俺は作田吉利(さくた よしとし)。平和を愛する高校2年生だ。なぜ、俺が平穏でなにもない生活を求めているのか。少し話が逸れるが、タナトスというのを知っているだろうか。人が無意識に感じる、死への欲求だそうだ。それが強い人は、自殺などをしてしまうのかもしれない。ちなみにその対義語がエロスという、生への欲求である。生きたいという欲求で、こちらのほうがしっくりくる人が多いかもしれない。目立たず平和に暮らすことへの欲求。俺はそれをピースと呼んでいる。エロスやタナトスと同様、俺にはこのピースが生まれながらにして存在しているのだ。
対義語というと、正義と悪なんて分かり易いものがある。どちらに偏っても目立つ存在になるので、俺は常に中立の立場を保っていきたい。隣のクラスに西崎春子(にしざき はるこ)と言う女子がいる。彼女はテレビで見るアイドルなんかよりもずっと可愛らしく、学校で唯一無二の人気を誇っている。入学当時は、彼女に無理矢理言い寄る迷惑な男たちがいた。それを悪とすると、正義というものが確立されていなかった。そこで生まれたのが西崎春子のファンクラブ、笑(えみ)ちゃんファンクラブである。
この組織は西崎春子に言い寄る者に対し、数で圧倒し成敗する。ここに所属するのが、西崎春子のことが好きな連中だ。春子に男を近づけまいとするが、それは自分らにも当てはまる。なんだか歪な組織だ。俺には全く関係のなさそうなこの組織、そこで定められたとあるルールが俺に希望を見出した。
◆ ◇ ◆
高校生活もルーティンワークと化し、ただ学校に通うだけの毎日。幸運なことにクラス替えでは、春子と同じクラスにはならなかった。春子はショックを受けていたが、同じクラスになっていたら俺はショックどころか不登校になりかねない。
今日も喫茶店・六連星(すばる)でアルバイト。マスターは、機械からコーヒーが抽出されるのをじっと監視している。あれになんの意味があるのだろうか。そういえば1年近く働いたが、未だにここのコーヒーがなぜ美味しいのかという疑問を解消出来ていない。ぼんやりと食器を片付けていると、春子が後ろから抱きついてきた。
「よしとくーん」
出たな。こいつは俺が考え事をしていたり、忙しそうにしているとちょっかいをかけてくる。特に電話をしている時が酷い。営業妨害で訴えてやる。
あの告白から、春子の素行はそれはもう酷いものになっていた。毎日のように浴びせられる「好き」という言葉に、俺の精神は疲弊している。お前とは付き合えないと伝えても「だってよしと君、彼女いないじゃん」と良くわからない理論を展開してくる。
今日だってそうだ。迫ってくる春子を両手で押しのけながら、お断りをするが引く気配はない。親しい関係を先に築いてしまったがために、遠慮というものがないのだ。学校ではすれ違うたびに、さりげなく手を触れたりしてくる。もうここまでくると、校内で突然話し掛けてきそうだ。そんなことをすれば他の生徒からの注目は避けられない。
「あ、そうだ、よしと君のクラスも数学の宿題出てたよね。バイト終わったら一緒にやらない?」
そんなのあったな。春子の部屋で宿題をやることは結構ある。喫茶店が家と繋がっているし、放課後そのまま働いているので教科書なども持っている。お互い勉強は出来るほうなので、教え合うことにメリットはある。
「やった。じゃあ後で部屋来てね」
そういえば春子の部屋には何度もお邪魔している。前まで女子の部屋に入るなんて考えもしなかったが、世の中なにが起こるか分からない。
マスターから夕食をご馳走になった後、春子の部屋で勉強を始めた。床に置かれた折りたたみ式のローテーブル。そこに向かい合って座り勉強をする。しかしあれだ、集中出来ない。
「んー? どうしたのー、よしと君」
春子は両肘を机の上に乗せ、頰に手を当てて笑っている。なぜこいつは、緩めのシャツを着ているんだ。絶対にわざとだろう。彼女が屈むたびに、下着が見えそうになる。黒いブラジャーが少しだけ見え隠れするのだ。
