俺は作田吉利(さくた よしとし)。どこにでも居そうな普通の高校生だ。そんな俺には大きな夢がある。それは何者にもならずに、人生を終えることだ。普通の大学に通い、サラリーマンとして働く。そうして最後は、老人ホームで息を引き取る。そんな誰の記憶にも残らないような人生を歩みたいのだ。
一人の人物を紹介しようと思う。西崎春子(にしざき はるこ)と言う女子生徒だ。彼女は他の生徒から笑(えみ)ちゃんと呼ばれている。そのような、本名と一切関係がない愛称で呼ばれているのには理由がある。
彼女は、誰と話している時でも明るく微笑む。普通の人間が『にこにこ』と笑うとすると、彼女は『にこにこにこにこ』と言うふうに『にこ』が2個ほど多いのだ。そんなだから笑ちゃんだなんて呼ばれるようになった。男子からは絶大な人気があり、かと言って女子からの妬みもない。誰からも好かれている、言わば学園のアイドルと言うやつだ。そして目立つのが嫌いな俺からすると、最も関わりたくないタイプの人間でもあった。
ではなぜ彼女の名前を出したかというと、それは俺が高校に入学したばかりの頃……。
◆ ◇ ◆
俺は作田吉利。普通を愛する男である。住んでいる場所は都会とはとても呼べないが、暮らしに困るほど田舎でもない。駅前なんて、むしろ緑を見つける方が難しいくらいだ。そんな俺の平凡な日常は、高校に入ってからも変化がなく1月が経っていた。吉利なんて呼びにくい名前から最後の文字が剥ぎ取られ、よしとと言う中学時代からの愛称が定着するくらいには学校に馴染み始めていた。
着々と普通の高校生活を構築しつつある俺でも、ある問題を抱えていた。金がないのである。実は今、一人暮らしをしている。受験に合格した次の日、父の転勤が決まった。転校は色々と面倒だったので、家族で話し合った結果、俺だけこの街に残ることとなった。
一人暮らしを始めてみると、結構なお金が掛かった。育ち盛りの男子は、食費だけでも相当な出費だ。
そういう訳だから、俺は近所のコンビニからアルバイト求人誌を片っ端からむしり取った。集めた求人誌は結構な量で、自宅に帰ってしまうと面倒になってもう読まない。集中できる喫茶店でもないかと、あてもなく歩く。すると細い路地に看板が見えた。
喫茶店・六連星。そう書かれた木の看板が下がっている。読み方が分からず、下のローマ字に目をこらすと『SUBARU』と書いてあった。六連星は『すばる』と読むらしい。
しっかりした木造のドアに、それを飾る手入れの行き届いた植物。小さな喫茶店だが、民家を改造しただけのなんちゃって喫茶ではないようだ。
少し高そうな店構えだったが、好奇心からついつい入店してしまう。こういう部分が、金欠を引き起こしているのかもしれない。
ドアを開け、がらんがらんという馴染みのあるベルの音をさせながら店内に入ると、バーテン風の男に席を案内された。
いちいち店員を呼ぶのも面倒なので、そのままコーヒーを注文する。店員はそれを承り、後ろでコーヒーを入れ始めた。男の年齢は40半ばといったところで、白いシャツに黒いベストを着ている。髪型はオールバックで口元には髭があった。見渡すと他に店員はおらず、彼一人で店を回しているようだ。
本来の目的である求人誌を開く。居酒屋のホールや、レジなんてのが多くあるが俺には接客なんて無理だ。清掃や警備は、どうにもハードそうだし時間も合わない。妥協点を設定しなかったせいで、これといったものを見つけられない。集中力が切れたことでついつい、前髪をいじるという癖に逃避してしまう。俺は目立つのが嫌いだ。そのせいで2つの身体的なコンプレックスを持っている。一つは、183センチと微妙に身長が高い。体が大きいとそれだけで何かと目立つ。そしてもう一つは、生まれつき巻いているこの髪だ。子供の頃になんとかまっすぐにならないかと引っ張っていたら、髪をいじるというきざったらしい癖がついてしまった。
求人誌をただ眺めていると、店員がコーヒーを持ってきた。
「こちら今日のブレンドでございます。ミルクや砂糖もありますが、まずはそのままでお楽しみください」
目の前に置かれたブラックコーヒー。困った。俺はブラックが苦手だ。適当に入ったが、変にこだわりのある店だったらしい。客が少ないせいで、見張られているような感覚に駆られ、そのままカップに口をつけた。驚いた。苦手なはずのブラックコーヒーが飲めるのだ。いや、おいしいとはっきり言える。味覚という五感が好印象を得たことで、他の感性も影響を受ける。よく見れば店の雰囲気はシックで落ち着きがある。店内に流れる音量の小さいクラシックも、空間にマッチしていた。
