俺は作田吉利(さくた よしとし)。目標は生涯平凡であること。そんな人も居たねとすらも思われない、印象のない人生を送りたいのだ。どんな目標でも、達成には多くの障害がある。そこで重要になるのが、どう決断していくかだ。人間は1日に数多くの決断をする。重要なものもあれば、今日のご飯はなににしようなどという些細なものもある。かのス○ィーブ・ジョブズ氏が毎日同じ服を着ていたのは、この決断を減らすためだったという。服を選ぶ決断を節約して、他に費やしたわけだ。それほど、人生において決断は重要だ。かくいう俺も決断を効率化させるために、やっていることがある。それは、なにか決断を迫られた場合、『普通の人ならどうするか』という思考に持っていくことだ。これにより俺の人生は平均へと導かれ、特徴のない普通の人間になる。この方法で多くの困難を乗り越え、他人からの注目を避けてきた。
隣のクラスに、西崎春子(にしざき はるこ)と言う女子生徒がいる。彼女の笑顔は多くの人を魅了し、誰からも愛される柔らかい性格を持っている。そんな彼女がどうして俺を好きになったのかは、フィボナッチ数列を見出した人物にも証明出来ないだろう。春子のような特別な人間が俺に突きつける選択肢は、『普通の人ならどうするか』という思考を狭めていく。そうして絞り込まれた決断は、遂に一つへと収束される。
◆ ◇ ◆
昼休み、俺の前で平社員とデブが話している。いつもの光景だ。
「この前さ、黄色いバッグ・クロージャーがあってさ」
「マジ? 黄色はレアだよ。凄いね平社員」
待て、バッグ・クロージャーとはなんだ。流行ってるのか? その話、俺も混ぜろ。
「まぁ、色違っても性能変わらないけどな」
「実はね俺、外国版入手したんだよ」
「まじかよすげー! 海外版とか集めたいよなー」
だからバッグ・クロージャーとはなんなんだ。気になるだろう。教えろ平社員。
「お前、バッグ・クロージャー知らないのかよ! あれだよ、食パンの袋ふさぐやつ」
あれか! あの四角くて平たいやつバッグ・クロージャーって言うのか! 食パンとかについてくる、封を閉じるやつだな。ゴミじゃないか。あれのどこに、お前らを引きつけるものがあったんだ。
「ところでさ」
どうした平社員。
「おっぱいっていいよな……」
は? 話変わりすぎだろ。『ところで』という言葉は、会話を根こそぎひっくり返せるほど便利ではないはずだ。バッグ・クロージャーの話に戻せ。
「いや、昨日AV見てたらさ。おっぱい最高だなって思って」
語りだした。そもそもこいつは日常的にAVを見ているのだから、いつも感じていることだろう。
「わかるよ平社員。俺もおっぱいってどんな触り心地なのかなって気になるし」
なんだデブ、お前立派なおっぱい持ってるじゃないか。それを揉んでおけよ。話題がおっぱいにシフトしたが、とても付いて行けそうにない。散れ、俺は読書に勤しむ。
「いやー、爆乳もいいけどやっぱ適乳かな。笑(えみ)ちゃんとか大きさ完璧だよな。笑ちゃんのおっぱい触りてー」
平社員が女子から嫌われる原因は、堂々と実名を出すところにもある。あと春子のは、強調する下着を着けていないだけで実際は結構でかい。まぁ、なんというか……俺は平社員のことは結構好きだし、友人だと思ってる。だが今回ばかりは、かばいきれそうにない。他人のふりをしよう。
「なんの話してるのー? 平井くん」
横から聞こえたのは春子の声。人脈の多い彼女は、当然このクラスにも友人はいる。昼休みということで遊びに来ていたのだ。それにしても平社員は、平井という苗字だったのか。
「私のおっぱいがどうとかって言ってたよね」
「え、いや、その……」
完全に聞かれていたようだ。終わったな平社員。
「最低だね」
そう言って春子は、からかうような笑顔で振り返った後、その場を去って行った。良かったな平社員。そこまで気にしていないみたいだぞ。まぁ、こいつにそれを分かるほど、春子を理解しているかは別の話だが。……そうか。もう、平社員には俺の声すら聞こえてないのか。真っ白に燃え尽きた平社員の隣では、デブが何かをばりぼりと食べている。周りの女子たちがひそひそと、平社員に対して陰口を叩いている。なるほど、いつも通りの昼休みだな。