「男の子ってあんまり知らないみたいだけど、胸元とか見てるとわかっちゃうよ。視線が明らかに不自然だもん」
そうだったのか。露出した部分をつい目で追ってしまうが、あれはバレていたのか。それもそうか。一点を凝視すれば誰だって気付く。
「これね。昨日買ったんだ」
春子は照れたような素振りで、首元を下げる。見せるな。
「よしと君さ、黒い下着の紐とか出てると、それを目で追ってる時あるよね。だから思い切ってこういうの買ってみたんだ。どうかな」
だから見せるな。黒い色の下着などは、女性の白い肌にギャップをもたらす。それが非常に気になってしまうのだ。そういう性癖なのだから仕方がない。
「こそこそ見るくらいだったら、見たいって言ってね。そしたら……見せてあげるから」
ああ、恥ずかしいなら言わなければ良いのに。春子の顔は、みるみる赤く茹で上がる。かくいう俺もその状態だ。どうするんだこの空気。俺だって思春期の男子高校生だ。春子のような可愛い女子から、こんなことを言われると動揺する。だが人間には理性というものがあるのだ。ここは堪えて、勉強に集中しよう。
「そっか……じゃあ勉強……しようか」
春子なりに勇気を出した行動だったのだろう。彼女は涙目になってシャツを直した。下を向いて落ち込んでいる。そんな仕草をされると、無性に愛おしくなってしまうのが男の性というものだ。気づけば俺の手は春子の胸元へとゆっくり伸びていた。その瞬間、顔を上げた春子と目が合った。急いで手を引っ込めたが、春子の顔には笑顔が戻ってきてしまっていた。
「今なにかしようとしてたけど、やめちゃうの?」
よし。お前は何も見ていない。学生の本分は勉強だ。不純なことなどあってはならない。再び勉強を再開するも、相変わらずシャツの間から見える黒いものが気になった。それでも理性を保ちながら、なんとか宿題を終わらせた。こんな日々を送っていては、俺の身が持たない。早急になんとかしなければならない。
春子からの愛の告白は、最初の頃は可愛いものだった。ただ甘えているだけという感じだったので、スルーしても問題なかった。だが最近は目が真剣だ。挙句の果てには色仕掛けまで取り入れてきている。そろそろ押し切られそうだ。何か対策を講じなければならない。
「おい、よしと、やべーぞ」
藪から棒にどうした平社員。こいつはなんでも誇張する癖があるから、きっと大したことない情報に違いない。
「いやマジでやべーんだよ! 笑ちゃんファンクラブって知ってるだろ?」
よし分かった。俺はその話題には興味がないから、昨日見たグラビア番組の話をしてくれ。それを子守唄にして眠るとしよう。
「そのファンクラブは、笑ちゃんへの過度な接触や告白を禁止にしたらしい。抜け駆け禁止条例って言うらしいんだが……」
春子もその領域まで来たか。もはやファンクラブというより親衛隊だ。そんなに春子のことが好きなら、告白なりなんなりすればいいだろう。自分まで束縛してどうする。だがこれで春子に近づきたいだけの会員は一掃される訳だ。
「ちくしょう! あんなファンクラブ辞めてやる!」
お前も一掃される側かよ。……ん? 待て。そのファンクラブは、誰でも入れるのだろうか。
「ああ、週に一度の活動に参加出来るやつなら、誰でも入れるぜ。基本的な活動は、笑ちゃんに害がありそうなやつを、人員を集結させて制圧することだ」
ほう、頼もしいじゃないか。
「ああそういえば、入会するには一つ必要な物があった。笑ちゃんの写真が必要だ」
それは盗撮なのではないだろうか。まずそこから取り締まるべきだろう。まぁいい、そのファンクラブに俺も入会させてもらおう。
「おお! お前、興味ないふりしてた癖に、笑ちゃんのファンだったんだな」
ああそうだ。大ファンなんだ。ぜひ入会したい。そして抜け駆け禁止条例をさっさと俺に適用させろ。ついに勝った。俺の平穏は守られるのだ!
