透明な物をなくさない方法   作:ヤンデレ大好き星人

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第八話 さようならだ春子

 俺は作田吉利(さくた よしとし)。普通の人生を目指し、日々努力している。最近は西崎春子(にしざき はるこ)と付き合っていたせいで、なにかと注目を浴びている。後輩である安藤杏(あんどう あん)の協力のもと、春子と別れる計画が進行中だ。それが成功したとしても、元の日常を取り戻すことは出来ないだろう。もう十分目立ってしまったし、これからも春子と別れた男として扱われる。だがそれで良い。このまま春子と付き合っていても仕方がない。高校生活はもう諦めて、どこか遠くの大学を受験しようと思う。それで俺は、また一から平穏を構築するのだ。

 それにしても最近、嫌な夢を見る。夢は記憶の整理をするものとされているが、なにかの予兆とも言われている。また精神や身体の状態によっても内容が変わるらしい。例えば、寝ているのに夢の中でも寝ていたら、それはひどく疲労していることを意味するそうだ。

 最近見る夢というのが奇妙なもので、とても記憶の整理だとは思えない。内容は、夜中にふと目が醒めるところから始まる。なぜ起きたのかは分からない。だが、どこからか視線を感じるのだ。そしてバルコニーがある方のカーテンを見ると、隙間から何かにじっと見られている。そんな夢だ。

 この夢が何を意味しているのかは分からない。悪いことの予兆じゃなければ良いのだが……。

 

◆ ◇ ◆

 

 春子はいつも通り、幸せそうに俺の隣で笑っている。これから別れ話をされるとは、微塵も思っていないのだろう。そんな姿を見ていると心が痛む。その日は彼女の顔を、まともに見られなかった。それでも春子は構ってもらおうと、いろいろちょっかいをかけてきた。そういう所がまた、小動物のようで可愛らしい。本当に、どうしてこんな子が俺なんかを好きになったのだろうか。

 店は閉店し、床の掃除をしていた。ここ喫茶店・六連星(すばる)にも、随分長く勤めたものだ。結局ここのブラックコーヒーがなぜ美味しいのか、その秘密を知ることはなかった。今日でここを辞める。マスターにそれを言った時、ただ頷いて了承してくれた。春子には言ってない。言わなくてもいずれ分かることだからだ。

 店の掃除が終わる。マスターは買い忘れたものがあると言って出て行った。今が春子に別れを告げるタイミングだ。食器の片付けをしている春子に、話があると伝えた。

 「なーに?」と言って、ぱたぱたという小気味良い足音をさせながら、俺の元にやってきた。正面に立つ春子は、何かを期待している様子だった。

 一呼吸置き、別れたいのだと伝えた。

「またその冗談? 私それ嫌い。もう言わないでって言わなかったっけ……」

 聞く耳を持たないという感じでそっぽを向こうとする春子の肩を掴み、話に引き戻す。そして告げた。他に好きな人が出来た、と。

「冗談……だよね……。また前みたいに私をからかってるんでしょ? ……ねぇ」

 笑顔の奥に不安が見え隠れする。そんな春子に対し、俺は黙って首を横に振った。

「うそ……。誰? なんていう子なの?」

 まくし立てられ、杏の名前が口から出かかる。だが春子の言っていることにはいはいと聞いていては、いつもの二の舞になってしまう。春子も知りたがっていることだし、ここは外に待機している杏に入ってきてもらおう。どちらにせよ、杏には立ち会ってもらう予定だった。今がそのタイミングだ。

 入店口に軽く手を振って合図をした。春子もその動作を見て、そこに視線を向ける。そして閉店というプレートの掛かった扉がゆっくりと開けられた。

「あのー、私、安藤杏っていいます……!?」

 店内に立ち入った杏が怯んだ。今の春子が、普段の柔らかい雰囲気とはかけ離れていたからだ。春子のこんな顔は、俺も見たことがない。こんなに冷たい目が出来るのか。

 場の空気が一変し、同じ照明のはずなのに店内が微かに暗くなった気がした。なんだこの重苦しさは……。肺がぎゅっと掴まれているみたいだ。

「へぇ、この子が……」

 そうだ。俺はこの安藤杏のことが好きなのだ。

「もしかして、この前よしと君にキスしてた子? 髪の色、明るい。あと身長が高いんだね。美人だし顔立ちもしっかりしてる。結構目立つよね。よしと君の好みとは違うかな」

 流石に鋭い。だが春子、お前より目立つやつはそういないぞ。

 杏が何かを言おうとするが、春子はその隙を与えない。

「杏ちゃん、だっけ? えっとね、よしと君は素敵だし気持ちはわかるんだけど、私の彼氏だから諦めて?」

 扉の前に立つ杏を、春子は早々に拒絶した。このままでは、杏を呼んだ意味がなくなってしまう。俺の方からなにか言うべきだ。しかし俺のシャツはがっしりと掴まれており、発言したとしても距離の近い春子が先に口を挟んでしまう。そして春子は俺だけにこう囁いた。