平社員が深く傷ついたその日、春子は喫茶店・六連星(すばる)の手伝いには来なかった。彼女だって暇ではないので、いつもここで手伝いをしているわけではない。バイトが終わりスマホを確認すると、春子からメッセージが来ていた。内容は給料を支払うので、終わったら待っていて欲しいとのこと。今日は給料日だったのか。マスターはなにかと忙しいので、給料は春子から渡される。ちなみに、ここは現金払いである。給料が全て生活費に消える俺にとっては、銀行に行く手間がないのでこちらの方が楽だ。
カウンター席は背もたれが低いので、テーブル席で読書をして待つ。椅子を横に向けると、テーブルが丁度良い肘掛になる。少しすると店とリビングを繋ぐドアが開き、春子が出て来た。彼女の手には茶色い長3封筒があった。いつもの給料袋だ。
「はい、これ今月分」
封筒を受け取る。そしてなぜか、春子は俺の膝に座った。尻が俺のアレを圧迫している。これは良くない。一人暮らしで人の温もりに飢えている上、思春期である男子高校生には刺激が強すぎる。……間近にある春子の髪の毛は、とても良い匂いがした。風呂に入ってから来たのだろうか。
「昼休みに私の話、してたでしょ」
あれは平社員が勝手にしていただけだ。俺は関係ない。そんな俺の言い訳など聞かず、春子は話を続ける。
「胸触りたいんだったら……いいよ、触って」
シャツの裾を出し、手を入れる空間を作る。正直触りたい。春子は俺にとって、理想の女性とは言えない。目立つし、外見も整っていて色々と釣り合わない。だが性欲は別だ。可愛らしい見た目をしているから、普通に欲情してしまうのだ。いいじゃないか。本人が良いと言うのだから。……いや待て、いっときの感情に流されてはいけない。
「よしと君なら……いいよ」
春子は手を後ろに回し、ブラジャーのホックを外した。その行動が原因かもしれない。はたまた彼女の体重が俺の股間を圧迫しているからかもしれないし、彼女から良い匂いがしたのがいけなかったのかもしれない。とにかくその瞬間、理性がどこかへ吹き飛んだ。
シャツに両手を滑り込ませ、まっすぐ胸へと進む。その先にあったのは、とてつもなく柔らかくて弾力のある何かだった。なんだこれは……! この感触について詳しく説明したいところだが、興奮のあまり思考が回らない。人生で味わったことのない、感触による快楽。
「ん……んん……」
春子は声を出さないように必死に耐えている。そんな喘ぎ声を、もっと聞きたいと思いついつい強く揉んでしまった。
「あっ…ん……!」
やばい。これは止まらない。もうどれくらいこうしていただろうか。気づけば春子は体をずらし、俺の方を向いて顔を近づけていた。とろけそうなほど緩んだ表情で、キスを求めてくる。可愛い。だが顔を見てしまうと、どうしても見えてくるものがある。それは目の前に居るのが春子だという事実だ。
現実に引き戻されたと同時に、激しい後悔が襲ってきた。なんてことをしてしまったのだろうか。俺は立ち上がる。膝に乗っていた春子は、突然放り出される形となり動揺していた。
まさかこうも簡単に理性が飛ぶとは思っていなかった。日々繰り返される春子からの求愛が、ジャブのように雄の本能に効いていたのかもしれない。ひたすらに謝って、それでも足りない気がして給料の入った封筒を彼女に押し付けた。
そして逃げたのだ。喫茶店・六連星から飛び出し、日の落ちた薄暗い街道を走った。最低なことをしてしまった。春子を受け入れる気なんてないくせに、自分の本能に従ってしまった。そしてあまつさえ、金で解決しようとした。春子は金のためにあんなことをするような女ではない。もう何も考えたくない。とにかく明日、謝ろう。許してもらえないかもしれないし、もう友人ではいられないかもしれない。だが俺には謝る以外に、なにも思いつかなかった。
翌日の昼休み、平社員、デブと共に昼食を食べていた。昨日の件があり、心が重い。陽気に話す平社員の話は頭に入ってこないし、その隣で繰り広げられるデブトークには興味が持てない。これはいつものことか。それにどんな味だったかと久しぶりに買ってみた栄養食品も、味がよく分からない。砂漠の砂を固めたような食感に、少しでも呼吸をしようものなら粉を吸い込み噎せてしまう。とても喉を通りそうにない。いや待てよ、これカ◯リーメイトか。これも、もともとこんな味なのではなかろうか。
