俺は作田吉利(さくた よしとし)。生涯普通の人生、その目標に向かい日々努力をしている。そんな俺だって恋愛には興味がある。好みの女性は、誰からも認知されない存在感の薄い人だ。
中学3年生の頃、同じクラスにその条件が当てはまる人物が居た。いつも教室の隅で読書をして、もう3年生にもなろうと言うのに特別誰かと馴れ合おうとしない。大抵そういう人物はいじめなどの対象になるが、彼女は「あの子暗いよね」と陰口を叩かれる程度。絶妙な目立たなさだ。当時の俺は、彼女と話す切っ掛けが欲しかった。そんなある日、彼女が俺の知っている本を読んでいた。これは好機と思い、中学生童貞男子の勇気を一滴残らず振り絞り声を掛けた。するとどういう訳か、クラスで目立つグループの女子達が、一斉にその子の周りに集まり「私もその本知ってる」「へぇ、私も読んでみようかな」などと盛り上がり始めた。不思議なことに、それは陰口を言っていたグループだった。この時なにが起きたかと言うと、そのグループは彼女に元々興味があったのだ。陰口だってその裏返しだ。つまり、俺以外にも彼女と話したい人物は沢山いたのだ。誰かが話し掛けた事で、奇しくもそのきっかけを作ってしまった。その女子生徒は家庭の事情で付き合いが悪かっただけだと発覚し、目立つ女子のグループにそのまま加わった。取り残された俺は、ただ自分の席に戻るしかなかった。アイソーポスの『犬と肉』を知っているだろうか。肉を咥えた犬が、川に写り込んだ自分を他の犬と勘違いする。そして水面に写った肉を奪おうと、川に向かって吠えたそうだ。すると水の中に肉を落としてしまう。この物語の教訓は『欲張ると、何もかも失う』だそうだ。俺はそんなに欲張ったのだろうか。なにもせずとも肉は川に自ら落ちて、魚の群れとともに泳ぎ去ってしまった。この事件は、当時の俺の日記に『アイソーポスは教訓にすぎず』と言うタイトルで鮮明に記されている。
結局なにが言いたいのかというと、俺の理想である目立たず平凡な女性というのは、恋愛するにあたりそう簡単ではないのだ。いや、恋愛自体が難しいものなのかもしれない。だからこそ、まるで未知の現象であるそれに対し、慎重であるべきだと判断した。自惚れに聞こえるかもしれないが、一際目を引く女性から好かれる可能性だってゼロじゃない。だから俺は女性との関係を持たないようにしていた。特に西崎春子(にしざき はるこ)。彼女なんて論外だ。笑(えみ)ちゃんの愛称で学校中から好かれている。ファンクラブなんて怪しい組織まで、結成されている。彼女と親しいというだけで、名前が知れ渡りかねない。道端に転がる石ころのように、人から関心を持たれずに生きていきたい。そんな俺にとって、彼女は最悪な相手だ。
◆ ◇ ◆
夏の終わり頃、夕方になると半袖を着てきたことを後悔するような季節になった。俺の生活は髪型から何まで変化がない。今日も放課後に喫茶店・六連星(すばる)でアルバイトをしている。
アルバイトが終わると、これまたいつも通り春子と他愛もない話をする。しかし最近の彼女に対し、俺は違和感を感じていた。彼女の方を見ると高い確率で目が合うし、話している間もちょっとしたボディタッチが増えた。親しい相手には分け隔てなくそう接しているのかもしれないが、それにしたって心を開きすぎたかもしれない。本来彼女のような人間とは関わらないと決めていた。これからは少し距離を置こうと考え、その日は早めに帰ることにした。
「もう帰るの? ちょっと待ってて、途中まで送るから」
それは男子が言う台詞だろう。途中まで送らないといけないほど、俺は弱くない。断ろうとしたが、彼女は早々にエプロンを外し、外に出る準備をしていた。彼女と一緒に歩いているところなど、誰かに見られようものなら大変なことになる。
「大丈夫だよ。外暗いし顔なんて見えないよ」
春子に言われて外を見ると、太陽はほとんど沈んでいた。そうか、こんなに日が短くなっていたのか。これなら大丈夫だろうと、一緒に外を歩くことにした。
街灯の光が、風景に溶ける程度の薄暗い夜道。春子は俺の隣を歩く。肩が触れそうなほど近くを歩く彼女から距離を取っていると、随分端に追いやられてしまった。
「なんでそんなに端っこ歩くの?」
分かっていて聞いているのか、からかうように微笑む。春子の代名詞とも呼べるこの笑顔。そういえば、彼女はどうしてこれほど笑うのだろうか。少し気になって訪ねてみた。
