透明な物をなくさない方法   作:ヤンデレ大好き星人

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第九話 油断した

 俺は作田吉利(さくた よしとし)。平穏な毎日を送りたいだけの高校2年生だ。平穏、平凡、普通や保守的であることに、価値を置いている。

 価値観というのは人それぞれ違っていて、それこそ人の数だけ存在している。お金が重要な人もいれば、お金よりも絆を大事にする人もいる。これが価値観の違いというやつだ。俺の価値観は先ほど述べた通りだ。ではその平穏な暮らしを突き詰めてみると、何に辿り着くだろうか。普通で平和な暮らし。誰にも認知されない人生。そこにはなんの危機もなく、生命の安全がある。もしかしたら、俺の価値観の本質は、そこにあるのかもしれない。

 俺は少し前まで西崎春子(にしざき はるこ)という女子生徒と付き合っていた。彼女は頻繁に性行為を求めてきた。俺はそれを最後まで受け入れなかった。性行為の本質は、生命を生み出す行為だ。これは俺の価値観からすると、かなり重要なこととなる。結果、責任が発生してしまうのだ。

 この辺の価値観は、春子だって同じなはずだ。俺に体を許そうとした彼女の覚悟は、本物だったのだろう。だからこそ、それを受け入れることは出来なかった。

 

◇ ◆ ◇

 

 春子と別れてから数日経った。別れた翌日、春子は学校を休んだ。取り乱した春子の姿は記憶に新しい。先日のおかしな通話といい、大丈夫なのかと心配になった。

 しかし、春子が休んだのは1日のみだった。学校に来た彼女は、本来の明るい性格に戻っていた。元気いっぱいで、周りに笑顔を振りまく人気者のままだ。気がかりなのはあのおかしな通話だが、あの時は気が動転していただけに違いない。

 ある日、学校の廊下で春子に呼び止められた。なにを言われるかと警戒したが、「もう大丈夫だから」とだけ言い、小さく笑って歩き去った。良かった。自分でも結構酷いことをしたと思っている。しかし彼女は立ち直っていた。俺が思っていた以上に、強い心を持った女性だった。とにかく、もう彼女を心配する必要はない。

 俺の日常はというと、春子と付き合う前に戻っていた。春子は、俺が浮気したことを誰にも言っていないらしい。気を使ってくれているのかもしれない。恋人がいなくなったことで、昼休みは平社員、デブと共に居る。3人で栄養のない食品を食べている光景は、懐かしさすら感じた。

「お前、最近笑ちゃんと飯食わないんだな」

 平社員は知らなかったのか? 結構前に俺と春子は別れた。それを聞いても平社員は、驚いていない。当たり前か。俺と春子とでは元々釣り合っていない。しかし平社員の表情をよく見ると、驚いてはいないものの腑に落ちないという感じだった。

「お前その嘘は無理があるぞ。笑ちゃんがフリーになったなんて噂があったら、とっくに広まってるはずだ」

 それでも俺は春子と別れたんだ。そう説明しても、やはり平社員は納得がいかない様子だった。

 春子はまだ他の人に言っていないのだろうか。まぁ良いか。彼女にも事情があるのだろう。変に噂になるよりは、自然に浸透していった方が、注目は少ないはずだ。黙って影を潜めていよう。そうして、皆が忘れた頃に卒業するのだ。

 

 

 

 トイレで手を洗った後、ハンカチを忘れたことに気付きズボンで拭こうとした。すると横からハンカチが差し出される。振り向くと笑ちゃんファンクラブ元会長こと佐田源太郎(さだ げんたろう)が居た。正直、人のハンカチは使いたくないので断った。

 春子と別れたことをわざわざ広める必要はない。だがこのメガネには、伝える義理がある。ちょうどここには誰も居ないし、話しておくか。

「なんだって? 笑ちゃんと別れたのか。それは変だな。いつ別れたんだ?」

 もう一週間以上経つだろうか。元会長は難しい顔をして、考え込んでしまった。春子を守る人物がいなくなったことで、もう一度ファンクラブを結成しようと考えているのかもしれない。そう思ったが、どうやら違うようだ。

