(まさか、ナプスタブルークの涙があんなに恐ろしいものだったなんて…)
僕はまだ息を切らせながら、その場に座り込んでいた。ナプスタブルーク自体はとても可愛く、少し内気で恥ずかしがり屋のところが好きなんだけれど、彼の攻撃があれほどまでに怖いものだったとは思ってもみなかった。
大粒の涙が雨のように降り注いで、しかも落ちたところがジュッと音を立てて煙を上げるのだから、もう必死になって逃げ惑うしかなかった。おかげで涙に当たることはなかったものの、散々走り回ったせいですっかり疲れ果ててしまった。
でも、しばらくこうやって休んでいたいのも山々だけど、トリエルが待っている以上あまりゆっくりしてはいられない。
僕は立ち上がると、分かれ道になっている目の前の通路をまっすぐ進んだ。この先では確か、クモのお菓子の即売会が開かれているはずだった。
案の定、そこには小さいクモの巣と大きいクモの巣の二種類が張られていて、その間には木でできた粗末な立て看板が打ち込まれている。
『クモのベイク・セール 売り上げはすべて本物のクモに渡ります』
お金は今までの戦闘で10Gくらいたまっていたので、ドーナツくらいは買えそうだ。僕は小さいほうのクモの巣の前に立つと、ポケットから取り出したお金をクモ巣に引っ掛けておく。意外に頑丈なのか、コインを乗せてもクモ巣は少したるんだだけで、切れたり崩れたりすることはなかった。
コインを乗せ終わると、天井からぶら下がってきたクモがお金を回収するとともに、目の前にドーナツを下ろしてくれた。クモたちがつくったということでどんなゲテモノかと想像していたけれど、予想に反して普通に美味しそうなドーナツで、白いアイシングがクモの巣をイメージしたように表面に細かく掛けられている。また、こんがり焼けたきつね色の生地からはほのかに香ばしい匂いもして、食欲がそそられる。
すぐにでも食べてしまいたいくらいだったけど、貴重な回復アイテムを無駄にするわけにはいかない。僕は泣く泣くクモからもらった紙袋にドーナツを入れると、ポケットの中にしまっておいた。そのうちポケットの中で粉砕されて大惨事になる気しかしないので、入れ方には気をつけておく。
「ありがとう」
僕はクモに感謝を告げると、部屋を出た。これで、いずれこの先で会うであろうマフェットの対策は万全だ。もっとも、このドーナツを食べることなく無事にマフェットのところまで運ばなければならないが。絶対途中で落としたり砕けたりしてしまう気しかしない。それに、そもそも腐らないかが心配だった。
まあ、ここはUndertaleの世界だから大丈夫だろう。きっと。
一抹の不安はあったものの、僕は無理やり自分を納得させると、先の通路へ進み始める。
『迷ったのかい?スパイダー・ベイク・セールは下に行って右だよ。クモの、クモによる、クモのためのお菓子をお楽しみください!』
入った正面にはそんな立て看板が打ってあった。ふと思ったけれど、これは誰が立てたのだろう。マフェットだろうか。それとも、ここのクモたちか。まったく分からない。
看板の横にはフロギーが3匹、間を開けて大人しく座っていた。久しぶりの来訪者に興味津々なのだろうか。たまにゲコゲコと声を出しながら、こっちの方を見てきている。僕は軽く会釈をすると、さらに先へと進んでいく。
その時突然、携帯電話が鳴った。相変わらずのボリュームで、すっかり携帯の存在を忘れていた僕はビクっとする。周りのフロギーたちもびっくりして、すっかり鳴き止んで何事かと自分の方を振り向いた。ほんと、ごめんなさい。
僕は頭をぽりぽり掻いて申し訳なさそうに壁際に寄ると、電話に出た。
「もしもし?前に掃除してから随分経っていることに気が付いたの。こんなに早くお客さんが来るなんて思わなくて…」
「いえいえ、そんな。お気遣いなく」