「私のお母さんがね、よく笑う人だったの」
『だった』ということは、もう亡くなっているのだろうか。
「うん。すごく綺麗な人で、私の憧れだったの」
なるほど、春子は亡くなった母の影響を強く受けているのか。悪いことを聞いてしまったと謝ると、彼女は「ううん、いいの」と笑顔で答えた。
「お母さんはね、幼い頃の私に『辛い時や悲しい時でも、笑顔でいれば幸せになれる』って教えてくれたの」
そう言ってまた微笑む。ああ、やはり悪いことを聞いてしまったなと反省した。春子の母は、彼女の人格に影響を与えるほどの存在だったようだ。
「お母さん凄くモテたんだって。でもね、短い生涯だったけど、お父さんだけを愛したの。それってかっこいいなって思う」
お父さんとは喫茶店・六連星のマスターの事だ。独特の雰囲気を持っているとは思っていたが、若くして妻に先立たれていたとは。
「だから私も、好きな人のことは一途に愛せたらなって思う」
そうか。だから恋愛の経験がないのか。一途というのは簡単じゃない。適当な相手を選んでも、すぐに別れてしまうだろう。
「ねぇよしと君。男の子的にはどうなの? こういうのって重いのかな」
男代表みたいに言われても、恋愛経験のない俺には分からない。だが俺は恋愛脳ではないから、ころころと相手を変えるなんて面倒だ。その点、同じかもしれないな。
「そうなんだ。私たちって似たもの同士かもね」
いや、やっぱり全然違うな。春子には選択肢がある。俺はそんなにモテる訳じゃない。一途もなにも、多くの恋愛を経験できるほどのスペックがない。
それにしても今日は疲れた。恋愛の話なんて、慣れないことをしたせいだ。もう直ぐアパートに着くので、送ってもらうのはここまでで良いだろう。
「よしと君の家ってこの近くなの?」
俺は小さなアパートの2階で、1人で暮らしている。両親は出張で遠くに住んでいるし気楽なものだ。
「え! 一人暮らしなんだ。凄い」
いや話を広げようとするな。もう暗いし早く帰れ。
「あ、そうだ。少しお邪魔してもいいかな」
さっき一途な性格って言ってなかったか? なんだその軽さは。一人暮らしの男の部屋に上がろうとするなんて、危険すぎるだろ。とにかく彼女には帰ってもらう。
「ちぇ……。まぁ今日はいいか。また明日ね」
春子はようやく諦め、ひらひらと手を振りながら来た道を戻って行った。なんなんだ一体。まさか家にまで上がり込もうとするとは。彼女との接し方を、少し改めた方が良いかもしれない。
昨日、春子に一人暮らしをしていると伝えたが、それを聞いたマスターが夕食を用意してくれると言った。まかないと言うよりは、娘の友人に料理を振る舞う感覚らしい。毎日弁当やカップ麺で暮らしている俺には、正直ありがたいお誘いだった。しかし少々、恩が過ぎる気がする。ここまでされると恐縮してしまう。
店の後ろにあったドアの向こうは、普通のリビングになっていた。春子やマスターの部屋は2階にある。マスターは相変わらず無口で、料理を出すとさっさと自分の部屋に戻った。
マスターの料理は美味しかった。こんなに美味しい料理を食べたのは、久しぶりだ。少しだけ、両親が恋しくなった。
「お父さんの料理、これでも昔は酷かったんだよ。お母さんが居なくなってからは、私に気を使っていろいろ頑張ってるみたい」
そうだったのか、良い父親だな。女性は父親を見て、男の見る目を養うそうだ。マスターを見て育ったのなら、変な男に引っかかることはないだろう。
食事が終わり、満腹感から無駄に時間を浪費したくなる。ファミレスで何時間も居座るあれだ。春子は飲み物を持ってくると言って冷蔵庫を漁っている。
「烏龍茶と……あと高そうなジュースがあるけど、どうする?」
高そうなジュースってなんだ。すごく気になる。だが夕食を振舞ってもらった上に、高い飲み物を所望するのもどうかと思い烏龍茶を選んだ。春子は飲み物の入ったグラスをテーブルに置くと、俺の隣に座った。「かんぱーい」と言ってグラスを当ててくる。何に対しての乾杯なのか。
「このジュース味が変だけど美味しいかも。高いだけあるね」
……ん? 待て、そのジュース匂いがおかしくないか? 気づけば春子の顔がみるみる赤くなっていた。半分以上減ったグラスを取り上げて少し舐めると、それにはアルコールが含まれていると分かった。これ酒じゃないか!
