くもって不思議ではなかったでしょうに。
「弁護団の代表が、弁護対象を刺した」。
結果だけ述べれば、発生したのはそういう事実です。凶器は隠し持っていた包丁、前日夜から砥石で懸命に研いでいたという鋭い物でした。場所は東都弁護士会館1階ロビー。目撃者多数の悲劇だったのです。
まことさんを含めその場の全員が、暴走事件の現場に釘付けになっていました。あの場で唯一まことさんよりも後方に立っていた元恩師は、元教え子たるまことさん自身の身体を目隠しにして、凶器をカバンから抜き出し、後ろから刺したのでした。
刺し傷は深くそのまま横に薙ぎ、首を半分裂いたのです。】
◇ ◇
5月3日 13:16 東都弁護士会館 1階ロビー
うめき声にならない声を聞いたのと、噴き出ずる血潮を浴びたのと、どちらが早かったろうか。
羽場二三一が振り返った時、あの人は猛烈に出血しながらフラフラと前方に倒れつつあった。とっさに横から受け止めて重さにへたり込み、いや、むしろ頭を地面に強打される前に己の身体を滑り込ませた、……という言い方の方が現実に合ってたと思う。なんにせよ良く考えずに直感で動いていた、この時点では。
重い身体を抱き寄せて座り込んだ視界を、一筋の光が駆け抜けた。
日下部さんの後ろに立っていた弁護士さんの腕に重く直撃、光弾は
包丁、血、日下部さん、首からの血、傷、包丁、刺されて、この人が、……、
――脳裏で、カチリと繋がった音がした。
瞬間、二三一は床の上で魂の底から絶叫していた。起こったことが把握できても精神は付いて行かず、叫びだけが喉から出続けた。
腕の中で抱き寄せた日下部さんは、生温く血を流しながら、何があったのかよく判っていないような表情で虚ろな眼を中空に向けている。脈は取れず呼吸もせず身じろぎ一つせず、――まるで死者のようで。
巨大な斧、……日下部さんの背丈よりもずっと長そうな柄の、大きな斧が、縦回転しながら現れた。壁に左手を戒められた弁護団の代表に向けて、振りかざす前の溜めのような角度で『それ』は浮いている。
狙われている当人はゲッソリとこけた頬を蒼褪めさせて、それでも厳しい無表情で、黒く光る刃を見据えたのだった。無言で自由が利く血塗れの右手を動かし、己のワイシャツの首元を乱暴に緩めて、一番上のボタンを弾き飛ばしながら顔だけは少し上を向く。さながら『狙うべき首がここにある』のだと示すように。――その態度の、意味。
頭がパンクしそうだった。
どう見ても受け止めきれない事が現実に次から次から起こっていて、深く考察するよりも前に混乱で何が何だか分からなくなる。それでも咄嗟に思い付きで吐いた言葉は、言語の形をして二三一の口から出るのだ。感情丸出しの叫びという形態で。
「魔女さんっ! こんなのの対処の前に日下部さんを癒して下さい! このままじゃ死んでしまいますよっ、貴女が愛する『まことさん』がっ!」
そうだ。TVの画面で幾度も流れて映し出されたように、さっき暴走事件の現場で負傷者相手にやってのけたように、魔術という奇蹟はヒトの怪我を癒せるはずなのだ。
この人を死者にしてはいけない。もちろん、この人に惚れている魔女さんもそう考えているはずだ。一瞬の光がこの人の全身を覆って、そうして意識を取り戻させてくれるはずなのだ。
でも、鮮血に塗れた日下部さんの身体は全くもって光らない。首の深い切り傷はいつまでも傷のままそこに在り、目に光は無く、一言も喋らないままだ。
「……いいえ。もう、無理なのよ。『このままじゃ死んじゃう』んじゃなくて、『私が気づいた時にはもう手遅れだった』の」
会議室で対面した時と同じくらいに真摯で、しかし比べ物にならないほど活力が皆無の声だった。
いつの間にか自分達の横に魔女さんは立っていた。斧の真横に立ちながらの視線は壁に繋がれた下手人の方に向けていた。……この言葉だけはこちらに向いていたが。血を多く浴びた羽場二三一と、日下部誠に。
「ねぇ、あと数秒早ければ、この殺人は阻止できたのでしょうね。ねぇ、そもそも、こんな遺体でも蘇生させる力が私にあるのだったら、どれほどに良いのでしょうねぇ!? ねぇ?」
黒いワンピース姿で下手人を
言葉の意味がじわじわと羽場二三一の心に染みていく。『手遅れ』、『遺体』、つまり、腕の中のこの人は。