「おかしいな。そんな話は聞いたことがない。それに、笑ちゃんが今まで通りすぎる」

 それはそうだ。彼女は俺のことを、引きずってなどいないのだから。これから春子は、俺のことなんて忘れて生きていく。平社員といい、どうして春子と別れたことを素直に信じないのだろうか。

「今まで通りというのは、君と付き合う前に戻ったという意味ではない。君と付き合っていた時のままだという意味だ」

 元会長が言うには、春子は俺と付き合ってから変化があったそうだ。前は、いわば営業スマイルの上手な女の子という感じだった。それでも完璧な笑顔だったそうだが。しかし俺と付き合ってからは、ただただ幸せそうに見えたそうだ。そんな些細な変化が分かるものなのか。この男の洞察力は侮れない。

 しかしそれが意味することが、俺には分からない。ファンクラブ元会長はしばらく考えた後に、俺の肩を一度だけ叩いた。

「そうか……。まぁ、頑張りたまえ。私はなにがあっても笑ちゃんの味方だ」

 なんだそれは。そこは俺の味方でもいて欲しかった。お前の推理はどこに辿り着いたんだ。それを問いただそうとすると、彼は不敵な笑みを浮かべてトイレから出て行ってしまった。

 

 

 

 喫茶店・六連星(すばる)を辞めたことで、学校にだらだらと居る時間が増えた。新しくアルバイトを探すより、受験に向けて予備校に通った方が良いかもしれない。

 いつまでも学校で時間を潰していても仕方がない。帰宅しようと階段を降りると、下駄箱の前に春子が立っていた。

「あ……よしと君。ちょっといいかな。連絡手段がないから、ここで待ってたんだけど……」

 一瞬身構える俺に対し、春子は適度に距離を取り小声で用事を簡潔に伝えた。用事とは、最終月の給料を支払いたいのだそうだ。そういえば、連絡先をブロックしたままだった。

 こうやって話してみると、もう俺とのことを気にしていないのだと改めて認識した。ファンクラブ元会長が懸念していたことは、気のせいだったのだろう。この笑顔は俺だけに向けられたものではない。皆に愛される笑ちゃんの笑顔だ。少し寂しい気もするが、結果的にはこれで良かったのだろう。

「だから、うちにお給料取りに来て。あ……大丈夫だから。変なことしないから」

 春子の家に行くのは、まだ抵抗がある。しかし現金を直接持ち歩くのは、女子にとっては危険だ。今の彼女が相手なら大丈夫だ。俺になにかしてくる様子も見受けられない。

「じゃあ、あとでね」

 春子はひらひらと手を振って、玄関口から出て行った。外に出て行く彼女の姿は、暗い校内に俺を置き去りにし、明るい世界に消えていくように見えた。きっと今日が最後だ。明日からはもう、話すこともないだろう。俺の人生で最も美しい時間となった彼女との関係は、今日で本当に終わる。

 

◇ ◆ ◇

 

 私の名前は安藤杏(あんどう あん)。私は今、3人の女子生徒に囲まれている。トイレなんかに連れてきて、どうするつもりなんだろう。この3人を知っている。西崎先輩の友人だ。

 しかし、彼女たちは不良とかじゃない。少し怖いけど、私になにかしてくることはないと思う。

「あんたさ。笑(えみ)ちゃんの彼氏にちょっかい掛けてるでしょ」

 最初は西崎先輩の差し金かと思った。でもわざわざ友人だけを差し向ける意味なんてない。誰かが私とよしと先輩が一緒にいるところを見て、それをリークしたんだと思う。はぁ、そもそも西崎先輩とよしと先輩は別れてますから。そんなこと、西崎先輩の友人であるこの人たちなら知っているはずなんだけど……。

 よしと先輩と別れた次の日、西崎先輩は学校を休んだ。でも翌日から平気な顔をして学校に来た。もう西崎先輩は吹っ切れた、そう聞かされている。

「ちょ、ちょっと、別れたってそれホント……? 笑(えみ)ちゃんはそんな話、してなかったよ」

 その言葉を聞いて、凄まじい違和感に襲われた。待って、おかしい。どうして知らないの? 先輩たちも異変に気付いたのか、先ほどまでの威圧感はなくなっている。彼女たちも、最近の西崎先輩がどこか変だったことに気づいていたんだと思う。

