百合色スタァライト 作:尊さに目を焼かれた人
「今日、此処で寝るから」
「──ぅえ」
余りの都合の良さに、天堂真矢は目の前の光景が自分の生み出した妄想の産物である可能性を真剣に検討した。
既に消灯時間は過ぎている。今日の逢瀬はもう終わっている。笑顔で別れを告げた後だった。これでもう、明日の朝までクロディーヌとは会えないのだ。だったのに。
「──良い?」
「勿論、喜んで」
即答しながら、それでもやっぱり真矢には現実感が無かった。もう自分は寝ていて、これは夢なのでは無いかと思う。
常夜灯の弱い灯りにうっすらと照らされたクロディーヌはいつも通り綺麗だった。学園にいる時は勝気そうだったり気が強そうだったり、兎角目元に力が入っている事が多い。特にレッスン中はそうだ。
真矢はその眼が好きだった。挑戦者の目だ。自分に挑みかかってくる目だ。不屈の目だ。愛しい目だ。
手を抜くという概念は天堂真矢には無い。そもそも手を抜ける程、下に見られるほど実力差の有る相手でも無かった。本気で競い、結果何度でも上回り、突き放した。
すると何度でも追い縋ってきた。クロディーヌの方が思っているほど真矢にとって楽な勝負では無かった。敗北の可能性は多くの場合真矢に程近い場所で存在を主張していたものだ。だから本気を超えて必死にもなり、結果真矢はより高みへと実力を伸ばした。
歩みが遅くなればその瞬間追い付かれ、追い越される。その確信があった。クロディーヌを筆頭に多くの者に常に後背を脅かされている。嬉しくて楽しかった。常に頂点にいた真矢にとってはとても幸いな事だった。練磨し合う関係下で互いの実力はより良く伸びる。その上で尚君臨した。
聖翔音楽学園九九期生の中でも、その更に選抜の中でも、西條クロディーヌこそが常に真矢の脅威で、最も恐れ、故にこそ信頼するに足る競争者だったのだ。
何時も自分を鍛えこんでいた。何時でもより良くより強い舞台少女であろうとしていた。真矢がそうしている様に西條クロディーヌもそうだった。
何時でも西條クロディーヌは天堂真矢に勝とうとその背を追っていた。何時でも天堂真矢は誰にも、最も近くを追走する西條クロディーヌに負けまいとしていた。
抱いていた感情が敬意であり友情だった時も、真矢とクロディーヌは互いを最良の糧として良く共にレッスンを行ったものだ。結果的に、他の誰よりも共に時間を過ごした。
差し伸べた手を取られる事は無かったが、手に手を取り合って踊り、席を共にして食事し、同じテーブルについて紅茶を楽しみ、並び座って会話を交わしたのだ。
何時頃までが敬意と友情で、何時からが尊重と愛情だったのかは真矢自身良く分からない。もしかしたら入学試験で挑まれたあの最初の頃から、天堂真矢は不屈と努力の天才、西條クロディーヌを好いていたのかも知れなかった。
自分とクロディーヌが並び立ち手を取り合えば誰にも負けないと本気で思っていた。レヴュー・デュエット、互いが互いを高め合い無言の内に通じ合ったあの瞬間に、真矢はクロディーヌこそが自らの運命である事を確信したのだ。
涙を流して真矢の不敗を叫ぶクロディーヌに、私の真矢と言ってくれた愛しい人に、真矢は確信をもって手を差し伸べる。
結果として喫した敗北は無論悔しかったが、それでも絶望などしなかった。する筈が無い。クロディーヌと共にいるのだから。もっともっと高みへ、何処まででも飛べるのだから。だから涙を流す彼女に手を差し伸べ、本気の本音で言った。より彼女を理解する為に学んだ言葉で。
泣き顔も可愛いですよ、私のクロディーヌ、と。
一時我に返って逃げ回ったクロディーヌをなりふり構わず追い回して捕獲し、それから始まった愛を交わし合う日々は以前よりずっとずっと充実していて、正に飛躍の日々だった。これほど人を愛する事が出来るのだ、愛しい人に愛される事はこんなにも幸福なのだと実体験で実感する日々だった。酔い痴れてしまいそうになる程。
まあ実際真矢は酔い痴れていて、そのせいで情欲に流されちょっとかなり結構無理矢理強引に致してしまい、ここ最近クロディーヌは何処か様子が変で真矢はもう一週間以上もその甘美な唇に触れていなくて正直辛抱溜まらず我慢の限界ででも二度も同じ過ちを犯すなど彼女と交わした愛を裏切る行為と思ってすごく我慢していて、つまりそのせいでクロディーヌの方から寝室を訪れ共に一夜を過ごそうと告げてくれるなんて嬉し恥ずかし都合良しな願望の表れで自分を慰め、此処まで来たか天堂真矢と真矢は自分自身の欲求不満振りに恥ずかしいやら度し難いやら──