「う~ん……よしとく~ん」
気だるそうにもたれかかる春子を押し返そうとする。だがそんなことをしたら、椅子から転げ落ちてしまいそうだ。密着した彼女の体から、体温が伝わってくる。完全に酔っ払っているようだ。
「よしとく~ん……ねぇ聞いてる~? ねぇ……好きなの~」
よし、今のは聞かなかったことにしよう。
「ねぇってばぁ……好きなのぉ……付き合ってよ~」
俺は全力で目を逸らし、先ほどから環境音を奏でる換気扇を眺める。冷や汗が止まらない。酔った勢いで、とんでもない事を口走っている。これには参った。完全に油断していた。恋愛とは、俺にとって未知の現象である。それ故、女性と接する時は細心の注意を払ってきた。しかし学校の人気者である彼女が、まさか自分を好きになるとは思わなかった。それが今の結果を生んでしまった。男を見る目とはなんだったのか。マスターの背中を見て育った彼女は、なぜ俺なんかに惹かれたんだ。
そうだ、彼女は酔っていた。きっと明日になれば忘れているだろう。そうに違いない。春子を抱きかかえソファに寝かせる。離れようとしない彼女を無理矢理ひっぺがし、その日は帰宅した。
次の日、学校の廊下で春子とすれ違った。学校では声をかけない約束なので、お互いに言葉を交わすことはない。しかしすれ違う一瞬、彼女は顔を赤らめて微笑んだ。昨日のことを覚えているのだ。アルバイト、辞めるべきだろうか。
春子が酔っ払った勢いで俺に告白してから1週間ほど経った。俺はまだ喫茶店・六連星で働いている。新しい環境を探すのが億劫で、結局ここを辞めていない。春子とは、あの後どうなったかというと俺にも分からない。彼女にとっても気まずいのか、店の手伝いにも来ていない。
それにしても、今日は風が強い。天気予報が言うには、台風が掠るそうだ。こういう日は客が少ないので、むしろアルバイト日和と言える。と思っていたが、強烈な雨が降ってきた。この横から殴りつけるような雨の中、帰宅するのは難しい。
「今日は、うちに泊まっていきなさい」
明日は休日なので泊まっていっても問題ないが、気になるのは春子だ。
「あの子も問題ないと言っていた」
先に話が通っているところを見ると、提案したのは春子かもしれない。マスターは妻の死後、娘である春子が何か不自由していないか常に心配している。それ故に、春子の意思を尊重する傾向があるのだ。まぁどちらにせよ、この雨の中帰るのは無理だ。お言葉に甘えて今日はここに泊まるとしよう。
夕食を食べている時も、春子とはあまり言葉を交わさなかった。正直気まずい。風呂から上がり、狭いリビングでテレビを見ていると、春子が2階から降りて来た。彼女は水色のパーカーに、白いズボンを履いていた。これが彼女の寝巻なのだろう。そのままコンビニに行けそうな汎用性がある。
「2階来て」
春子はそう言って、階段の下で手招きをしていた。そういえば、2階には行ったことがない。前に春子の自室があると言っていたが、本当に行って大丈夫なのだろうか。しかし話があるのだろう。俺は彼女の言う通り、階段を上った。2階には3つの扉があった。春子の部屋、マスターの部屋、あとは書庫かなにかだろう。
「ここ私の部屋。入って」
言われるがまま部屋に入る。女子の部屋には初めて入った。なんだか良い匂いがするし、リビングなどと同じ照明なのに明るく見えた。正直、緊張する。
「寝る時は、そこのベッド使っていいから」
ああ、それを言いたかったのか。変に心構えをして損をした。正直俺はもう眠かったので、何も考えずベッドに横たわる。うん、枕もいい匂いだ。……待て。これは春子のベッドだろう。
「いいよ使って」
まぁ、春子が良いと言うのなら良いのか。きっとどこかに布団があって、彼女はそこで寝るのだろう。俺が眠そうにしているのを見て、春子は電気を消してくれた。
しばらく横になっていると、とある異変に気付いた。……おかしい。春子が出て行く音がしない。どうしたのかと思い体を起こそうとすると、ベッドが少し沈んだ。いや、待て。待て待て待て待て待て! 春子が、俺が寝ているベッドに滑り込んできた。
「ねぇ、よしと君」
そう囁いた春子の声は、俺の鼓膜をくすぐった。この状況は想定していなかった。そうだ。寝たふりをしよう。俺はベッドに横たわった瞬間に、生き絶えたのだ。そういう設定でいこう。そんな事を考えていると、春子が俺の背中に手を当ててまた囁いた。