見れば見るほど求人のどの働き先よりも、魅力的に感じた。コーヒーをもう一杯頼むついでに、駄目元でアルバイトを募集していないかと尋ねてみた。
「いいですよ」
そう返事がきた。一瞬なにが『いいですよ』なのか分からなかったが、店員の目線の先に、俺が見ていた求人誌があった。つまり、ここで働いてもいいですよという意味らしい。
客がほとんど居なかったので、まさか採用されるだなんて思っていなかった。詳細を聞くと、時給800円と言った。安い。最低賃金を下回っている。だがそれは良い。生活費に足りない分を補いたいだけだ。それよりも重要なことがある。俺はうるさい場所が嫌いで、忙しく動くのも苦手だ。そうするともう働ける場所など限られる。多少の低賃金は許容出来ようというものだ。
そんなこんなで、晴れてバイト先を見つけた。一見なんの問題もない六連星という喫茶店。しかし、ここにはとんでもない罠があった。
バイトを始めて一週間。学校の制服が黒いスボンと白いシャツなので、その上にエプロンを着けるだけでいい。そのため、放課後に学校から直接通えた。仕事内容は慣れるもなにも客が少なく、誰もいない時間は読書すら許された。なんという緩さだろうか。俺を雇ってくれた人を、今はマスターと呼んでいる。マスターはとても寡黙だが良い人だ。
それにしても今日は客が居ない。アルバイトは本当に必要だったのだろうか。そう考えた瞬間、俺の思考を読んだかのようにドアが開いた。しかし客が開くドアではなく、普段開くことのない、店の奥にあるドアだった。
「お父さーん! 食器洗剤って買い置きあったっけ」
入って来た少女は、会話内容からマスターの娘だと推測できた。そして俺が通っている学校の制服を着ている。その少女は俺の存在に気付き、一瞬固まった。それはそうだろう。こんな客の少ない店が、まさかアルバイトを雇っているとは思わないはずだ。
少女は軽く会釈をすると、奥に引っ込んだ。家族のちょっとした会話を聞かれたのが恥ずかしかったようだ。
会釈をした時に少女の顔が見えた。ふわりとした色素の薄いセミロング。とんでもなく整った顔立ち。見知った顔。当たり前だ。俺の学校で彼女を知らない人など居ない。彼女の名前は西崎春子。いつも笑顔で人当たりが良く、笑ちゃんの愛称で誰からも愛される有名人だ。学園のアイドルだなんて存在は、ドラマや漫画の世界だけの話だと思っていたが現実は小説より奇なりとはよく言ったものだ。
この時、嫌な予感がしていた。誰にも見つからない、人の来ない喫茶店という最高のアルバイト先。そこは学校で最も有名な女子生徒、その父親が経営している喫茶店だった。俺は高校に入り、始めて目の当たりにしたものがある。それは男の嫉妬だ。この西崎春子と言う人物を中心に、周りを風速20メートルの嫉妬が吹き荒れている。そんな中に自分から突っ込むほど、馬鹿じゃない。だが災害というものは、こちらが望まずとも接近してくるものだ。
次の日、いつものように喫茶店で働いていると、昨日と同じ時間に同じドアが開いた。まるで鳩時計から飛び出して、時間を知らせる鳩みたいだ。ドアから出て着たのは、これまた昨日同様、西崎春子だった。彼女は人のいない時間を把握しているらしい。マスターに何か用事があるのだろうかと思っていると、彼女は真っ直ぐ俺の所にやってきた。
「えっと、作田吉利くん……だよね?」
なぜ名前を知っている。俺は彼女と違い有名人ではない。それどころか気配を消して過ごしている。
「昨日会った時に、学校で見たことあるなーって思って、友達に聞いたんだ。そしたら名前知ってたから」
そう言ってふわりとはにかむ。なるほど、これが笑ちゃんと呼ばれる由縁か。なんという完璧な笑顔だ。と言うより今なんて言った? 友人に俺の名前を尋ねただと。やめてくれ、君のような有名人に名前を出して欲しくないんだ。
「昨日はごめんね。ここがバイト雇うなんて思ってなかったから、ちょっとびっくりしちゃって」
