5から8
彼女にとって兄が陸上部をやめようとも、それを彼自身の選択として尊重すると決めたようだった。
同じ情報を得たのに内田と鈴木妹の出した頼みは真逆の向きを向いている。
拒否、そして受容。
そんな二人と比べて俺はただ立場を明確にせずにタイムアップを待っていただけ。和泉に問題の解決を頼み、ただ漫然と過ごしていただけだった。
彼女は自分が悪いと言ったけれども、それはいささか自罰すぎるように思えて俺はそんな彼女を責められない。
彼女は悪くない、ならば俺はどうなのだろうか?
俺はどこまでいっても普通だ、問題の解決ならば和泉の方がずっとスマートに片付くだろう。
だから頼むのがあいつに頼むのが最適解だと思った。
それでも彼女の頼みを横流しせずに承諾したのはそんな俺でも何かできるんじゃないかと思ったからか、それを認めたくなかったからか、それとも。
ともかく、ぱあっと明るくなった彼女の顔を見て、いまさら『やっぱり無理です、すいません』とは言えないことは確かだった。
この程度のことで失敗できないと、じくじくと胃が痛み始める。
できる筈だ、そう自分を奮い立たせた。
そんな俺をじっと見つめる視線がベッドの上に一対あったことに俺は気づかない。
● ● ●
「さてズッキー、そろそろ時間まずいんじゃない?」
「はわっ!」
話が済んだと見たのか布団からのそのそと這い出てきて、鈴木妹にピタリと張り付いた。先ほどのくすぐりの恐怖を覚えていたのか、慌てふためき引き剥がそうとするもがっしりと腕が固定されて動かない。
「だから時間だって、スマホで確認してみなよ」
確認するなりスーッと顔を青ざめる、門限が厳しいのだろうか。
今にもぶっ倒れそうな顔をしながらもこちらにスマホを突き出した。
「あ、あのっ連絡先を交換して欲しいんですけど!」
断る理由もなく、差し出されたQRコードを読み取った。
表示されたアイコンは彼女とTSする前の兄の画像、俺の妹がよくわからないマスコットをしてるのと比べれば喧嘩する前の仲の良さがわかる。
それがすでに過去となろうとも。
「それじゃお兄さん、今日はありがとうございました」
「いやまだ俺は何もできてないから、今日は帰るの遅くなってすまん」
「いいんですよ、前触れもなくきた私が悪いんですし」
まあ彼女は俺の連絡先も知らなかっただろうしと妹に視線を移すと、合わせないように露骨に視線を逸らされた。
「先にお兄ちゃんに知らせようかと思ったけどお兄ちゃん全然既読つけないし、いつもなら帰り遅くないからいいかなーって」
「……粗忽者」
「なにおう!」
ぽかぽかと殴りかかってくるのを片手で制する。
それを見て微笑ましく思ったのか、彼女は言った。
「仲いいじゃないですか」
「「いや全然」」
「ふふっ、仲良きことは美しきかなですよ」
そう言って立ち上がり、思い出したかのように再び俺を振り返った。
「とりあえず今日は時間がないから帰りますけど、私のメッセージは無視しないでくださいね?」
「ああ、善処する」
「ではこの辺で」
それだけ言って彼女は部屋を出た。
最低限の礼儀だろうと見送ろうとして、肩にポンと手を置かれた。
「お兄ちゃんはこの部屋で待ってて」
「でも」
「いいから、これから話すこともあるし」
絶対に逃がさないという意思が目に現れていた。
仕方なくまた座り込んだ俺の前にジュースが入ったグラスを置いて、妹は後を追いかけていった。
飲んでいいよということだろうか? その言葉に甘えてそれまでの渇きを癒そうとゆっくりと口に流し込んでいく。やけに喉が渇いていた。帰ってから何も飲んでなかったいたのもあるし、さっきまで緊張していたのもあるだろう。
それを飲み干して空いたグラスを机に戻すと扉が開く音がした。
「あれ、私のオレンジジュースは?」
後ろ手に扉を閉めながらキョロキョロと周りを見渡すのを見て、俺は自分の失敗を悟った。
冷静に考えれば妹はグラスを三つしか持ってこなかったし、元から俺のグラスはからのままで新しく注がれることもないのだから、俺の妹の分だって事は分かっていた。
けれども俺の前に置かれたから飲んでいいものと勘違いしたのだ。
冷静であれば飲まなかったろうものの、俺は平常とは程遠かった。
黙ってようと俺の前の机のあるグラス三つを見ればすぐにバレるだろう、むしろまだばれてない方がおかしい。
言わずに黙ってひどい目に会うより、すぐさま俺は自己申告することにした。
「すまん、飲んでいいかと思って勝手に飲んだ」
「……へぇ、ふーんそうなんだ」
「……?」
肩透かし、ぶつくさ文句を言われるかと思ったもののそう呟くだけだった。
並べられた三つのグラスを眺めていたかと思えば、つい先ほど俺が飲み干したグラスをとっておもむろに注ぎ始めた。
「それ、俺が使っちゃったやつだけど」
「別に大丈夫」
それだけ言ってぐいっと一気に飲み干す。
なんとなく、それは俺がしたことを気にしてないよといってるかのように思えた。
はぁと俺は言葉を漏らす、まだ話は続くのだろうとおもいながら。
● ● ●
「それでさ、お兄ちゃんは失敗したの?」
そんな曖昧で漠然と、不明瞭な質問。
抽象的な問いかけだろうとすぐに意味はわかった。
俺は失敗したのだろうか自問する。おれは何かをできたのだろうか?
