カエルは基本的にオスしか鳴かないといわれている。というのもその鳴き声を大きく共鳴させる器官――つまるところ鳴嚢という器官がオスしかないからで、この増幅する器官がないとその鳴き声は半径数メートルまでしか届かない。
肺に溜め込んだ空気が喉頭を通り、鳴嚢に流れ込む。その時に喉頭が振動する事で鳴き声が出る。それが終われば、今度は逆に鳴嚢から肺へと空気が押し戻され、その繰り返しだ。その間、鼻と口は閉ざされて鳴き止むまで開くことはない。
かえりみちに今日も今日とてカエルが鳴く、TSが広がりと男が少なくなろうともそれに変わりはなく。紫陽花が一人綺麗に咲き誇っていた。
今日は一人で行く帰り道、呟く声は誰にも聞かれず。問題の解決の目処はついた――その声は雨音に掻き消されていった。
その解決法が誰にとっての最善ではないかもしれないけど、確かに僕の価値観にとっては最善の方法で手っ取り早くすむ方法だと思えた。
要するに切り捨てるという事なのだ。優先順位をつける事、僕にとって優先するべきことは彼であり、鈴木君がそこに割り込むことはない。それに内田君、笠井君をプラスして三人か一人かを選べかといわれてもやっぱり僕は彼を選ぶ。
彼ならば遠回りだとしても、それが実現するかわからなかろうとも、別の解決方法を考えたのかもしれない。
けれどもそれは彼の価値観だ、彼は自分を天秤に載せるかもしれないけれど、僕が彼をベットすることはないだろう。
ゆえに納得させた。卑怯だと思う、最善ではないだろう。それでも現実を突きつければ笠井君の方はあっさりと諦めた。だってどうしようもないじゃないか、
逆に内田君は諦めないだろう。押し付けだと分かっていたとしても、それを押し通すだけの心の強さがあった。もう少し手間がかかる。あと半分、もう半分というべきか。
雨がしとしとと、この町にも降り頻る。聞こえてくるのは雨の音と足音と僕が息を吸い込む音、それに遠くに微かに聞こえるサイレンの音。
こういう静けさが僕はあまり好きではなかった。自動販売機が機械音声を読み上げたけれど、僕はそれに構わず歩いていく。
今日は喉は乾いていない、強いて言うなら僕は彼との会話を求めていた。
ああ、今日はあんまり話す機会がなかったなぁ。このいざこざが終わり、鈴木君が彼から離れれば前のように話せるだろうか? いや会話するのだ、前よりももっと話そう、話すことならばいくらでもあるのだから。
見たい映画の話、将来の話、僕が読んだ本の話に、オセロの話。話す種ならいくらでも考えることができる、けれども話す時間だけが足りなかった。
そんなことを考え込んでると、あっという間に家に着いた。憂鬱、ため息を一つつく。おそらく、いやきっと父さんも母さんもまだ帰っていないのだろう。
けれども自分の予想とは違い、玄関の前には人影が見えた。
その人が誰かはすぐにわかった。いつも後ろから見てるから、それはもう飽きるほど、けれども決して飽きることもなく。
なんでまたと思う、ぱっと思い浮かぶ予想だとあの妹から問い詰められて逃げ出したのかもしれない。
けれどもそんな理由なんてどうでもよく、そこにいるという事実だけで少し心が温かくなった。
弾む心を包み隠し――けれども浮かぶ笑顔はどうしようもなく。軽く咳き込みをし、こちらに気づいた彼に僕は軽く声を掛けるのだ。
「君の家は隣だろう?」
と。
● ● ●
麦茶の入った容器とグラスを二つもって自分の部屋に帰って来ると、彼はじっと卓袱台に置かれたオセロの盤を眺めていた。
盤には前の盤面が終局の時のまま残っている。ぱっと見ほぼ同じ数、けれども黒の二石勝ち。
卓袱台の上には常にこの盤が乗せられていた。僕が負けた時は次にまたやる時まで、その盤面を残しとくのが常だから。勝ち逃げは許さないぞ、そう言う意味合いも込めて。
僕が勝った時は石を片付けてしまうから、それが彼の負けず嫌いを刺激するというのもわかっていて、ワザとそうしていた。その工夫あってか、それともなくても続いたのかはわからないけれども、今までこの勝負が続いていた。
彼は認めないけど、僕と同じぐらい負けず嫌いだと思っている。
前の盤面が残っているということ、つまり前回の勝負は僕の負けだった。TSする前の話だ、そしてこれからTSしてから初めて勝負をする。
僕の心配は杞憂に終わり、TSしても僕らの関係性は変わらなそうだった。
「はい麦茶」
「ん、サンキュー」
