原作の登場人物はほとんど登場せず、世界観に若干のズレがあり、かつ作品の九割九分が鉄槻の妄想するセミオリジナルとなっていますのでくれぐれも御注意下さい。
教室で机を囲んで談笑するクラスメイト。
廊下で大笑いする生徒たち。
仲良さそうに連れ立って街を歩く女の子の集団。
カフェのテーブルで談笑しているカップル。
はしゃいで路上を駆け回るラフな格好の少年たち。
そんな学校や街角で当たり前に展開されるそれら全ての光景が、撫子にとってはどこか遠い世界の出来事にしか見えなかった。
「……消えちゃえよ……」
忌々しい。
見ていると、まるで出来の悪い鉤爪を研ぐ擦過音を聴かされたような底冷えのする不快感が湧き上がりイライラする。
舌の根に滲むような苦味を感じ、嘔吐くように吐き棄てた。
「……みんな、消えちゃえよ……」
そこに本当に友情があると思っているの? 親交が通っているというの?
友達? 仲良し? そんなの、どうやってそれを証明できるの?
人の心なんて、目に見えないものなんか本当に知ることなんてできないのに!
「……バカみたい! みんないなくなっちゃえよ!」
曇天の下の灰色の荒れ地にひとり、撫子は虚空に絶叫した。
◆◆
(ねえ知ってる? あの美咲 撫子って、普通の人には見えないモノが見えるんだって)
(うわなにそれきもーい)
(こないだ、なんもないところで何か避けるみたいにしてたぜ。なんかマジでヤバいっぽい!? )
(キャラ作り!? うわやり過ぎて逆に引くわー)
美咲 撫子(みさき・なでしこ)。
この昴星学園の二年三組に所属する学籍番号2401323の学生。
成績は上の中下をさ迷う程度、咎められるような失点もないが注目される程の順位でもない。素行にも特に問題もなく、今時の女子高校生にしては化粧っ気が薄いにも関わらずどこか人を惹き付ける容姿ではあるのだが、クラスでは完全に孤立していた。
終業のチャイムが鳴ると同時に生徒たちは各々それぞれの放課後の用事に動き回り、あるいはそれぞれで集まった。
だが、撫子はひとり。
「……」
黙々と、淡々と鞄に中身を詰め込んでゆく。
「……」
突如現れた、ふと頭をかすめかけたぼんやりした光を撫子はろくにそちらも見ずに首をほんの少し傾けて躱した。
その撫子の僅かな挙動を目撃した離れた席に集まっていた女子が、撫子を指さして何事か仲間内に嘲る調子で囁いた。
だが誰も、室内を漂い窓をすり抜け外へと出ていってしまった光の球のことを気に留める者はいなかった。
「…………」
繰り返し聞こえてくる心無い中傷にも今さら思う所もない。
撫子がこの教室に来る目的は、誰とも知れぬ他人との親交などではなく、高校卒業資格の為の単位取得だけなのだから。
だから撫子は鞄の中を詰め終わるとさっさと席を立ち、誰とも目を合わせることなく教室をあとにした。
「わっ!? 」
「ひゃ!? 」
高い喫驚の声が二重に響くのと同時に、くぐもった衝撃音が床を叩いた。
虫の居所が悪かった撫子では、廊下の曲がり角から急に現れた対向者を避けられる道理もなく。
撫子は大きな段ボール箱を抱えた女子生徒と正面衝突して、相手と同時に転倒してしまった。
「あっちゃ~」
「あ、ごめん……」
反射的に謝罪を口にしながら顔を上げると、目の前には横倒しになった段ボール箱から中身が盛大に散らばっており、その向こうにこちらと同じポーズで尻餅を突いている女子生徒がしかめっ面で眼鏡の位置を直していた。
「……あの、大丈夫、ですか……?」
己の不注意を呪いつつ、手早くこの場から退散する為に儀礼的に問いかけるが、対面の少女は苦笑顔でぱたぱたと手を振って見せた。
「あっは~ゴメンゴメン! ちょいと欲張り過ぎただわ! そっちはケガない?」