「今日だって……作田君と会うって言って帰ったよ?」

 心配そうな表情で、お互いに頷き合っている先輩たち。

 やばい。私は思わず走り出していた。後ろから先輩たちが「おい、どこ行くんだ」と慌てていたが、彼女らに構っている時間はない。早くしないと手遅れになる。

 向かったのは西崎先輩の家、つまりは喫茶店・六連星(すばる)だ。喫茶店は閉まっていたから、裏の玄関に周りチャイムを押した。焦る気持ちと、走ってきた疲労により短気になっている。インターホンのボタンを何度も押した。……音が鳴らない。電源を切ってるんだ。窓を割って侵入しようにも、雨戸が閉められている。やられた。ここまでするとは思わなかった……。

 お願い先輩、どうか無事でいて……。 

 

◆ ◇ ◆

 

 喫茶店・六連星に着くと、プレートがCLOSEDになっていた。そういえば今日は定休日だったな。扉を開けると、春子がカウンター席に座って待っていた。

「あ、よしと君、来たんだ。喉乾いてるでしょ、なんか飲む?」

 それほど喉が渇いているわけでもないし、あまり長居はしたくない。給料だけ貰って帰ろうと思った。しかし店の中はコーヒーの良い香りがしている。これが最後。そう思うと、ここのコーヒーが無性に飲みたくなった。本当はブラックコーヒーを所望したいが、あれはマスターしか作れない。いつも春子に作ってもらっていたカフェオレで妥協しよう。

「カフェオレね。分かった」

 慣れた手つきでカフェオレを作る春子。その後ろ姿を眺める。いつも見ていた光景だからか、手順を覚えてしまった。しかし今日は一手間多いように感じた。

「あ、そうだ。ひとつ頼みたいことがあるの。私の部屋ね、本棚を捨てようと思ってて、運ぶの手伝ってくれない? お父さんは腰痛めそうだし」

 確かに一家の大黒柱が倒れたら大変だ。仕方ない。そのくらいは手伝ってやるか。それにしても元カレを顎で使うとは、春子も悪女になったものだ。

 カフェオレを飲んだ後、春子の部屋に行った。……? 本棚が見当たらない。説明を求めようと思い、春子の方を向いた。その瞬間、がちゃんという金属が合わさる音がした。ドアの前に春子が立っている。そしてドアノブには、壁に通したワイヤーが巻かれ、大きな南京錠が掛けられていた。

「どうしたの? よしと君。汗がすごいよ」

 話が違う。何もしないと言っていたじゃないか。

「なにもしない、なんて言ってないよ。変なことはしないって言っただけ。これから恋人として当然のことをするだけだよ」

 恋人? 俺たちは別れたはずだ。そんな俺の反論に対し、春子はただ笑って返した。微笑みではない、腹を抱えて笑っているのだ。

「あはは……ごめん、笑っちゃった。だって恋人が別れるのって、二人で決めることでしょ? 私、別れていいよなんてひと言も言ってないもん」

 俺が間違えているかのように言っているが、春子は明らかに俺を騙した。学校では気の無いふりをして、ここにおびき寄せたのだ。油断した。平社員やファンクラブ元会長が違和感を口にした時に気付くべきだった。

 だが、それよりも大きな問題がある。さきほどから頭が回らないのだ。それに動悸が酷い。やられた。一服盛られた。さっきのカフェオレに、何かを入れたのだろう。

 狭い部屋の中で、春子と二人。2階なので窓からは出られない。出口は南京錠の掛かったドアだけだ。そんな状態の中、俺は薬によって激しく欲情している。

「あれー、なんだか苦しそうだよ?」

 腕を後ろに組んで、嬉しそうに一歩ずつにじり寄ってくる。それを押しのけて距離を取った。あまり近寄られると、理性が飛んでしまいそうだ。

「この部屋から出たいの? だったら南京錠の鍵を使えばいいんだよ。鍵は私が持ってるから」

 春子はそう言ってベッドに横たわった。鍵……そうだ鍵だ。くそっ、頭が回らない。とにかく、今はその鍵を使って外に出なければならない。ベッドに寝ている春子から、奪い取らなければならない。

