百合色スタァライト 作:尊さに目を焼かれた人
「クロディーヌ、今少し良いで」
「なによ、天堂真矢」
その瞬間、A組の教室に小さく、しかし確かな波紋が伝わった。その中心は九九期生首席・天堂真矢と次席・西條クロディーヌだ。
総員の視線の先で、天堂真矢は話しかけた姿勢のままびきりと硬直しており、驚くべきことにその表情には絶望にも近い感情があった。
そして西條クロディーヌ──椅子に座って足を組み、己のライバルをツンツンとした表情で下から睨み付ける少女は確かに今、天堂真矢の事を天堂真矢と呼んだのだ。
それは少し前であればよくあった、実にらしい西條クロディーヌの姿。クロちゃんったら今日も元気ねって位の日常風景。
だが、飼い主に捨てられた子犬の様な顔で固まっている天堂真矢の姿を見れば分かる通り、今となっては有り得ない筈のもの。
「──く、クロディ」
「だから何よ、天堂真矢」
再度の声。真矢、ではない。天堂真矢と、以前まで──恋人同士になる前の様に、フルネームでクロディーヌは彼女を呼んだ。
飼い主さんはボクの事が世界一大好きで、ボクがおねだりすればお散歩もボール遊びも何時でも何処でも満足するまで付き合ってくれるんだワン──そう信じて疑う事すらなかった優秀で、しかしちょっとおバカな子犬ちゃんが突如として段ボールに詰められて道端にポイ捨てされた様な──そんな天堂真矢の顔。
漲る絶望は彼女の身体から滴り落ちて大地を満たさんばかりで、立ち昇る悲しみは大空を黒に染めるかと思われた。しかし恋人のそんな顔を目の当たりにしても、西條クロディーヌは表情を緩めない。
舞台の上ならいざ知らず、今此処は圧倒的リアル。これが現実。同級生たちの注目を一身に浴びながら、天堂真矢は、
「……なんでもありません……」
すごすごと自分の席に引き返すと、崩れ落ちる様に椅子に座し、上半身を机上に投げ出して臥せってしまった。
勿論こんな天堂真矢も初めてである。クラス中が無言のざわめきと共に真矢とクロディーヌの間で視線を往復させるが、流石に今此処でどうしたの、なんて聞ける者はいなかった。
ただ、全員が否応なく理解した──人前でべたつく事は無かったにしろ、言葉に秘めた愛情で、視線で通じ合う信頼感で、何より寮のリビングで演じた威風堂々の恋愛劇で名を馳せた九九期生トップクラスのラブラブカップルの間に、何かあったんだと。
初めての唇と唇でのキスよりこっち、西條クロディーヌと天堂真矢の熱愛っぷりは更に加速していた。
より一歩親しく、より進んだ関係になれたという実感、幸福感、充実感。愛しい人とより一層深く繋がる確かな快楽。喜悦。それは両者に共通するものだったが、此度の事件に繋がるある事態も、同時に起こってしまった。
──他ならぬ天堂真矢が、大好きな人とのイチャイチャラブラブちゅっちゅにドはまりして自制心を失ってしまったのだ。九九期生首席・天堂真矢が超愛してるクロディーヌとのイチャイチャラブラブちゅっちゅにドはまりして、自制心を失った結果暴走してしまったのである。
舞台少女として他を圧倒する才と比類なき努力によって格別の実力を持つに至った彼女、天堂真矢。その意志力、自制心、確固たる精神も無論格別の強固さであったが、今思えば彼女だって一人の人間、一人の少女だったのだ。
例えば大好きな大場ななお手製バームクーヘンやまひる芋によるお芋料理の数々となると、日頃の節制を忘れてそれはもうご満悦の態で大食してしまう所とか。
美術の教科、特に絵が苦手で思わずエスケープを決め込んでしまう所とか。
そう、下級生などには完璧超人の如きイメージを持たれている彼女だって一人の女の子。時にはご飯を食べ過ぎたり、苦手から逃げてしまったりもする。間違いだって失敗だってたまにはする。
そんな事、最も近くで真矢を見ていたクロディーヌには重々分かっていたのだけれど、クロディーヌにだって我慢の限界というものはあったのだ。
「クロディーヌ、もう一回」
「もう、まだするの?」
その日も天堂真矢と西條クロディーヌは二人きりの時間を堪能していた。口では呆れた様に問うてみせたクロディーヌとて嫌な訳では全くなく、ただ、真矢ったら本当に甘えんぼになっちゃって、とせがむ真矢に対し微笑ましい思いと、恋人が子供の様に自分を求める姿にほんのちょっとの優越感を抱いただけであった。