「貴女の、」壁にべったりと背を付けて、弱弱しい声でも狙われた男ははっきりと言った。首元をはだけさせた体勢はそのままだ。痩せて老け込んだ顔はどこまでも青白く、それでも凪いだ眼差しをしていた。疲れ切ったのか、諦め切ったのか分からないそんな擦り切れた声を出して。
「……望むように、魔女さん」
彼女の、ヒトではどう考えても及ばない力を持つ女性の、怒りのボルテージが急激に増す気配を確かに二三一は感じた。斧がまた縦に回転する。周辺の人達は息を呑みあるいは叫ぶ、数秒後に起こる殺人を想像して。
硬い音が響いた。
振り降ろされた斧の刃先は、セメントの床に思い切りめり込んでいた。流血の事態では無かった。
『人体』をかち割るよりもまだ手前ではあった。たまたま刃先が反れたのではなく、狙って床に刺したのか。誰かがハッと息を吐き、だが、その安堵を無視して魔女さんは口をまた開く。声だけでなく、身体の軸もゆらりと不安定にしつつ。
「今まで生きてて、こんなにも誰かを想ったのはこれが初めてだったのよ、わたし……」
ふらりと後ろに倒れ込み、その黒いワンピースの身体を、日下部さんの私選弁護人のひとりが腕を出して慌てて支える。「魔女さんっ!?」、叫ばれ呼ばれる声の下、だらんと伸ばされた手足に動く気配は無い。
「ぁ、」
ようやく現状を飲み込めた二三一の口から、間抜けな声が漏れる。
己の膝の上、どうしようもない『死者』の虚ろな眼差しと目が合って、
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ーーー!」
今度こそ腕の中の『死』を抱き寄せ、羽場二三一は絶叫した。
あらゆる喧噪も声掛けも耳に入らず、ただ慟哭するよりほかに出来る事など無かった。
この身体を血塗れになりつつも抱えたという事実を、鉄錆のようなぬめりの下に確かに在った体温を、そんな日下部誠の亡骸の感覚を、羽場二三一は、一生忘れない。
◇ ◇
【日下部誠(40)、無職の元検事。
5月3日13:16頃、東都弁護士会館1階ロビーにて元恩師に首を刺され、ほぼ即死。
それが、私が見落とした殺意の結果でありました。
独断の犯行であったことは明言しておこうと思います。他の弁護人も、この恩師を信頼しきっていた。自分から弁護人として手を挙げ、手を挙げる理由ももっともらしく述べて弁護団に参加した人が、実は殺意塗れだったことを、誰も気づいていなかった。私が魔術で分析した心情です。
胃ガン闘病中で、先が長くないと自覚していた56歳ヤメ検弁護士。鞄の中に包丁を持ち込んでまことさんとの面会に及び、素知らぬ顔でまことさんの生命を絶つ機会をずっと待っていた。
表社会に戻ってくるつもりは無かったはずです。誰から見ても心証がとてつもなく悪くなる犯行です。私に殺されるかも分からず、仮に殺されなかったとしてもどんな手続きが進むのか、明確に承知していたはずでしょう。刑を全うするどころか、地裁の判決が下される前に自身の寿命が来るとはっきり認識していたはずです。
まことさんの犯行は、裏切りに見えたそうです。
検事から弁護士に転身する前、司法研修所の検察教官としての最後の仕事が、「誰がどう見ても優秀、かつ適性のある、検事志望の修習生を検事に推す事」だったそうです。そうして推されたのがまことさんでした。検事時代最後の仕事であった故に「日下部誠」への思い入れは強かった。
まことさんは誘拐事件の被害者ではありますが、それ以前に、検事としては絶対に許され得ないことを行っています。それら事件の一報を聞いた時から『元教え子に裏切られた』と感じていたそうです。最初から、研いだ包丁をカバンに忍ばせて面会に臨んでいた。まことさん本人の口から明確に犯行を認める言葉を聞いた時、殺意は明確に形になり、包丁を向ける時をずっと伺っていた、らしいのです。
大人しく司法の手続きに乗ったならまだしも、私という明らかにヒトでは御せない存在に付き従った事もなお許せなかった、らしいのです。自分の生命と引き換えにしてでもまことさんの生命に引導を渡すことを密かに決意し、その企みがそのまま完遂されてしまった。そうして弁護士会館ロビーでの殺害という悲劇は起きたのです。