しかし盗撮と言うのも気が引ける。春子だって大事な友人だ。彼女が嫌がることはしたくない。仕方ない。彼女に直接写真を送ってもらおう。スマホを手に取り、春子にメッセージを送った。数分後、自撮り写真が送られてきた。斜め上から撮った写真で、指が引っ掛けられたシャツの隙間から、胸元が見えていた。ほう、思ったよりでかいな。……これは使えない。仕方ないから盗撮しよう。
放課後、平社員の案内で、笑ちゃんファンクラブに訪問した。まさか部室まであるとは……。笑ちゃんファンクラ部という名前で、部としての申請が通っているらしい。男子から絶大な人気を持つ春子への対応は、教師陣も手を焼いていた。そこで彼女を守る部を正式に許可したそうだ。
白い引き戸を開け、中に入る。部室はそれなりに広く、数人の幹部が座っていた。パソコンなども置かれている。まるで生徒会室のようなその場所に、生徒会長のような、メガネの男が立っていた。
「ふむ、君が作田君だね。歓迎するよ」
メガネは、俺の方に来ると握手を求めた。平社員が話を通してくれたので、自己紹介をする必要はない。ちなみに、このメガネは佐田源太郎(さだ げんたろう)。ファンクラブでは、会長と呼ばれている。
「君、笑ちゃんのことが好きかね?」
頭を空にして肯定する。つい敬語で返事をしてしまったが、会長は同級生だ。
「では笑ちゃんの好物は知っているかね?」
確かホットケーキミックスで作ったドーナツだった気がする。
「不正解だ。正解は柑橘類だ」
そう言って、勝ち誇った表情を浮かべる会長。だがそれこそ不正解だ。春子は柑橘類が好きというわけではない。母方の親戚が山形に住んでいて、やたらと柑橘類を送ってくるそうだ。それを仕方なく学校で消費しているだけだと、本人が言っていた。
「なんだと? たしかに山形に親戚がいるという情報はあるし、筋は通っているな。貴様は何者だ」
しまった。春子は男子と深い関わりを持たない。この空間で、春子について一番詳しいのは俺だった。ここは、ただの推測ということにしておこう。
「そうか。親戚から憶測を立てるとは、なかなか面白いじゃあないか、君は」
会長は愉快そうに俺の肩を叩く。その後は、この組織について詳しく教えてくれた。このメガネ、話はうまいしこれだけの人数を集めただけあって、なかなかの才覚を感じる。だがなぜそのカリスマを、こんな形で発揮してしまったのかは学園七不思議なんかよりもよっぽど怪奇である。
ともあれ俺はこの日、笑ちゃんファンクラブの一員となった。
バイトが終わり一息つく。春子は俺にカフェオレを用意してくれていた。帰る前に出されるこのドリンクは、福利厚生としてはなかなか良いものだ。カウンターの向こうでは、春子が布フィルターにお湯をゆっくり注いでいる。
「よしと君、私のファンクラブに入ったんだって? なんでー? 私のファンだったの?」
背を向けて話す春子の声は、少し嬉しそうだ。凄いな、もう知ってるのか。とりあえず、春子の大ファンだったと適当な嘘でもついておく。これからはファンクラブの一員として君を守っていくよ。
「えー、守ってくれるのは嬉しいけど……それならファンクラブに入らなくてもいいじゃん。私はよしと君だけに守ってほしいな」
カフェオレを持ってきた春子が隣に座り、俺の顔を覗き込んだ。春子を守るために、ファンクラブに入ったのではない。俺自身を春子の告白から守るためだ。
「そうだ、私のファンなら握手してあげる」
アイドルの握手会みたいに、他の連中だったらさぞ喜ぶだろう。春子は俺の右手を両手で包み込んだ。そうして指を絡めたり、頬ずりしたりとしばらく触っている。アイドルの握手会は、こんなにねっとりやらない。
「よしと君の手ってなんかおっきいね……。私の手よりちょっと硬いかも」
春子のなめらかな指が、舐めるように俺の指の股を這う。なにが楽しくてこんなことをするのだろうか。そう思ったが、不思議な感覚が込み上げてきた。ただ手を触られているだけなのに、気持ちが高ぶる。
「ねぇねぇ、よしと君、私のファンってことは、私のこと好きなんでしょ?」
囁くように話す春子の吐息が、俺の手の甲を撫でる。これはまずい。場の雰囲気というのだろうか、非常にまずい。仕方ない。早速、切り札を切らせてもらおう。笑ちゃんファンクラブの抜け駆け禁止条例という切り札をな。
「え……? ぬ、抜け駆け禁止条例? なにそれ! ちょっとなんで帰るの!?」
後ろで色々言っている春子を振り切り、さっさと帰る。素晴らしい。これがファンクラブという組織の力か。今後春子がなにを言ってこようと、これで収めることが出来る。半年近く春子からの告白をかわしていた。そして日に日に、振り切るのが難しくなっていた。だがようやく、解決の糸口を見つけた。