「あ。 はい」
あっけらかんと笑った女子生徒に多少毒気を抜かれたが、撫子は素早く立ち上がった。
双方共に同じ不注意なのだからそこまで気を遣うことでもないのだろうが、目の前で散乱している大荷物を見てさすがに無碍に立ち去ることに抵抗を覚え、一応問いかけておくことにした。
「あの、これ、大丈夫ですか?」
「うい~♪ これはべつに」
散乱した何かの機械部品のような物を指さした撫子にその女子生徒はなんでもなさそうな笑顔でひょいひょいと掻き集めながら返してきたが、やおら見上げた撫子の顔をまじまじと見つめると、にへらっと別種の笑みを覗かせた。
「あ。じゃあさあ悪いんだけどこれ運ぶのちょっとだけ手伝ってくんないかなあ? いやほらぶつかったのは悪かったんだけどなんて言うか袖擦り合うも一生の不覚と言うか」
たちまち勢い良く回り出した女子生徒の口車に撫子は己の人の良さを心底後悔した。
やがて段ボール箱をそれぞれひとつずつ抱えてやって来たのは、校舎の端の、普段なら誰も立ち寄らない物置のような教室だった。
壊れた机や椅子、ロッカーなどが積み上げられ雑然と押し込まれた部屋の真ん中を、女子生徒は構わずすり抜けてさらに奥へ行こうとしている。
「ねえ。ここ、なんなの?」
「うふふっ♪ いいからいいから」
不安げに問うも、前を行く少女は気にも留めずに教室の奥でドアが外れて口を開けた枠をくぐって行ってしまう。
「大丈夫だよー! おいでよー」
「……?」
向こうからの声に、仕方なく撫子は箱を抱え直して歪んだドア枠を屈んでくぐり抜けた。
「…………!? 」
すると、そこはこれまでの雑然とした粗大ゴミ置き場のようだった場所とは一変して、まるで科学研究室のような整然とした部屋になっていた。
……あくまでも隣の粗大ゴミ置き場よりは配置に意図が感じられる程度の違いでしかないが。
「なに……これ……」
撫子は呆然と辺りを見回した。
恐らく隣の部屋は元は何かの特別教室で、室内同士が扉で繋がったこの部屋は本来は教材等の準備室か何かだったのだろう。
そこには机が整然と並べられ、撫子が「科学研究室のよう」と直感した用途不明の什器や器具が所狭しと置かれていたのだ。
と言っても、やたら目盛りが付いていたり電子部品からレバーが生えたりしているのが見えるぐらいで、どれも具体的に何の為の器具なのかは分からない。
唯一それだと分かるものは、いくつもの平らなリングを多軸回転するように組み合わせ球のように組み上げられた「天球儀」だけ。
「はいっ!ありがとねっ!」
元気の良い声と共に抱えていた箱を引ったくられて撫子は驚いて振り返った。
女子生徒は受け取った箱をそこの机にポイと置くと、こちらを振り返って大仰に両腕を広げて見せた。
「ようこそっ! ミステリー研究会の部室へっ!」
「「ミステリー研究会」……?」
底抜けに明るい笑顔で告げられた脈絡のない宣言に、撫子としては怪訝に聞き返すより他にない。
「そうっ! 世の中の不思議なあらゆる事を、抉り出してはつぶさに観察して徹底的に研究して解明するちょいと手前で寸止めしてああ不思議だなあってうっとりするのがこの「ミステリー研究会」!」
べらべらと長広舌をまくし立てている途中で撫子はさっさと踵を返して出入り口に突進した。
ところが撫子がドア枠をくぐるより速く女子生徒の手が撫子の手首をがっちり掴み取った。
「うふふ察しが良くて結構だよ! そんな知能指数の高い所もわたしの理想に叶ってるし!」
「うるさいやめて手を離して」
振り向くこともせずに撫子は押し殺した声で言い返した。
「私のはそんな見せ物にして面白がるようなものじゃない」
「分かってるじゃんさすが二年三組美咲 撫子♪」
「……ッ!? 」