「鍵はねー。うーん。あ、そうだ、胸の谷間にあるよ。探してみて」

 俺は覆いかぶさるように、春子の上に跨った。急げ、とにかく鍵なんだ。ぼうっとする思考の中、制服のシャツを剥ぎ取り胸元へと手を入れた。シャツのボタンがいくつか外れて、床を転がっていたが気にする余裕はない。

「やんっ、激しい。そこじゃないよ。ブラも外さないと見つからないから」

 春子はそう言いながら、俺のシャツのボタンをひとつずつ外している。薬のせいでなにも考えられない。言うことを聞くしかなかった。ブラジャーの外し方なんて分からないが、力づくで引っ張ると簡単に外れた。

 そうして露わになった春子の胸を見た瞬間、股間に衝撃が走る。は……はやく鍵……を……。

「ごめん。嘘。鍵はそこにはないよ。本当はパンツの中」

 何も考えられなかった。ただ鍵というキーワードだけを頼りに、彼女のスカートを思い切り脱がし、それから……俺の意識はフェードアウトした。

 

◇ ◆ ◇

 

 よしと君から別れを告げられた次の日、私はただ泣くことしか出来なかった。無理矢理笑顔を作っても、天気雨みたいに目から落ちる涙は止まらなかった。笑ちゃんという愛称は見る影もない。とても学校になんて行けそうにない。

 よしと君のいろいろな表情が頭をよぎる。そして……別れ際のあの表情、悲しそうな眼差し。彼にあんな顔をさせてしまった自分が情けない。

 盗聴や盗撮だなんて身勝手なことしたって、なんの意味もない。彼がどうしてあんなことを言い出したのかが分からない。

 お母さんの言葉を思い出す。

『辛い時や悲しい時でも、笑顔でいれば幸せになれるの。だからあなたにはいつも笑っていて欲しい』

 お母さん……私頑張って笑ったよ? それなのに……今、全然幸せじゃないよ……。

 このお仏壇の前で泣くのなんて、いつぶりだろうか。そう思い顔を上げると、ふとお母さんの遺影が目に入った。懐かしい顔だ。……笑っている。

 お母さんと過ごした日々は本当に幸せだった。この笑顔に何度元気をもらったことだろう。

 ……そっか。この笑顔は、私を幸せにしていたんだ。

 簡単なことだった。私がよしと君を幸せにしてあげればいい。彼はずっとなにかに囚われている。それが何か分からないし、本人もそれを語らない。しかし彼が最後に見せたあの表情、あれは後悔。好きな人にあんな顔をさせてはいけない。このままではいつか彼は不幸になってしまう。ずっと彼を一番近くで見てきたんだから分かる。

 また私は、お母さんの前でなんて顔をしていたんだ。笑え春子。笑え。

 よしと君を幸せにするためなら、なんだってしてやる。そう決めた。

 

◆ ◇ ◆

 

 ちゅんちゅんと言う鳥の鳴き声で目を覚ます。鳥が騒いでいるということは、早朝だ。寝起きだというのに、気だるさが半端じゃない。二日酔いを経験したことはないが、こういう感覚なのだろうか。

 それにしても、ここは俺の部屋ではないな。ベッドも違う。寝ぼけ眼をなんとか開けると、ぼやけた視界がクリアになっていく。そして気付いた。横に全裸の春子が寝ていることに。そして俺も裸である。なんだこの状況は、いや大体想像が付くが認めたくない。体を半分起こして、思考を巡らせた。そして昨日のことを思い出した。忘れてしまえば良かったものを、細部まではっきり覚えていた。

