夏休みも、いよいよ残り僅かとなったある日。一夏は自宅へと帰っていた。
寮生活のせいで、すっかり居つかなくなってしまった家の管理の為だ。
人の住まなくなった家は、それはもう見事に廃れていく。まるで、家そのものから生気が奪われてしまったかのように。
そうならないためにも、時間のある日は手入れをしに戻っている。
ただでさえ、夏休みが開けたらまた忙しくなって、数ヶ月戻れないだろうから、今の内にしっかりとやっていかなければならない。
掃除は大体終わっているので、今日は防虫剤の臭い抜きに秋冬物を風に晒す。
「はぁ……あっちぃな、今日も」
『日本はいつから、亜熱帯地域に仲間入りしたんだろうね』
今日の気温は33度。昨日よりも3度涼しい。が、このレベルになるともう、差が分からない。
アスファルトは熱で溶け、車のボンネットはフライパンになってしまっている。生卵を落とせばきっと、見事な目玉焼きが出来上がるだろう。
「さて、と。そろそろ昼近いな」
『そばの乾麺が豪く溜まってた気がする。麺汁はあったかな?』
「いや、無かった筈だぞ。仕方ない、買ってくるか」
風に晒した服はまだ暫く掛かる。一夏は財布をポケットに入れ、近くの商店街に向かおうとした。
ピンポーン。
「ん……?」
家中に、来客を知らせるアラームが鳴る。これから出かけようというのにタイミングの悪い。と、思いながら、一夏は玄関へと向かった。
「はいはい。今、出ますよ~」
『あ、ちょっと待って。セキュリティを一部解除しないと……はい、良いよ』
春斗特製セキュリティが解除されたことを確認し、一夏はドアを開けた。
「おい~す、一夏~」
そこに立っていたのはツインテール装備の純正ツンデレ。『ツルン』『ペタン』『ストン』の三拍子が揃った、幼馴染の順位も2番なら、クラスも2組の凰鈴音だった。
ゴスッ。
「痛ぇっ!?」
鈴にいきなり脛を蹴られ、一夏が悲鳴を上げた。
「今何か、すっっっっっごく不快な電波を受信したんだけど?」
「俺じゃねえよ!?」
『僕でもないよ?』
「じゃあ誰よ?」
「………」
『………』
「何でそんな可哀相なものを見るような目で、あたしを見んのよ!?」
「いや、別に」
余りにも居た堪れなくて、一夏は目を逸した。鈴の胸同様、掛けてられる言葉が無い事がここまで心苦しいとは、一夏は知らなかった。
「それより何か用か? 俺、これからちょっと商店街に行くんだけど」
「もしかして、昼の買い出し? それじゃ、あたしも行くわ」
「別に良いけど……何で?」
「そりゃ勿論、お昼ごはんを食べるためよ」
『たかる気満々だね。言っとくけど、今日はそばと確定しているからね?』
「オッケー。それじゃ行きましょ」
ということで、鈴をお供にした一夏は改めて鬼ヶ島――ではなく、商店街へと向かうのだった。
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「むぅ……」
とあるマンションの入口で、黒髪の女子が唸っていた。その隣に立つ金髪の女子が、懐疑的な視線をその背中に向けている。
「箒……本当にここなの?」
「いや、間違ってなどいない。私は昔、何度もここに来ているのだからな」
黒髪の女子――篠ノ之箒は、連れの金髪女子――シャルロット・デュノアにそう返した。
しかし、そう答えたはいいが、箒は自信がなかった。
ここはオートロック式で、中に入るには暗証番号を入れるか、インターホンで知らせて、住人がロックを外すしか無い。
このマンションの304号室。そこが一夏達の家だったはずだ。だがそこには別の名前があった。
このマンションは箒の祖父に縁があり、織斑家とも縁が深い人物の所有だ。
だからこそ、こんな場所に住んでいたわけだが。
(もしや、引っ越したのか?)