「あの夜の事、私は覚えてるよ。酔っ払ってたから忘れてると思ってるかもだけど、はっきり覚えてる」
背中に当てられた彼女の手が、かすかに震えている。彼女は友人という壁を越えようとしている。それはとても勇気がいることだ。
「ねぇ、起きてるんでしょ? そのままでいいから聞いて欲しいの。私はよしと君の事が好き……愛してる。あと恋人になりたい」
ああ、やっぱりこうなるのか。後ろに居る彼女は今、きっと笑顔を浮かべているのだろう。気まずいまま空中分解してくれれば良いと思っていたが、人生はそう都合よくいかないものだ。止まったように見えた俺たちの関係。それは春子がゼンマイをゆっくりと回していただけで、彼女のさじ加減で簡単に動き出したのだった。
「聞いてないふりしても無駄だよ。もう言っちゃったから、開き直って何度でも伝えるから」
なんて恐ろしい事を思い付くのだろうか。俺の恋愛に、春子のような華やかな存在はいらない。俺は透明になりたいのだ。近くで光を放たれると、光は屈折し雨上がりに出来る虹のように無数の色を作り出す。人の目に触れてしまう。だから俺は春子とは付き合えない。
寝たふりを続けていたが、本当に眠くなってきた。もう考えるのは辞めよう。そうして肌寒いはずの夜は、春子の体温に溶かされるようにまどろみの中に消えていった。
朝、ドアを開ける音と「朝食が出来たから起きなさい」というマスターの声が聞こえた。目をゆっくりと開ける。マスターに返事をしようと思ったが、もう出て行ったようだ。それにしても随分と暖かい朝だ。……おい。どうりで温かいと思った! 春子のやつ俺に抱きついたまま寝やがった。それよりもマスターはなぜ無反応なのだろう。放任主義にもほどがある。
◇ ◆ ◇
私の名前は西崎春子。私はお母さんに憧れていた。綺麗な髪も、すらっとした体型も、穏やかな表情も。そしてなにより笑顔が素敵な女性だった。だけどお母さんは私が9歳の時に、心臓病により他界した。当時の私は泣く事しか出来なかった。
お葬式ではお母さんの顔を直視出来ず、花を添えられなかった。その後も、お仏壇に飾られた写真を見るたびに涙を流した。そんな私に、お父さんはあえてお母さんの話をした。口下手なお父さんが丁寧に話す姿を、今でも鮮明に覚えている。両親の出会いは中学時代。同じクラス、隣の席。2人は自然と惹かれ合い、恋に落ちた。その関係は大人になっても続き、結婚した。生前、お母さんは生涯一人の男しか愛したことがないと言っていた。お父さんの話を聞いているうちに、私はお母さんへの憧れを思い出していた。そしてお母さんが私に言った言葉も。
『辛い時や悲しい時でも、笑顔でいれば幸せになれるの。あなたにはずっと笑顔でいて欲しい』
私はお母さんの前で、なんて顔をしていたのだろう。お父さんの話が終わると、私はお仏壇の前に座りお線香を焚いた。この時初めて、私はお母さんの写真に微笑みかけたのだった。そうして私の心には、新たな憧れが生まれていた。それは一途な愛への憧れ。今思うと少女漫画を読んだ時のような、単なる恋愛への憧れだったのかもしれない。
小学生の高学年になった頃、私は悲しい現実に直面した。クラスの女子たちが男子の話で盛り上がる中、私は彼女たちの気持ちに全く共感が持てなかった。かっこいい男子、やさしい男子、そんなことを言われても心が動かない。
中学に入り、お母さんとお父さんが出会った年齢になった。私はきっと、誰かを好きになるのだろうと思っていた。だけどそんな日は来なかった。私は一つの結論に達した。私の中には恋愛感情はなかったのだ。一途な恋愛に憧れたが、私の心は、恋すら出来ない欠陥品だった。恋愛感情なんて湧いてこない。だけど少女漫画の王子様を夢見るように、一途な恋への憧れが捨てきれない。きっとそんな噛み合わない状態で、誰とも付き合わず大人になる。そして、憧れなどどうでもよくなる年齢になって、ようやく誰かを妥協で受け入れるのだろうと半ば諦めていた。
高校に入ると、現実なのかと疑うほど告白されるようになった。お母さんみたいに身長が高くはなかったけれど、両親のいいところを受け継いだと思う。知っている顔から知らない顔まで、様々な男子から告白された。でも彼らにはなんの興味もなくて、一つ一つ断る毎日だった。
