差し当たっての問題は傘がないということだった。
1人空を見上げてため息をつく、雨はまだまだ止まないらしい。時刻は下校時間、部活のない俺は帰るに帰れず下駄箱でぼんやりと立ち尽くしていた。
雨がすぐ止むというなら、図書館で和泉を待ちつつ適当な本でも読もうかと思ったけど、そんな考えとは裏腹にバケツをひっくり返したような雨がバシャバシャと降り続いていた。
そう、今は自分1人しかいなかった。いつもの相方である和泉はやっぱりやる事があるらしく、先に帰ってくれと頼まれた。その用事とやらが俺の問題解決のためなら俺がいた方がいいのではと思ったが、和泉曰く
『確かにそうだけど、この話は僕一人で動いた方がやりやすい』
『何故って? そりゃあ君は鈴木くんの味方だと思われてるからね、その点僕なら君との繋がりはあるけど第三者の視点として説き伏せる事ができる』
『そう、君の予想通りこれは鈴木君と内田君、笠井君の問題だったんだよ、恐らくは』
『確定はしてないんだけどね。どうやら僕は鈴木君から逃げられてるらしく、彼と全く話す機会が作れてない……それこそ君の方が彼に近いし、直接聞けば答えてくれるんじゃないかい?』
『……そう、やっぱり君にも教えてくれないか』
『うん、確かに予想通りだった、僕の考えた通りの話ならば鈴木君の性格からして彼が君に語るとは思えないからね』
『それでもやっぱり僕は君に教えない、鈴木君が話さないという選択をしたのなら僕もその選択に従うさ』
『だから君は帰るべきだ、無駄に話を広げないようにね』
とのことだった。
和泉の動きの早さに感心されつつ、なんとなく俺だけ蚊帳の外に置かれてる感じがした。実際そうなのだろうけど。
思うに俺ではなく和泉に問題の解決をお願いしたならば、もっと速やかに話は終息してたのだろう。
もしかしたら鈴木は俺を通すことで婉曲的に問題の解決を図ったのかもしれない。俺が動くなら和泉も動く、そんな感じに。
「あれ、お前傘忘れたのか?」
噂をすれば影、振り向けば鈴木がいた。返事をする事なくまじまじと顔を見つめてると、顔を袖で拭い始めた。
「なに、なんだ? 俺の顔にゴミでもついてるのか?」
「いや別についてないけど」
「なんなんだよお前は、紛らわしいことするなよ」
多分そんな和泉が動くとかは期待してなかったのだろう、そう結論づけた。たまたま俺がいて、たまたま俺が首を縦に振ったから、俺になっただけで。
「あー、なんだ傘忘れたならこっち入っていくか?」
そう言って待っている傘を指差した彼女は無防備にすぎる、そう思った。
● ● ●
一も二もなくその申し出に乗り帰り道。傘の持ち主は自分ではなかったけれど、身長の関係から自分が掲げていた。
話すことも思いつかず、無言で歩調を合わせ続ける。喋ることは思いつかないのに、相合い傘ということで精神力はフルに使っていた。なるべく元の持ち主である彼女が濡れないように傘を傾けたり、水溜りを避けたり。
不運の中にも付きはあったのか。先ほどの雨より多少落ち着いてる分、右肩が多少濡れるけど、この程度なら我慢できる。
「これ俺がお前をおんぶして、お前が傘持ってもらうのが一番楽じゃないか?」
「鞄どうすんだよ」
確かにそうだと思う。鞄2つプラス鈴木の体重分、冷静に考えれば長い時間その重量を抱えることはできないだろう。鈴木の体重は知らないけれど。
「なんか失礼なこと考えてないか?」
「いや全然」
そんな俺の隣を車が通り過ぎて行き、跳ね飛ばされた水がズボンと靴を濡らす。思わず舌打ちをするが鈴木はそれに気づかなかったみたいだった、多分そこまで飛ばなかったのだろう。ついてない、心の底からそう思う。
我慢できずに口を開く、喋っていればこの濡れたズボンの不快感も薄れるかもしれない。
「鈴木ってさ、和泉のこと苦手か?」
「……なんでそう思った?」
「昨日とかすぐに逃げ出しただろ? 冷静に考えてみたら二人で話してるところを見たことない気がして」
「昨日のアレはなんか怒ってるように見えたから早く切り上げたかっただけだよ」
綺麗な紫陽花の花が咲いていた。それを横目に通り過ぎていく、カエルの鳴き声が1つ聞こえた気がしたけれど振り返ることにない。隣には鈴木がいるし傘は一本しかない、たかがカエルだ、そのまま歩き続ける。
再び鈴木が話し始めてるのを聞いて、すぐさま意識を戻した。
「っていうかお前がおかしいんだよ」
「なにが?」
「あいつと頻繁に話してることだよ、あいつが人嫌いなのか知らないけど事務的なこと以外で他に話してるのは委員長とかぐらいだろ?」
そうだろうか? いわれてみればそうかもしれない。差し掛かった信号が赤になり立ち止まる。鈴木の方をちらりとみたが、彼女はじっと前を見据えたまんまだった。
「そういえばだいぶ今更になるけど、鈴木は家どっち側にあんだっけ?」
「ん……それは別に気にしなくていい、お前ん家まで行って帰るよ、今日は遠回りしても別に時間は大丈夫だから」
喉元まで出かかった言葉を飲み込み、口を閉ざす。