人前では絶対見せない姿、自分だけが見られる天堂真矢の欲求の発露。勿論自分だって嬉しいし幸せだ。だからクロディーヌは許可を与える様に頷いて見せた。
真矢はクロディーヌをひしと抱き締めると、目を閉じた彼女の唇に自分の唇をそっと押し付ける。胸を満たす幸福感、じんわりと染みる彼女の暖かさ、心の底から湧いてくる愛しい思い。
初めての時魅了されたその感覚は何度回数を重ねても全く薄まらず、慣れで恥ずかしさが多少減じた事もあり、その度に発生する快楽を覚え込み、よりこの愛情確認にして愛情交換に傾倒する様になっていた。
真矢はクロディーヌに対する抑えきれない愛しさのままに、そのまま彼女を離す事無く二度、三度と続けて唇を押し付ける。これ以上無いほどの間近で感じるクロディーヌの吐息と接する瞬間の僅か硬直、触れている間に伝わる熱情は真矢の脳髄を痺れさせた。
「あ、こらっ……」
夢中になり過ぎて思わず、真矢はクロディーヌを寝台に押し倒してしまう。無意識の行動に自分でも驚いたが、クロディーヌの声に嫌悪や拒否の感情が無かった事からつい誘惑に負けて、そのままクロディーヌを下に敷いて自分が彼女の上になる。
意識していては到底出来ない大胆な行動。やってから羞恥が込み上げてくるが、同じく真っ赤なクロディーヌは目に動揺を浮かべつつも、拒否の台詞や動きを見せない。これは許可を貰ったも同然では、と考えてしまった真矢はこの時すでに頭が茹っていたのだろう。
「クロディーヌ、私のクロディーヌ……」
「ちょ、真矢……」
今までの様に確認することも無く、真矢はクロディーヌの両手を自らのそれで押さえつけ、また彼女にキスをした。洋画やドラマでのそれの様に舌を絡ませる事こそ無いが、今までのどんなキスより長いキス。欲求が急かすままに、彼女の唇を自分のそれで柔らかく食む。
身長は自分の方が僅かに高いとは言え身体能力の差はほぼない、本当に嫌ならクロディーヌはどうとでも自分を跳ね除けられる筈、だからこれは無理矢理でも強引でも無い──という言い訳さえ今の真矢の中にはない。
完全に冷静さを失い、熱に浮かされ、欲求のままにクロディーヌを求めていた。こんな真矢は真矢自身にとってさえ初めての事で、クロディーヌにとっても無論そうだった。
余りにも突然で今までにない真矢の強引さにクロディーヌは困惑するが、求められる事自体は変わらず嬉しく幸せで、確かに急だし強引ではあるけどはっきり拒絶するほど嫌と言う訳でも無く、でも未体験のゾーン過ぎて素直に受け入れるというのも難しくて──そんな複雑な内心の結果は、ほんの僅かに顔を逸らしたり少しだけ手足を揺すったりという抵抗とも言えない抵抗に終始してしまう。
そして前述した様に身体能力の差がほぼ無い以上、上から体重を掛けている真矢と下に敷かれているクロディーヌ、本能のままに求める真矢とどっちつかずに悩むクロディーヌという差は大き過ぎ、結果的にクロディーヌは真矢にされるがままになってしまった。むしろ弱弱しい抵抗が火に油を注いだとまで言えるかもしれない。
やがて興奮している真矢の方が先に息が続かなくなり、名残惜しそうにクロディーヌから離れる。自分が散々好きにしてしまったクロディーヌの顔を真矢は直視したのであるが、
「……も、もう、強引過ぎよ……ここまでして良いなんて、私言ってないんだから……」
真っ赤な顔、潤んだ眼、荒い呼吸。僅かに乱れた衣服から覗く肌色。困惑が強い、僅かに怒ってもいるかもしれない。でも、そう、それよりも遥かにもっと──もっと──善がっている様にも見えた。
今の真矢にはその余りにも煽情的なクロディーヌの姿は誘惑としか感じられなかった。こんなに蠱惑的で可愛らしい彼女が自分のもの、私だけのクロディーヌと心の炎が更に燃え盛る。
真矢は自分の欲望に従って、クロディーヌの首筋に唇を押し付け──そして舌を這わせた。汗の味が少ししょっぱくて、でもそれ以上に甘ったるい香りがした、様な気がした。
キスどころでは無い行為、唇と舌による首筋への愛撫によって身体の内側から沸き上がる確かな快楽にクロディーヌの背筋を震えが走る。だが流石にこの行為は一足飛びが過ぎ、クロディーヌの貞操観念がアウトの判定を下し、