奥底にある殺意を押し殺して平穏に振舞うスキル、動揺を一切見せずに平然と在るスキル、法曹の方々にとって絶対必須のものです。まことさんが検察に居た頃そうであったように、まことさんの先輩も後輩も、あの職場で『優秀』という評価を得た方々ならば、全員が身に着けていたスキルなのではないでしょうか。無論、司法研修所でかつて検察教官を務めていたあの弁護団代表も。
あの場に居た他の弁護人や羽場さんを責めること自体は簡単ですが、そうした心情は私には湧いてきません。魔力持ちの私ですら見落とした単独犯の犯行を、本質的に魔力面では無力でしかないホモ・サピエンスの方々に、どうして責任を負わせることが出来ましょうか。
私は気付けなかった。弁護人が胃ガン闘病中というのも、刃物を持っているという事も、気付くことが出来なかった。気付いていたなら、あの悲劇は避けられていたのです。
洋食屋で警部さんに「ヒトの流儀に合わせること」という要望を受けた事。それから、朝、まことさんより「弁護人や、弁護人の荷物への透視は止めて頂けますか」という要望を受けた事。それらの要望に無意識に引きずられてしまった。自らの力で覗くことを避けて、見落としてしまった。
弁護士会館での私選弁護人との面会は、(法律上の扱いはともあれ)まことさんの心情的には、留置場や拘置所での接見に等しいものでした。
魔術での分析は、結局は盗み視でしかありません。『弁護士に対してはそういう覗き見を止めて欲しい』という願いは、まことさんにとって『接見交通権の保証』という思想から出じた、ごく自然なものでした。ああいう形で殺されるために私に願った訳では、決してないはずです。】
◇ ◇
5月3日 18:26 杯戸警察署 取調室
――羽場二三一が、心から落ち着いて弁護士会館での出来事を振り返られるようになるのは、ずっと時が経ってからだった。
日下部さんは、鏡写しの殺意に生命を絶たれたのだ。
『司法修習生』と『検察教官』、『忘れざる司法研修所の記憶』、『ひとりよがりの正義』、『思い出に殉じるという動機』、……魔女さんの言い回しを借りれば、日下部さんの在り方をそのまま歪んだ鏡で反射させたような、そんな因縁にあの人自身が飲み込まれていったのだ、と。
当局の人達にとって、あの人が本来進むべき
ただしその本来の進路から逸れて生命を刈り取られた終端点は、あの人のこれまでの歩みからそうは離れていない、地続きの場所だった。
弁護士会館でのあの殺人は弁護士業界をはじめとして法曹界隈に酷く波紋を生じさせるものだった。弁護団代表のあの男の行為を全面的に擁護する人など、羽場に直に接する者の中では誰も居なかった。
テロリストである日下部さんの罪、留置場からの誘拐行為をやってのけた魔女さんの罪、そして、あの場所での殺人という弁護団代表の罪、それらを責めるのと同じように、不法侵入犯である羽場二三一を責める者は居た、けれども。恐る恐るでも言葉を選びながらでも不法侵入の事実自体を確認されるのは至極当然の流れではあったし、素直に従うべきことではあったのだけども。
でも、あの日下部さんの『死』自体を侮辱する者は居なかった。
当局の人達にとってみれば、日下部さんの本来の終わり方は『拘置所の中での刑死』、有り得るとしても『医療刑務所での病死』か『独房で急病死』。いずれにせよ、厳格に法令に則って枠の中で管理された人生のみが許容範囲であったのだ。
魔女さんの提案に乗って異世界に移住するということが許され得ないものであるように、日下部さんのあの死に方も、イレギュラーで許されるはずがないものだった。
法曹の中で公式に立場を有する人達が、事件関係者である羽場二三一の目の前で、あの『死』を侮辱し、あるいはあの『殺人』を許容するはずがなかったのである。
しかし、落ち着いてあの時の出来事を振り返られるようになった頃。
二三一は、インターネットの片隅にある愚痴染みた意見、日下部さんの死を悼み羽場に同情するもの以外の見方を初めて知ったのであった。
例えば、テロリストである日下部さんの死を喜び、魔女さんを見下し、弁護団代表を揶揄する下卑た意見。
それだけでなく、二三一の体験を悲劇として捉えつつも、それでも、羨ましがる意見。本来、日下部さんとの対話は、防護板越しでしか交わせないはずであったから。生きているあの人自身には一切触られず、もしも本当に触れ合う時があったとすればそれは『首に縄の痕を残した冷たい亡骸』であったはず、……そのはずであったから。