平社員が言うには、春子の元気がないのだと噂になっているらしい。これは腹をくくって、さっさと謝った方が良い。そう考えていると突然、教室のドアが開け放たれた。大きな音を立てたドアの方向に、クラス全員が箸を止めて注目する。そして皆驚愕した。皆の目線の先に居たのは笑ちゃんこと、西崎春子だったからだ。彼女の表情には、代名詞とも言える笑顔はない。そして春子は、真っ直ぐ俺を見ていた。
まずい。これはまずい。心臓が激しく鼓動する。俺の中のピースが警鐘を鳴らしているのだ。
歩み寄る春子の右手には、茶色い封筒がある。昨日俺が押し付けた給料袋だ。確かに謝ろうとは思っていたが、これほど注目を浴びた状態というのは良くない。立ち上がり、場所を移そうとしたが遅かった。
「こんな物のために……私は……あんなことをしたんじゃないッ!!」
思い切り封筒を投げつけられた。封筒は俺の胸に当たるとそのまま地面に落ちた。中身がはみ出なかったため、何が入っていたのかを知る者は春子と俺だけだった。
春子の剣幕に黙る者も居れば、ひそひそと憶測を話している者も居る。兎にも角にも、注目が一点に集中していた。
「ねぇ……よしと君、付き合ってよ。あそこまでしたんだから……付き合ってよぉ……!」
春子は俺のシャツを掴み、すがるように訴えかける。終わった。俺はどこで間違えたのだろうか。分かっている。理性をコントロール出来なかった俺が悪いのだ。いつだって平凡な道を選んで来たはずだ。それが今はどうだ。学校で一番人気のある女子から、クラス中が注目する中告白されている。
いや、待て、れれれ冷静になれ。人生最大の危機だからこそ、選択を間違えてはいけない。こういう時こそ原点に帰るべきだ。何か決断を迫られた場合、『普通の人ならどうするか』と考えるようにしている。俺は平凡な男子高校生だ。平凡な男子高校生が、学校一の美少女から告白されたらどうするか。二つ返事で受け入れるに決まっている。今だけを考えれば断るのが良いかもしれないが、長期を見据えればブランドイメージを保つことが最優先だ。よし分かった。春子、俺と付き合おう。
「え……えっ! ほんと? や、やったぁ!」
花が咲くように、ぱっと明るくなる春子の表情。勢いで抱きつこうとする彼女の肩を抑え、教室の外に連れ出した。もちろん給料袋を拾ってからだ。静かだった教室は、俺たちが去った途端にどっと騒がしくなった。
春子の腕を引き、階段の踊り場に来た。彼女を壁際に追いやり、片手を壁に当て行動を制限する。勢いでこういう体制になってしまったが、これ壁ドンじゃないか。そんな俺に、春子は顔を赤らめてはにかんでいる。
「よしと君って……付き合うと強引になるタイプなんだ」
違う。それと浮かれているところ悪いが、付き合ってからも学校での接触は避けるようにしてくれ。
「えぇ……嫌だよ。恋人同士になったんだから一緒にいたいし」
口を尖らせて拗ねられても、俺は意見を変えるつもりなんてない。そもそも学校で目立ちたくないのだと、何度も伝えている。もうかなり手遅れだが、悪化は食い止めなければならない。
それに、考えなしにただ告白を受けたわけではない。一度恋人になったとしても、それをうやむやにしてしまえば良い。彼女とは極力、学校では会わずいつの間にか別れているのが理想だ。目立たずひっそりと学園生活を終えることは出来なかった。だがまだ手遅れではないはずだ。可愛い女子が誰かと付き合うことなどよくあることだ。そしてそのカップルが解散した場合、相手の男のことなど誰が覚えていようか。
「……わかった。じゃあ、せめて放課後は一緒に帰ろうね」
それも駄目だ。春子は全く納得していなかったが、ここは譲れない。あとはどうにかして、別れなければならない。いや、元より釣り合っていないのだ。放っておけば勝手に愛想を尽かすだろう。世の中には良い男などいくらでも居るのだから。
その後しばらくして、笑ちゃんファンクラブ元会長こと佐田源太郎(さだ げんたろう)から俺のスマホにメッセージが届いた。
『おめでとう』
うるさい。しかしそのメッセージが意味するところは、もう他のクラスまで噂が回っているということだった。なんとも頭が痛くなる状況だ。