グラスに麦茶を注いで渡すと、ようやく盤から意識を外してこちらと視線が交錯した。すぐに視線を逸らして一気に麦茶を口に流し込む。再びつっと差し出されたグラスに麦茶を注ぐ、今度は一気飲みせず一口含んだだけ、そしてようやく彼は言った。
「じゃあ、やるか――先手後手どっちがいい?」
「どっちでもいいよ、どうせ交代して二回戦やるんだし」
「じゃあじゃんけんで」
さいしょはぐー、じゃんけんぽん。
案の定、彼はチョキをだしてこちらが最初に先手を選択した。
盤からお互いに30個づつ石を回収して、僕は無造作に一つ石を置いた。パタリと一つ白が反転する。それを見てすぐに彼の右手が動いた。その彼に向かって僕は声を投げかける。
「それでなんで君は僕の家の玄関の前で立ってたんだい?」
「妹にちょっと彼女のことで追及されてな……」
序盤は通い慣れた道、あまり考えることもなくパタパタと手が進んでいく。自分だけが知ってる定石に誘導することもなく、感覚的にただただ進んでいく。
それは彼ぐらいならそんなことしなくても倒せるという慢心ではなく。同じ盤面を見て頭をフル回転させて同じ事を、体験を共有したいということだった。
考えが少しでも足りなければ負ける、読み抜けがあればスルスルとそこを抜かれるのはとっくにわかっていた。その形が前回の盤面だった。
次第に手の進みは遅くなっていく、待ち時間は決めてないから思う存分に考えを振り絞ることができる。その間にたわいも無い会話が飛び交う。
「まあ妹さんにうっかり口を漏らしてしまったのは僕のせいだったんだけどね、申し訳ない」
「ごん、おまえだったのか」
「僕は狐じゃないよ」
「そうだよな、どちらかといえば犬っぽいもんな」
「そうそう」
彼の忠犬であり、番犬でもある。犬耳をつけた僕の姿が脳裏に浮かび、すぐにかき消した。僕からしてみれば少しきつい絵面だった、ただそれだけ。
「明日学校いたら休みだね」
「やっと今週も終わりか、長かった」
そう石を置きながら振り返る姿はどこか哀愁が漂っていた。ノータイムで僕も黒を置き白石をひっくり返していく、ちょうど彼ならここに置くだろうという僕の読み筋と彼の指し手がぴったりと噛み合ったからこそ。
「休みになったらなにをしようか、君は何か用事があるのかい?」
「……」
ひゅっと息を吸い込む音がした。けれども続く言葉はなく、僕はさっと彼の顔を見やる。
何かを隠してる顔、言うべきか言わざるべきか悩んでる顔。読み取ることは容易かった、彼は隠すことが昔から下手だからこそ。
「何か隠したい用事があるんだね」
「いや、あの、その……隠そうと思ったわけじゃないんだが」
軽くカマをかければすぐにタジタジになる。本当にどうしようもなく、彼は隠し事が下手だった。じっと顔を見つめていると観念したのか、一つため息をついてぽつりぽつりと語り始めた。
「映画を観に行くんだ」
「へえ、それは良かったね、なんの映画を観に行くんだい?」
「まだ決まってない、これから相談して決めるから」
相談して決めるからとの一言を聞いて、さっと一瞬で思考は巡る。映画を観に行く、それも一人ではなく僕じゃない相手と。彼の妹とではないだろう、逃げ出してるし昨日会った限りそんなことを約束してる様子もなかったから。彼女はブラコンだから、そんなこと約束したならば会った時に自慢すると決まっていた。
ならば誰か、もう必然的に相手は決まっている。ポロリと手から落とした石を拾い上げて僕は言った。
「無駄に話を広げないでくれって言わなかったっけ?」
「……ごめんなさい」
「謝ったってもう遅い、でも顔を上げていいよ」
謝罪と共に速やかな土下座、それを止めながらも僕は思考を必死に巡らせる。どうしてこうなってしまったのか、何からいえばいいのかよくわからなかった。
「鈴木君のこと好きになったのかい?」
「いえ、それは違うんです」
挙げ句の果てに出てきたのは僕ですらあきれた問いかけ、それを真面目くさって答える彼を見て、僕は少し笑う。
問題解決はもう目の前に見えてるのに、彼から近づいては本末転倒ではないか。それを実際に言うことはなく、僕からはただ一言だけ。
「鈴木君にあまり深入りしちゃだめだよ、君」
その言葉があまりに薄っぺらく、自分本位であることは分かっていた。彼を独占したいからこそ、けれどももしかしたら手遅れなのかもしれない。彼は僕のものではないのだから。
何か縛るための鎖が欲しいのは、やっぱり僕が間違っているのだろうか。うん、間違っているのだろう。そうだとしても僕は――。
何か言いたそうな彼を無視して、音高らかに石を盤に打ち付ける。とりあえず彼のことはオセロでボコボコにする、話はそれからだ。