第1話 Howdy!
ひんやりとした風が顔を撫でる。
低い風音がこだまし、しばしば水の滴る音が聞こえる。
何だかとても長い時間眠ってしまったような気がする。瞼の先に白い光を感じた僕は、恐る恐る目を開けた。天井の隙間から差し込む白い光。その周りにはゴツゴツとした険しい岩が聳え立ち、到底自分の力では登れそうもない断崖が広がっている。
(あれ、ここどこだろう)
ぼんやりとした意識の中、僕はゆっくりと起き上がった。
自分の体の下には金色の大きな花が咲き誇っていた。一輪咲きのその花は、自分を支える葉茎とは不釣り合いなほどに大きな花を開かせている。思わず見とれてしまうほどに綺麗だった。あいにく自分の体の下敷きになったのか何本か潰れてしまってはいたものの、それ以上潰すことのないよう僕は花と花の間に足を置いてその場で立ち上がる。
まだ夢見心地なのか、頭がぼんやりとしてまるで働かない。辺りを見回すと、自分の背丈よりも遥かに大きな岩が転がり、重なり合っている。奇妙なことに、その中にはギリシャの神殿で見られるような模様の石柱も混ざっていた。さっき見上げた天井から考えると、ここはどうも相当深い穴か何かの底らしい。花の周りだけが、天井からの光に照らされている。どこか幻想的な光景だ。
すると、微かに風の抜ける音が聞こえる。見ると、そこには岩と岩の間に隙間ができ、横穴のようになっていた。ちょうど、自分くらいの背丈なら通れそうだ。
一応、もう一度天井を見上げてみる。うん、絶対登れそうにない。
ここに留まっているよりは、進めるだけ進んで出口を見つけるなり、誰かに会って話を聞くなりした方が良いのかもしれない。そう考えた僕は、慎重に横穴の奥へと進んでいった。
中に進むにつれて、さきほどの縦穴から漏れてくる光が届かなくなるのか、暗くなってくる。何か周りを照らせるものを持っていないだろうかと、ポケットを探っては見たものの、スマートフォンは入っていなかった。あれ、どうしたんだっけ。
それでもそのうちに目が慣れてきたのか、奥に進んでもだいぶ道が分かるようになってきた。ある程度進んだところで、僕は道が行き止まりになっていることに気づく。少しの間、その場に立ち尽くしたものの、すぐ左にこれまたギリシャ建築風の荘厳な装飾が施された入り口があることに気づいた。よく見ると、入り口の上には玉のようなものから生える一対の翼と、3つの三角からなる不思議な模様が彫り込まれている。
(これって?)
その時、すっと頭に掛かっていた靄が晴れ、記憶が戻った。
確か強烈な眠気に襲われて、少しだけとついベッドに横になった結果、そのまま寝てしまったのだ。で、気づいたらこんなところにいたと。
どこからどう見ても、周りの風景は自分の部屋の中はおろか、自分の住んでいる街にも似ても似つかない。それなのに、不思議なことに見覚えのあるような気も同時にしていた。なぜだろうか。僕は頭を絞って懸命に思い出そうとする。
再び入り口の上の紋様を見たとき、ぱっとひらめいた。
「これ、Undertaleの世界か!」
思わず声に出してしまった。念のため、元来た道を振り返ってみる。先にあるのは天井から漏れる光に照らされた金色の花々。自分が目覚めたときには横たわっていた場所だ。何をどう考えても、Undertaleのスタート地点に他ならない。
何でこんなところに来てしまったのか。理由は簡単だ。
これは“夢”だからだ。
僕はそう思った。常識的に考えて、夢でなければこんなことはありえない。ゲームの世界の中に、自分が入り込むだなんて。漫画や小説みたいな展開だ。
でも、夢の中とはいえ、好きなゲームの世界の中に入り込めたのは嬉しい限りだった。いままでも似たような感じの夢は見たことがあるけど、どれもぼんやりとしか覚えていない。それに引き換え、いま見ているこの夢は恐ろしいほどに意識がはっきりしていた。なんて幸せなのだろう。
