結論から言うと、海水浴は中止になった。
「東海から関東にかけて広く張り出した低気圧の前線に伴う発達した雨雲が、局地的に強い雨を降らせるでしょう」の、その「局地」が鎌倉市で、朝7時くらいからどんよりとした雲がかかり、それからすぐバケツをひっくり返したような豪雨が僕らの泊まったビジネスホテル周辺に降り出したのだ。
「せめて江ノ島水族館くらいは行きたかったのにねぇ」
社交辞令などではなく、柏木先生も本当に残念そうで、もちろん僕たちも残念だった。
彼女の水着姿が見られない、のも残念だったが、現実でアニメの水着回みたいに刺激的な格好をするはずもないので、単純に無邪気に彼女と海で遊びたかったという残念さの方が大きかった。(昨夜の白のパーカーは、間違いなく水着の上に羽織るためのもので、紫外線よけを含め安易にクラスメートなんかに肌を晒さない魂胆があったのは明白。それに「文字列で水着姿を表現しても嬉しくないだろう」とか考えてる著者の手抜き、などというメタな勘ぐりは無用)
ただ一晩過ぎてみて、無邪気には成り切れない幾つかの心のひっかかりが生まれていた。
母親を失っていたというカミングアウトもそうだが、「ヒロシ」というエリさんのお兄さんの存在についてもまだ謎だ。もしかすると複雑な家庭環境で、あの日自宅アパートまで案内してくれなかった理由もそのあたりにあるのかもしれない。それと【レベッカ】の「ブロントサウルス」という歌が気になっているが、僕のガラ携では容量不足で満足に検索できないので、むしろ早く家に帰ってパソコンで動画を調べたかった。
日程を大幅に切り上げ江ノ電鎌倉駅に到着。そしてJR線に乗り換える途中で完全にずぶ濡れになった。コンビニで買ったビニール傘はあったけど、そんなものは役にも立たないほどの豪雨だったのだ。彼女にしても状況は同じで、羽織った白のパーカーの下の、濃いめのサーモンピンクのシャツが透けるぐらいまでぐしょ濡れになり、ぴったりと身体のラインが表れ、ちょっとドキッとした。一方、一緒に歩いている泊さんは、全身を覆う透明なビニール合羽を着て悠々としている。
(絶対インドア派じゃない、文学の聖地巡礼をしているんだ)
僕は自分の認識の甘さをしみじみ感じた。
ガンガン冷房が効いたJR線の車内は、快適を通り越して濡れた服には寒すぎるほどで、彼女は取り出したタオルをマフラーのように首にかけ、鈴木さん(先輩)たちと相変わらず文学談義にふける泊さんの様子を眺めている。眺めながら、時折「クシュン」と小さなくしゃみをする。強冷房車両で服が乾くのは助かるけど寒すぎて、彼女の体調が心配になった。
「なんかいいことあったのかよ」
唐突に押川が、僕のみぞおちをひじでグリグリと差し込んでくる。この悪友は、時々鋭い洞察をする。きっと僕の表情に、夏休みの末に粒子加速器見学の約束を取り付けた喜びが漏れ出しているのを察知したのだろう。
「なんにもねーよ」と言ったところで、そのわずかな口調のイントネーションから、疑念を更に強めたようだ。そーかそーか、なんにもないんだなー、と言いつつ、ほとんど信じていない様子でとりあえず追求をやめた。
車窓には、横殴りの雨が真横になって流れを描いていく。降りる駅になり、相変わらず小さなくしゃみを続ける彼女は、別れ際に「じゃあ、また」と手を振ってくれた。(それを見た押川が、再び無言で、それも強烈にみぞおちをグリグリしてきた。痛かった)
いろいろあったが終わってみればあっというまの文芸部研修旅行だった。僕が降りる駅に着いたころ、雨は傘がいらないくらいの小降りになっていた。
自宅に戻ってネット動画を検索し、【レベッカ】の「ブロントサウルス」のアルバムと歌の動画を探して聴いてみた。
甲高い独特のボーカルと、90年代風のポップな音色が特徴的で、サビで繰り返される歌詞は「ブロント
ところで、いつまでも旅行の思い出に浸ってはいられない。夏休みとなれば宿題、休み明けの初日に実力テストがあり、テスト範囲準拠の薄い本(せめてこんな表現をして、楽しい気分にさせてください)が配布されていた。主要五教科の教育業者のワークで(ベ〇ッセのバカ)、新学期早々に提出しなければならない。
好きな数学をまず解いて、少しは興味を持った現代文・古典を終え、現代社会に取り掛かり、3ページ目の問題で
「ジェンダー、って何?」
と思わず声にだしてしまった。ニクシー基地を守り抜いた象型ゾイド? それともアイアンウィングと呼ばれる大型飛行ゾイド?