その可能性は充分にあった、が、箒は思い込みですっかりそれを外していた。
仕方ない。と、箒は秘匿回線(シークレットチャンネル)を使って春斗に呼び掛けることにした。
本当ならば、いきなり行って驚かせてやりたかったのだが、それ以前に家に着けなければ意味が無いのだ。
『――はいはい。24時間365日、篠ノ之箒の味方やってる春斗君です』
『……いや、適当に休んでいいぞ? それより、ちょっと聞きたいのだが?』
『何?』
『もしかして、引っ越ししたのか?』
『……あぁ、そうか。ほーちゃんが転校した後だから、知らないのか。もしかして、マンションの前にいる?』
『あぁ。一体、何処に引っ越したのだ?』
『えっと、近くの商店街は覚えてる?』
『うむ。よく通ったものだ』
『今、丁度そこに向かってるから来てよ。口で言うより分かりやすいし』
『分かった。着いたらもう一度呼ぶ』
『了解』
と、通信を終えて、箒はチラリとシャルロットを見た。何故か彼女は微笑みを湛えている。
「………」
「………」
―――ダッ!!
ほうき は にけ゛た゛した。シャルロット は おいかけた。
「逃さないよ、箒ぃいいいいいいっ!!」
「ちぃっ! 無駄に早いな!!」
その日、商店街目指して炎天下を疾走する、元気な少女たちが目撃された。
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さて、織斑家前には金髪ロールと銀髪ストレートが立っていた。イギリス貴族セシリア・オルコットとドイツ軍人ラウラ・ボーデヴィッヒである。
彼女達もまた、一夏を驚かせるためにひっそりと自宅訪問に来ていた。
だが、呼び鈴を鳴らしても何の反応もない。
「住所はここで合っていますわよね……もしかして留守なのでしょうか?」
「そのようだな。中から人の気配がしない」
ラウラはドアの向こうに意識を向け、物音や人の動く気配を注意深く探った。
だが、どれだけやっても人が居ないという結論しか出ない。
「だが、困ったな。この炎天下はきついぞ?」
「そうですわね……変にここを離れてすれ違っても行けませんし……あら?」
セシリアが何気なくドアノブを回すと、カチャリとドアが開いた。
「無用心ですわね」
「うむ。無用心だな」
「鍵を掛けて差し上げたくても、私達は鍵を持っていませんわね」
「うむ。鍵を掛けるには、中に入って掛けるしか無いな」
「「………」」
みーんみーん。
二人は、しばし立ち尽くす。
「……これは緊急避難ですわよね?」
「うむ。寸分の違いもない、まごう事無き緊急避難だ」
二人の心は一つとなった。
「「お邪魔します!!」」
織斑家に足を踏み入れた二人。それが悲劇の引き金となるなど、思いもしないことであった。
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「あ、やっべぇ。玄関の鍵掛けるの忘れてきた」
「えぇ? ……まぁ、どうせ春斗のトラップがあるから大丈夫でしょ? 泥棒なんて入った瞬間、罠でフルボッコでプレデターよろしく、簀巻きで逆さ吊り確定だし」
*現在、セシリアラウラコンビがトラップにかかっております。
「でも、来客があるかもしれないぞ?」
「だったら尚更、勝手に入る訳がないわよ。そんな事したら通報されるのがオチだし」
『そんな輩はボッコにされても仕方ないよ、うん』
*現在、勝手に家に入った二人が罠でフルボッコになっております。
『それより、さっさと買い物を済ませて帰ろう。何を買う?』
「そうだなぁ……そばといえば、やっぱり天ぷらかな?」
「じゃあ、惣菜屋の『亜門屋』だね」
「亜門屋の惣菜か……あそこ、変わり種多いから、当たり外れ大きいのよね~」
目的地を定め、三人は商店街に入った。
やがて目的地の惣菜屋が見えてきた処で、向こうから何やら騒がしい声が聞こえてきた。
「何だ?」
「ちょっと、なにか走ってくるわよ!?」
「あれって……箒とシャルロットか!?」