「あちこちにいろんなものが散らかっていると思うわ。拾ってもいいけれど、必要のないものまで拾わないようにね。いつかあなたの大好きなものが見つかるかもしれないでしょ?そんな時のために、ポケットは空けておかなきゃ」
トリエルはそう言うと、電話を切った。
大好きなものか…。
取捨選択をしろということなんだろうけど、そもそもポケットが小さすぎて大したものをしまい込めない気がする。今ですらアメとお金、それにドーナツでポケットはいっぱいなのに、この後見つかるであろう色々なアイテムを持てるか。それがやや不安だった。
電話をしまった僕は次の部屋へと足を踏み入れる。部屋の左右に6か所の落とし穴があって、それぞれが別の部屋につながっている部屋だ。最初の落とし穴の部屋でろくでもない落ち方で背中を痛めたのもあって、僕はやや落とし穴恐怖症になっていた。実を言うと高いところ自体が苦手なので、最初から落とし穴にはあまりいい思いはしてないけど。
(行くか…)
それでも、次の部屋への道を塞ぐ針山を引っ込めるためには、この下の部屋にあるレバーを引くしかない。僕は左から2番目の落とし穴に近づくと、覚悟を決めて飛び込んだ。たちまち地面が抜け、一瞬の浮遊感ののち下の部屋に着地する。ここにも落ち葉が敷かれていたおかげで、衝撃はそこまで強くなかった。
壁にはやはりレバーが埋め込まれていた。早速それを引いてみると、地響きのような重低音とともに地面がやや揺れた。上の部屋に戻ると、道を塞いでいた針山はすっかり引っ込んでいるようだった。これで、先に進むことができるだろう。でもその前に、アイテムを拾っておかなければ。
僕は部屋に入って右側の最初の落とし穴に飛び込んだ。案の定、そこには色褪せた赤いリボンが落ちている。所々がほつれているあたり、誰かがそれなりに使い古したものらしい。もっとも、実際にゲームとしてプレイしていた自分にとってはこれが誰のもので、どういう理由で落ちているかはだいたい想像がついたが。
リボンを手に取った僕は、とりあえずズボンのポケットにしまっておいた。せっかく手に入れたのに使わないのは勿体ない気がするけれど、男なのにリボンを使うというのは少し勇気がいる。それに何より、背景を知っているとあまり使う気にはなれないというのもあった。
再び上の部屋に戻った僕は、無言のまま次の部屋へと向かう。
装飾の施された石柱と、その根元に埋め込まれた赤、緑、青のスイッチ。ようやく、迷宮も終わりに近づいているようだ。とりあえず、この部屋では何も操作しなくてもよかったはず。記憶を頼りにそう結論した僕は、足早に次の部屋を目指す。
その時だった。
目の前の地面が突然、ぼこぼこと音を立てて盛り上がってきたのだ。
土にどんどん割れ目が入り、山のように膨らんでくる。あまりの出来事に僕は立ち尽くしていた。こんな敵なんていただろうか。もしかして、来てはいけない場所に来てしまったんじゃないか。不安ばかりが心の中を渦巻き、心臓が脈打つ。
山は2つできていた。時々、盛り上がった土が崩れて富士山型に周囲に広がる。やがて、それぞれの山のてっぺんが内側に崩れたかと思うと、小さな穴が穿たれた。まるでモグラが掘ったような穴だった。
「なんなんだ、あれ?」
声を上げた瞬間、突如として火山の如く土が噴き上がり、派手に周囲に散らばる。避けきれずに僕は土をもろに食らって、顔が黒くなった。強烈な土の匂いがあたり一帯に漂う中、姿を現したのは2体のモンスター、
でも、ちょうどよいタイミングだった。
僕はいかにも、といった感じの様子でお腹をさすり、空腹感をアピールする。
すると、ベジトイドはすぐに察してくれたのか、野菜の弾幕を展開する。
「緑の野菜を食べようね」
「理想的な朝食に不可欠」