「浮気はだーめ。でも今回は許してあげるから」

 俺は別れたいだけだ。許されては困る。杏もこのまま引き下がる気はないらしく、俺たちの方に歩み寄った。

「あのー、西崎先輩? よしと先輩の言い分も、聞いてあげたらどうですか?」

 杏が俺の隣に立とうとすると、その間に春子が割り込んだ。精一杯の作り笑いを浮かべながら。

「うん。そうだね。話はちゃんと聞かないとね。そうだ、じゃあ今から私の部屋で話し合おっか。二人っきりで」

 待て。この流れで部屋に引きずり込まれたら終わりだ。俺の目をまっすぐ覗き込むこの目。この表情はとても良くないことを考えている時の春子だ。

「ごめんね、杏ちゃん。そういうことだから、来てもらって本当に申し訳ないんだけど、これは私たちの問題なの。帰ってもらっていいかな」

 笑顔で接しているが、言っていることは『帰れ』ということだろう。

「それはないんじゃないですか? よしと先輩だって、意味もなく私をここに連れて来たりはしませんよ。その理由くらいは、ここで言わせてあげてもいいと思うんです」

 春子は「うんうん」と言いながら、先輩が後輩に向けるような優しい笑顔で聞いている。否、聞き流している、が正解だ。

 いなすように扱われた杏だが、彼女も余裕があるようだ。あらかじめ用意していたのだ、春子の意識を自分に向ける言葉を。

「あ、そっか。怖いんですね。よしと先輩が、西崎先輩のこと好きじゃないって分かってるんですよね」

 その瞬間、春子の表情が固まった。彼女の脳裏を巡るもの、それは俺が初めに別れ話をした時のこと。あるいは告白を断られ続けた時の記憶。なんにせよ、春子には思い当たる節がありすぎた。

 俺のシャツから、春子の手が離れる。その手はカウンターテーブルの上に置かれ、何かを探すような動作をしていた。これは投げつけるものを探しているのか? 俺は急いでその手を掴んだ。掴んだ手は、震えていた。

 俺は告げた。はっきりと。杏のことが好きで、春子とはもう一緒にいられないことを。それを聞いた春子は、ただただ悲しい顔をして見上げてきた。

「嫌だよ……。別れるなんて出来ない。絶対ダメだから」

 やはり春子は強情である。ならば俺も強情になるしかない。春子と別れた後、すぐにでも杏と付き合う。そういう設定にしてやる。

「え……! 先輩、本当ですか! ま、まぁ、先輩がそう言うなら仕方ないですね。付き合ってあげてもいいですよ」

 口裏を合わせてはいないが、話に乗ってくれた。しかし杏の受け身な態度が、春子の逆鱗に触れた。

「な、なんなのそれ! 仕方なくで人の彼氏に手を出さないでよ!!」

 もっともである。今にも掴みかかりそうな春子を前に、杏は冷静を保っている。

「西崎先輩、最後は本人がどうしたいかですよ。よしと先輩は、私のことが好きで好きで仕方がないんです。私の言うことならなんだって聞いてくれるんですよ? ほら! よしと先輩、私にキスしてくださいよ! 今、ここでっ!」

 ……え? そこまでする必要があるのか? 動揺を乗せた表情を杏に送る。しかし杏はそれを無視した。彼女は興奮からか少し頰を赤らめる。どうして杏はこの状況で、そんな嬉しそうな表情が出来るんだ。

 だがこれも作戦なのだろう。もうここまで来たら引き返せない、今更やっぱりなしなんてことはない。だらだらと付き合っていても、春子のためにならない。ならば杏の作戦に乗るべきだ。

「だ……駄目ッ!!」

 横から春子の叫び声が聞こえた。

 だが俺はゆっくりと杏に口付けをした。

 その瞬間、時が止まったかのように春子の声が止んだ。空間に亀裂でも入ったかのような突然の静寂。

 その後すぐに、ばたばたと走る音がした。目を向けると、春子がキッチンに入って行くのが見えた。そしてすぐに戻って来た。包丁を手に持って。

「返して! 返してよッ!! よしと君、こっち来て? ね? じゃないと私……! 私ッ!」

 手に持った包丁を、真っ直ぐ杏に向けている。俺はその間に立って、杏をかばうように抱いた。ああ、まずい。これはやりすぎだった。このままだと、杏に危害が加わるかもしれない。彼女は全く関係ないのだ。巻き込んではいけない。また失敗だ。もうこんなことはやめよう。平穏に生きて生きたい。そんなものは単なる我儘で、他人に物理的な危害を加えてまで押し通す必要はない。