男女の社会的性差。性別とは別の社会的役割。「女らしい」とか、「女のくせに」とか言うのが差別にあたり、そんな差別をなくすようなジェンダーフリーな社会を目指す、なんてことが薄い本(この表現好き)に書かれていた。
まあ、言ってることはわかるけどね。
でも「女のくせに」っていうと大騒ぎするのに「男のくせに!」って言うのはアリなんだよね。なんかキレイごとじゃん。
でも実力テストのためには機械的に覚えるほかないよね、と、自分を納得させる。
あまり早めに終わらせてしまうと、テスト範囲を忘れてしまうのでまとめの総合問題を残しておいた。部活動がないので多少のんびりと過ごせるというのもあるが、もう一つ理由は「今度はエリさんと図書館で一緒に宿題できないかな。そして勉強帰りの午後にプールに行って、鎌倉で見られなかった水着姿になってくれないかなぁ」などと妄想していたからだ。けれども「男のくせに」誘う勇気が湧かず丸一日悶々と過ごす間、僕はメールを送る重要なきっかけがあることを思い出した。
八月末の『大強度粒子加速器一般公開見学会』の詳しい日程を伝えねば。ついでに彼女の予定も聞き出せれば最高。
あの日ライガーゼロの足の下に挟み込んだままのチラシを取り出し、早速見学先の住所やら、開始時刻やらを打ち込み、ついでにメールの最初に「お元気ですか?」のお決まりの書き出しを加えて送付した。
送って10分ほどで、すぐに彼女から返信があった。事務的な連絡とはいえ、女子からもらったメールを開くのはドキドキする。封筒マークのアイコンを開き、「連絡ありがとう」の文字を確認したあと、少し、いやかなり、僕はがっかりしてしまった。
「風邪をひいてしまいました」とあった。やはり鎌倉帰りの冷房車両が原因だろう。「見学会までには治ると思うので大丈夫です。見学会楽しみにしてます」と添えられた文章が救いだが、これじゃあ一緒に図書館行って勉強できない、約束してないけど。
無理をさせるわけにもいかないので、結局それから一週間は、メールの遣り取りはお預けになりました。
相変わらずのブラックな労働環境の兄とまともな会話ができたのは、会社がお盆休みに入ってからだった。
夏の甲子園が始まり、つけっぱなしのテレビには僕と違って汗と涙の青春を燃やす高校球児たちが映っている。時折カキーンという金属バットの音がするときだけ視線を向けるが、兄と、そして同じようにお盆休みに入った父親とが、冷房のきいたリビングでぼんやりと過ごしている。
家族団欒、とは違うが、それでも似たようなシチュエーションなのでなかなかヒロシ先輩についての話題を切り出せなかった。
突然、テレビから緊急速報を知らせるピコン、ピコン、という音声が流れ、バッターボックスに立って素振りをしている選手の頭上に字幕が表示された。
〝○×原子力発電所の1号炉の炉心内部で部品落下し、緊急停止〟
「あちゃー」
放射線関連技師である父親が真っ先にイヤそうな声を上げ、〝詳細な状況はまだわかっていません〟の白文字を見つめ、短く溜め息をつく。その溜め息に起こされたみたいに、兄が半身を上げ振り向いた。
「そういえば、あきらの同級生にヒロシ先輩の妹が居るって話だったよな」
お兄さん、あなたの「柏崎」さんに対する認識は、飽くまで原子炉関連なのですね。
続報を待ち画面を見つめる父親の脇で、兄は天井を見上げ記憶を追っているようだった。
「これはオレが聞いた先輩の話だけど……」