恐ろしい外見とは裏腹に、かなり真面目に健康面を考えてくれているらしい。ベジトイドが掘った穴から大量のニンジンが噴き出し、頭上から勢いよく降ってくる。その中にはみずみずしい緑色をしたものも混ざっていた。
僕はそのニンジンだけを手に取ろうとするものの、これだけ濃密な弾幕だと目的のニンジン以外を躱し切るのは難しい。数え切れないほどのニンジンが放物線を描いて降ってくる中、頭上を見上げて左右へ避けつつ、緑のニンジンのもとへ向かう。しかし、躱し切れなかったニンジンが右の肩に直撃する。
「痛ッ!」
見た目は普通のニンジンなのに、それとは思えない固さだった。鈍い音が響いて、当たったニンジンが跳ね返って地面に落ちる。金槌か何かで打たれたような衝撃で、当たり所が悪かったのか腕が痺れてきた。
(見た目以上にきついダメージだな、こりゃ…)
それでも、目的のニンジンは何とか手に入れることができた。僕はすぐそれにかぶりつく。緑という奇妙な外見とは裏腹に、そのニンジンはとても柔らかくて簡単に頬張れるほどだった。それに、噛めば噛むほどにじみ出てくる自然な甘さと芳醇な香り。苦味や青臭さを一切感じさせないその味はまさに絶品で、クセになりそうなほどだ。もはやこれは、ニンジンの次元を超越している。
「なにこれ!超うまい!こんなに美味しい野菜あるの!?」
興奮した僕は思わずそう叫ぶ。ベジトイドはその底気味悪い笑みをもっと深めて、喜んでいるらしかった。でも、それが悪かったらしい。間もなくおかわりとばかりに、再び穴から大量の野菜が噴き出してくる。しかも、それは軽く先ほどの倍近くはあった。
「ぇ…」
唖然として言葉を失う。絨毯爆撃の如く降りかかってくる大量のニンジンに、僕は死に物狂いで横跳びを繰り返し、躱そうとする。でも、この量は到底躱し切れるものではなかった。いくつかは
左右に身を捩って懸命に回避を続けるものの、頭を守るため前に組んだ両腕に何度もニンジンが打ち付け、容赦なく痛め付けた。弾幕が止んだ頃には両腕の感覚が麻痺しかけていて、防ぎ切れなかったニンジンが直撃した額は酷く痛む。
一応、同時に降ってきた緑のニンジンもいくつか食べることはできたが、今回は受けた恩恵よりも被害の方が大きすぎてまったく味を感じられない。両腕は赤紫色に腫れ上がり、重くなって上がらない。額の打撲はたんこぶになり、血が滲んでいた。
「緑の野菜ちゃんと食べたね」
ベジトイドは満足そうな笑みを浮かべている。僕は苦笑いをしながら「ありがと、もういいよ」と告げて、ベジトイドたちを逃がした。
「ふう…、何とか助かった。あのままじゃ危うく撲殺されるとこだった…」
僕は息を吐くと、その場に座り込む。半袖から見える腕は赤紫色の打撲傷だらけで、内出血しているのが見るだけで痛々しい。幸い骨は折れてなさそうだけれど、相変わらず痺れが続いていて動かすのもやっとだった。額もいまになって痛みが強くなり、僕は傷ついた右手を辛うじて持ち上げ、傷を押さえる。腫れは酷くなり、熱を持っていた。
《やれやれ…。どうして戦わないのさ。ベジトイドごと食べちゃえばよかったのに。美味しいよ?》
「えぇ?」
またこの声だ。
事あるごとに僕に誰かを殺すよう仕向ける謎の子どもの声。今回も相変わらず物騒なことを言っているけど、美味しいよと言われると少し興味が出てくる。そういえば、味見くらいならできたような。
「食べたことあるの?」
「そりゃ、もちろん。あれは忘れられない味だったな…。」
昔の思い出を懐かしむかのように、声が言った。意外にも人の心があるらしい。僕は何かほかのことも聞き出せないかと、さりげなく訊き返してみる。
「へえ…。どこで食べたの?」
「うーん、あとは秘密。じゃあね…。また戦いになったら教えて」
声はそう答えるとそれっきり聞こえなくなってしまった。目論見は失敗してしまったらしい。
(あの言い方。戦いのときだけやってきているのか?)