そこに確かに拒絶する意思を感じたから、踏み込むべきではないと判断した。もしかしたら数年前の自分ならここで踏み込んだのかもしれないけど、それをしなかったのは自分が学習したからか、それとも恐れからか。
気まずい沈黙、和泉の話に線を戻す。
「話してみればいい奴だよ、何か困ったことがあれば助けてくれるし」
「そうかもしれないけどさ……なんというかこう、掴み所がないんだよ」
「ふむ」
掴み所、ね。俺とあいつをつなぐ共通点から少し考えてみる。例えばそう、趣味だったり。
信号が青になり、渡り始める。周りをぐるりと見渡すも、他に相合い傘をしてるような人は見当たらなかった。
「オセロとか得意だったりするか?」
「いや、全然」
「俺と和泉の付き合いは小学校の頃からなんだけどな」
ゆっくりと思い出す、こういう雨の日は印象に残りやすい。だからその情景を思い出すのにそれほど時間はかからず、脳裏に鮮やかに蘇ってきた。
「あいつは運動神経もいいけど、どちらかといえば室内で本を読んでる方が好きだったんだ」
だけども子供というのは勝ち負け、白黒つけたがるものだから。得てして二人揃った俺たちもその例から逃れることはなかった。
「手っ取り早い勝負のつけ方としてオセロを提案した、ルールは簡単だし、それほど長い時間勝負にかかることもない」
なにしろ俺もオセロでなら勝てると思っていたから、そう心の中でひとりごちた。俺からしてみればなんでも出来る和泉に何としても勝ちたかった。
マグネットのちゃちな盤だったけど、母さんからみっちりと鍛えられていた。
大体忙しそうにしていたけれど、休みである土日だけはちゃんと俺たちと遊んでいた。それでも休日ぐらいは休ませてあげたかったから、自然とオセロで遊ぶようになっていた。
母さんは初めこそ手を抜いていたものの、負けるとすぐムキになって大人気なく力の差を見せつけてきた。
負けた自分は妹をオセロでボコボコにし、泣き始めた妹を母さんが慰めるのがいつもの流れだった。
「オセロを初めてた頃は俺が勝っていた、和泉は初心者だったしそりゃあ俺に勝てるはずもない。だけどもあいつは負けず嫌いだったんだ」
そこまで喋り、ふと気づく。鈴木が完全に無言になっている。恐る恐る隣を見ると、鈴木は青汁を一気飲みしてみたかのような苦々しい顔でこちらを見ていた。
「もしかしてこの話つまらなかった?」
「いやつまらなくはないんだが、その惚気話いつまで続くんだ?」
「惚気話?」
自分としてはそのつもりはなかったが、聞き返したらさらに機嫌が悪そうになったので即座に話を終わらせる。
「あっはい、すぐに終わらせます。和泉はオセロがめちゃくちゃ強くて、今ではもうほとんど勝てないです」
「そうか、よろしい」
イエスサーと言ったところ、軽く頭を叩かれる。傘を持ってるからこちらから防御することもできず、鈴木がでかいため息をつくのをただ見つめるだけだった。
「もし俺の他に彼女が出来たら、お前和泉の話しないほうがいいぞ」
「なんで?」
「なんでって顔が……」
その先の言葉は口籠もり、よく聞き取れなかったけれど、その言葉はしっかり覚えておくことにした。
「ところでお前の行く方向に俺は付いてってるだけなんだけど、あとどのぐらいでお前の家に着くんだ?」
「あと五分もしないうちには、家上がってくか?」
「いやそれはいいわ、時間は十分稼げたし傘返してもらってそのまま帰る」
その言葉に一人安堵する。家で妹と遭遇した場合、何かがヤバい気がした。
ほんの一瞬の気の緩みがあった。家が近づいたこと、修羅場を回避したこと、相合い傘に慣れ始めていたこと、後ろをゆっくりと自転車が走ってる事に気付かなかったこと。それと少しの間の悪さ、要するに不運だった。
だからこその失敗だった、中身は男だろうと、今は鈴木の身体が女の子になってるのだからそれを忘れるべきではなかった。
相合い傘というのは傘の範囲に入ろうとする分、必然距離が近くなる。鈴木は水溜りを避けようと右は少し進路を変え、俺は後ろからくる自転車にようやく気づき、左に寄ろうとした。
必然2人は衝突するわけで、体格差から鈴木がよろけた。これはまずい、とっさの判断でコケそうになった鈴木を右手でぐいと引っ張った。
さて引っ張られた鈴木はこけることを回避したものの、引っ張られた方向に従い俺の胸にすっぽり抱き締められた。
その瞬間、俺の思考が加速した。女の子特有のいい香り、体の柔らかさ、小さいけれど確かにあった胸。
「わ っりい田中、もう大丈夫だ離してくれ」
「……」
「おーい、田中?」
心臓が早鐘のように打っていたが、それを鈴木に伝わらなかったのは幸運か。自分の激情を必死で抑え、右手を放す。
「……危なかった、俺の理性が」
「大丈夫か、お前? どこか打ったんじゃないか?」
「大丈夫だよ、万事オーライさ」
「ならいいけど」
心配そうに俺の顔を伺う鈴木はやっぱり無防備すぎた。だから気軽にそれに続く言葉が言えたのだろう。
「そういえばさ、今度の――」
その言葉を聞いて俺は笑うことしかできなかったし、それでも結局頷いたのは、どうしようもなく俺がダメ人間だったせいだろう。