ミンミンゼミに加え、風にまぎれてツクツクホーシの声も聞こえるようになったお盆開け、
“柏崎です。突然の連絡失礼します。お願いなのですが、夏休みの課題を一緒に勉強することはできますか?”
のメールが、僕の携帯電話に届いた。
御都合主義と笑わば笑え。メールの
“彩香に数学を教えてあげてください。私も数学は苦手で力になれません。吉山君の都合がつけばお願いします。返信をお待ちします”
なるほど。偏見かもしれないけど、典型的な文学少女の泊さんならあり得る話だし、『将を射んと欲すればまず馬を射よ』とあるように、まずは親友から落とすのも良い。
保留状態の返信文に、“時間と場所のリクエストはある?”と付け加え送信する。ただし、僕と彼女との心の中では、既に待ち合わせ場所は決まっていた。
約束の日、予想通り駅のホームで泊さんと一緒になった。改札を抜けた僕に気付くと小走りに近寄ってきて挨拶してくれた。
「おはようございます、吉山君。今日はよろしくお願いします」
並んだ感じはエリさんよりも若干小柄で、今日は白いつば広の帽子をかぶっている。
「鎌倉以来ですね。あ、これ、あのとき相沢先生が素敵だったので買っちゃいました。紫外線よけには便利なんです」
言われてみれば似たデザインで、そんなところはやっぱり女子なんだな、と感心した。
到着した電車に乗ると、泊さんは以前と違い背負ったバックから文庫本を取り出し読書を始める。文学談義を振ってこないのは、僕の文学に関する知識の浅さを知ったからだろう。
残暑は厳しいが、車窓を流れる景色にどこかしら夏の終わりを感じさせる。降りた駅のホームで見上げると、薄い羊雲が青空の一部に群れを成していた。
目指すはあのファミレス。モーニングセットのメニューが残るテーブルを前に、エリさんが待っていた。
「おはよう」を交わし席に着き、ウェイトレスさんにとりあえず軽食とドリンクバーを注文する。見覚えあるサーモンピンクのポロシャツに、いつものアイアンコングをぶら下げたショルダーバックと、テキスト類が入っているらしい黒の鞄が脇に置いてある。
「風邪、大丈夫だった?」
「熱はすぐ下がったし。ご心配おかけしました」
確かに何事もなかったようだ。そして僕は、彼女と遣り取りをしていることを泊さんがいる前で話してしまった事に気付く。だがこの文学少女は、数学のテキストを開く前に、先ほど電車内で読んでいた文庫本を開いて、注文の品が届くのを待っていた。
「違うでしょ、今日は読書するんじゃないんだから」
彼女は僕の
(ですよね……)
なにせ今日の勉強の主役は泊さんの方だから致し方ない。渋々とテキストを広げる文学少女を、彼女はまるで保護者のように諭しながら問題を示していた。
悩んでいたのは{数列}と{積分}の問題で、苦手なひとにとってはとことん苦手な分野だ。泊さんは事あるごとにドリンクバーのサーバに行ってジュースや紅茶を注いできたり、トイレに行ったりしたりして、なかなか問題は進まない。むしろエリさんの方がぐいぐいと食いついてきて、彼女の理解力の早さに少し驚くほどだった。
泊さんが3度目のトイレに席を立ち、彼女はフライドポテトを追加注文する。ウェイトレスさんが去り泊さんが戻らない間、彼女が軽く溜め息をついて微笑む。
「やっぱり数学が得意なのっていいね。吉山君は、やっぱり理系の大学を目指しているの?」
「別に理系を狙ってるわけでもないよ。ただ、趣味みたいなものだから……」
泊さんに数学を教えた疲れからか、緊張もほぐれ自然に答える。ゾイドの回転軸の描く軌跡に興味を持ったから数学に興味を持つようになったのだと、素直に説明することができた。
「……そうなんだ、やっぱり吉山君のモチベーションの底にはいつもゾイドがあるんだね」
「もともと兄貴の趣味だったんだけどね」
切り出すなら今しかない。僕は彼女にとって微妙と思われる話題を持ち出すことにした。
「その兄とは三つ違いで、昔ウチの高校でバスケ部をやっていたんだ」
一瞬、彼女の顔が強張った。
「いま僕の家にあるゾイドファンブック、これは僕の兄が、同じバスケ部の柏崎ヒロシという先輩からもらったものと聞いていてね。そのヒロシ先輩って、エリさんのお兄さんのことだと思うのだけど……違ってたらゴメン」
二人の間に流れていた楽しい雰囲気は消え去り、彼女は口を噤む。やはり触れてはいけない問題だったのかもしれないと、この話題を持ち出した自分を少なからず責めた。
数秒に過ぎないと思うが、ひどく長く思えた沈黙の後、彼女は顔を上げた。
「……不思議な偶然ってあるんだね。でもよかった。吉山君のような、ゾイドが好きな人に大切にされていて」
泣いてはいないが、悲しそうな笑顔。女子のこんな顔を見るは僕の人生で始めてで、パニック寸前に動揺する。動揺しながらも、彼女の透徹とした笑顔に、あの歌のワンフレーズが閃光のように脳裏を過った。