『あれ? シャルも一緒だったのか。おーい、こっちこっち~』
『『て、知ってたんかい!?』』
ツッコミも見事に決まり、さて目の前にはすっかり息が上がった――どころか二人揃って呼吸がヤバイ。
「ぜぇ……ぜえ……。え、炎天下で走るものじゃないな」
「はぁ……はぁ……。か……体の奥に……っ、火が……ついたみたいだ……」
「あんたら何やってんのよ。ていうか箒、あんたそれ二度目よ」
鈴が自販機で買ってきたスポーツドリンクを渡しながら、呆れ気味に言う。
「それで、二人揃ってどうしたんだ?」
一夏が尋ねると、箒とシャルロットは何故か睨み合った。
「コイツが追いかけてこなければ、走ることはなかったのだ!」
「箒が逃げなければ走る必要は無かったよ!」
「なんだと!? 人のことをまるで獲物を狙う猛獣のような目で見ていたくせに!」
「自分だって、人のこと言えないでしょう!?」
「あ~、つまりはどういう事だ?」
ぎゃあぎゃあ言い合いを始める二人に一夏は頭を痛めつつ、答えを求めた。
『つまり、ほーちゃはマンションに行った。で、シャルはそれに付いていったみたいだね』
「それがどうして、商店街疾走に繋がるんだよ……?」
『………さぁ?』
謎は深まるばかりである。
「これ、エビの天ぷらと……何?」
「わさびの葉と茎だって」
「それって美味しいの?」
「さぁな。俺も初めてだし」
「うぅ……わさび、イヤだなぁ」
『すっかり、苦手意識できてるね』
買い物を終えた一夏達は、箒とシャルを加えて家へと戻った。
その先で、一夏達は言葉を失う。
「「「「…………」」」」
織斑家玄関。そこに逆さ吊りにされた、ボロボロの金銀みの虫。
『トラップが根刮ぎ発動してる。………死んだか?』
「まだ生きていますわ!! 何なんですか、これは!?」
クワッと目を見開き、セシリアが吠える。
『何って、ごく一般的に普及しているセキュリティシステムだよ?』
「何処がですか!? この様なもの、我が部隊にもありませんよ!?」
と、ラウラも復活した。
「あんた達、勝手に中に入ったでしょ。ここ、一見すると古めの一軒家に見えるけど、その実、アホみたいな罠がそこら中にあるから、勝手に入るとそうなるのよ」
『あはは。鈴ちゃんも一度引っ掛かったよねぇ~』
「うっさい」
「それよりも早く降ろして下さい! あぁ、頭に血が上って来ましたわ……」
「義兄上……そろそろ、限界が……」
『やれやれ。一夏、降ろしてあげて』
こうして、不法侵入者ことセシリアとラウラはやっと解放されたのだった。
そばが多量に余っているとはいえ、六人ともなれば流石に少ない。
天ぷらを少し多めに買ったのは、幸いであった。
「ていうかさ、何で誰も連絡寄越さないんだよ?」
事前に言ってくれていたら、用意もできていたのに。と一夏はわさびの葉の天ぷらを齧る。
辛味は殆ど無く、パリッという食感と共に、鼻腔を抜けるわさびの香りが口の中をさっぱりとさせてくれる。
「いや、私は普通に忘れていただけですわ」
「あたしは連絡しないで行くなんて、何時ものことだし」
「その通りだ」
(ほーちゃんの場合、僕には連絡くれてたけどね~)
「えっと、僕は……」
「私は嫁を驚かせようとしただけだ」
と、それぞれ答える。何故かラウラだけが自信満々に胸を張っているが、もう今更なので誰もツッコまなかった。
さて、昼食を終え、一夏は洗い物。鈴と箒は麦茶を注いで運ぶ。
「でも、さすがに今日はちょっと日が悪かったな」
皿を拭き、食器棚に戻しながら、一夏は言う。
「どういう事ですの? 何かご予定が?」
「あぁ……人に会うんだ。大事な人とさ」
一夏の発言に、全員が止まった。
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午後3時。駅前通りのカフェテリア。
オープンテラスに座り、一夏はアイスカフェモカのストローに口をつける。
「何でだろうな。こんなに暑いのに背中が寒い」
『いいじゃないか。冷房要らずで』