無言で立ち去ったことを、気にしているようだ。俺はそんなことは気にも止めていない。まだ何か用事があるのか、彼女は俺を様子を伺っている。ってか近い。人間にはパーソナルスペースというものがあり、それよりも接近されると緊張する。パーソナルスペースは男の方が広い。そのため女性にとってちょうど良い距離まで接近されると、男は緊張を恋と勘違いしてしまうらしい。こうして西崎春子と直に接してみると、そのパーソナルスペースが普通の女性よりも狭いのだと分かった。これはモテる訳だ。大抵の男はこの笑顔と距離でころっと持っていかれるだろう。だが俺は違う。平和な生活を送るために、君のような危険因子とは関わりたくない。
「私のことは知ってる? 西崎春子って言うんだけど、学校では笑ちゃんって呼ばれてるから作田くんもそう呼んでいいよ」
嫌に決まっているだろう。そんなフレンドリーな呼び方はできない。せいぜい西崎さんが限界だ。
「えー、遠慮しなくていいのに」
いきなりあだ名を押し付けるだなんて、彼女の会話力はどうなってるのだろうか。完全にカンストしているんじゃないだろうか。
「それより、お父さんはどうしてアルバイトなんて雇ったんだろう。作田くん知ってる?」
知らない。相槌を打っているだけだが、西崎さんはぐいぐいと会話を進める。会話を長続きさせないために編み出した、他人と極力目を合わせないテクニックがまるで通用しない。ちなみに人間は人の目に強い印象を持つそうだ。俺は相手に印象を残させないよう、前髪を目にかかるくらいまで伸ばしている。右目なんてほとんど隠れてしまっている。そんな俺の目をじっと見つめて、西崎さんは話しかけてくるのだ。
「ねぇ、作田くんはどうしてここで働くことにしたの?」
人と関わりたくない。静かな場所が好きだ。そんなネガティブな理由ばかりだが、面接でもないし嘘をついてもしょうがないので正直に伝えた。初対面でネガティブを展開すると大抵の女性は引くものだ。
「そうなんだ。なんか分かる気がするなー」
絶対嘘だろ。
「私もアルバイトとか、それが億劫でやらないところあるし」
確かに西崎さんだと、ある意味で人間関係が面倒臭そうだ。だが俺とは違う。
「意外と気が合うね」
そう言ってはまた微笑む。なんだろうか。話してみると、ますます彼女が人気な理由が見えてくる。普通に良い人な西崎さんをあまり邪険にすることが出来ず、だらだらと会話を続けてしまった。しばらくして、がらんと扉が開く音がすると
「お客さん来ちゃったね。じゃあまたね」
と言って店の奥のドアに戻って行った。一体なんだったのだろうか。しかしまぁ、彼女は友人が多いので暇ではないはずだ。ただ挨拶に来ただけだろうと思い、彼女のことは頭の片隅にすら残さず仕事に戻った。
それから毎日、客の居ない時間になると西崎さんは店に降りて来た。そして何が気に入ったのか、俺と会話しては客が来ると去って行くのだ。そして俺の心は完全に陥落していた。陥落したというのは、恋に落ちたとかではない。会話をすることでお互いの理解が深まり、友情が芽生えていた。人気者は伊達ではない。
「やぁ、よしと君」
今日もまた笑顔で現れる西崎さん。なんて可愛らしい笑顔なんだろうか。ちなみに呼び方は、いつの間にか変わっていた。
「ねぇねぇよしと君、ちょっと聞きたいんだけど」
そう言って軽いステップで距離を詰めて来る西崎さん。やはり近い。この感じで学校で話しかけられたら、男子生徒たちに殺害されかねない。前に学校では話し掛けないように言ったら、なんとも悲しそうな顔をされた。俺だって友人にこんなことを言いたくはないが仕方ない。
「私もお店手伝うって言ったらどう思う?」
良いんじゃないだろうか。実はこのお店、結構忙しくなっていた。俺がアルバイトとして雇われたのは単なる気まぐれではなく、近所のケーキ屋と提携したことが理由だった。元々質の高かったコーヒーに加え、しっかりとしたケーキを出すことで客が増えるとふんだのだ。結果としてそれは成功し、アルバイトを始めた当初に比べ、倍以上も客が来ていた。
「じゃあお父さんに言ってみるね」
俺に許可を取っても仕方がないだろう。西崎さんは後ろでマスターと話した後、奥に引っ込んだ。しばらくすると、俺のエプロンと同じものを身につけ戻って来た。同じエプロンなはずなのに、彼女が着ると軽さがあると言うか、堅苦しさを感じなかった。
「どうかな?」
エプロンとその下に隠れたスカートを揺らしながら、何かを期待するように上目遣いでこちらを窺っている。なかなか似合っている。逆にそれ以外どう答えればいいというのか。
「やった!」