でも、いまの会話でようやく面白いことが分かってきた。声は間違いなく、この世界にいた誰かのものだ。そして、戦いのときだけ自分について回っているらしい。何だか少し悪趣味だ。それに、物騒な言葉遣いをしている時点でろくでもない奴であることは確かだろう。
とにかく、これで自分の幻聴という可能性は否定できるかもしれない。少し気が楽になり、表情が緩んだ。早くパズルを抜けてトリエルのもとに行かなければ。意気込みを新たにして、僕は立ち上がろうとする。けれども、先ほどの戦闘で体を散々痛めていたことを忘れていた。
(イテテ…。まずは回復しないと…)
再び襲い掛かってきた強い痛みに、僕は涙目になりながらポケットからマモノのアメを取り出すと、包み紙を剥いて口に放り込む。ハッカに似た爽やかな風味が口の中に広がり、喉がスースーしてきた。独特の甘さが舌を優しく包み込み、幸せな気分になる。
気づくと、腕や額の痛みが和らいでいた。無数の打撲傷で酷い赤紫色になっていた前腕もすっかり元の色に戻り、額のたんこぶもあっという間に引いている。魔法の力、凄すぎないだろうか。
僕は体についた土を払い、次の部屋へと歩いていった。中へ入ると、そこはまさしく先ほどの部屋と似たようなレイアウトになっていて、装飾の施された柱と青、緑、赤のスイッチもそのままだった。
おかしい。
似ているというレベルではなく、本当に前の部屋そのままになっている気がする。まるで無限ループをしているかのようだ。
奇妙な違和感を覚える中、立ち止まって考え込む僕。
「そうか。一人称目線だと、本当に部屋のレイアウトに違いはないのか」
ようやくひらめいた。普段のゲームでは神様視点から俯瞰しているため、部屋の東西南北が固定された視点になっている。なので、同じレイアウトでも向きによって異なるように見えてしまうのだ。その一方、今は自分自身でこの部屋を探検している一人称視点のため、方向を考える必要はない。全ての部屋が同じように見えて当然だった。
だとすれば、すごく簡単だ。
僕は壁に埋め込まれた石碑を探すと、書かれている通りのスイッチを押す。すると、すぐに針山が引っ込み、次の部屋への道が開いた。
「自分が主人公になるだけで、簡単になるパズルもあるのか…」
僕はそう呟きながら、通路を進む。ゲームでは柱に隠れたスイッチの色を覚える必要があったけれど、今はまったく無用だった。
目の前には再びまったく同じようなレイアウトの部屋が現れる。これも僕は看板を見てスイッチの色を確かめると、目的のスイッチを押そうとする。今度の色は赤だ。僕は部屋の奥の方へ進んでいくと、石柱の横にある赤いスイッチに手を伸ばそうとする。
その時、柱の陰から黒い影が飛び出してきた。
現れたのは大きな一つ目をしたモンスター、
「お前もいじめてくるのか、いじめないのか。どっちなんだ?」
しばしばその大きな瞳を瞬きさせながら、ルークスはそう訊いてきた。答えはもちろん決まっている。
「いじめないよ」
それを聞いて、「やっと分かってくれた」と呟くルークス。やっと、というほど長いあいだ説得された覚えはないけど、彼自身にとってのことを考えているかもしれない。もしかすると、他のモンスターにもいじめないように説得していたのだろうか。だとすれば、なんて良いモンスターなんだろう。
だが、安心するのも束の間、ルークスは自らの周りにシャボン玉のようなボール状の光を呼び寄せると、こちらに向けて放ってくる。こっちはいじめないって言ったのに、自分はいじめてくるらしい。それはちょっと、理不尽じゃない?
弾は地面や天井に当たるとバウンドして迫ってくる。それでも、予測できない動きではない。僕はドッジボールのように弾の進む方向を見極めながら体を捩り、次々に弾を避けた。すべての弾を避け切ると、ほのかに目薬のような匂いがする。これ、ルークスからしているのだろうか。
「じゃあね」
僕はルークスを逃がすと、今度こそスイッチを押した。目の前の通路を塞いでいた針が地面に吸い込まれる。記憶が正しければ、次がこのパズル最後の部屋だ。そして、それを抜けるとトリエルの家はもう目前になる。
僕は速足で次の部屋に入ると、緑色のスイッチに近づく。