「ちょっと、何時まで惚けてるの?」
「──ふえ」
愛しの西條クロディーヌが、真矢の運命が真矢の隣に寝そべっていた。添い寝である。毛布の下で真矢の手にするりと柔らかで滑らかな感触が絡む。恋人繋ぎと脳が理解するより先に良い匂いが本能を刺激してきてもう夢でも良いからキスしたいと真矢の欲求が無限大の広がりを見せしかし真矢の妄想だからと言って欲求不満を解消する為だけに都合の良いクロディーヌを想像し手を出すなど不埒かつ失礼の極みで本能と理性の二律背反に晒された真矢は機能停止に陥り掛け、
「私が隣にいるのにもう寝ようとするなんて良い度胸じゃない」
抱き寄せられ、クロディーヌに口付けされた。妄想などでは到底再現し切れない圧倒的なリアルの感触、久方ぶりの幸福感と心を満たす心地良い快感に真矢の脳が現実に復帰した。
ベッドの上で、真矢とクロディーヌはぴたりとお互い寄り添い合って、手足を絡めて横たわっていた。枕一つを二人で共に使用している為、ほんの少し頭を傾ければ唇が触れてしまいそうになるほど距離は近い。
というかさっきキスされた。久しぶりに。しかもクロディーヌの方から。
密着としか言えないゼロ距離。手指どころか全身が触れ合っている。どこもかしこも柔らかくて暖かい。天堂真矢は再認識した状況が妄想を上回っている事に気付き、やっと顔を赤くした。
「ちょっと傷付いたわ。真矢だって私と一緒に居たい筈だって信じてたのに」
「クロディーヌとなら何時だって何時までだって一緒に居たいに決まっています!」
余裕の欠片も無く真矢が叫ぶと、クロディーヌは微笑んだ。そして真矢が二の句、疑問やら何やらを発するより前に、彼女は繋いでいない方の手で真矢の口をふさぐ。
「真矢、私はあんたに謝らなきゃいけない事があるの。公平を期すためにまずは其処からね。一週間前、真矢が電気をつけたまま寝落ちしていた時、私はこの部屋に勝手に入って真矢をベッドに寝かせて、その時真矢が買い込んでたハウツー本を見たわ。そうしたらキュンと来ちゃって、この一週間ずっと、私は真矢にキスしてほしい、キスされたいって考えながら過ごしてた。もしかしたらキスより凄い事もされちゃうかもなんて想像して一人で昂ったし、されちゃっても良いかなって……ちょっとだけ思ってた」
一度でも止まってしまったら絶対に言い切れないという確信があり、クロディーヌは恥ずかしくてはしたなくて身も蓋も無い告白を真矢の反応を無視してでも、一気に伝える。
「この前私が怒ったから、真矢は今までずっと我慢してくれてたのよね──私が今晩真矢の部屋に来たのは、私の方が我慢できなくなったからよ。私もその気だから、真矢がしたい事全部私にしていい。私も真矢ともっと繋がりたい──お望みなら朝まで付き合ってあげる」
クロディーヌの体温の上昇が衣服越しに触れ合う肌を介して、真矢に伝わる。クロディーヌの本気が五感を通して真矢に伝わる。
あの本を他ならぬクロディーヌに見られていたとか、ずっとキス待ち状態で一週間悶々と過ごしていたとか、そして我慢できなくてこの部屋に来たとか。
知らなかった恥が十倍になって叩き付けられたみたいで。逃していた好機が今更になって狂おしくて。望んでいたものの百倍が突然自分の腕の中に現出していて。率直に言えば天堂真矢は混乱した。
身も蓋も無く混乱した。いまクロディーヌの口から出た言葉の全てを一つ一つ分けて、その都度その都度優しく噛み分けて説明してほしかった。
今口を開いたら訳の分からないうめき声しか出ない気がして、ぱくぱくと弱弱しく口を開閉する。天堂真矢史上最も正体の定まらない天堂真矢が其処にいた。
それでも、どれだけ混乱していようが目を開けていれば目の前の光景が見える。そしてこの距離で向き合っていれば見えるのは枕かお互いの顔位だ。枕如きが愛しい人に勝てる訳も無く、真矢はずっとクロディーヌを見ていた。
彼女も彼女で自分のあんまりな言い様にダメージを受けたらしく、常夜灯に照らされてぼんやりと薄暗く見えるその顔は真っ赤だった。それでも気丈な笑みを維持してはいるが、唇が震えていて、眼はこれでもかと潤んでいる。その瞳に映る真矢も同じような顔をしている。