「いや、俺は何もしなかった」
「ふーんそうなんだ」
それを聞いただけであらましをだいたい理解したのか、うんうんと首を縦に振った。
「『俺はなにもしなかった』、確かにそうかもしれないね。けれども他の誰かが何もしなかったとは言ってないよね、お兄ちゃん」
「それは穿ちすぎじゃないか?」
「お兄ちゃんだからこそだよ。物事をほっておけない性格なのは私が知ってる、だからこそTSしたことで陸上部をやめると知ったのならば黙って見てたはずがない」
良くも悪くもお節介なのだから。
俺はそんなにたいそれたやつじゃないのに、妹は自信満々に言い切った。
沈黙を肯定の捉えたのか、朗々と言葉をつなげていく。
「誰か他に動いた人、そしてお兄ちゃんが任せそうな人。お兄ちゃんのクラスメイトはズッキーのお兄さんと和泉お姉ちゃんぐらいしか私は知らないけれども、和泉お姉ちゃんが動いた」
「ああ」
「認めたね、お兄ちゃん。失敗したと言わなかったことから和泉先輩とお兄ちゃんにとって一応の成功を収めたんじゃないかと推察、もし頼んで失敗したのならお兄ちゃんなら他人任せにせず自分が失敗したと認めるでしょ」
まるで簡単なパズルだと言わんばかりに少ない情報からピースを次々とはめていく、けれどもそこでピタリと止まって眉をひそめた。
「でもそう考えると不思議なんだよね。それだとまるで和泉先輩も鈴木先輩が陸上部をやめることを着地点として動いたように見える、なんでだろうね?」
「何もおかしくないだろ?」
「……そこがお兄ちゃんらしくないんだよ」
そう妹は不満そうに呟いた。私情を排するために和泉のことすら他人のように先輩と呼び変わっていても、俺の呼び方が変わってないことに気づいてないのだろうか?
「鈴木先輩が陸上部を止めようとして、それを和泉先輩が手伝った。ただやめるだけなら和泉先輩なんて要らない、まるで他に誰かお節介がいたか、多分居たんでしょう?」
「ああ、陸上部をやめるべきじゃないって思う鈴木の友達がいたから」
「じゃあ何でお兄ちゃんはそっち側に立たなかったの?」
じくりと頭が疼く。
まるでそうするのが当たり前だと言わんばかりの台詞。
なんで俺はそうしなかった? このまま陸上部を辞めてもいいんじゃないかと思ったからか?
ならばこの胸にあるざらつきは一体なんだというのだろうか。それこそ俺が認めてないという証拠ではないか。
ならばなぜ俺は動かなかったのか?
途中で鈴木が来たからか、いやそれは俺の言い訳に過ぎないだろう。
「重症だね、お兄ちゃん」
「……おれはなんともないけど」
答えが見つからず、延々と問いを繰り返す俺に呆れたような言葉をぶつける。
ほんの少しの頭痛はあれど、いたって健康。なのに何故妹は俺を哀れむような視線で見ているのだろうか?
「自分の行動を見返して分からないの? 私はわかるのに」
「……俺が何か間違ってるのか?」
「いや、間違ってはないんだけど」
「勿体つけてないで教えてくれよ」
「じゃあ言うけどさ、正しいことが絶対に良いこととは限らないじゃん」
ベッドがギシリと軋む音がした。
正しいこと、その言葉が頭に染み込む。頭痛が酷くなりつつあった。
「今回お兄ちゃんは他人に頼んであとは傍観していた、そんなこと昔なら絶対なかったのに」
「俺は不器用だから」
だから和泉に頼んだ、それが一番いいことだと思って。
そこまで考えて先ほどの妹の言葉の意味がようやく悟る。
「つまり、和泉に頼んだことが失敗だと?」
「失敗までとはいわないけどさ。なんでお兄ちゃんが動かないの、不器用だから?」
「そうだ、和泉に頼めば安心だと思った。だから」
「それはダメだよ、お兄ちゃん」
本当に腑抜けたね、心の底から悲しそうにそう言った。
「諦めて、甘えて、逃げて、この様。でもこんなことになるまで放置したのも私も私か」
「……俺に何を重ねてるんだよ」
不器用で、傷つくのを恐れてるばかりの俺に何を求めるんだ。そう無性に叫びたかった。けれども絞り出したのはそんな言葉で。
「そうだね、私もお兄ちゃんに夢を見てたのかもしれないね、ごめん。だからもういいや」
話は終わりと言わんばかりに、その言葉だけを置いて妹は机に向かった。
ほんの少しの怒り、けれども何故という疑問の方が大きかった。
勝手に失望されて、突き放されて、けれども部屋を出ていかない俺を、何やってるんだとばかりに顔だけこちらに向けた。
「……まだ居るのお兄ちゃん」
「ここで引き下がったら兄失格な気がしたから」
「まだ失格じゃないと?」
「失格の理由がわからないと、どうすれば合格できるかもわからないだろ?」
「まだ終わってないと思ってるの?」
「当然」
「……馬鹿みたい」
そう言いながらも椅子をくるりと回転させ体ごと振り返る。
「お兄ちゃんはそもそも、なんで自分に自信が無いか分かってる?」