 だが杏は俺の耳元で「大丈夫ですよ」と言って、俺の腕からするりと抜けた。そして春子の前に立った。

「いいですよ。刺せばいいじゃないですか」

「……っ!」

「出来ませんよね……。そんなことしたら、よしと先輩に二度と会えなくなりますもんね」

 しばしの沈黙。そして、からんと包丁が落ちる音がした。

 それと同時に、春子が崩れ落ちた。床に膝を付き、下を向いた彼女の顔から涙が滴っていた。

「うぅ……なんで……なん…で……」

 そんな春子を見ていられなかった。さっきまでは笑顔だった。それがここまで崩れるとは、思っていなかった。だが別れると決めた以上は、いずれこういうことになる。傷は浅い方が良い。これで良いはずなんだ。

 これ以上、ここに居たくない。そう思い杏の手を引き、帰ろうとする。しかし、後ろから奇妙な声が聞こえてきた。

「……くくっ……くくくくっ……」

 何かを堪える声。これは春子のものだ。なぜ……なぜなんだ。

「あはっ、あはははははははは! なんでッ……きゃははははっ! よしと……くんっ……いひっ、あは、あははははははははははっ!!!」

 なぜ春子は笑っているのだろうか。両目から大粒の涙を流しながら、どうして笑えるのだろうか。

「せ、先輩、やばいですよあの人。早くここから出ましょう」

 普通ならばこの光景を見て、春子がおかしくなったのかと思うのだろう。だが俺は彼女が笑っている理由が分かってしまった。『辛い時や悲しい時でも、笑顔でいれば幸せになれる』。それは春子の母親が残した言葉だ。春子は今、どれだけ辛いのだろうか。どれだけ悲しいのだろうか……。

 俺が引いていた杏の手が、今度は俺の手を引っ張っている。春子の笑い声が鳴り響く中、喫茶店・六連星を後にした。

 帰り道、杏と寄り添って歩いた。怖かっただろう。包丁を向けられる経験など普通はない。彼女を家まで送ったが、杏は俺の方を心配していた。大丈夫だ。春子は気が動転していただけで、本来なら誰かに危害を加えるようなやつではない。

 

 

 

 帰宅したものの、どうしても今日あった出来事を思い出してしまう。あそこまで取り乱した春子を見たのは初めてだった。ずっと平凡な日常を目指して生きてきた。それが最も平和に過ごせる方法だと思っていた。しかし春子を傷つけてしまった。俺なんかのために、あそこまで涙を流すとは思わなかった。彼女は今何をしているのだろうか。

 なにもやる気が出ないので、眠くもないくせにベッドに横たわった。すると音声通話の着信が鳴った。杏からだ。

「もしもし、先輩? 無事に帰れましたか?」

 心配してくれたのか。杏は俺の声を聞いて、安心したという感じで一息ついた。

 そういえば、まだお礼を言っていなかった。よく考えてみればこの件に関して、杏は全くの無関係だ。だというのに、真摯に俺の相談に乗ってくれた。なにかお礼をしなければならない。

「いいですよ、お礼なんて。それよりも、明日からよろしくお願いしますね」

 見返りを求めないとは、なんて良い後輩なのだろうか。杏への考えを改める必要がありそうだ。……ん? 明日からよろしくってなにをだ?

「いやだなぁ、先輩はもう私の彼氏じゃないですかー」

 もう恋人のふりは終わった。きっとこれは、俺を安心させるためのジョークなのだろう。包丁を向けられたことで杏の精神状態が心配だったが、冗談を言える余裕があるのなら大丈夫そうだ。

 他愛もない話をした後、通話を切る。切った直後に、また着信が鳴った。言い忘れたことでもあったのかと思い、差出人も確認せず反射的に通話を取る。

「……」

 おかしい。電波が悪いのだろうか。

「……く……くくっ…」

 笑いを堪えるような声が聞こえる。……春子か。ようやくスマホの画面を確認し、差出人を見た。西崎春子とはっきりと出ている。

「あははっ……よしと君だ! 出てくれたぁ……」

 なにが面白いのか、彼女の笑いは止まらない。別れたからといって、いきなりブロックするのもどうかと思ったが甘かった。すまない春子。もう俺には掛けてこないでくれ。

「えー? ……だってぇ……恋人のふりだったんでしょー? だったら別にいーじゃん……きゃはっ」

 どうしてそれを……! 杏との通話を聞いていたかのような口調だ。ありえない。この狭いアパートに居るのは俺だけだ。

「あとー、シャツのまま寝転がっちゃだめだよー……くくくっ……シワになっちゃう。あとねー、毎日カップラーメンやコンビニ弁当ばっかりだと体壊しちゃうよ。今日だって食べてたでしょ? 唐揚げ弁当! ねぇ、今から作りに行ってあげようか……あは……あははははっ」

 コンビニで買った唐揚げ弁当を、夕食に食べていた。なぜ知っている。なぜ俺が制服のまま寝転がっていることを、知っているんだ!