次の日、放課後のアルバイト。客の少ない時間帯に帰宅したばかりの春子が学生服のまま、裏口のドアの前から笑顔で手招きをしていた。
「よしと君、ちょっといい?」
目が笑っていないように見える。春子の元へ行くと、シャツを掴まれ体を壁に押し付けられた。結構力あるんだなこいつ。
「ねぇ、ファンクラブ辞めてくれない?」
早速、抜け駆け禁止条例について調べたようだ。女子の情報網は半端じゃない。だが俺はファンクラブを辞める気など毛頭ない。会長だって良い人だし、入会してすぐに辞めるなんて無礼だ。
「辞めて」
春子の表情は真剣そのもので、なにか言わなければ解放してくれそうにない。仕事中なんだが……。
「抜け駆け禁止条例なんて意味ないから。付き合ったり、過度な接触を禁止するっていうなら、もう過度な接触の部分は破ってるよ。だったら、もう一つも破っていいよね」
いや付き合う気はないから。なんてことは前から伝えているし、それを言っても引き下がらないことも知っている。だから今回は方向性を変えて、ファンクラブに入ってまで春子を守りたいのだと主張してみた。
「だったら直接守ってよ! ずっと側に居てよぉ!」
俺のエプロンにしがみつき、涙目でそう叫ぶ春子。流石に声のボリュームが大きくなってきたので、春子の口を右手で強引に抑えた。半年近く春子からの告白をかわしているが、流石に限界が来ているのかもしれない。とにかく今は仕事中だ。それを口実にフロアに戻った。春子はしばらく俺をじっと見ていたが、いずれ自分の部屋に戻って行った。
その日は、放課後にファンクラブの活動があった。平社員と入れ替わりで入った新人の俺に、会長は丁寧に活動内容を教えてくれた。
「まぁ、口で言っても分からないだろう。付いて来たまえ」
会長直々に教えてくれるらしい。会員は結構いるみたいだが、皆それぞれの担当があり、曜日ごとにローテーションをしている。
向かったのは2階と3階を繋ぐ階段の踊り場。ここからは、春子の教室が見える。彼女が廊下から出ると、専用のスマホアプリで位置を皆に知らせる。ちょっと待て、なんだこの校内地図アプリは。
「GPSなんて使ったらストーカーになってしまうからな。このアプリを使って、目撃情報を元に位置を特定するんだ。笑ちゃんが人の少ない場所や、危険な場所に行った時に、いつでも出動出来るようにね」
それは十分ストーカーだろう。会長はメガネのフレームを指で押さえながら、スマホ画面を楽しそうに見ている。春子の位置が知れるだけで、こいつは充実出来るようだ。
そんな感じで、ファンクラブ新人研修を終えた。春子への警備体制は完璧で、春子と付き合うなど俄然無理なのだと再確認させられた。ファンクラブ全員を敵に回すなど愚の骨頂。そしてなにより、この会長は良いやつなのだ。とても裏切れない。堅物な外見だが、思考が他人と一風違う。それでいて高い知性を感じた。話せば話すほど面白い人物だった。
「今日は付き合ってもらったからな。少しだけ褒美をやろう」
スマホ画面を俺に見せる会長。画面にあるのは、先ほどのアプリだ。一体これのなにが褒美なのだろうか。ああそうか。この廊下を、春子が今から通るのか。笑ちゃんファンクラブ会員へのご褒美とは、笑ちゃんを一眼見ることだった。廊下の向こうから、女子3人組がやって来る。その中心には春子が居た。左右の女子も、結構な容姿をしている。可愛い女子は、可愛い女子とつるむものだ。会長を見ると、緊張で表情筋が固まりモアイのようになっていた。あとメガネが曇り始めたのは、どういう原理なのだろうか。
そして3人の女子は俺たちとすれ違った。正直俺も緊張した。学校では話し掛けるなと言っているが、今の春子はなにをしでかすか分からない。だが何事もなくすれ違った。安堵した瞬間、春子が俺の方をぐるりと向いた。俺は無意識に呼吸を止めた。心の中で、何も起きないことを願う。願いが通じたのか、春子は再び友人と歩き出した。心臓に悪い。すれ違ったあと、後ろから彼女たちの声がかすかに聞こえた。
「あれ作田君でしょ? 話しかけなくてよかったの?」
「いいから」
「えー、なんでー。話せばいいじゃん」
いや気のせいだ。気のせいに違いない。会長に聞かれていないかと思い、様子を見ると「美しい……」と言って天を仰いでいた。さっきの話は聞こえていないようだ。
事件は前触れもなく起きた。俺が笑ちゃんファンクラブの新人研修を受けた数日後、ファンクラブが解散したのだ。元部室の前には多くの生徒が集まり、何事かと騒いでいる。元部室を閉ざし片付けをしている幹部たち。彼らはその日、解散の理由を皆に伝えることはなかった。