あの日、何にも邪魔されない環境で会話し、抱き締めることが出来た、そのこと自体に対するやっかみ。更に、死の現場を目撃したこと、温かな死亡直後の身体を抱擁したこと。それらの出来事を本来は有り得ない『贅沢』ないし『幸運』だと評した者は、表社会には決して出ないインターネットの中だけのボヤキであれ、確かに居たのである。
――ただ、そんな野次馬めいた第三者の意見に落ち着いて触れられるようになるのは、本当に大分時間が過ぎてからだった。
5月3日当日、あの殺人事件の後の羽場二三一は、衝撃に打ちのめされて泣きじゃくりそれからは茫然自失の境地に至るという、つまるところとてもではないが安定しているとは決して言えない精神状態であったのだ。
気が付けば杯戸警察署の取調室の中。衣類は血がべったりついたスーツではなく、別のポロシャツ着用で椅子に座らされていた。面識のない刑事に逮捕状を提示されているという現状で、やっとこさ我に返ることになるのだ。
「逮捕状、確認しなくても良いんですかね? 羽場二三一さん」「え、ぁ……」
『大丈夫かコイツ』と言わんばかりの目線で刑事達が凝視してくる。大丈夫じゃないかもしれない、と、己のこの有様を自覚しながら二三一は目の前に広げられた逮捕状を見やった。
通常逮捕用の逮捕状。記されている羽場二三一の氏名と、罪名は、
「……住居侵入罪」「そう。『被疑者死亡』で1年前に終わった事件の、捜査のやり直しだ」
舐めるように逮捕状を上から下まで眺めてみる。流石に不備は無さそうだ。二三一は折れ切った心のまま「……そうですか」とだけ答えた。
『死亡』というのが実は公安警察による偽装死で、逮捕されるべき者が生きていたというのだから、なるほど捜査はやり直されるのが筋なのだろう。
1年前に作った資料を流用すればいいのだからある面では楽であるはずだ。人の生死を歪めた公安の判断に対してはツッコミが山ほど来るだろうから、トータルでは有り得ないほど手間が掛かる形にしかなるまいが。
諸々動き始める刑事達に何か言う気にもなれず、溜息一つ吐いて、なされるがままただ従う。
一年前の焼き直しのような手続きが、これから続くのだろう。――無論、何もかもがそのまま焼き直されるのではないけれど。
自分の生命を掛けてでも守りたかった人、あの2年間密かに支え合い正義のために共闘していたあの人は、もうこの世には居ない。心の中で想いを向ける相手ではある。亡骸の扱いが非常に気に掛かかる相手でもある。でも、今後の身の振り方を案じるだけの生は、何も無い。
唯一、意識不明のまま病院に搬送された魔女さんの動静だけは気に掛かっているけれど、この人達に質問しても何も答えてはくれまい。その程度のことは朧げにでも思考できた。
5月3日18:30、羽場二三一はこうして住居侵入で逮捕された。
日下部誠の協力者として為した違法行為を洗いざらい自白したのち、地裁での執行猶予判決が確定したのは、年末のこと。
上記半年以上の期間は、ずっと、留置場ないし拘置所の独居房で過ごす日々であった。
だから羽場二三一は、この間、公安警察に降り掛かった記録的な惨事の、主体的な登場人物にはなり得なかった。
弁護士との接見で何が起きたのか見聞きする立場でしかなく、つまるところ『魔女』VS『公安警察』の戦いの、脇役でしかなかった。
次回予告:
【貴女は、関係者にとっては許されない子でありました。本来拘置所で朽ちるはずだった男が、無理やり魔女に誘拐されたために生じた、有り得ない生命でした。
でも貴女は、私にとっては望まれていた生命でした。愛する男性を喪い、代わりに子を宿したのです。心の底から産みたいと願ったのでした。
警察は、私を完全にヒトとして扱っていました。完全にヒト化したから子を宿したのだと誤認していました。私はその誤認を突きました。
私は、留置場で魔術を使い、屋敷に戻ってきました。中絶するようにしつこく圧迫してくる存在が一切居ない、そんな、心休まる場所に】
――あの『彼女』の手記より
次回タイトル:魂が望むところ/名乗れる魔女と想い出の犬(仮)、――鋭意執筆中!