名乗っていない身元を言い当てられ、背筋に悪寒が這い上がるのと同時に噴き上がる熱い怒りが瞼の裏で激しい火花となって弾けた。
「ふざけないでッ!」
今度こそ振り返った撫子は、力一杯女子生徒の手を振り払った。
「あなた、知っててここまで連れてきたの!? 」
「ういー♪ あそこでぶつかったのは偶然だけどねー」
撫子の剣幕に、だが女子生徒は悪びれもせずにおどけて見せる。
「前からずっと、お話してみたいな~って思ってたんだあ♪ ナデシコの見てる世界ってどんなのかなあって、ずうっと興味あったの!」
「……それで笑い話の肴にするつもり?」
了承もしていない初対面の相手にいきなり下の名で呼ばれ、撫子の不機嫌のゲージはまた急角度に傾いた。
「慣れなれしくしないで。 ミステリーなんて言葉で懐柔できたつもり?」
「あ。わたし初瀬蟹 美夏子(はせがに・みかこ)。ミカとかガニミカとか呼ばれてたよ!」
「知らないよそんなの!」
けろっとした顔で自己紹介されても、今さら応じられる訳もない。
「悪いけど、そういうの気分悪いの。もう近寄らないで」
言い捨て、撫子は今度こそ手を取られないように素早く身を翻して駆け出した。
追いかけてくる気配がないことに何を思うこともなく。
夕暮れの雑踏を歩きながら撫子は、不意に飛来したぼんやりとした光の帯を、首を少し傾けて躱した。
側頭部をかすめた光条は、風にでも煽られているかのようにのたうって漂い虚空に流されてゆく。
だがその光条のことを気に留める者は撫子の他は誰もいない。
石畳を往来するサラリーマンも、子連れの主婦も、テールランプの赤い尾を引いて通り過ぎるバイクも、自転車もなにもかも、そのぼんやりした光を吹き散らしながら通過してゆくのだ。
この街のあらゆる所を、上空を同じような光が無数に飛び回っているというのに。
(信じてもらえる訳がない)
今さら期待もしていない。
幼い頃から撫子にだけ見えるこの謎の光が、撫子から年頃の女の子になら当たり前に享受されるはずの幸せを奪い去った。
(なぜ、私にだけに視えるの?)
幼かった頃は、乳幼児によくある「見えないお友だちとでも遊んでいるのだ」として扱われていたのだということが今なら分かる。
(なぜ、私なの?)
それから年を経て分別がつくにつれ、撫子の主張は奇異の目にさらされ気味悪がられてあしらわれるようになった。
(あなたは、いったいなんなの!? )
今では孤立無援だ。理解者は誰もいない。
撫子にもこの光がなんなのか、未だに分からないのだ。
(教えてよ! あなたは、なに!? )
唇を引き結んで空を振り仰いだ撫子を、すれ違ううちの何人かが奇異の目線で振り向いた。
彼らの側にも漂っている光の帯を気にも留めずに。
蛍とは明らかに違う。
何かが発光して飛び回っているのではないことは、考えるまでもなく分かっていた。
光の粒としか言いようがないそれが、上から、それもとても高いところから来たのだということをも、撫子はなんとなく直感していた。
空よりも高い、きっと、宇宙。
それに、言葉は通じないのだが、その光にはなんらかの意志のようなものがあると撫子は感じていた。
だがお化けや幽霊とも違う。その光は不気味でもないし、怖れも抱かない。
具体的な根拠は何もない。すべてが撫子の直感であり、証明すべき手だてなど望むべくもない。
けれど、他の人間に見えずとも、確固として存在しているのだ。
(ああ、ホントに気分悪い)
先刻の少女・初瀬蟹 美夏子のことを思い出し、撫子は疼く頭痛にこめかみを押さえた。
ああいう手合いは初めて遭遇するタイプだ。
それ以外にも色々と奇抜で度肝を抜かれたが、いずれにせよ論外だ。
この自分を勧誘しようなど。
(部員? 仲間? 友達?)