『なのに汗は止まらないんだけどね!? ていうか、なんで教えないんだよ? 鈴と箒は普通に知ってるだろ?』
『バカだねぇ。その方が面白いからさ(キリッ)』
『キリッ。じゃねぇよ、ったく』
一夏の感じる寒気の正体は少し離れた所にある四人掛けテーブル。そこに座る五人であった。
テーブルにはアイスティー2つ、アイスコーヒー3つ。しかし一切、手が付けられておらず、カランと氷が無駄に音を響かせている。
『本当に誰と会うのか御存知ありませんの?」
「そう言われたって、分かんないわよ」
「そもそも、何も彼も秘密にされてどう分かれというのだ?」
「だが、義兄上の言葉を聞くに、お前達は知っている風ではあったぞ?」
一体誰と会うのかと尋ねても、何故か春斗が「それは秘密。知りたいなら勝手にすると良いよ。僕らは教えないけどね」
と言ってはぐらかすのだ。
結局、五人はこうしてノコノコと付いて来たわけだ。
「あ、誰か来た」
シャルロットの言葉に、全員の視線がそっちに向いた。
道の向こうから、一夏の席に向かってくる日傘を差した女性。
傘で顔は見えないが、萌葱色の着物に身を包み、静かに足取りで深緑の影を踏む姿は気品と高貴さを兼ね備え、その立ち振る舞いには一分の隙さえもない。
一夏は女性を見るとすぐに立ち上がった。背を正し、女性に向きあう。
そうして初めて分かるが、女性の身長は一夏の胸程までしかない。
だというのに、セシリア達にはその女性がもっと大きいように見えた。
それはこの女性の発する雰囲気だ。圧力といってもいい。千冬のような威圧とは違う、山のような、海のような、そこに在るだけで感じる、荘厳さというべきもの。
この女性は一体何者なのか。セシリアらは息を呑んだ。
「お久しぶりです」
「えぇ、久しぶりね一夏くん」
一夏は深々とお辞儀をし、女性は日傘を傾けてその顔を晒した。
それは老女であった。白い御髪を綺麗に整え、しわの入った顔を優しげに歪ませている。
「それとそっちは鈴音ちゃんと……もしかして、箒ちゃんかしら?」
一夏越しに箒達を見た女性。瞬間、名を呼ばれた二人が勢い良く立ち上がっていた。
「「お久しぶりです、御堂先生っ!!」」
それはもう、見事なお辞儀っぷりであった。
「鈴音ちゃんは一年ぶりね。箒ちゃんは……もう六年かしら? 随分と綺麗になって……」
「あはは」
「恐縮です」
四人掛けを二つ使い、老女はアイス宇治抹茶を傾ける。箒と鈴は何処か緊張の面持ちで、身を縮こませていた。
「あの一夏さん。この方は一体……?」
すっかり置いてけぼりの三名を代表し、セシリアが尋ねる。
「この人は御堂文枝さん。春斗の弓の先生で、俺達姉弟の保護責任者なんだ」
「一夏達の保護責任者で……」
「春斗の……先生?」
「おう」
御堂文枝。
『今誾千代』『文枝御前』とも呼ばれる武芸百般に通じる女傑にして、日本有数の名家御堂家元当主。
両親を失い、千冬もまだ未成年であった時、姉弟はバラバラになる危機にあった。
三人が未成年である以上、施設に入れられることは至極当然のことであり、その結果として姉弟が離れ離れになることは容易に想像できた。
だが千冬はそれを頑として跳ね除ける。しかしそれが何時までも続く訳もない。
いよいよ強行手段を取られそうになった時、そこに現れたのが文枝であった。
文枝は箒の祖父と旧知の仲であり、彼女の父である篠ノ之柳韻とも親交があった。
柳韻は文枝に織斑家の後見となってもらえるよう、頼んだのだ。
文枝はそれを了承し、以来、姉弟は彼女が個人で所有するマンションに住居を移し、その庇護の元に日々を送ることになる。
「それにしても、一夏くんがISを動かしたって聞いた時は吃驚したわ。でも、IS学園での生活はそれなりにやれているみたいね」
「動かした本人が、一番驚きましたけどね。学園の方も何とか」
「もう、最悪色々と権力とか圧力とか使わないといけないかもって心配していたんだけど……良かったわ」
「「「それは真面目に国際問題とかに陥りそうなので是非とも止めて下さい」」」