 電話越しに聞こえる、けたたましい笑い声。怖くなって、通話を切った。そして春子の連絡先をブロックした。これで本当にさようならだ、春子。

 

 

 

 翌日、春子は学校を休んだ。昨日の通話といい、少し心配になってきた。しかし今は彼氏でもなんでもない。春子にしてやれることなんてなにもない。

 春子が居ないことで、淡白な日常が戻ってきた。なにも起こらない1日。それに物足りなさは感じない。浮気のことだって、春子が登校していないのだから広まっていない。

 放課後、杏が校門の前に立っていた。何事かと他の生徒たちが注目している。主に男子生徒だが。どうしたのだろうかと様子を伺うと、話し掛けてきた。

「あ、先輩、一緒に帰ろうと思って、待ってたんです」

 手を握ってくる。まるで恋人同士のような会話だ。恋人のふりはもうしなくて良いんだぞ。まだ春子と別れたという噂だって流れていない。こんな人の多い場所で手なんて繋いだら、周りからおかしな目で見られてしまう。

「西崎先輩と別れたら、付き合うって約束だったじゃないですか」

 あれは春子と別れるための口実だ。杏だって分かっているだろう。

「わかんないですよ。約束は約束です」

 おかしい。どこかで認識のずれが生じている。そのせいでいつまで経っても、会話が噛み合わない。

 しっかり話した方が良いと思い、杏を公園に連れて来た。ここのベンチなら落ち着いて話せる。しかし座ったのは俺だけで、杏は立ったまま見下ろしている。少し威圧感があった。

 そもそもの問題として、杏は俺のことを振っている。好きでもない相手にどうして付き合うだなんて言えるんだ。

「それ、いつの話ですか。ほとんど初対面の時ですよね。今は別に……先輩のこと、好きですよ……」

 それは異性としての好きなのかと確認すると、杏は「はい」とはっきり肯定した。

 目眩がする。完全に予想外だった。まさかこんな根本的な部分で、誤解があったとは。どうするんだこれ。春子の時といい、どうしてこうもこじれるのだ。

「もう満足ですか? 私たちは今日から恋人です。それでいいじゃないですか」

 良くない。それでは春子と別れた意味がなくなってしまう。人気者なのは杏だって同じだ。とても俺とは釣り合わない。それにもう、これ以上目立ちたくない。ここ数日間春子と付き合っていたことで、十二分に注目を浴びた。

「それもう手遅れですよね。西崎先輩という相手がいるのに浮気したんですから、超有名人になりますよ」

 それはそうかもしれない。別れ話すらも禁止された中で、別れる手段はそう多くなかった。そこで他に好きな人がいるという理由を、無理やりでっち上げた。これから浮気という、最悪のレッテルが貼られる。そもそも高校生活を平穏に過ごすのは、春子と付き合った時点で諦めている。それにしたってわざわざここで杏と付き合って、状況を悪化させる必要はないだろう。正直もう放っておいてほしい。

「あー、もう! 先輩はあれこれ考えすぎです。いいじゃないですか。お互いフリーなんですから」

 恋人のいないやつなど、いくらでもいる。

 そうやって意見を変えないという姿勢を見せていると、杏はわざとらしく肩を落として後ろを向いた。

「あーあ、私先輩に協力したのに。ファーストキスまでして。終わったら先輩と付き合えるって思って、頑張ったのに。西崎先輩に包丁を向けられた時は怖かったなー。そこまでした後輩を振るんですね。フリーのくせに……」

 随分と流暢に長ゼリフが出て来るものだ。最初から用意していたようだ。しかし、これは言い返せない。杏に負担を掛けたのは確かだ。

 不意を食らっていると、隙が出来たと言わんばかりに杏がにやりと笑った。

「じゃあ私たち付き合ったってことで、よろしくお願いしますね。せんぱい」

 弾んだ声でそう言うと、走り去って行った。なんて強引なのだろうか。杏が俺のことを好きだった。そんな事実に驚いている暇すら与えられなかった。


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