「こ、こら真矢! 流石に駄目!」
しかし真矢は今更止まれない。好きが暴走して思いやりや順序より本能の欲求を満たす事が優先されている真矢は、可愛い可愛い自分のクロディーヌに、自分の証を付けるという発想に心を囚われていた。
もうお互いの首にはその証が、チョーカーがある。でもしかし、自分の身体でクロディーヌの身体に証を刻むという行為はより一層甘美に思え、真矢はその欲求と戦うまでも無く全面降伏をキメていた。
天堂真矢、人生で初めての大暴走であった。
過ぎた快感に身を震わせながらの抵抗は結局真矢に抑え込まれてしまい、事が終わるとクロディーヌの首筋にはくっきりと赤い充血の跡──いわゆるキスマークが残されていた。一つ、二つ、三つと。
恋に乱れ愛に溺れるとしか言い表せない行為に及んだ天堂真矢だが、僅かに冷静さを取り戻した後でも、生憎彼女はまだまだ茹っていた。どこか全能感すら覚えていた。
怒れるクロディーヌを目の当たりにしてさえ、好きで愛しくて堪らなかったんだからしょうがないじゃないですか、私悪くないですよね、とまで半ば本気で思っていた。
一日後の真矢が見ていたら蹴っ飛ばしてでも止めただろう台詞を、羞恥と共に怒りを漲らせ潤んだ瞳でガチ睨みしているクロディーヌに対し、ベッドの上で正座させられつつ言い訳する。この時謝らなかった事が尾を引くとも知らず弁明口調で、
「く、クロディーヌは私のものですから。私だけのクロディーヌですからね。だから、こうやってその証拠を残しておきたかったのです」
怒りがある一定以上に至るとむしろ冷静になるらしいとクロディーヌはこの時実感した。真矢の向かい側で立ったまま彼女を見下ろしつつ赤面半目で自分の首筋のキスマークを指さし、
「……この跡、どうするの? 着替えの時とか、シャワーの時とか……」
「………………ちょ、チョーカーの位置を少し上にすれば隠せるのではないですか? シャワーの時は……人目に気を付けるとか……」
「……それはそうね。で? 他に何か言いたい事は?」
真矢はクロディーヌの怒りをひしひし感じていたが、自分たちの間の愛情を信じていたし、まだリカバリー可能だと思って間違った選択肢を選んでしまった。
「──怒った顔も可愛いですよ、私のクロディーヌ」
真矢は自分の知らないフランス語で罵倒されながら部屋から追い出された。
そして次の日完全に冷静になった真矢はクロディーヌに謝らねばと思うわけだが、朝の練習でペアを組んでくれなかった事からその怒りの深さを察して焦り、一刻も早く謝らねばと話しかけた所で喰らったのである。冒頭の天堂真矢呼びを。
結局学園にいる間、クロディーヌは真矢に取り合ってくれなかった。二人の遺恨は寮にまで持ち込まれたのである。
今真矢は、クロディーヌの部屋の前にいる。何時もどちらがどちらの部屋に訪れるかは決まっていないのだが、まさかクロディーヌの方から謝られに来てくれると思う程真矢はお馬鹿さんでは無かった。
何という事をしてしまったのだろう、という気持ちが表情を暗くさせている。しかし悪いのは確実に自分であるので、ただ許してもらえるまで謝る他ない。
控えめにノックをし、真矢は扉ごしに許可を願う。
「クロディーヌ、ごめんなさい。貴女にちゃんと謝りたくて……」
口調も何処かたどたどしいが、謝りたいと言う気持ちは本物だった。しかし無情にも扉は開かない。それどころか返事も無かった。
「クロディーヌ……」
やはり返事は無い。真矢の心にじんわりと絶望が忍び寄ってくる。確かに自分は酷い事をしてしまったが、謝る事も許されないなんて……まさか私たちの関係はこれで終わってしまうのでは、そんなのは嫌なのに……とどんどん悪い方向に想像力が働かされる。
思わずドアノブに手を掛け、そして気付く。扉には鍵がかかっていなかったのだ。普通ならそうは考えなかったのだが、追い詰められていた真矢の想像は飛躍した。
返事すら無しに無視すると言う強い拒絶を見せておきながら、その実ドアには鍵がかかっていない。その気になれば入っていく事ができてしまう。これはもしやクロディーヌからの無言の意思表示では?