順番的にはこれで良いはずだ。それでも、スイッチを押す手前になって少しだけ不安になってきたので、念のため僕は壁の看板を振り仰ぐ。やはり緑のスイッチで正しいらしい。
スイッチを押してみると、たちまち最後の針山が引っ込んだ。これでやっと、トリエルの家でゆっくりできそうだ。僕はゆっくりと開かれた出口に向けて歩き出す。でも、最後の最後のところで、物陰から黒い影が飛び出してきた。
見た目は頭に生えた触角もあって虫にしか見えないけれど、2本足で立っているのが人みたいで気持ち悪い。目つきも見るからに凶悪だが、こいつは1匹でいるときは攻撃という攻撃を仕掛けてこないはずだった。たしか悪い仲間の一緒にいるときだけ悪者になるという、少し悲しい事情のあるモンスターなのだ。
人間にもこういう人はいる。集団でいると、つい気分が大きくなって普段はやらない取り返しのつかない過ちを犯してしまうのだ。何とか改心して自分に自信を持ってほしいと願うばかりだ。
僕は逃がそうと声をかける。だがそのとき、ミゴスプの前の地面がボコボコと音を立てて盛り上がり始める。
「あ、これは…」
一歩、また一歩と後ずさりする僕。途轍もなく嫌な予感がする。間もなく土が噴き上がると、不気味な笑みを浮かべたベジトイドが現れた。
(まずい。ミゴスプとベジトイドの組み合わせは厄介だ…。)
たまらず逃げようと踵を返すも、ミゴスプが素早い動きで回り込んで退路を塞ぐ。瞬時に振り返ると、正面からはベジトイドが迫っていた。完全に挟まれてしまったらしい。これはちょっと、まずいかもしれない。
「一斉にいくぞ」
「緑の野菜を食べようね」
2匹はそう言うと熾烈な弾幕を繰り出す。ミゴスプは自らの周りにコバエのような無数の虫を呼び出し、ベジトイドはトマトやジャガイモ、タマネギといった野菜を次々と穴から噴き出させる。
躱せるはずがなかった。
コバエは群れを成して進路を塞ぎ、野菜はそこら中の壁や床に跳ね返って無秩序に飛び回る。
神経を研ぎ澄まして飛んでくる弾を避ける僕。それでも、圧倒的な弾幕を前にどうしても反応が追い付かない。背中にタマネギがぶつかり、鈍い音が響いて息が漏れる。降りかかる野菜を避けようとすればコバエが襲い掛かり、左腕を噛まれた。気を取られた僕はたまらずハエを追い払おうとする。
だが、それがまずかった。
「ぐぅッ…」
ベジトイドの放ったジャガイモがすぐ目の前でバウンドすると、正面から腹を直撃したのだ。あまりの痛みに僕は体をくの字に折り曲げると、その場にうずくまる。みぞおちに直撃したのか、一瞬息が詰まった。内臓が焼けるように痛み、胃の中身を吐き出しそうだった。
(くそ、なんて攻撃なんだよ…)
顔を上げると、まだ2匹は目の前を塞いでいる。僕は咳込みながらも何とか呼吸を整えると、目の前の地面にのめりこんでいた緑色のトマトを食べた。色としては見るからに熟していないけど、味は極甘でフルーティな風味がする。よろめきながら立ち上がった僕は、ひとまずベジトイドを逃がした。内心、ベジトイドを少し味見したい気もあったが、今はそんな心の余裕はない。
一人になったミゴスプは気が楽になったのか、先ほどまでのような凶悪な表情が和らぎ、どこかにやけたような顔になっている。気分が乗ってきたのか、攻撃のターンになってもその長い手を回して一人でダンスを始めた。先ほどまでの醜悪な姿からは想像もできないその動きは、どこか滑稽だ。
「じゃあね…」
僕は力のない声でそう言うと、楽しそうに踊るミゴスプの横を無言で通って出口を抜けた。
「こんなにキツイなんて…。フリスクはこんなのに耐えてたのか」
僕は腹を押さえてゆっくりと歩きながら、そうつぶやいた。
額を脂汗がつたう。攻撃を受ける度にこんな苦しみを受けていたんじゃ、瀕死、ましてや本当に殺されてしまったときの苦痛は計り知れない。しかも、ゲームでは数えきれないほどにフリスクは殺されている。これはもはや地獄だった。
左に進めばトリエルの家がある。そして、正面に向かえば…。
重い足取りでまっすぐ進む。入り口をくぐると、そこからはモンスターの街並みが一望できた。真っ暗な地底の世界に煌々と輝く紫の建物群。見渡す限りどこまでも街が続いているあたり、余程大きな都市だったのだろう。でも、今はほとんどモンスターの気配は感じられない。ゴーストタウンのように全てが静まり返り、時が止まったかのような有様だった。