あり得ない。
人とわかり合おうなどというのは白々しい猿芝居だ。
わかり合えるわけないではないか。
(同じものが視えない人の、何を信じられるというの!? )
これまでも、撫子の特異性を知りながら好意的に近付いて来る者が何人かいた。
けどどいつもこいつも「可哀想な撫子に理解を示している高尚な自分」という演出として撫子を利用したいだけの下衆でしかなかった。
なんだかんだ言っても、結局撫子の言う「光」の存在を、誰も信じてはくれなかったのだ。
全ては撫子の妄言と切り捨てるばかり。
そんな他人など、撫子も信じることはできない。
通り過ぎる街角で、コンビニで、公園でたむろして楽しそうにおしゃべりしている集団など滑稽としか思わない。
(隣で笑っているやつの、何が分かるというの!? )
分かりはしない。
例え空を舞う光のことがなかったとしても、人の心なんて、本当は何考えているかなんて誰にも分かりはしない。
それなのに、あいつらはいったい何を根拠に「友達」と「そうでないやつ」を分けているのか?
(ばかみたい)
胸中で吐き捨て、撫子は帰途を急いだ。
ギャアアッ! ギャアッ!
「?」
ふと、そこの路地から甲高い喚き声が聞こえて撫子はビルの隙間を覗き込んだ。
見ると、路地の奥のポリバケツが並べられた一角に、カラスが数羽翼をはためかせて跳ね回り、何かを取り囲んで喚いていた。
(なにあれ。 ケンカ?)
野良猫と威嚇し合うカラスという構図を前に見たことがある。
人通りはない。辺りを見回し、ここに自分しかいないことを念入りに確認すると、撫子はそっと路地に入り様子を伺った。
やがて角度が変わるにつれ、カラスたちが取り囲んでいるものが見えてきた。
それは、小さな光──
(えっ!? )
一瞬我が目を疑った撫子が見返したそこにいたのは、鮮やかな銀の毛並みの、小さな仔猫だった。
「…………。」
思わず息を飲むほど美しい毛並み。
周囲で跳ね回ってぎゃあぎゃあ喚いているカラスなど一顧だにせず、全く怖れのない様子でちんまりと座っている。
「こらーー!」
気が付いたら、撫子は鞄を振り回して駆け出していた。
仔猫の前に立ちはだかり、両手で闇雲に鞄を振り回す。
「行って! あっち行って!」
闖入者に泡を食ってくれたのか、カラスどもはぎゃあぎゃあ喚きながらどこかへと散りぢりに飛び去っていった。
「…………、はあっ、」
荒くなった息を吐き、撫子は足下を振り向いた。
銀色の仔猫は、体格差にして数倍はある撫子が飛び込んできても驚いた様子もなく同じ位置にちょこんと座り撫子を見上げていた。
「…………」
思わず、その瞳に見惚れてしまう。
美しい瞳だ。まるで月明かりのような淡いイエローの輝き。
それに、カラスにも人間にも大した反応を見せないこの仔猫に、撫子はなぜか既視感めいたものを感じていた。
(……え? あれ、どこかで……?)
銀色の猫と対面したことなど一度もないのに、どこか、なにかが通じる奇妙な感覚を覚える。
初めて見るのに、なんの抵抗感もない眼差し。
やっと出会えた。そんな安心感。
(これ……なに……?)
