山月記。
中島敦の作品で、虎になってしまった李徴が、自分がどうしてそうなったかを旧友の袁傪に語る悲しい話だ。
現代文の教科書で幾度となく取り上げられる話らしく、自分もその例に漏れず、長々と教師が語っているのを黙って聞いていた。
他の生徒が指されて読み上げさせる中、とくにやることもなくぼーっと斜め前の空白の席を眺める。
鈴木はまだ保健室から帰ってきていなかった。
多分さぼりなのだろう、全く羨ましいことで。
「その次から田中、お前が読め」
ビクッとする、このクラスに田中は俺1人しかいない。つまり俺が指されたということだ。しかし何処まで読んだのか全く聞いていない。
仕方なく隣の人に聞こうとすると、後ろからボソッと俺だけが聞こえる声で囁かれた。
(127ページの4行目から)
その声に従いゆっくりと読み上げる、それを教師は満足げに頷きながら聞いていた。
「それじゃあつぎは――」
(悪い、助かったわ)
そう呟きちらっと後ろを見れば、あいつは小さくピースをしていた。
「で、さっきの授業から着想を得たんだが」
「もうそれが山月記って時点で、少し話の方向の予想がつくけどね……」
午後の最後の授業を終え、すぐに話しかける。
教科書を机の中にぽいぽいとしまいながら、あいつは苦笑した。
「李徴は自分の心の中にいた猛獣に人の心を押しつぶされて虎になったわけだろ?」
「うん」
「つまり俺も女の子の気持ちになりきればTSできるんじゃないか」
「?????」
なかなかいい案だと思ったのだが、和泉の頭にクエスチョンマークがいくつも浮かんでいるように見えた。
「えっと、つまり君はどうする気なんだい?」
「どうすれば女の子の気持ちになれるか考えて欲しい」
「全く意味がわからない」
それは女の子の気持ちがわからないという意味か、それとも理論の意味がわからないということなのだろうか?
「もしかしてTSしたのに女の子の気持ちがわからないんですか?」
「まだ1日も経ってないよ」
「一応俺よりは女の子歴が長いからさ」
「1日の相手に聞く方がどうかしてるよ、それこそ元から女の子の、たとえばそう……委員長とかに聞いた方が早いんじゃないかな?」
その言葉を聞き取ったのは丁度近くにいた委員長だった。別に反応して欲しくはなかったものの、その思いに反してこちらにちかづいてきた。
「ん、和泉くん私になんかよう?」
「ほらいいところに委員長じゃないか、早く聞きたまえよ」
用があるのが和泉じゃなくて俺だと分かった瞬間、委員長は露骨に嫌な顔を浮かべた。
すぐさまその場を離れたかっただろうが、ファンクラブであるあいつの手前、そんな人としてアレな行動をするわけにはいかなかったのだろう。
精一杯の抗議のつもりか、まるで道端に転がったクソを見るような目つきで俺のことを見ていた。俺はクソじゃないぞ。
「……何?」
「なんでそんなに俺のことを警戒する?」
「ろくなことを喋らないって分かってるから」
「今回は違う、大真面目な話だ」
ろくな人物扱いされてなかったからか、少し腹が立った。ならばこちらにも考えがある。少しだけ悪戯心が湧いたのだ、たとえばちょっとだけ大げさに言うぐらいは許されるだろう。
すーっと深呼吸して、できる限りの爽やかな笑みを浮かべて言った。
「君が知ってる俺の知らない気持ち、俺に全部教えてくれないか」
数秒間ぼーっとしたかと思うと、ボンッと一瞬で委員長の顔が赤く染まった。なかなか珍しい状況だなと思ったが、それをちゃんと咀嚼する時間はなかった。
あっという間もなく、俺の無防備なあごに綺麗な左ストレートが突き刺さる。
足がふらつき、そのままどさっと俺は崩れ落ちた。
「じゃあね和泉くん」
「あぁ……また明日」
頭上で声が通り過ぎるも俺を心配する様子はなく、そのまま通り過ぎていく足音だけが聞こえてくる。
俺の頭の上を通り過ぎてくれれば、パンツの色とか見れたりしたのかもしれないが。
俺の視界にひょっこりと入ってきたのは、心底呆れたと言う風に俺のことを見下ろす和泉の顔だけだった。
「なかなかにアレなセリフだったね、まるで告白みたいだ」
「いってぇ……」
机を掴み立ち上がろうとすると、ポケットからスマートフォンがこぼれ落ちる。
幸いにして画面が割れる音が響くとかそんなことはなかった。落ちた衝撃に反応したのか画面が明るくなり、またすぐに暗くなる。一瞬見えた壁紙にちらりと和泉からのメッセージの通知がみえた。
あぁ、保健室の時のか。そう思いながら再びポケットにしまい込む。
そもそも自分はこれを使う機会があまりなく、触ったのも今日が初めてぐらいだろうか?