三人がキレイにハモって頭を下げた。引退したとはいえ、文枝の影響力は半端ではない。下手に介入などすれば、外交官が過労で死ぬかもしれない事態も、結構簡単に起こったりする。
「あらあら、冗談よ。千冬だってもう一人前なのだし、無用の口出しはしないわ」
そう言って笑うが、本心は見えない。
「それより箒ちゃん?」
「はい、なんでしょう?」
「束ちゃんはどうしているか……知っている?」
「っ……臨海学校の折に会ったきりです。今は何処にいるのやら」
「そう……ん?」
箒が頭を振ると、文枝は何故か空を見上げた。そこにあるのは無も一つない夏の青空だけである。が、文枝の瞳はその遙か彼方を捉えているようであった。
「まったく……覗きだなんて悪趣味な事を。今度会ったらお仕置きしないとね」
文枝はポツリと呟く。一夏達も同じように空を見上げてみるが、飛んできた飛行機しかそこにはない。
ラウラにいたっては眼帯を外してまで見ているが、やはり同じだった。
――同時刻 某所。
「いやぁ~~~~っ! あのお仕置き嫌だァ~~~っ!!」
十全にして完璧と名乗る天才篠ノ之束は、その恐怖に絶叫した。
地上の新聞紙のコラムさえも読める程の精度を持つ、スパイ衛星をジャックして箒を盗撮していた束だったが、そこにいた人物に固まった。
しかも、その人物は地上から衛星監視に気付き、言葉を発したのだ。
『今度会ったらお仕置きしないとね』
――と。
その言葉は、束の中に根深く刻まれた恐怖を呼び覚ますには充分過ぎる効果があった。
「束さま?」
「いやぁ~~~~っ! お尻ペンペンはイヤぁ~~~っ!!」
あの屈辱。あの痛み。思い出しただけで、彼女のお尻が猿のそれよりも真っ赤になる。
「……束さま? どうか落ち着いてください」
「くーちゃん!? くーちゃんは知らないから言えるんだよ!? あれをされるぐらいなら、束さんは今すぐ世界を破壊するよ~~~っ!!」
――ごいんっ。
すっかり静かになった研究室から、何故か手に中華鍋を持った少女が出てきた。
そして鍋の底はどういう訳か、ベッコリと凹んでいた。
「……あら、気配が消えたわ」
「何の話ですか?」
「いいえ、こちらの事よ。それよりも、こちらのお嬢さん達は何方か、紹介して頂けます?」
「え……あ、そうか。えっと、まずはセシリア・オルコット。彼女は英国の代表候補生なんです」
「初めまして。セシリア・オルコットですわ。座したままの非礼、平にご容赦を」
「これはご丁寧な挨拶、ありがとうございます」
セシリアは貴族然とした麗しき微笑と共に一礼する。相手によって態度を変える訳ではないが、しかし相手が一夏の保護者的立場にある以上、好印象を与えるに損はない。
「それで、こっちはシャルロット・デュノア。フランス代表候補生で、国にいた頃は春斗のメル友だった子です」
「は、初めまして。シャルロット・デュノアです。春斗には色々お世話になってて、その……よろしくお願いします!」
「ふふっ。そんなに畏まらなくて結構よ」
「彼女はラウラ・ボーデヴィッヒ。ドイツの代表候補生で、現役の軍人。千冬姉の教え子でもあります」
「お初にお目にかかります。私はラウラ・ボーデヴィッヒ。一夏は私の嫁です」
ラウラは真剣な表情で言い放った。その瞬間、一夏は固まった。まさか、この場においてまでそれを言うとは思わなかったのだ。
ちなみに、春斗は大爆笑中である。
「あら。一夏くん……ウエディングドレスでも着るの? それとも白無垢かしら?」
「どっちも着ません! ていうか、本気にしないで下さい!!」
「私としては白無垢の方が似合う気がするのだけれど……どうかしら?」
「考察も要りませんから!!」
「分かってるわ。ただの冗談よ、冗談」
「………本当ですよね?」
「…………えぇ、本当よ」
「何でそんなに、たっぷりと間を開けるんですか!?」
御堂文枝。中々に一夏をいじる事に長けている女性である。
「ところで、話は変わるけど……春斗くんの〈容態〉はどう?」