休日を挟むとほとぼりも冷め、ファンクラブ解散の理由を求める者は少なくなった。だが俺は未だに納得していない。抜け駆け禁止条例は、俺にとって必要なものだった。行き場を失った、春子を遠ざける理由。それが亡霊のように思考の中をさまよう。そんな迷える俺を導くように、笑ちゃんファンクラブ元会長・佐田源太郎から呼び出しを受けた。
放課後、プールへ続く渡り廊下。元会長は、グラウンドを走る野球部をメガネ越しで眺めながら俺を待っていた。
「久しぶりだな」
彼の様子に変わりはない。むしろ上機嫌に見える。そんな彼を見ると、なぜファンクラブを解散させたのかますます分からなくなった。
「ああ、それを話そうと思ってね。実は笑ちゃん本人が部室を訪ねて来たんだ……」
本人ってなんだ。マネージャーでもいるのか。彼にツッコミを入れても話が進まない。最後まで聞こう。
「笑ちゃんから直接、このクラブから君を解放して欲しいと言われたのだ。君と笑ちゃんがどういう仲なのかも聞いた……」
そうか。それは申し訳ないことをしてしまった。だが安心して欲しい。俺にその気はないのだ。それに、尚更ファンクラブは必要だ。ファンクラブは俺みたいな人間を春子から遠ざけるためにあるはずだ。
「違うのだよ。このファンクラブを作った理由は、彼女が誰かに取られるとか、そういうものではないのだ。君にだけは話しておこう。私がファンクラブを結成した理由を」
彼は校庭を眺めたまま、笑ちゃんファンクラブ結成秘話を話した。その時の彼は、優しい表情をしていた。
笑ちゃんファンクラブ元会長こと佐田源太郎は、春子と同じ中学出身だった。その頃から春子のファンで、ずっと彼女のことを見ていた。中でも春子の笑顔が好きで、それを失わないために幸せになって欲しいと願った。高校に入ると、彼女は男性に対し恐怖を抱くようになっていた。それは些細な変化で、ほんの一握りの彼女の知り合いだけが知っていた。だが佐田源太郎はそれに気付いた。春子の内面的な部分に惹かれ、ずっと見ていた彼だからこそだった。そうして春子を、彼女に強引にせまる男子たちから守れる組織を作ったのだ。
「ファンクラブは彼女を幸せにするために作った。彼女を守るためにね。だがその必要はなくなった。もう彼女には君がいる」
待て待て、今まで大人数でやっていた業務を一人に押し付けるな。それに俺は自分勝手な人間だ。彼女の幸せを望むなら、他に適任がいるだろう。
「会って日は浅いが、君が相手なら安心出来る。それに男を警戒していた笑ちゃんが自分で選んだ相手なら、それこそ問題ないだろう」
あんたの目は節穴か、もしくはメガネに度が入ってないのか。俺みたいな普通の男、彼女の隣に居たらおかしいだろう。俺は平和な学校生活を送りたいのだ。浮きたくないんだよ。
「ははっ、笑ちゃんが一般男性を選ぶとはな」
いや春子だって一般女性だからな。なに笑っているんだ。笑い事じゃないだろう。
「最後に一つだけ教えてくれないか? 最初に出会った時、私は君に笑ちゃんの好物を聞いた。そして君はドーナツだと答えた。その根拠はなんだ」
単純に本人から聞いただけだ。あと正確にはホットケーキミックスで作ったドーナツだ。春子の母が生きていた頃、それをよく作ってくれたらしい。手作りのドーナツは、一度作ると大量に出来てしまう。3人で暮らしていたからこそ、消費できた。だからこそ家族の思い出の味として、彼女の中に強い印象を残している。そういえばこの前、春子がそれを作ってくれた。俺が居る時は消費出来ると考えたのだろう。
「そうか。それを聞いて安心したよ。……じゃあな」
元会長はそれだけ言い、背を向けて校舎側へと歩き去った。何一つ解決していない。この話は一体なんだったのだろうか。彼が立ち去る前に見せた笑顔。その完璧な笑顔は、流石は笑ちゃんファンクラブ元会長といったところだった。
ファンクラブが消えたことなど露知らず、春子はいつものように微笑んでいる。喫茶店に来る男性客の多くは彼女が目的だ。春子に名刺を渡そうとする客もいるが、それはマスターや俺が阻止している。
そんな明るくて、誰の心にも隙を作る彼女が、俺の元へとやってくる。ふわりと動く髪や、エプロン。柔らかい目元に、小ぶりな唇。その全てが笑っているような、そんな彼女が俺に言うのだ。
「よしと君、好きだよ。だからね、ファンクラブに入るとか、次にまた変なことしたら容赦しないから」
俺はどうしたら良い。彼女を止めるものがない今、どうやって平穏を保てば良いのだろうか。