「あれえ? ナデシコじゃん?」
そこに突如、酷く聞き覚えのある声が、別方面の路地の出入り口から聞こえてきた。
喫驚と共に振り向けば、ビルの陰からこちらを覗き込む少女、ミステリ研某の初瀬蟹 美夏子と目が合った。
元気な笑顔で眼鏡の向こうの瞳にいっぱいの好奇心を輝かせて、なぜか両手に奇妙な棒を持ってこちらを覗き込んでいたのだ。
「……あ、あなた!? 」
「あれ? じゃあこれビンゴかしら。イヒヒ」
言いながらその手の棒──L字に曲がった針金のような棒をこちらに向けながら美夏子はひょこひょこと近寄ってきた。
人に突き刺せるほど強靱には見えない、凶器とは思えない棒を持って撫子の横まできた美夏子は、なぜか撫子の目の前でその二本の針金を左右外側に傾けた。
「あ。当たり」
「……なにそれ」
奇妙さでは空を舞う光にも負けない奇行をする美夏子に、撫子は半眼で尋ねた。
「ん? これ、ダウジングロッドっちゅうやつでね。知らない?超能力で捜し物を探知するの」
言われてようやく思い出した。
空の光の謎にも及ばない稚拙さゆえに眼中にもなかったオカルトの玩具だ。
「そんで、その猫ちゃんが撫子のお友達?」
「え?」
美夏子がそこに屈み込んだところで撫子はようやく我に返った。
「どんなミステリーなのかな? 猫にもなんか不思議で謎の能力とかあるよね」
ところが、美夏子が無遠慮に手を延ばすや否や、銀色の仔猫は素早く身を翻して撫子の身体を螺旋状に駆け上がり、肩の上に飛び乗ってしまった。
「おおー!? 懐かれてんねー? お名前は?なんての名前」
「い、いや、いま会ったばっかり……」
立て続く急展開に撫子は目を白黒させるばかりだ。
ぐるるるるる……
ところが、屈んだ姿勢から立ち上がった美夏子の向こうから聞こえた獣じみたのど鳴り声に、向かい合う撫子と美夏子はそろってそちらを振り向いた。
「ひっ!? 」
酷く醜悪でおぞましいモノが、そこにいた。
形容のしようがない。それは撫子の持つ知識のどれにも当てはまらない。
身を竦め息を吸い込む過程でようやくその物体の全体像を脳が把握した時には、その青銅色の肉塊は垂直に立ち上がり、足下の末端を排水溝から引きずり出した。
大きい。大きな男ひとり包み込めそうな量の青い溶岩が、縦に伸び上がるにつれ下半分を二股に分裂させ、上の方の両端から一本ずつ蛇のように触手を伸ばし。
『ーーーーーーーーッッ!!』
そいつの上端に盛り上がった部位に開いた孔から高音の絶叫が迸るのと撫子たちが悲鳴を上げるのがまったく同時だった。
今やムンクの「叫び」の絵画の人物を醜悪にアレンジしたかのような泥人形となったそいつが緩慢な動作で二人に迫るが、あまりの異常に撫子も美夏子も身動きどころか、対応の術を見失ってただ呆然と立ち竦んでいた。
( 逃げなきゃ……!? )
ようやく意識が僅かに危機を認識したが、足はまるで接続を断たれたかのように反応せず地面に貼り付いたまま。
泥人形は、縦に長く引き裂かれたかのような口腔からまるで女性の悲鳴のような甲高い音を発しながら、青い泥を滴らせた腕を伸ばして今にも手前にいた美夏子に掴み掛かろうとしている。
( あ……ダメ…… )
逃がさなければ。
いかに心象の悪い相手であれ、こんなおぞましいモノに捕らわれることを良しとはしない程度の人道的な気持ちは残っていた。
けれど、身体は動こうとしない。
( なんとか、しなくちゃ……!)
他人なんてどうでもいいと思っていた。
でも、こういうのは、違う!