『私だって仲直りはしたいわ。でも今回はあんたが悪いのよ。だから私は一歩たりとも歩み寄ったりしないからね』──そういう怒りに満ちた、そして真矢の誠意を試している意思表示なのでは、という希望的解釈が成立していく。
昨日もクロディーヌの意志を無視して怒らせてしまったのに、また許可も無く入室するなんてしていいのか。しかしこうしていても時が解決してくれるとは思えないし、むしろ今日より明日の方が、明日より明後日と先延ばしにする方がどんどんハードルは上がっていく気がした。
ならば何が何でも顔を合わせて、兎に角謝りに謝り倒してどうにか許してもらうしか無いのでは。罪人である私に許されるのは伏して乞うだけなのでは──真矢は決意を固めた。
決意を胸にドアノブを捻ると同時、
「ごめんなさいクロディーヌ! 全部全部私が悪か」
部屋は無人であった。セルフで上げて落とす事により地面に落下した際のダメージは更に上昇し、真矢は崩れ落ちて地に膝を付けたという。
「なあクロ子。天堂と会ってやらなくて本当に良かったのか? 言われた通り居ないとは言ったけどさ……」
「何があったのかは知らんし聞かんけど、天堂はん、今日一日天堂はんや無いみたいやったで? ばななはんのお菓子を食べ残す天堂はんなんてうち初めて見たわ。今だって」
というかクロはん、寝る時もそれ外さんのやね、と香子はチョーカーを示していった。
心配そうに声を掛けるふたかおの真ん中で、まひかれ部屋の神楽ひかりの様に床に布団を敷いて西條クロディーヌは横たわっていた。
「ふん、良いのよっ。それより二人とも、お邪魔しちゃって悪かったわね」
「それは別にええけども……」
乙女の柔肌を無断で侵犯した罪は重いとばかりに怒って見せるクロディーヌである。実際のところ一日中絶望顔をしていた真矢を見て怒りはほぼ消えていて、何度ももう許してあげようかと思いはしたのだが、誇り高い彼女にとっては謝れば簡単に許してくれる女、後で謝れば強引にしても大丈夫な女だと思われるのも業腹であったのだ。
なので今日までは意地でも許さず、明日になったら和解してあげようと思ってふたかおの所に来たのである。何だかんだ彼女も惚れた弱みか、長い間真矢と離れているのは良い気持ちがしなかった。
もっと紳士的に自分を淑女として扱い、そして段取りや順序というものを重んじてアプローチしてくれたなら、真矢のものだという証拠を付けられるのだって嫌では無いのに──布団の中でチョーカーの上から、真矢に付けられた証を撫でるクロディーヌ。
人には見えない所にある、真矢の唇で自分の身体に刻まれた証。確かにその発想にはこう、クロディーヌとしてもクるものがあるのだ。
私ったら一体何処まで真矢に惚れているんだか、と自分で自分に呆れ、双葉と香子にお休みを告げて眠りに落ちたクロディーヌであった。明日は早起きして朝一番に真矢の所にいってあげようと、そう思いながら。
全ての部屋を訪ねて回ったけれども何処にもクロディーヌはいない、靴も荷物もあるので外出はしていない筈なのに──そんなに自分に会いたくないのかと失意の内に眠りに落ちた真矢様、目を覚ますと隣には(一刻も早く仲直りしたくて寮で一番早起きして真矢の所に来た)久し振り(一日イチャついてないだけ)のクロディーヌの姿が。
涙と共にごめんなさいをする真矢様を、クロちゃんはようやく許してあげました。二人は久し振り(一日イチャついてないだけ)に抱擁を交わしたのでしたとさ。
何事も無かったかのようにどころかより距離が近くなった二人を見て周囲は「もしかして昨日のは変則のイチャつきかそういうプレイだったのでは」と思ったとか思わないとか。