西崎春子に彼氏が出来たらしい。そんなスキャンダルで、学校は大いに盛り上がっていた。いや、多くの男子にとっては盛り下がっていたというべきか。どこに居ても、春子と付き合うこととなった経緯を聞かれる。それは教室でも同じだ。目立たず平和な学校生活はどこへやら。
今更なにか行動を起こしたところで、事態が収集するとも思えないのでさっさと帰宅してしまおう。最後の授業が終わるとホームルームをサボり教室を出た。下駄箱に向かう途中、一つ下の後輩である安藤杏(あんどう あん)と遭遇した。2年のロッカーの前に立っているということは、誰かを待っているのかもしれない。
だが今は、彼女に構っている余裕はない。俺は軽く挨拶をすると、彼女の脇を通り過ぎようとした。だが右手が捕まれ、俺の体は振り子のように跳ね返った。なんだ、何か用があるのか。俺は忙しいんだ。
「先輩、ちょっと来てください」
いつもの彼女とは違う面持ちだった。重要な話、もしくは悩み事でも抱えているのかもしれない。俺としては早く帰りたいが、先輩として話を聞いてやらなくもない。
杏と俺は、空き教室のロッカー前に来た。なんだか最近、人気の少ない場所にばかり来ている気がする。春子関係の案件が多かったので、仕方がないのかもしれないが。
杏は何かを言おうとはしているが、なかなか話を切り出さない。歯切れが悪そうに、口を閉じたり開けたりしている。しばらくそうした後、突然泣きだした。どうした、なにか嫌なことでもあったのか。とりあえずハンカチを渡す。っておい、ハンカチで鼻をかむな。
「……せ、先輩、ひどいです……。私のこと好きって言ってたのに……」
言ってない。
「西崎先輩と付き合うなんて……」
結局その話か……。もう1年まで噂が広がっていたとは驚いた。だがなぜ、杏は泣いているのだろう。彼女は俺のことを振っている。俺が春子とどうなろうが、関係ないはずだ。しかしよく考えてみると、自分のことが好きだと思っていた相手が、いきなり恋人を作ったらショックを受けるかもしれない。仕方ない。ちょうど協力者が欲しいと思っていたところだ。杏には事情を話しておこう。
そうして春子と俺の関係を話した。同じ喫茶店で働いていることや、付き合う気はなかったこと。どうにかして別れようと考えていることなど、一通り説明する。話し終わると、杏はほとんど泣き止んでいた。
「もう……西崎先輩にすら心が動かないとか、私のこと好きすぎて怖いですよ……」
それは違う。杏は涙を袖で拭きながら、少し嬉しそうな顔をする。話を聞いたからには、協力してもらうからな。
「普通に振っちゃえばいいじゃないですか」
駄目だ。味方の多い春子にそんなことをしたら、その数だけ敵を作ることになる。それに春子とは、知らない仲ではない。こっぴどく振って傷付けるのも心が痛む。
「春子春子って……そんなんで、どうするんですか」
なに不機嫌になっているんだこいつは。とにかく春子の方が俺を嫌いになれば問題ない。もしくは自然と疎遠になり、いつのまにか別れている状態が好ましい。
「それ結構難しいですよ。なんか心配なんですけど」
杏は本気で心配そうな表情で見つめてくる。だが問題ない。策はある。それが失敗して、これはもう駄目だと思った時に杏に相談しようと思う。
「それって手遅れだと思うんですけど……まぁ、なにかあったら連絡してくださいね。いつでも相談に乗りますよ」
この子は、なんて良い後輩なのだろうか。出会い方は悪かったが、今では可愛くすら思える。それに女子の協力者が出来たのは大きい。俺だけでは女心など分からない。
「あ、そうだ。このハンカチ貰いますね」
洗って返してくれ。それはお気に入りなんだ。
「私の使用済みハンカチを、なにに使うつもりなんですか。先輩の変態っぷりは、彼女が出来ても健在ですね」
使用済みとか言うな。それと俺は変態じゃない。やはり女子というものは、何を考えているのか分からない。
春子の大胆な告白は学校内で大きな衝撃を生み、翌日は寝込んでしまう男子生徒が出るほどだった。それは数日経っても収まらず、廊下を歩くだけで知らないやつから噂される毎日。正直、ストレスで胃に穴が空きそうだ。春子とは今まで通り、学校では接触していない。意外なことに、最も恐れていた、春子のことが好きだった男子たちからの嫌がらせは起きていない。思いの外、学校生活は平穏だった。この平穏が保たれている内に、事態を収拾する必要がある。