一応、夢かどうか確かめてみても面白いかもしれない。ふと、僕はそんなことを考えた。漫画でよくあるように、自分の頬をつねってみるのだ。もっとも、あまり強くやると本当に目覚めてしまうかもしれないけれど。
せっかくいい夢を見ているので、途中で目覚めてしまうのは勿体ない。なので、僕はかなり軽めに自分の頬をつねってみた。最初は軽くし過ぎたのか、微かにつねられている感じはあるものの全く痛みはない。でも、次第に力を強くしてやると、ジンジンと痛くなった。
(あれ、普通に痛いじゃん)
痛みを感じるなんて、ずいぶんとリアルな夢だな。なんて、僕は呑気にもその程度のことしか考えていなかった。普通に考えればおかしいと思うはずなのに、僕は自分でも驚くほどに楽観的になっていたのだ。せっかくの夢なんだから、見ている間は楽しまなきゃ。細かいことなんて考えていても仕方がない。
そう考えていた僕は、まず自分の置かれた状況に目を向けてみた。正面にある荘厳な入り口。ゲームの通りであるならば、この先にあのクソ花、フラウィがいることになる。
(あいつ、仲良しカプセルとか言って弾撃ってくるんだよなぁ。しかも、凶悪な顔で笑いながら「死ね!」とか言ってくるのか…。怖いな)
最後にプレイしたのは1年近く前のことだったけれど、さすがにあれだけの回数をやっていたらこの先の展開を忘れるはずなんてない。この先の広間にはフラウィが生えて(?)いて、このゲームのチュートリアル的なことをしてくれるのだ。でも、絶対参考にしてはならないが。
そこで、ある疑問が浮かんでくる。あのチュートリアルで、フラウィは仲良しカプセルだと偽って自分に向けて弾を撃ってくる。それに当たるとかなりのダメージを負うとともに、フラウィが凶悪な顔に豹変して、全方位から弾を撃ち込んでトドメを刺そうとしてくるのだ。今の状態だと、そのダメージを受けるのは他でもない自分自身ということになる。
(念のためよけるか)
夢とはいえ、痛い思いをするのは御免だった。まあ、さすがに夢だから大丈夫だとは思うけれど。でも、下手をすればこのゲームの内容上、怪我をするどころか平気で殺されかねない。楽しい夢のはずが悪夢に変わるのは勘弁してほしかった。戦闘がどのように展開されるか分からないものの、無用なリスクは負わないのが身のためだろう。
そう決めた僕は、少し緊張した面持ちで入り口の中へ進んだ。
何歩か進むと、予想通り部屋の中央には一輪の金色の花が咲いていた。先ほど自分が目覚めた場所のように、花のあるところにだけ天井から白い光が差し込んでいる。遠目に見ればこれもまた神秘的な光景に見えた。スマホがあれば写真でも撮りたいくらいだ。
警戒しながら、僕はさらに進んで花の方へと近づいていく。驚くことに、確かに花の真ん中にはニコっとした笑顔が浮かんでいた。ネコの皮を被ったフラウィだ。こうしてみると、意外に可愛らしい。それがあんな恐ろしい顔に変貌してしまうんだから、現実とは怖いものである。いや、夢か。
「やあ!ぼくはFLOWEY。お花のFLOWEYさ!」
僕に気づいたのか、ゲーム中での最初のセリフの通りに、フラウィが挨拶してきた。思っていたより高い声だ。
「ふむふむ…。きみは地下世界の新入りだね?」
フラウィがそう訊いてくる。いやまあ、確かに自分自身がこの世界に来るとは思ってもみなかったので、新入りといえば新入りだろうし、ゲームとしてなら数え切れないほどこの世界で遊んでいるから、経験者と言われれば経験者だ。
何と答えればいいのか迷っていると、先にフラウィが口を開いた。相変わらずとても親切で優しそうな声だ。この後の展開を知っている自分からすると、実に腹立たしい。
「みたところ、すごく困っているみたいだね。ここでの過ごし方を誰かに教わらなきゃ!ここではぼくが先輩だから、教えてあげるよ。準備はいい?いくよ!」