〽いつでも 心を満たすのは 空の青さと風の声
透き通った、美しい笑顔だった。
「おにいちゃん……兄の浩とは、しばらく会ってなくて。お母さん……母が生きていたころは、いつも仲良く遊んでいたんだ」
「無理して話さなくてもいいよ。それに泊さんが見たら、まるで僕が柏崎さんをイジメたみたいに思われるし」
この雰囲気を変えようとした精一杯の戯けで、その場で適切な会話だったか自信はない。
「そうだね。また今度、二人になれたらゆっくり話します……彩香遅いなぁ」
たぶん、僕は彼女の返答に救われたのだと思う。
「来週の見学会も楽しみだね。
いったい粒子加速器ってどんな装置なんだろう。それに素粒子、って荷電粒子と一緒なのかな」
多少むりやりに、話題を引き戻してくれた。
「……えっと、荷電粒子というのは、大まかに言って荷電=帯電している粒子、プラスかマイナスの電荷を持っている原子分子を構成している素粒子のことで、それを光の速度近くまで加速して衝突させる実験装置なんだ」
「じゃあ、ジェノザウラーやデスザウラーの荷電粒子砲って、その素粒子を発射してるの?」
以降は、父親の受け売り。
「トミー側の公式設定では、実際の素粒子物理学とはかみ合わない部分も多いんだけど、そこは追求しないことにして。
素粒子にもいろいろあって、その中のクォークっていう素粒子は、大まかに分けて3・3行列式要素の合計9種類に分類されている。ちょっと簡単には説明仕切れないけど、ゾイドの荷電粒子砲の原理を知るにも、数学は役だつし楽しいんだ」
こんなにスラスラと話せるなんて自分でも信じられなかった。本当の意味で、彼女との距離が近くなったのだろう。
(それに今日は余計な悪友がいないこともある。きっとアニメ化されたら、あいつは別カットでクシャミをしているに違いない)
丁度そこへ、数学をやりたくなくて明らかに足取り重く帰ってきた泊さんが、急に話に割り込んできた。
「クォークってなに? 二人で何を話していたの? またどこかへ行く予定?」
「あ、彩香には話していなかったけど、今度荷電粒子砲の見学会に行く予定があるんだ」
エリさんエリさん、荷電粒子砲ではございません。いや、原理は一緒だから間違ってはいないんだけど。
で、流れ的に当然泊さんは食いつき、月末の見学会の参加を希望した。普通飛び入り参加はできないのだが、そこは身内の強みだ。ちょうど昼休みに入っていた父親にメールを送ると、返信メールではなく直接通話で参加の承諾をもらった。
〝明が女の子を二人も連れて参加とはなあ。どっちが本命なんだ。まさか二人とも『みゆき』ちゃんとか言わないよな〟
だから、うちには血の繋がらない妹いないし。その前に往年のラブコメネタをブッ込んで来るのもやめてくれ。
正午を過ぎてさすがに店内は賑やかになり、そして泊さんの集中力も限界になった。
「プール行きたいなあ。鎌倉では泳げなかったし」
大きく伸びをする泊さんの姿を見て、やっぱり文学少女のイメージはぬぐえず、思わずクラシカルな半袖スパッツ型のストライプ柄水着を想像してしまった。
当然水着など誰も準備していないので、とりあえず今日の勉強会は終わりになる。彼女はそのまま家へ帰り、泊さんは学校の図書館に寄ると言って、一駅でお別れした。
結局ブロントサウルスの歌については、話はできなかった。
まだ日の高い午後、相変わらずガンガン冷房が効いた車内で、僕は彼女が今日見せてくれた美しい笑顔を思い出していた。
さっきの話の続きで、泊さんが6回目のトイレに行っていた間、彼女は目を輝かせながら夢を語ってくれたのだ。
「吉山君の話を聞いて思ったの。
彩香が課題を解く間も、ずっと考えていた。
私、将来ゾイドの開発をしてみたい。
モーター一つ、電池一本で、まるで本物の生き物みたいに動くアイアンコングのようなものを設計してみたい。
――でも理系って、やっぱり女子には不利なのかな」
「ジェンダーなんて気にすることないさ」
やりました! ジェンダーの用語、有効活用出来ました!
「僕も協力するよ。女性が工業系に不向きとか、男の子だけがゾイドを好きだとか関係ないじゃん。
チャレンジしてみたらいい。好きなことに向かっていこうよ、お互いに」
「ありがと、ホントにいろいろと」
本当に素敵な笑顔だった。素敵な笑顔を思い出しながら、ふと思った。
あれ? なにか、恋人、と言うより親友みたいなポジションになってない? 間違いなく信頼関係は深まっているけれど、ベクトルの向きが違うような気がしてならないのだけど。
ま、いっか。
今度は明後日の午前中。場所も時間も同じ。報酬はランチとドリンクと、彼女のスマイル。
僕の夏休みはまだまだ終わらない。泊さんの課題も終わらない。今度はウォディックとシンカーと、水着を持って行こうかな、と少し