悪い夢を見ている。
いつもの登校路を俺は必死に駆け抜けていた。
俺の背後から迫ってくる空中に浮かぶ手が、これは現実ではないと声高に主張している。
まだ後ろにいるぞと俺に知らせんとばかりにどんどんどんと後ろから地面を揺らす音が響く。拳を振り上げただ振り下ろすだけの仕草だ。それが巨大でなければ対して危険ではないのに。
嗚呼、悪い夢だ。
それを自覚しようとも夢が覚めることはなく、できることといえばがむしゃらに前へ前へと足を進ませることだけだった。
身体は重くいつものように動かせられない。
ただ後ろの手も俺と同じように動きに制限がかけられているようだった。俺に追いつくことができないかわりに、ぴったりと後ろから離れない。
このまま走り続ければ逃げ切れるのではないか、そんな淡い期待を抱いた。
本当にそうだろうか? 後ろの奴はいつでも追いつけるんじゃないか。
ならばなぜ追いつこうとしない、獲物を痛ぶり弄ぶため?
はたまた――この先に誘導しようとしているとか。
夢は悪い方へ悪い方へ進んでいく。
俺を追いかけている手は片手だけだ、もう片方の手はどこへ?
その考えが思い浮かんだ瞬間右側から猛スピードで片手がカッ飛んできた。
躱せないことはすぐに悟った、点の打撃ではなく面を制圧する薙ぎ払い。
唐突な無理ゲーだ。
夢の中で死んだら現実でも死ぬのだろうか。そんな考えがよぎり、すぐに衝撃がそれを含めて、全てを吹き飛ばした。
誰かが泣いている、それを慰める声も聞こえる。
気がつけば俺は地にふせて、ただ天井を見上げていた。
懐かしい天井だ、ただ見覚えはあるのにそれがどこの天井か思い出せない。
ゆっくりと身体を起こす、周りを見渡せばどんな状況かすぐにわかった。
懐かしき小学校時代、あの教室、あの時、あの場面。
後先考えずに行動できた時の俺の記憶だ。
周りから俺の言葉を非難する言葉が聞こえていた。
それを無視して俺はあの席に着く。
物事を解決する時、痛みを覚悟しなければならない。
ちゃんとそれを理解していた、だからそれを黙って受け入れることができた。
不器用ゆえに、それ以外の解決方法がわからないゆえに。
多分俺が最も俺らしくあった時の記憶。
それを誇らしいと思うこともなく、哀れに思うこともなく、俺はただただ羨ましかった。
知らないことがいいこともある、そして俺は知ってしまった。出会ってしまった。
ここがスタート地点だったのだろう。
出会いは必然か、偶然か。
もし出会わなかったら俺はどういう道を歩んでいたのだろうか。
もう全部終わった話なのに、どうしようもなく、そんなことを思わざるを得ない。
口の中に遅れて血の味がジワリと広がっていく。
それだけがただただ不快だった。
場面が暗転し、切り替わる。
どうせこの場面が来たということは次の場面はとっくに予想できていた。
目を逸らしたくてもそれが叶うこと能わず、次の記憶が投影されていく。
「はじめまして、になるのかな」
「多分そうだな、まあこれからよろしく」
時が経って同じクラスになったあの春。
この時が初対面だった、ただ彼の人気については知っていた。
去年の一件が彼の人気に原因して起こったことも。
和泉のことを一度もいけすかない奴だと思ったことがないのは確か、けれどもどうしてそこまでモテるのかわからなかった。
もし彼女が傷つく価値もないような人間だったならば。
そう自分勝手に夢想し、結局それが果たされることなかった。
どうしようもなくあいつは強かった。
俺が和泉に勝てる部分がどれぐらいあったと言えるのか。
勉強勝てない、運動勝てない、人望勝てない。パラパラと負けたという事実だけを突きつけられる。
いくら努力しようとも絶対に追いつけない壁があることを気づいてしまった。
唯一勝てるのは元々得意だったオセロだけ。勝てるものもあっただろうと言わんばかりに、負けて悔しそうな和泉の顔が映った。
だがそれも少しの間だけだった。乾いたスポンジのようにあっという間に知識を吸収し、追いつかれて五分五分、いやほんの少し負け越してるかもしれないぐらい。彼がいともたやすくやってのけることは、俺にとって決して容易いことではないというのに。成功するかもさだかではないのに。
そして何より致命的な差だったのは、彼は傷つかなかない。
払うべきものだと思っていた代償を無しに、そんなもの踏み倒して当然とばかりにポンポンと話を解決してくのを見て俺は、俺は。
なぜ俺だったのだろう、あいつと関わりを持つのにふさわしい人間だと胸を張って言えるのか?