撫子は強く思った。
その途端、肩に乗っていた荷重がまるで溶けるように消失して身体を流れ落ちたかと思うと、撫子の身体はたちまち銀色の液体とでも言うような皮膜に包まれてしまった。
「なっ!? ちょ、これ……!? 」
反射的にもがこうとして腕脚を振り回すが、銀色の膜は瞬く間に撫子の顔を、頭を覆い尽くし目に首に、肩に手首に足首に次々と突起を隆起させて何事か形を成すと、撫子の姿を銀色の人型の異形へと変化させてしまった。
仰け反って後退するという初めて反応らしい反応を見せた泥人形に、訝しんで背後を振り向いた美夏子が、その撫子だったモノを見て傾いた眼鏡の下の目をさらに見開いた。
『うーー! なーーーーーー!』
突如撫子だった銀色の異形が、まるで己の登場を宣言するかのように丸めた身体を全開に伸ばして元気よく叫んだ。
「……はい?」
口の端だけ釣り上げて聞き返した美夏子の頭上をひょいと飛び越えた銀色の異形は、割って入るかのように泥人形の目の前に着地すると、頭上で組んだ両手を思い切り振り下ろしてそいつを殴りつけた。
『なーー!』
『ーーーーーーッッ!? 』
見た目よりも固体化していたらしき泥人形は、銀色の殴打を受けて甲高い悲鳴と共に大きく仰け反り後退した。
『なーーー!』
さらに畳みかけるように右に左にと滅茶苦茶に振り回される銀色の両拳に泥人形は鈍重なナリに違わず呆気なく吹き飛ばされて崩折れた。
『なーーー!』
銀色の異形は泥人形がダウンしたのを見届けると、くるりっと振り返って呆然としている美夏子へと踊り掛かった。
「え? わ、ひゃ!? 」
『なーーー!』
混乱する美夏子に構わず軽々と少女を担ぎ上げた銀色の異形は、一声あげるともの凄い勢いで跳躍し、左右を挟むビルの壁をジグザグに蹴り飛ばしながら あっと言う間もなくビルの向こうへと消えていった。
女声の悲鳴を聞きつけて駆け込んできた何人かの野次馬が覗き込んだ路地には、何者の姿もなかった。
無人のビルの屋上に着地した銀色の異形は、抱えていた美夏子をなんともぞんざいな仕草でコンクリートの上に放り出した。
「痛い!? 」
ところが、美夏子が転がった体勢を立て直すよりも先に銀色の異形の姿はまるで流水のように縦に流れ落ち、先刻の撫子の姿をそこに残して足下に集まり仔猫の姿となって現れた。
「……なに……いまの……」
支えを失ったように力無くヘたり込んだ撫子が、呆然と呟いた。
「いやいやいやいや!? ナデシコさん!? それわたしのセリフだから!? 」
「いや私の台詞で合ってるよ!? なにこれなにこれ!? なんなの!? 」
這い寄ってきた美夏子の両手を掴み返して必死に押し合いを繰り広げる撫子だが、ようやくはたと気付いて膝元を見下ろした。
「…………」
続いて、美夏子もゆっくりと銀色の仔猫を見下ろす。
「……こりゃあ……ガチだわ……」
「……この子の、仕業、なの?」
手を掴み合う二人に挟まれて覗き込まれている仔猫は、ただ黙って撫子を見上げていた。
紫紺と朱のせめぎ合う空の下で、長い影を伸ばす二人と一匹はしばらくの間動かなかった。
サブタイトル「逢・魔・何・時」は一応「おうまがとき」と読みます。
こんな単語は実際には存在せず、原作のサブタイトルと共通に四文字にしようと「逢魔時」に無理矢理「が」とも読める「何」をねじ込んだものです。
「何」を組み込むことで、疑問のニュアンスになるらしく、アクロバティックに意訳して「よく分からないモノに出会う時?」ということにでもしておいてください。
鉄槻は基本的に本編以外のところで物語について解説しない主義なので、この撫子が誰で時系列はいつなのかについては、今後の展開で読み取って頂きたく存じます。
銀色の異形の造形描写を詳しくしていない所にも注目です。皆さんの知っているアレの姿ではありません。