「ちょっと待った!」
ストーリー通り戦闘画面に突入しそうになったところで、僕は声を上げた。まさかここで止められるとは思ってもみなかったのか、フラウィが大きな口を開けて驚いている。
「フラウィ、だよね?まさかとは思うけど、ここってどこ?」
「なんだそんなことか。ここは地下世界。Ruinsの入り口だよ」
怪訝そうな顔を浮かべながら、フラウィがそう答えた。やっぱりここはUndertaleの世界で間違いないらしい。そんなところに、何で僕は迷い込んでしまったのか。
「フラウィ。一つ聞きたいことがあるんだけど…」
僕がそう言い掛けたところで、フラウィが何かを思い出したかのようにはっとする。
「あ、もしかしてきみはTsuna?よく来てくれたね」
「ま、まあね…」
戸惑い気味に、僕はそう答えた。夢とはいえ、まさかフラウィに歓迎されるとは思ってもみなかったのだ。頭の中のフラウィの凶悪なイメージが、少しだけ変わっていく。まあ、一つだけ注文をつけるのならゲーム内での名前ではなく、ちゃんと自分の本当の名前を呼んでほしかったけれども。
「もしかして、これを夢だと思ってる?」
ドキッとした。
このフラウィ、読心術でも使えるのだろうか。自分の思っていることをここまで正確に当ててくるなんて。まあ夢だから、なにも驚かないけど。
「そりゃ、まあ…。だって僕はプレイヤーで、このゲームをプレイしてた側なんだよ。入り込んだと考えるのは無理があるというか…。」
「ははん。どおりで危機感が薄いわけだ。前から分かっていたけど、きみはほんとにバカだね。自分の姿でも見てみなよ」
さすがにバカと言われたことにはむっとしたが、言われた通りに体を見てみた。あれ、何だか体が少し小さいような…。それに、いつの間にか青地に薄緑のボーダーのTシャツを着ている。こんなシャツなんて持っていただろうか。ちなみに短パンの色も青だった。その姿に思い当たるものがあった僕は、近くに水溜まりを見つけて覗き込んだ。
「うわ、フリスクじゃん」
ボーダーの色が薄緑色で若干色違いなのと、着ているシャツが半袖という違いがあるものの、独特の細目にこの髪型。間違いなくフリスクだ。
なんて良い夢なのだろう。ゲーム中の登場人物になりきれるなんて。まるで夢のよう…、じゃなくて夢か。
「どうだい?自分の置かれた状況を理解した?」
「いや~、夢の中でフリスクになれるなんて思わなかったよ。ありがとう!」
興奮のあまりそう言ってしまった僕。どういうわけか一瞬、フラウィの目が点になった。まるで漫画みたいだ。どうやらよほど驚いたらしいのだが、何か変なことでも言っただろうか。
「…きみ、ちょっと能天気すぎやしないかい。まあ、たしかに信じられないだろうけれどもさ。知っているとは思うけど、ここはUndertaleの世界の中で、きみはぼくにまんまと
「え、落とされた…?」
フラウィの言っていることが、僕にはまったく理解できなかった。落とされた?まさか。フラウィにしては、面白い冗談を言うものだ。最初、僕はそう思った。でも、よくよく記憶を遡ってみるとある出来事が思い当たる。
画面いっぱいに表示された凶悪な笑みを浮かべるフラウィの顔に、高らかに響き渡る不気味な笑い声。
たしか、自分がベッドに入る前にそんな出来事があった気がする。久しぶりにUndertaleをプレイしようと起動してみたところ、突然フラウィの出てくる謎のイベントが始まったのだ。そして、あの恐ろしい顔が表示された後、ゲームは二度と起動しなくなってしまった。そのときだったと思う。フラウィが“ぼく”の力が自分を上回っているとしたらどうするか、と妙なことを聞いてきたのは。
考えてみれば、あれがきっかけだったのだろうか。もし、あのときフラウィが言っていたことが事実だとするならば、彼がその力を使って自分をゲームの中に引きずり込んだと考えると、すべての辻褄が合う。もっとも、到底そんなことなんて信じられるわけないが。