そんなに辛いならば和泉から離れればいいだけというかも知れない。
離れて前のように傷つくことを顧みず愚直にすすめばいいのに。
知ってしまったから、それがあまりにも不器用で情けないことだと。
だからどうしようもなく俺はあいつから離れることができない。
俺が何もせずとも和泉が解決してくれる。
適材適所じゃないか、全ての記憶が終わったのか一寸先も見えない暗闇の中で俺は呟いた。
イカロスは太陽に近づきすぎて墜落した。
何者にもなれるとの傲慢さが彼を殺したのだ。
俺は和泉みたいに成れるなんてビタイチたりとも思わない。
その傲慢さが己を殺すと、もう身を以て知っていた。
けれども諦めたところで俺が近づこうとしなくとも、俺はあいつの眩しさを近くで見続けることは、果たして俺を殺すことに他ならないのではないか?
ジリジリと翼の蝋は溶け落ち、そして俺はボロボロの翼で必死に足掻く。
もうとっくに墜落してるのかもしれない、そんな言葉から俺は目を逸らした。
誰しも痛みを嫌うに決まってる。
それを嬉々として受け入れるならば気が狂っている。
そして俺は狂えなかった、狂えないゆえに口を閉ざす。
傍には和泉がいた、何事もそつなくこなすあいつがいた。
あいつに任せれば、大丈夫だ。
和泉を見て心の奥底で失敗しろと醜く囁く声が聞こえる。
痛みを知れ、そんな願いは叶うことがなく。
おれはいつものように和泉の自慢げな笑みを見て、褒める言葉を返す。
そんな自分のことを俺は誰よりも、誰よりも大っ嫌いで、どうしようもなくTSしたかった。
生まれ変わるきっかけが欲しかった。
自分を変えようとする努力をすることもなく、そんな神様の気まぐれに祈ることが間違っていると気づいたとしても、俺はTSしたかった。
そうすれば何かが変わるんじゃないかと信じていた。
● ● ●
目覚まし時計を消した後も、俺はベッドの上からピクリとも動かなかった。
未だ学ランのまま、そのままベッドに倒れ込みそれから記憶がない。
晩飯食べたっけ? 食べてないか。
空腹がその証拠だった、けれども体を動かす気力がないのだ。
そういえばいつもなら起こしにくる妹が今日は来ない。
ふと手がちくりと痛んだ、目の前に手を持って来れば血が滲んでる。
手当もされていない。少し考えればどこでこの傷を負ったんだろうという疑問と、妹が来ない理由はすぐにわかった。
俺がみっともない心の中を露わにしてしまったから、妹から失望されたのだ。
手の傷は妹が放った写真立てだ。もういらないからと投げられたそれを俺は掴み損ねて、地面に強かに落ちた。
結果写真立ては割れて、無造作にそれを拾い上げようとした俺の手は、必然傷ついた。
その写真立ては今俺の部屋にはない。やってしまったという表情をしながらも、この片付けは私がするからと妹に追い出されたから。
中に飾られた写真は妹と俺のツーショットだった。
「入るぞー」
そんな気楽な声と共に、ノックの必要は無いとドアが開いた。視線を向ければ母さんだった。
「おーおー、ひどい顔してる」
「……母さんこそ鏡を見なよ、クマがひどい」
「まあそれだけ言い返せるんなら何より」
ようやっと身を起こす、それだけにエネルギーを大量に消費する感じがした。
「何があったか教えてくれるか? 昨日の晩御飯の時は来なかったし、お前の妹はオロオロと落ち着かないし」
「晩御飯の時はちょっと疲れて寝てた、理由は――」
なんと答えればいいか思案する。
その隙に母さんは目ざとく手の傷を見つけ、目がキュッと細まった。
「……その手、どうした?」
「割れたガラスを素手で触ろうとした」
「バッカじゃないの? で、何が壊れた?」
「妹が持ってる写真立て」
唇をひと舐めして俺は口を開いた。
「妹と喧嘩したんだ、それで」
「それだけじゃないんだろ?」
隠すなという視線が俺を貫いていた、今度こそ俺は口を噤む。けれどもそんな視線が続いたのも一瞬で、ふっとため息をついて視線を切った。
「まあ、別にいい辛いこともあるだろうからいいけどさ。喋れるようになったら私にも言ってくれ」
私は一応お前の母親なのだから、その自分の言葉にふっと笑って母さんは部屋を出ようとした。
けれどもなにか思い出したかのように立ち止まり、振り返った。
「もし学校を休みたくなったら休めばいいさ。ただし! サボるとしても一日のみだけどな!」
そうピッと指を俺につけたのを最後に、今度こそ部屋の扉が閉まる。
場所に困ったので閑話は加筆して最終話の後に載せます
今度こそ今年最後の投稿でしょう、もしかしたらあと1話載せるかも知れないですけど
あと5から6話ですね
感想、お気に入り、評価ありがとうございます。
いつも励みになってるのは確かです。
では良いお年を。