一応持ってはいるものの、使う機会はと言われれば家族との連絡ぐらいか、あとは和泉とメッセージのやり取りぐらいだった。
もしかしたら俺の友達が少なすぎるのかもしれないが、その考えをすぐに頭から外した。
「ほかの変身系でなんか探して見るか山月記以外でなんか変身する話ってあったっけ?」
「仮面ライ●ー」
「人体改造はちょっと遠慮したいな」
「贅沢だと思うんだが、そうだね……たとえばフランツ・カフカの『変身』とか」
名前は聞いたことあるが、話の内容は知らない。ふと顔を上げると仲良し3人組のうちの笠井がこちらを見ているのが見えた。手をふると直ぐに顔を逸らした。
「それの変身した理由は?」
「なんもないさ、とくに何をしたわけでもなく主人公は毒虫になったらしい」
「理不尽だな」
でも現実にそう言うことが起きはじめてるのだから、全く絵空事だと笑えない話なんだろう。まあ毒虫なんてよくわからない虫より、美少女なのはまだマシと言えるけれども。
なんとなく虫嫌いな妹を思う。あいつなら俺が虫に変身したら、速攻で殺しにかかるに違いない。殺虫剤を等身大に成長した虫である俺にかける姿が容易に想像できた。
「まあそう言う話だと思うしかないよ、他に探すと神話ならリュカオンも人から変身させられたね」
「それにはちゃんとした理由があるのか?」
「神様からの罰だってさ」
「じゃあこれも人類への罰ってことだな」
驕る人類への罰、なかなかに遠回りすぎる罰に思えたがそう言う考えもあるのかもしれない。
それを聞いて何が面白いのか和泉は笑った。
「僕にとっては罰になってないな、個人的には楽しいし、嬉しいからね」
それは少し予想外だった。
俺はTSしたいといつも言ってたけど、和泉はその質問をぶつけられるたびにいつもはぐらかしていた。
意見の相違を生まないためにそう言ってるのかと思ったけれど、別にそう言うわけではなかったらしい。
それについて聞こうとすると、担任が入ってきて号令をかける声が聞こえた。帰りのHRが始まる。
諦めて前を向く、やはりまだ鈴木は帰ってきていない。
● ● ●
「元は今日のうちに鈴木君に話を聞く予定だったんだけど」
結局帰りのHRの時間中、鈴木は帰ってこなかった。
今はゆっくりと階段を降りてる途中。2人揃って帰宅部だから、特に学校に残る用事もなかった。
自分は特に得意なものもないし、何か趣味を作ろうとも思ってなかったから入ってなかったけど、和泉がなぜ部活に入らないのかは俺もしらない。何をやっても成功しそうだとは思ったけれど、そんなことないよと笑って譲らないのだ。
「鈴木の連絡先知ってたっけ?」
「いや僕は知らないな、君は?」
「知らない」
偽装とはいえ付き合うことになったのに、余りに薄い繋がりだった。もともと授業の時とか話はするものの、その他の時は大体各々違うグループにいた。担任がいう接点というのも、ほんの少しのものになる。
「まあ厄介ごとは明日に回して、今日はすこし」
「ん?」
「お」
噂をすれば影がさす、その鈴木がばったりと階段の踊り場でエンカウントした。そのまま通り過ぎればよかったのだけども、両者ともに足を止めてしまった。
これまでの話を聞いて、何か言うかと思ったのに和泉は口を開かなかった。
ただ単にじっと笑顔で鈴木のことを見つめていた。
よく見ると笑顔というのは違かった。笑っているように確かに見えたが、目は全然笑っていない。
それに鈴木も気づいたらしい、なぜ睨まれてるのか彼女にもわからなかったらしく、こっちに助けを求める視線を送っていた。はぁとため息をついて、しょうがなく俺はスマホを取り出した。
「帰りのHRは終わったぞ、あとまだ連絡先交換してなかったししとこうぜ」
「お、おう」
これ幸いとそそくさとスマホを取り出した。和泉からなぜかさらに視線が強く、俺に対しても送られるようになったが俺は無視をする。QRコードを読み取り、すぐに交換は終わった。
「僕とも交換しよっか、鈴木君」
「別にいいけど……」
嫌そうだったが、断る理由も見つからないのだろう。先ほどよりおっかなびっくり、スマホをQRコードにかざしていた。
絵面としてはウブな可愛い2人がぎこちなく連絡先を交換する、最近ありがちな百合恋愛ストーリーの出だしのように見えるのに、そこを覆う空気は何故か殺伐としていた。
その空気がきつかったのか連絡先を交換すると、用は済んだとばかりにすぐさま彼女は逃げ出した。
慌ててその背中に向かって声をかける。
「鈴木も一緒に帰るかー?」
「……いやべつにいい!部活の方に顔を出す!」
その言葉を最後に振り返ることもなく、そのまま逃げていった。
できれば帰りの道で話をしたかったが、それならしょうがないと和泉の方を向き直る。
やっぱりすこしむくれているように見える。なんか機嫌を悪くしたらしかったが、やはり理由はわからない。
「なんか怒ってる?」
「……いや別に」
絶対なんか怒ってると思ったが、それを口に出すことはない。それが人生をうまくやっていくコツだから。
多分何か言う途中で遮られたのが悪かったのだろう。なんて言おうとしてたんだったか。
「ならいいけど、今日はすこしの後なんて言おうとしてたんだ?」
「ああ、そうだその話だったね」
すこし気を取り直して和泉は言った。
「今日家帰った後、少し買い物に付き合ってくれないか?」