そしてこの笑顔だ。小さくガッツボーズをして体をそわそわとさせている。喜びを全身で表現するあたり、子犬みたいだ。しかし、どうして急に店を手伝おうと思ったのだろうか。
「うーん……ないしょ」
だそうだ。彼女の行動原理は分からないが、嬉しそうだから放っておこう。
こうして西崎さんは喫茶店・六連星のお手伝いをすることになり、彼女と過ごす時間が前より長くなった。
何もない普通の学生生活を送っていると、濃密な時間というものがない。そうなると時間が経つのが早く、足早に夏休みが降臨した。夏休みになると、アルバイトの時間が長くなる。そこには当然西崎さんも居る訳で、最近彼女と居る時間が最も長い気がしてきた。空き時間など暇な時は、ついつい彼女と話してしまう。そうして俺は、西崎さんとますます仲良くなっていた。
その日、バイトが終わり帰ろうとすると引き止められた。西崎さんはいつも俺が帰ろうとすると、なにか冷たい飲み物を用意してくれる。蝉の鳴き止まないこの時期に、これほど魅力的なものはない。バイト終わりの乾き果てた俺の体はこれを断れず、カウンター席に座った。エプロン姿の西崎さんが、ドリンクを用意しているのを眺める。うん、やはり彼女の外見は優れている。彼女が働き初めてから、男性客が増えたほどだ。
「ん? なに? 私のことずっと見てるけど」
しまった。つい西崎さんを眺めたまま考え事をしてしまった。嫌悪感を抱かせてしまっただろうか。そう思い彼女を見ると、いつものようににこにこと微笑みながら俺の前にアイスカフェオレを置いた。気にしていないようだ。
西崎さんは自分の分のドリンクを用意し、椅子を俺に少し寄せた。そして女性が使うには高さのある椅子に、身軽な動作で座った。いつも思うが、椅子を寄せすぎだ。
「そうかな。私は気にしないけど」
いや気にしてくれ。距離を詰められると視線を外すのに苦労する。前髪で半分隠れている目で一瞬彼女を見ると、ばっちりと目が合った。
「それにしてもお客さん増えたね」
確かに。ケーキ屋との提携は予想を超える反響だった。元々は美味しいと評判だったケーキ屋だが、町の人口が減ったせいで常に新しいケーキを提供出来なくなっていた。古いケーキは味が悪いが、売れ残りを全て捨てていたら利益が出ない。そこで喫茶店・六連星がケーキを買い取ることで品質が保持できた。お互いに良い結果が得られた訳だ。だが接客を避けるために、客の少ないバイト先を選んだ俺にとっては複雑な気分だ。まぁ、今更バイト先を変えるのは面倒だから、辞める気はない。一つ救いなのは、客が増えても値段の高いこの喫茶店には学生が来ないということ。学校の有名人である西崎さんとの関係が、他の生徒に知られる事はない。
「そう言えばさ、私はよしと君のこと、よしと君って呼んでるでしょ?」
唐突に何を言っているんだ。
「うーん。私って学校では笑ちゃんって呼ばれてるんだけど……」
知ってる。由来も知ってる。
「よしと君にもそう呼んで欲しいなって……」
またそれか。だが断る。女性慣れしていない俺には『ちゃん』だなんてフェミニンな響きはむずかゆい。西崎さんのままでいいじゃないか。
「だって、なんか他人行儀なんだもん。もっとよしと君と仲良くなりたい」
もう十分、仲が良いと思う。最近だと男友達よりも彼女とよく話している。これ以上となると、まるで恋人同士のようじゃないか。これが人気者のコミュ力か。これで何人の男が勘違いしたのだろうか。せめて春子とかで勘弁してくれ。
「春子? ……春子か。いいよそれで。ちょっと恥ずかしいけど」
恥ずかしい? ああそうか。普段は愛称で呼ばれているせいか。それにしてもなぜ、彼女は顔を赤らめているのだろうか。しょっちゅう告白されている西崎さ……春子にとっては、男から名前で呼ばれる事など慣れているだろう。
「慣れてなんかないよ。こうやって男の子と話すのだってほとんどないし」
そういえば、春子に告白して成功した男子はいないという噂がある。あれは本当だったのか。最近ではファンクラブが結成され、告白すら制限されている。
「だって知らない人から告白されても困るもん。あ、でもよしと君は知らない人じゃないから……! って! 何言ってるんだろ私!」
そう言って誤魔化すように、手のひらで顔を仰ぐ。なぜだかよく分からないが、これ以上この話をしてはいけない気がして話を逸らした。違う話をしているのに、『春子』と彼女の名前を呼ぶたびに、先ほどと同じようにこそばゆそうに笑っていた。