「まさか、きみがここまで間抜けだったとはね」
「うるさいなぁ…。わかったよ。どうせそういう設定なんでしょ。この夢の中では」
またも人を小馬鹿にして煽ってくるフラウィに、僕はそう返した。だって、普通に考えていくらフラウィがメタ発言を連発してくるキャラクターとはいっても、所詮はゲームの中の登場人物に過ぎない。すべてはモニターの中で繰り広げられていることで、現実世界に生きる僕には何ら関係のないことなのだ。
そんなフラウィがいくら“力”を持っているからといって、モニターを越えた自分にそれを及ぼすなんてまともな人間なら考えない。ましてや自分はもう17にもなる。さすがにそのくらいの常識は持ち合わせているつもりだった。実際のところはおそらく、例の出来事がまだ頭の中に残っていたために、夢の中に反映されたってとこだろう。夢とは記憶によって形作られるものだからだ。
「はいはい、フラウィが凄いのはよく分かったから。ありがとね、こんな素敵な夢の中に連れてきてくれて」
「ふん、そうかい…。あくまで君は信じられないってわけか。おめでたいやつだ」
フラウィは吐き捨てるようにそう言った。勝手に言っていればいい。どうせ、その辺に生えて煽ってくることしかできない可哀想なお花ちゃんなのだ。攻撃してくるといっても、どうせこれは夢の中。多少の痛みは感じるかもしれないけど、自分の体には何も影響はない。完全にこれが夢だと結論していた僕は、そう考えていた。
「ほらほら、フラウィ。せっかくだから撫でてあげるよ」
この際だから、煽り返してやっても面白いかもしれない。つい調子に乗った僕はフラウィに近づくと、頭を撫でてみた。思っていたのとは違って、手触りは普通に植物だ。ひんやりとしていて、みずみずしい。それに、ほのかに甘いにおいがした。でも、体がしゅるしゅる動くのが奇妙で、新鮮味がある。当たり前だが、普通の植物は動物みたいに動き回ることなんてないのだ。
「なんか意外…、植物なのに不思議な感じ」
「やめろ!触んな!あっち行けよ」
嫌がるフラウィ。そんな様子を見ると、もっとやりたくなるのが人間ってものだ。まあ、ちょっとひねくれているかもしれないけど。あと、実を言うとフラウィもUndertaleの中では好きなキャラの一人だったので、それもあるかもしれない。
さらに撫で続けようと思った僕は、両手を伸ばしてみる。葉で手を防いで嫌がっているフラウィだったが、別にまんざらでもないようにも見えた。
だが、それは大きな間違いだった。
次の瞬間、どこからか伸びてきた蔓に撫でようと伸ばした手を弾き飛ばされる。ぎょっとしてフラウィの顔を見ると、その目は見開かれニッと笑っていた。まるで、この時を待っていたかのように。
「きみはじつにばかだなあ」
醜悪な表情を浮かべるフラウィ。突き刺すような殺気を感じて反射的に後ろに飛び退くと同時に、鋭い風切り音が耳を過ぎる。右腕を何かが掠めた気がした。
「え?」
ふと、右腕にヌルっとした生温かい何かが伝うのを感じる。気持ちの悪い感覚だった。見ると右腕の袖が赤黒く染まり、徐々に広がってきていた。生温かい
これは、血?
あまりの出来事に、僕は何が起きたのか分からなかった。はっとしたのと同時に、腕を襲うのは焼き付くような灼熱感と気が狂いそうな程の激痛。
「ぅぐうっ...」
思わず僕はその場にうずくまり、顔をしかめる。一瞬、腕を引き千切られたんじゃないかとすら思った。咄嗟に左手で傷口を押さえたものの、あまりの痛みに呻き声が漏れる。どっと脂汗が流れ、心臓の鼓動が早くなる。みるみる顔から血の気が引いていくのが自分でもわかった。
「バーカ。やっとわかったかい?自分の置かれた状況が。これは夢なんかじゃない。現実なんだよ。そして、きみはこの世界に落ちてきたのさ。ぼくの手によってね」
夢じゃない?現実?