ぼうっと教室の窓を眺める。隣では平社員がとろろ昆布を食べている。とろろ昆布はすばらしい食品だが、こいつが食べているとどうしてか気色が悪い。
「お前、笑ちゃんと一緒に食べなくていいのか?」
問題ない。それよりも平社員は、笑ちゃんのことが好きだったはずだ。俺にそんなことを聞いてる場合なのだろうか。
「だって相手はお前だろ。流石に他のやつも、諦めがつくんじゃないか?」
いや諦めんなよ。今まで繰り広げていた水面下の戦いはなんだったんだ。春子を巡って、汚い足の引っ張り合いをしていただろう。それにこいつは、俺を買い被りすぎている。親戚のおばさんに、イケメンと言われるあれだ。
無意味な抗議を平社員にしていると、誰かが俺の肩を叩いた。クラスの女子だ。名前は知らない。彼女は俺に、ドアの方を見るように言った。目を向けるとそこには春子が居た。
「あ、居た。よしとくーん!」
なぜ春子がここに居る。やめろ、手を振るな。学校で話しかけるなと言ったのに、どういうことだ。急いで春子に近寄り、理由を尋ねた。
「だって、よしと君いつも適当なものしか食べてないんだもん。彼女としては心配だよ」
そう言って可愛らしい包みに入った。弁当を差し出す。聞きたいのは、そんなことじゃない。なぜここに来たのかと聞いているのだ。ここでは目立ってしまうので、場所を変える。確かこの時間、花壇付近は人が少なかったはずだ。
校庭裏の花壇の前、そこにあるベンチに並んで座る。手作り弁当は、断るのももったいないので食べることにした。うん、美味いな。一人暮らしで料理も出来ないので、手作りの食品に飢えている。隣では、俺の顔を眺めながら春子がにこにこと笑っている。
「そんなに必死に食べなくてもいっぱいあるよ。でも良かった、喜んでくれて」
しまった。久しぶりのまともな食事に、つい夢中になってしまった。もはや説得力の欠片もないが、今後も教室に来られると困るので弁当は断ろう。それに春子だって大変だろう。
「別に大変じゃないよ。よしと君、いつも売店で買った栄養のなさそうなの食べてるし」
なぜそれを知っている。とにかく弁当は止めてくれ。どうして突然約束を破ったんだ。学校での接触は避けるように言っていたはずだ。
「私たち、付き合ってるんだよね……? 恋人っぽいこと、全然出来てないよ……」
俺たちは付き合ってはいるものの、今までとなんら変わらない日常を送っていた。それが不満だったのだろう。実を言うと、これは想定内だったりする。理想と現実とのギャップにより解散するカップルは多い。春子が不満を持ち始めたのは大きな前進だ。
「付き合ったら、よしと君になにしてもいいと思ってたのに……」
付き合ったからって、なんでも許されるってことはないだろう。恋人を理由に俺が春子にセクハラしたら不快に思うはずだ。
「いいもん別に。私だってセクハラしたいし」
そうか。ならば尚更駄目だ。放っておいたら、なにをされるか分かったものじゃない。
「恋人っぽいこと全部したいの。まだキスだってしてないし。ペアルックとかもしたい。あと……学校も一緒に行きたいし、休み時間も一緒にいたいんだもん。いちゃつきたい時に、いちゃつきたい!」
春子はうつむいて拗ねて見せるが、言っていることはめちゃくちゃだ。その要望を全て実行したら、ただのバカップルになってしまう。バカップルの悪目立ちは、俺でなくても精神的にくるものがある。
空になった弁当箱を春子に返す。この弁当箱一つ洗うのも、結構手間だろう。「あ、よしと君、右のほっぺにご飯粒ついてるよ」
それは気付かなかった。手で右の頬を摩るが、ご飯粒は見つからない。
「もっと上だよ。しょうがないなー、私が取ってあげる。顔こっち向けて?」
春子はベンチから乗り出し、拳一つ分ほど腰を上げた。そして彼女の顔が近づいたかと思うと、唇に柔らかいものが触れた。一瞬何が起きたのか理解出来ずにいたが、少しすると状況を理解した。こいつ、どさくさに紛れてキスしやがった。混乱が解けない内に、春子の唇はゆっくりと離れる。
「まずは一つ達成だね。ファーストキスも貰ったし、次はなにしようか」
そう言って、唇に指を当てて微笑んでいる。おい待て、不意打ちは卑怯だろ。俺が問いただそうとすると、春子はいたずらっぽく笑いながら逃げて行った。