彼女の四歳上の兄は、夏休み明けの9月1日に突然転校したそうだ。理由は説明されなかったが、噂では離婚が原因だったらしい。インターハイこそ終わっていたものの、バスケ部内でも新人戦に向けたレギュラーがいなくなって大混乱したそうだ。ヒロシ先輩は学年でも人気者だったようで、学期の変わり目の転校で別れを告げることが出来ず、クラスの女子の何人かが悲鳴をあげたという。せめて寄せ書き色紙みたいな物を送ろうと提案したそうだが、バスケ部の顧問の先生からもクラスの担任の先生からも「事情があって受け取れないので、寄せ書きや手紙のたぐいは遠慮してください」と言われてしまったという。それからの我が校バスケ部の凋落は前に聞いた通りだ。学年違いの兄にとっても、そしてプライベートに関わるものなのでそれ以上の詳しい情報は聞き出せなかった。
聞き出せなかったが
「ちなみにお前が読んでるあのゾイドファンブック、柏崎先輩からもらったんだぜ」
そんなこと聞いておりませんでしたよ!
「あれ? 言ってなかったっけか。俺がラノベからゾイドに入ったのも、バトストっていう奴に嵌ったのも先輩の紹介って」
疲労困憊でお言葉足りませんでしたよ。そんな大事がことを、いまさら言われても……いや、全然いまさらじゃないじゃないか。
「なんだ明、例のアイアンコングMK-2限定型の彼女のことか」
原子炉部品落下の字幕が消えて、どうも大事故ではなさそうな雰囲気となり、父親が話しに入ってくる。「アイアンコングMK-2限定型の彼女」ってなんだよ、父親は父親で、エリさんをゾイドで認識しているし。
「大強度粒子加速器見学会に参加するのも、主催者としてみればありがたいが、あまりデート向きとは言い難いな。どこか他へ行く予定はないのか」
「ないよ」
半ばふて腐れ気味に返答。まるでタイミングを計ったかのように、テレビではバッターがヒットを放ちランナーが一斉にベースを飛び出していた。父親は視線をテレビ画面に向けつつボソリと言う。
「そういえば気がついていたか。あのアイアンコングのパーツの裏側に、何か名前みたいな文字がマジックで書かれていたこと。頭部パーツのわかりにくい場所にな」
兄が兄なら父親も父親、なぜそんな大切なことをいまさらに。たぶん僕がバラした時は緊張で気付かなかったのだろう。
「でも、ひろし、ヒロシ、弘、浩、寛……オイ、ピョン吉!ってか」
だからその手の古典的な親父ギャグはやめてくれ。
「……そんな風には読めなかったな。確か、キョウコだか、リョウコだったか」
あのさあ、ヒロシにキョウコちゃんって、まさしく往年のギャグアニメじゃないか。
なんかもう、破天荒な会話に心が疲れてしまった。それでもあのファンブックが、彼女の兄から受け取ったものとわかっただけでも収穫だ。逆転ホームランに湧く甲子園球場の画面を背に、僕は一時その場を撤退する。
自分の部屋に戻り、机においたライガーゼロと、無性に遊びたくなったジェン……ではなくて、エレファンダーを引っ張り出して電池を入れ、久しぶりにスイッチを入れた。
長い鼻をもたげ、四肢をしっかりと踏みしめる悲劇の新鋭ゾイドの動きを眺める。アニメでもバイオゾイドの噛ませ犬役で、いいとこ無しだったけど、オマエは男女の社会的役割を決めているエライ奴なんだな-、などと支離滅裂な知識が湧いていた。
今度彼女と逢えるのはいつだろう。出来れば見学会の前に、図書館に行きたいな。
いつのまにかにエレファンダーの鼻が机の角にぶつかり、危うくひっくり返りそうになっていて慌てた。
見学会まで2週間だった。