フラウィが何を言っているのかまた分からなくなってきた。うずくまっていた僕は、右腕を庇いながらもフラウィを鋭く睨みつける。痛みで手先が震える。血は流れ続け、たちまち傷を押さえていた左手は血まみれになった。
「おや、怒った?いままではプレイヤーとして高みの見物をしていたのに、いざ自分の番になったら怒るのかい。ずいぶんと身勝手だね、きみも」
「…っ!」
フラウィの挑発に、さすがの僕も頭に来た。いまに掴みかかってやりたいくらいだったが、体に力が入らない。右腕の下の地面には、早くも血だまりができていた。睨みつけることしかできない僕を尻目に、フラウィはニタリとギザギザの歯を見せつけながら、話を続ける。
「きみはこの世界でせいぜい頑張って地上を目指すんだね。地上まで出ることができたら、きみの勝ちだ。元の世界へ戻してあげよう。でも、もし地上にたどり着くことができなかったら、きみのソウルはぼくがもらうよ」
「な、何を言って…!?」
「まあ、頑張るんだね。途中、辛いこともあると思うけど、それを乗り越えるくらいの決意は持ち合わせているんでしょ、“元”Playerさん?」
決意。
決意って確か、生きようとする意志、運命を抗おうとする心だったっけ。
傷のせいか、意識が朦朧として思考がまとまらない。フラウィは相変わらず凶悪な眼でこちらを見つめている。その口元は笑みのあまり、大きく歪んでいた。
(こんなところで死んでたまるか)
僕は力を振り絞り、よろめきながらも立ち上がった。こんな意味も分からないまま殺されるなんて、真っ平御免だ。フラウィは少し驚いたものの、すぐに邪悪な笑い声を上げる。
「まあ、その決意もぼくが粉々に打ち砕いてやるんだけどね。こんなおいしいカモを誰が逃すってんだい!?」
その瞬間、自分の周りを囲むように白い光が浮かんだ。“それ”は高速で回転しながら一斉に自分の方へ迫ってくる。さっき右腕を切り裂いたのも、あの光の仕業なのだろう。ゲームで主人公に襲い掛かり、ダメージを与えていた“弾”。ここで見ると、恐ろしい凶器だった。あんなものをもろに受けてしまえば、自分は確実に死ぬ。
徐々に弾が近づいてくる中、僕は必死に辺りを見回して逃げ道を探した。ゲームでは2次元表示だから下をくぐれば躱せるかもしれないと思ったけど、そんな考えはとうにお見通しらしい。みるみる弾が増えて壁のように聳え立ち、完全に包囲されてしまった。
「死ね」
不気味な笑い声を上げるフラウィ。弾はゆっくりと包囲を狭め、押し寄せてくる。一瞬で仕掛けてこないところが本当に憎たらしかった。フラウィはどうしようもできずに絶望し、恐怖する自分の様子を心底楽しんでいるようだった。とてもまともな生き物のする所業とは思えない。
でも、自分にはどうすることもできなかった。高らかな笑い声が響き渡る中、こみ上げてくる悔しさに唇を噛んだ。そして、何とか右腕の痛みをこらえて迫りくる弾丸の中心に逃れる。だが、振り向いたときには弾はもう目前だった。
(もうダメだ…)
歯を食いしばりながら僕は目を瞑った。恐怖と絶望が心の中を支配し、押し潰されそうだった。やがて襲い掛かるであろう凄絶な痛みに、体中に力を入れて身構える。
どれくらい時間が経っただろうか。
極度の緊張が続く中、いくら待てども弾は来ない。
恐る恐る目を開けてみると、そこには困惑した表情を浮かべているフラウィがいた。目前まで迫っていたはずの弾幕は、いつの間にか消え去っている。その出来事に、僕は思い当たることがあった。
(もしかして…)