それでもクロディーヌは止まらない。彼女は天堂真矢と相対しに来たのである。天堂真矢が混乱から立ち直るまでの間、主導権は彼女にあった。
「き……奇襲も同然だものね。でも真矢がいけないのよ。これから先人生でずっと私の相手役をするんだから、私のどんな台詞にも応えるのが天堂真矢の使命だもの」
がちん、と小さくしかし確かに、お互いの歯がぶつかる音がした。今宵二度目の口付けは少し痛くて、しかし今までにない潤いを持っている。クロディーヌの舌先が、真矢の唇を薄くなぞっていったのだ。
「……真矢の味。この前の仕返しね」
勝ちを譲る事なんてない。自分から負けてなんてあげない。ただ待つだけの私じゃない。私だって真矢が欲しい。だってあんたは私の真矢なんだもの。
目は口ほどに物を言い、そして百聞は一見にしかず、百見は一触にしかず。クロディーヌの与えた反撃の機会、真矢に叩き付けた挑発は、確かに天堂真矢を無理矢理に目覚めさせた。彼女に強欲に、深い愛情に火をつけたのだ。
生まれついて負けず嫌いの少女は、真っ赤な顔で勝ち誇って反撃を待ち侘びている愛しい人に乱暴に唇を押し付けた。絡めた手をぎゅうっと握り、もう一つの手でクロディーヌの頭を引き寄せる。三度目のキスはちょっと唇が痛くなるくらいだった。
しばらくそうしていてやっと顔を離すと、鼻先が触れ合い、唇が触れない位の距離で二人は鼓動を共有し、吐息を重ね合う。
「……また強引にした」
「して欲しかった癖に」
「さっきまで訳わかんないって顔してたじゃない」
「されるがままの私をお望みですか?」
「まさか……ちゃんと並び立ってほしい」
「ここ最近ずっと我慢してきたんですよ?」
「ありがとう。でももう大丈夫だから」
「言ってくれなきゃ分からないじゃないですか」
「したいって言ってくれたらおいでって私も言ってあげたわ」
「したい事が沢山あるの」
「まずは何回だってキスがしたいんでしょ? したがりで我慢が苦手で、甘えん坊で誠実な私の真矢」
「恥ずかしがりで負けず嫌いで、意地っ張りで包容力のある私のクロディーヌ」
勝負でも仕掛ける様に始めたクロディーヌだったが、彼女たちはライバルであるのと同じ位恋人同士なのであった。勝った負けたでは無く、互いに優しく溶け合う様にキスをしたかった。
勢いというならそう呼べばいい。十代の内に馬鹿な事をしておかなくてどうする。情熱を保存して取っておくなんて事はできないのだから。
明日様子がおかしいと見咎められて、事情を察した純那辺りが真っ赤な顔で、二人に遠回しなお説教をするかもしれない。そうしたら言ってやればいい、あんただってななと宜しくやってるでしょって。もしかしたら授業でミスをして双葉や香子あたりには呆れられるかもしれないし、華恋、まひる、ひかりなんかは素直に祝福してくれるかもしれない。
でも、そんなの全部明日の話だ。時間が経って冷静になってこの日を想い返すと、もっとムードの有るロマンチックな一晩を過ごす方法は幾らでもあったとか思うだろうけども、そんなのは今よりずっと未来の話だ。お互いに溺れる日があったって良い。
真矢とクロディーヌは何回もキスをした。お互いの味を確かめ合って、触れ合う身体の柔らかさに夢中になった。真矢がまた強欲を発揮し、クロディーヌがそれを受け止め、真矢を挑発する。
甘えれば抱き締められ、求めれば与えられ、欲すれば応えられる。互いが互いに自分の全てを差し出して、相手の全てを独り占めした。
時には我に返って、二人揃って恥ずかしい思いもした。でも少しすると隣り合う愛しい人に、その舌や唇の甘やかさにまた熱中した。真矢はまたクロディーヌに自分の証を付け、今度はクロディーヌもやり返す。学園を卒業したら同じ大学に進んで同棲しようとか、もしかしたら海外に行くかもしれないけどそれでも付いていくとか、気の早い話もした。
夜が明ける頃にはもう登校の準備をしなければ行けなくなった。名残惜しく分かれると、早くも調子を取り戻した真矢が今度は私がそっちに行きますなんて言って、クロディーヌは不意を打たれてしまう。
──二人はこの日、揃って寝不足の身体を引きずって、でも軽やかな足取りで、子供みたいに手を繋いで登校したのだった。