 俺が体を起こしたことで、春子も目を覚ました。

「ん……起きてたんだ……おはよう、よしと君。んー、パパって呼んだ方がいいかな」

 パパ? ……そうか。昨日は避妊なんてする余裕はなかった。妊娠していてもおかしくない。くそっ、やってくれたものだ。既成事実を作られてしまった。こんな状況だというのに、春子は朝から幸せそうに微笑んでいる。

 ……俺は負けたのか。

 春子は恐らくなにか薬を使った。それを理由に彼女を突き放すことだって出来る。だが俺の持つ、道徳観と言うのだろうか。体を重ねた相手とは、そう簡単に別れようとは思わない。責任を取らなければならないと思っている。きっと春子はこれに気付いていたのだろう。

「だってエッチするのすごく嫌がってたから、それって責任感からきてるのかなって思ったの。優しいね、よしと君は」

 よく見ているな。これはもう敵わない。

 春子は服を拾うと、風呂に入ると言って部屋を出て行った。俺も床に散らばった衣類を集めて身につけた。シーツがかなり乱れている。昨日の夜はお互いに初めてだった。なにをしていたのか、そんなことはとても俺の口からは言えない。しかしなんと言うか……昔誰かが、性行為は想像よりも気持ちよくないなんて言っていた。しかし相性というものがあるようだ。俺と春子のそれは、お互いに満足出来るものだった。

 

 

 

 春子が風呂から上がった。風呂上がりの彼女は、何度見ても色っぽい。そう思って春子を眺めていると、「なに? もしかしてヤりたいの?」と言って近づいてきた。無尽蔵に搾り取ろうとするのはやめてくれ。疲労が全く取れていないんだ。

 ベッドに座って、タオルで髪を乾かしている春子の隣に座る。俺は彼女に言っておきたいことがあった。

 体を重ねた以上、俺はお前とちゃんと付き合おうと思う。

「だから、もう付き合ってるから」

 真剣に言ったはずなのに、当たり前だというふうに返事をされてしまった。まぁ良いか。別れる気はもうない。それが分かってもらえれば。

 この部屋に長居しても、やることがない。また変な気を起こす前に、さっさと帰ることにした。流石に今日は、学校には行けそうにない。

 喫茶店は閉まっているため、裏の玄関から外に出た。まだ秋にはなっていないが、結構肌寒い。春子は玄関前の道路まで見送ると言って、一緒に出た。

 喫茶店の裏から路地に出ると、思わぬ人物が現れた。こんな早朝になぜ杏が……。いつから居たんだ。

「やっと出てきましたか。インターホンの電源を落とすなんて随分周到なんですね」

 敵意をむき出しにして、春子に詰め寄る。杏は身長が高く、顔つきが大人びているので、睨み付けると迫力があるのだ。しかし春子は動じない。それでも杏は食ってかかった。

「今は私の彼氏なんです。西崎先輩は別れたんですから、手を出さないでくれませんか」

「えー、人違いじゃない? よしと君はずっと私の恋人だよ。ね? よしと君」

 ここで俺に振るのか。だが、ここははっきりしておいた方が良さそうだ。俺はもう春子の恋人なのだから。

「ほら、よしと君もこう言ってるし」

「先輩!? どうしたんですか! 西崎先輩になにされたんですか!」

 なにをされた……か。よく考えたら、とんでもないことをされている。それでも、こうなってしまったからには責任は取るつもりだ。

「最ッ低ッ!」

 杏は春子の胸ぐら目掛けて手を伸ばしたが、俺がその手を掴み阻止した。そんな状況の中、春子はけろっとした顔をしていた。

「えっと……ところで、あなた誰だっけ」

 たったそれだけの言葉。杏は口を動かし何か言おうとした後、突然血の気が引いたような表情になった。杏から力が抜けたので、取り押さえていた手を緩めた。

「なんで……なんでよ……」

 そう呟きながら、杏はふらふらとその場を立ち去ってしまった。一体なにがあったのだろうか。足取り悪く歩く杏の後ろ姿は、なぜだか小さく見えた。『あなた誰だっけ』、そんな何の含みもない。春子の天然から出た発言。それに杏は、なにを感じ取ったのか。俺には全く分からなかった。


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