その瞬間、フラウィの目の前に燃え盛る赤い火の玉が現れたかと思うと、一直線に彼に向って突っ込んでいく。当然、花であるフラウィには躱せるはずもなく、直撃を受けた彼は悲鳴を上げてどこかに吹き飛ばされていった。
そして物陰から姿を現したのは、ふさふさの白い毛に覆われた1体のモンスターだった。その見覚えのある姿に、僕は言葉を失う。
「なんて恐ろしい魔物なんでしょう。罪のない、か弱い子供も傷つけるなんて…」
紛れもない。彼女はRuinsの管理人、トリエルだ。
身に着けた青いローブには、フラウィのいる入り口の上にも描かれていた模様___デルタルーンの紋章が描かれている。あれは確かモンスターの王家に関係する紋章だったはず。記憶が正しければ、彼女はかつてアズゴア王の妻だったが、考え方の違いから別れてここに移り住んでいるのだ。
「あぁ、怖がらなくてもいいのよ、坊や」
トリエルは優しい表情を浮かべて歩み寄ってくる。ここまで来れば、とりあえずの危険はなさそうだ。ゲームの中でも彼女はとても優しく、主人公に危害を加えることは基本的にはない。なので、これがゲーム通りならひと安心のはずだ。
ひと安心の、はず…。
なのに、なぜだろう。
頭では分かり切っているはずなのに、体はまだ震えていた。いったい、なぜ。
脳裏にあの凶悪なフラウィの顔が蘇る。右腕から止め処なく流れる真っ赤な血。そして、押し寄せてくる大量の弾。
あれは、“恐怖”と“絶望”。
もしかして、自分は怯えているのだろうか。たかがゲームのキャラクターだったフラウィが、目の前に現れて自分を殺そうとしてきたことに。恐ろしい笑みを浮かべながら、トドメを刺そうとしてきたあの瞬間に。
頭からあの光景が離れない。あの生々しい感覚がフラッシュバックしてくる。絶対に経験したくない死の恐怖。それが、何度も何度もだ。振り払おうと思っても、思えば思うほどに余計に頭の中に焼き付いていく。心臓の鼓動が激しくなり、息も荒くなった。
ふと見上げると、目の前に近づいてくるのは大きな白いモンスター。何故だか、その顔が狂気に満ちた笑みを浮かべているように見える。もしかして、こいつも自分を殺そうとしているんじゃないか。
恐怖が心を埋め尽くす中、ある言葉が頭の中で反芻される。
『この世界はな、殺るか殺られるかなんだよ』
フラウィの言い放った言葉だった。そうだ、殺されるくらいならいっそのこと…。殺られる前に殺るしかない。
拳を強く握り締めると、不思議と力が湧いてきた。この力を使えば、誰でも簡単に傷つけられる。今ならそんな気がする。
《襲ってくる奴らは皆殺しさ》
後押しするかのように、誰かが耳元でそう囁いたような気がした。胸の中にドロドロとした何かが広がっていくのを感じる。これは“殺意”なのか?
その時だった。
突然自分の体が柔らかい何かにぎゅっと抱きしめられた。
「落ち着いて。もう大丈夫よ…」
トリエルだった。
びっくりする僕。あまりに突然のことに、身動きができない。トリエルは腰を落として、両手で自分の体を抱いているようだった。まるで我が子にするかのように。その顔は慈愛に満ち溢れていて、先ほどまで自分が抱いていた恐ろしい気持ちが鎮まっていくのを感じた。握っていた拳からも力が抜けていく。
あたたかい。
シャツの上からでも、彼女の体からの温もりが伝わってくる。トリエルは優しく自分の背中をさすってきていた。ふさふさの白い毛が、とても気持ちが良い。思わず涙がこみ上げてくる。自分でも、何でこんな気持ちになるのかぜんぜん分からない。ようやく体の震えが止まり、僕はゆっくりと左手をのばす。
そして、静かにトリエルに抱きついた。ますます温かみを感じ、涙が頬をつたう。そこで僕は安心しきったのか、すうっと意識が遠のいた。