そんな様子を、僕はぼんやりと眺める。
ふと左に目を向けると、銀光りするナイフが落ちていた。僕は何か導かれるかのようにゆっくりとそれに歩み寄ると、静かに手に取ってみる。光沢のある質感とは裏腹に、ナイフはスカスカなんじゃないかと思うほどに軽かった。プラスチック製か何かのおもちゃだろう。
なんだ、本物じゃないのか。
……。
一瞬でも、そんな思考が浮かんできたことが怖かった。
僕はすぐにおもちゃのナイフを戻す。ナイフなんか使って、僕は何をしたいというのだろう。誰かを殺すのか。自分の身を守るために。
《向こうが殺しに来てても、きみは黙って殺されるの?》
「……。」
《殺されたら、こんな痛みじゃ済まないよ。果てしないほどの苦痛と恐怖。それに溺れながら死んでいくんだ。君も覚えているとは思うけど》
また、あの声だ。
その言葉に、意図せずフラウィに襲われたときの記憶がフラッシュバックしてくる。せっかく押し留めていたのに。せっかく忘れようとしていたのに。
(思い出したくない。嫌だ…。)
僕は心の中でそう叫ぶものの、次々とあの出来事が脳裏に浮かび、蘇っていく。
赤黒く染まったシャツの袖、流れ続ける鮮血、地面に広がる血だまり。そして、高らかに響き渡るフラウィの笑い声と凶悪な表情。壁となって押し寄せてくる白い弾幕。
「やめろッ!」
止め処なく蘇る絶望と死への恐怖が、頭の中いっぱいに広がっていく。
叫んだ僕は両手で耳を塞ぎこみその場にしゃがみ込んだ。目を強く閉じて砕けそうなほどに歯を食いしばる。でも、それを嘲笑うかのように声は頭に直接響いてくる。
《それでいいのきみは?自分がどれほど仲良くしようと接しても、相手は殺そうとしてくるんだよ。痛い思い、苦しい思いをするのは他でもないきみ自身さ。一方的にきみはそれを引き受けることになるんだ》
「うるさいッ!」
「理不尽な話だよね。平和を貫こうとしても、その代償を払うのはきみなんだから。真の平和主義者?本当に笑わせるよね。ニンゲンなんて聖人君子じゃないのにさ」
「黙れッ!」
「いいかい?自分の身を守るのは本能だ。なにも悪いことじゃない。殺そうとしてくる向こうが悪いんだ。そんな奴に何もせず黙って殺される馬鹿がどこにいる?」
声の言葉が頭の中で何度も繰り返される。
考えてみれば、確かにそうかもしれない。たとえこちらが敵意を見せなかろうが、問答無用で相手は襲い掛かり、容赦なく殺そうとしてくるのだ。
反撃して何が悪いのだろうか。
僕は再び、落ちていたおもちゃのナイフを拾い上げる。
(この世界は、殺るか殺られるかなんだ。躊躇することは何もない)
だが、それをズボンのポケットに差し込もうとしたところで、手が止まった。
これじゃ、フラウィと同じだ。
本能のままに誰とも向き合おうともせず、襲われたからといって相手を殺す。話せば分かり合えるかもしれないのに、その努力もせずに命を奪い取ってしまうのだ。彼らにも家族があり、自分と同じく一つの生を歩んでいる生き物なのに。
僕はナイフを腰から戻すと、塀の外に向かって投げ捨てた。
《あーあ。つまんないの…。せっかくまともに使える武器だったのに》
「…いいんだ。相手に攻撃しないなら、あんなもの必要ないし」
《やれやれ。あとで後悔するよ、そんなことしてたら…》
声はそう言うと、すっと遠のいて聞こえなくなった。
僕は静かに立ち上がると、広がる街並みを見つめる。プレイヤーとして散々この世界を荒らし回り、大勢のモンスター達を殺して何度も世界を滅ぼしてきた僕が今さらこんなことを言い出すのはおかしいかもしれない。
でも、いざこの世界に落ちて色々なことを経験してみると、自分のやってきたことがどれほど馬鹿なことだったのか、身に染みるほど分かった。ただただ自分のくだらない欲望と好奇心のために、僕はすっかりフラウィ以上の怪物と化していたのだ。
せめて、自分のいるこの世界には、誰も不幸になることのないエンディングを迎えさせてあげたい。幸せな未来を約束したい。
僕は決意を抱いた。
お付き合い頂きありがとうございます。
気づくと一万字に達してしまった...。
次回からは、なるべく一万字以内に収めます...