「あ、それなら大丈夫です。ここに居るのは皆〈知ってます〉から」
「そうなの?」
一夏の言葉に、文枝は若干の驚きを見せた。
彼女もまた、春斗の身に起こった出来事を知っている人間であった。
だからこそ、春斗の事を知り、それでもこうして一夏と共にいるという事は、彼を受け入れているという事だ。
「……そう。なら、代わってもらえるかしら?」
文枝の声に慈しみの色が宿る。だが、それに気付く者はいなかった。
「分かりました」
一夏は静かに瞳を閉じて内側へと沈む、落ちていく。それに伴って、もう一つが上へと昇っていく。
やがて、瞳が開かれる。フゥ。と、息を吐き大きく息を吸い込む。
夏の熱気を孕んだ空気が、気道を抜けて肺を満たした。
「お久しぶりです、先生」
「えぇ、本当に久しぶりね。元気そう……というのはちょっと違うかしら?」
「いえ、元気ですよ。先生の方こそ、お元気そうで何よりです」
「あら。でも流石にもう、若い子にはついて行けないわ。体が追いつけないもの」
「またまた。そう言いつつ、道場で鬼のように扱いているんでしょう?」
「まさか。いつも通り、変わらないわ」
「はは……そうですか」
ご愁傷様、教え子の皆さん。と、春斗は心の中で合唱した。
弓に限らず、文枝の゛いつも通り”はその実、扱き以外の何物でもない。だが、他の様に怒鳴ったりはしない。ただ、静かに言うのだ。
「次」――と。
最初に言われれば戸惑い、二度目になれば首を傾げ、最終的にはそれが畏れに変わる。
構えが僅かでも崩れれば、無言のままにそこを扇子で打たれ、すぐさま直される。疲れ、体が乱れても同じだ。
その淡々たる様は、正に終わりの見えない蟻地獄。これが扱きでなくて何だというのか。
とはいえ、教え子は皆、文枝を慕っている。実際、弓道に限らず彼女の教えを受けた者は大会などで、優秀な成績を収めているのだ。
「それよりも、今日は時間を作ってもらったのだし……久しぶりに道場に顔を出してみる?」
「えっ!? でも……」
「大丈夫よ。皆、秋季大会に向けた最後の遠征に出ているから。道場に貴方を知る人はいないわ。私も貴方の弓を見てみたいし……あれ以来、弓を握っていないでしょう?」
歯切れの悪い春斗に、文枝は笑って答えた。
「そうですね……それじゃあ、お言葉に甘えて」
文枝の心遣いを春斗はありがたく受け取る事にした。月影も弓であるが、やはり本物の和弓ではない。
弓のきしみ。弦の鳴り。矢摺籐を抜けて飛ぶ矢。瞬の間を刮目して見極める弓返り。
春斗の心を魅了するそれらは、やはりISの弓では味わえないものだ。
「それじゃあ、早速行きましょうか」
と言って、文枝は自分のを含めた三枚の伝票を取った。
「あっ。いいですよ。自分の分は自分で払いますから」
「いいわよ。これぐらい」
「ですが、先生……!」
「ふふふ。謙虚なのは美徳だけれど、それも過ぎれば恥をかかせる事になるわ。そう言って良いのは一度までよ。しっかりと憶えておきなさい」
「はぁ……では、ありがとうございます」
「はい、よろしい。ところで貴女達はどうするの? 一緒に来る?」
文枝が箒らに問うと、五人は顔を見合わせ、そして頷いた。
「はい。ご一緒させて頂きます」
道場は文枝の屋敷に敷地内に設けられており、炎天下を大人数で歩くのもキツイので、タクシーを二台捕まえて屋敷へと向かう。
タクシーに乗って十五分程行った先。閑静な住宅街に忽然と現れた白い壁。
それは果てしなく広がっているように見えた。
タクシーを降り、眼前に立つ木製の大門に、ヨーロッパ組は只々唖然とした。
立派な門柱には【御堂】の表札。これはまるで、時代劇の武家屋敷ではないか。
勝手口を潜って中に入れば、和風造りの見事な屋敷が目に飛び込んできた。
その光景たるや、まるで時を遡ってしまったのではないかと錯覚さえする程である。
「さぁ、こっちよ」
文枝は正面の屋敷入り口には行かず右側に続く石畳を行く。それに春斗や箒、鈴が続き、ほうけていたセシリア達はその後を慌てて追いかけたのだった。