そんな中、少し強引に迫ってくる男子が居た。私はそれ以来、怖くなってしまった。友達に相談すると、その子が代わりに断ってくれると言ってくれた。その後、ひとつ上の先輩からの告白を、友達が代わりに断ってくれた。しばらくして、その先輩と断ってくれた友達が付き合い始めたことを知った。呆れた。結局誰でもよかったのだ。私は男子への信頼感すらもなくしていた。
家に帰り、いつものように家事をする。放っておくと、お父さんが全てやってしまう。あの人にはあまり負担をかけたくない。食器を洗おうと洗剤を手に取ると、中身が空になっていることに気が付いた。買い置きがなかったかと思い、下で喫茶店をやっているお父さんに聞きに行く。喫茶店とリビングを繋ぐドアを開け、お父さんに食器洗剤はないかと聞いた。その時間はいつもお客さんは少ないし、裏でのやり取りなんて聞こえない。だけどその日は、カウンターの内側に一人の男の子が立っていた。身長は結構高い。あとパーマのかかった少し長い髪の毛が、印象的だった。家族のちょっとした会話を他人に聞かれたのが恥ずかしくて、私はリビングに逃げた。なぜだろうか、彼の風貌というのだろうか。それが妙に気になった。あとからお父さんに聞いてみると、最近アルバイトとして雇ったらしい。彼のことを、どこかで見たことがある。明日友人に聞いてみよう。
翌日、友人に彼の特徴を話し、知っているかと尋ねてみた。友人が言うには、隣のクラスの男子だそうだ。彼の名前は作田吉利。いつも教室の隅で本を読んでいて、2人の友人がいるが、それ以外の生徒とは関わりを持とうとしないらしい。不思議な人だなと思った。そしてなぜだか、少しだけ彼に興味が湧いた。
学校から帰り喫茶店を覗いてみると、彼は今日も働いていた。どうせお客さんもいない。せっかくの機会だから話し掛けてみた。最初に簡単な自己紹介をした。彼は前髪で半分隠れた瞳で一瞬私を見た後に、知ってると答えた。私は学校では、結構な有名人なのだ。そうして彼と軽く話した。少しだけ、少しだけだけど、この時間が楽しいと感じた。
それから私は、彼ともっと話がしたいと思い、お客さんの少ない時間を見計らって会っていた。その頃になると、私は彼をよしと君と呼ぶようになっていた。話すうちに、よしと君のことが少しわかった。彼は目立つのが嫌いだそうだ。それが理由で、身長が高いことと、天然の巻き髪がコンプレックスだと言っていた。髪を気にして、指で前髪を引っ張っている姿がちょっと可愛い。
毎日会って話していると、必然的に彼と仲良くなった。今まで、こんなに仲が良かった人が居ただろうかと思えるほどだ。でも未だに彼は、私のことを『西崎さん』だなんて他人行儀な呼び方をしていた。私はよしと君ともっと仲良くなりたかった。だから学校で呼ばれている笑ちゃんと言う、本名と全く関係のないあだ名で呼ぶことを提案した。よしと君は『女の子をあだ名で呼ぶのが恥ずかしい』、という理由でそれを断った。今まで出会った馴れ馴れしい男たちはなんだったのかと思えるほど、硬派な男子だ。彼は妥協案として『春子』と私を呼んだ。春子……。ただ名前を呼ばれただけなのに、顔が熱くなる。私は、それでいいと答えた。彼との会話で、『春子』と名前を呼ばれるたびに、心臓が跳ね上がるのを感じた。幼稚な表現で言うと、彼にドキドキしていたのだ。
気付いてしまった。私はよしと君に対して、完全に恋愛感情を抱いている。気付いてしまうと、もう止まらない。寝ても覚めても、彼のことしか考えられない。彼の仕草ひとつひとつが頭から離れないのだ。恋ってこんな感情だったんだ。苦しいようで嬉しいような感情が、私の心を支配する。私は大きな勘違いをしていた。お母さんは一人しか愛さなかったんじゃない。一人しか愛せなかっただけなんだ。恋愛感情が湧かない? 当たり前だ、私はよしと君と出会っていなかったのだから。
その後、私はジュースと間違えてお酒を飲み、酔った勢いでよしと君に告白してしまった。まぁいいか。言ってしまったものは仕方がない。むしろいい機会かもしれない。どうせよしと君は私の気持ちを知ってるんだ。仲が良いことを利用して、どんどん思いを伝えていこう。